ログイン美宜の容態は、ようやく安定した。医師によれば、「現在の状態は静養に適しており、感情の起伏が激しいのは好ましくありません」とのことだった。司野は静かに頷き、その判断を受け入れた様子を見せた。病室では、美宜はすでに目を覚ましていた。顔色はやや青白く、いかにも弱々しい。「司野さん……また、ご迷惑をおかけしてしまって……ごめんなさいね」司野はベッドの前に立ち、淡々と告げた。「俺名義の、景色のいい島がある。四季を通して春のように暖かく、休養には最適だ。数か月、そこで過ごしてもらう」その言葉に、美宜の表情が一変した。「司野さん……どういう意味?私を閉じ込めるつもりなの?」司野は言葉を選びつつも、核心を突くように続ける。「ネット民の関心は移り変わりが早い。しばらく表舞台から離れていれば、いずれお前のことも忘れる」そう言いながら、彼の視線は彼女の胸元へと落ちた。「医者も言っていた。今のお前には静養が必要だ。何よりも、お前の体が大切なんだ」美宜は即座に拒んだ。「嫌よ、行きたくない!私は何も悪いことをしていないのに、どうして隠れなきゃいけないの?それに、このニュースをリークしたのは誰?司野さん、ちゃんと調べてくれた?あの人……私を殺す気よ」「その件は、すべて俺が処理する。お前が気に病む必要はない」司野は、一度下した決断を容易に翻す男ではなかった。「プライベートジェットを手配する。向こうには何でも揃っている。準備は不要だ」「嫌だ、行かない!ここは……私のお姉ちゃんがいた場所よ。離れたくない!」美宜は必死に声を荒らげた。彼のもとを去るなど、断じて受け入れられなかった。今こそ、離れるべきではない――そんな思いが、胸を占める。ここで引けば、素羽に負けたことになるのではないか。司野の瞳は、暗く深い。瞬きもせず、美宜を見据えていた。その冷ややかな声には、議論の余地を許さぬ圧が込められている。「美宜。これは相談じゃない。千尋から受け継いだこの心臓は、お前自身が守らなければならない」その視線の下で、美宜の喉は、見えない手に締めつけられたかのように強張った。それ以上、拒絶の言葉を紡ぐことはできなかった。やがて、美宜は態度を和らげ、そっと尋ねる。「……じゃあ、あなたは私に会いに来てくれるの?」
琴子は腰に手を当て、電話で素羽を呼び戻そうとした。しかし、素羽のスマートフォンは彼女の手元になく、スマートフォンも鞄も司野の車の中に置かれたままだった。素羽に連絡がつかず、琴子は仕方なく司野に電話をかけた。嫁には通じず、息子も電話に出ない。その事実に、こめかみがズキズキと痛み、怒りが込み上げてくる。景苑別荘を後にした素羽は、乗ってきた車を自分のマンションの下に停めると、そこからタクシーを拾い、楓華のもとへ向かった。法律事務所へは行かなかった。亘という裏切り者に見つかる可能性を避けるため、あえて楓華を呼び出したのだ。顔を合わせるなり、楓華が眉をひそめる。「どうしてまた、そんなボロボロになってるの。離婚の件、向こうの家は何て言ってるの?」素羽は店員に水を一杯頼み、ごくごくと一息に飲み干した。ようやく、ひりついていた喉が潤う。口元の水滴を手で拭ってから、やっと言葉を絞り出した。「司野が……離婚してくれない。それに、私を閉じ込めようとしてるの」「はぁ?」まさか、あの司野が監禁という手段に出るつもりなのか。楓華は一瞬、言葉を失った。「今は、あいつの顔も見たくない。ホテルの部屋を取ってほしいの。手伝ってくれない?」それが、素羽がここに来た目的だった。司野が戻ってくれば、きっと自分の家に彼女を探しに来るに違いない。その程度の頼みならと、楓華は二つ返事で引き受けた。さらに素羽は楓華のスマートフォンを借り、清人に連絡して事情を説明し、詫びを入れた。清人は静かに尋ねる。「何か、手伝えることはあるか」素羽は正面からは断らず、こう答えた。「助けが必要になったら、あなたに連絡する」——司野が素羽の逃走を知ったのは、それから二時間後、実母から電話がかかってきた時だった。通話がつながるや否や、琴子の甲高い非難が飛んでくる。「まったく、とんでもないわ!あの子、この私にぶつかってきたのよ!腰をひねるところだったんだから。呼び止めても、無視するし!」数時間が経っても、琴子の怒りは収まるどころか、ますます燃え上がっていた。これまで周囲から大切に扱われてきた彼女が、こんな屈辱を受けたことなど一度もなかったのだ。司野は低い声で言い放った。「言ったはずだ。俺が帰るまで、ドアを開けるなって」厳しい口調に押
美宜は目に涙を滲ませ、目前の光景をとても受け入れられないといった表情を浮かべていた。司野が一瞬呆然としている隙を突き、素羽は彼の身体からするりと下りると、ドアを開け、迷いなく車外へと身を投じた。司野の死角で、美宜は悪意を孕んだ視線を素羽に向けていたが、素羽はそれを意にも介さず、そのまま歩き出した。美宜は、ちょうど車を降りた司野の腕を引き止めた。「司野さん……私、ネットでひどい中傷を受けているの」司野はその手を振りほどき、視線を素羽に釘付けにしたまま、岩治に命じた。「美宜を送ってやれ」宙を掴んだままの美宜の手だけが残り、司野が素羽のもとへ早足で向かっていく背中を、彼女は呆然と見送るしかなかった。素羽は歩調を速め、やがて小走りになったが、長い脚を持つ司野には到底敵わず、すぐに追いつかれてしまった。背後から腕を掴まれ、司野が低く言う。「家に帰るぞ」素羽は必死に身をよじった。「放して!ここは私の家じゃない!放してよ!」司野は腰を落とし、彼女の膝裏に腕を回すと、そのまま肩に担ぎ上げた。「下ろして!」素羽は暴れ、蹴りを入れる。拳が司野の背を叩きつけ、筋肉が痛みに強張ったが、彼は決して手を離そうとしなかった。逆さまの体勢で血が頭に上り、素羽の顔は次第に赤く染まっていく。「司野さん……」美宜はなおも呼び止めようとしたが、結局、再び突き放される形となった。置き去りにされたのは、自分だったのだ。素羽はそのまま二階へ担ぎ上げられ、寝室の大きなベッドに放り出された。彼女はすぐに身を翻して降りようとしたが、足首を司野にがっしりと掴まれ、乱暴に引き戻される。素羽は脚を振り上げて蹴ろうとしたが、司野はそのまま彼女を押さえ込んだ。争いは車内からベッドの上へと場所を移してもなお続き、揉み合う最中、美宜が心臓発作を起こしたという知らせが届いた。司野は荒い息を吐きながら、覆い被さる姿勢のまま動きを止めた。乱れた素羽の髪、紅潮した頬。司野は喉仏を何度か上下させた末、ついに身を翻してベッドを降りた。この結末は、すべて素羽の想定通りだった。司野が出て行ってくれれば好都合だし、その隙に自分もここを離れられる。しかし司野は彼女の思惑を見透かしていたかのように、部屋を出る際、寝室の鍵を外から掛けてしまった
琴子に異議など唱えられるはずもなく、ただ頷き「わかりました」と答えるよりほかなかった。——素羽は、司野ともみ合いながら車内へと押し込められた。「降ろして!」と、素羽が叫ぶ。司野は運転席に向かい、「車を出せ」と冷たく命じた。岩治は余計な口を挟むことなく、すぐさま車を発進させる。同時に後部座席との間を仕切るパーテーションを上げ、そこを完全に独立した空間へと変えた。「降ろしてってば!」素羽はパーテーションを力の限り叩いた。岩治は聞こえぬふりを徹底し、心の中で「聞こえない、聞こえない」と念仏のように繰り返す。司野は彼女の手首を掴むと、有無を言わさず引き寄せ、「うるさい」と吐き捨てた。素羽は手首を必死に捻って抵抗し、彼の肩を何度も叩きながら叫んだ。「あなたが離婚協議書にサインさえすれば、一言も文句なんて言わない!離してよ!」叩かれるたび、背中の傷にでも響くのだろうか。司野は眉間に深く皺を刻み、その顔色からすっと血の気が引いた。「手を、離せ」顔を歪めた司野の瞳が昏く沈む。彼は唐突に素羽を抱き寄せると、その唇を乱暴に塞いだ。「ん……っ!」素羽は必死にもがいた。司野は彼女の後頭部を鷲掴みにして固定すると、まるで不快な言葉を吐き出すその口を根こそぎ封じるかのように、唇を貪った。しかし、振りほどくことのできない素羽は、意を決して彼の唇に強く噛みついた。唇の隙間から苦悶の呻きが漏れる。司野が射抜くような視線で警告するが、素羽は怯むことなく、さらに強く顎に力を込めた。途端に鉄の味が広がり、その容赦のない抵抗に、ついに司野が根負けして彼女を解放した。自由になった瞬間、素羽はためらうことなく腕を振り上げ、乾いた音を立てて彼の頬を張った。運転席の岩治にも、その生々しい音ははっきりと届いた。思わず己の頬が引き攣り、聞くだけで痛みが伝わってくるようだ。後部座席で、司野は打たれたままの姿勢で動かない。赤く腫れ上がった頬と、血の滲む唇が、倒錯的なまでに妖艶だった。素羽は手の甲で乱暴に唇を拭う。潤んだ瞳で彼を睨みつけ、絞り出すような声で言った。「司野、私ってそんなに安っぽい女?」この人にとって私は何なの?好き勝手に嬲っていい娼婦か何かだとでも思っているの?司野がゆっくりと顔を向けた。その眼差しは昏く
その声の主は、ほかならぬ翔太だった。両手をポケットに突っ込み、どこか投げやりでだらしない様子のまま、彼は室内へと入ってくる。幸雄は眉をひそめた。「何しに来た」翔太は口元を歪めて笑った。「兄貴のことで世間が大騒ぎなんだ。心配して戻って来ないわけにはいかないだろ?」口ではそう言いながら、その表情にはどう見ても野次馬根性が滲み出ていた。幸雄が翔太の素行を知らぬはずがない。「お前には関係ない。さっさと帰れ」せっかく足を運んだのだ、そう簡単に引き下がるつもりなどない。翔太は司野たちへ視線を向け、軽い調子で口を開いた。「兄貴さ、いつからそんな強引な真似するようになったわけ?奥さんがいる身で、心は別の女に置いたまま。挙げ句の果てに離婚したいって言われたら今度は手放さないって……欲張りにもほどがあるだろ。そんな未練がましくてさ、みっともなくない?」事態が大きくなるのを面白がっているかのように、翔太は素羽の方を向いた。「お義姉さん、何か手伝えることはない?」司野が冷ややかな視線を投げた。「俺たち夫婦の問題だ。お前が口を出す筋合いはない」翔太はもっともらしく肩をすくめる。「いやいや、これは夫婦だけの話じゃないだろ?明らかに須藤家全体に関わる大問題だ。兄貴の結婚は家族全員で決めたことなんだから、離婚だって皆で話し合うべきだろ?」そう言ってから、七恵へと向き直った。「ねえ、おばあちゃん?」争いごとを好むこの孫に、七恵もなすすべがなかった。幸雄は翔太を睨みつける。「余計なことに首を突っ込むな」そう言いながら、今度は素羽へと目を向け、低い声で問いかけた。「本当に、離婚したいのか」幸雄は素羽に対して、決して悪い印象を抱いてはいなかった。家柄は平凡だが、彼にはその程度で人を測る偏見はない。ただ、素羽と司野の間に深い溝があるのなら、家の和を保つために首を縦に振ることも、やぶさかではなかった。素羽は一瞬もためらわず、頷いた。「ええ。離婚したいです」その言葉が終わるや否や、司野が割って入った。「ふざけるな。俺は離婚なんて認めない。誰に何を言われようが、ダメなものはダメだ」言い終えると同時に、司野は素羽の肩を掴み、半ば引きずるようにして外へ連れ出した。「行くぞ、帰る」二人が去った
リビングは、たちまち水を打ったような静寂に包まれた。誰一人として口を開かず、全員の視線が素羽に集まる。素羽は静かに続けた。「……彼とは、もうやっていけません」琴子が低い声で制した。「素羽、何を馬鹿なことを言っているの?」不倫の件がようやく収まりかけたというのに、ここで突然離婚を口にするとは、一体どういうつもりなのか。幸雄が口を開いた。「素羽、司野は言っていた。美宜とは特別な関係ではないと。あの女は遠ざけさせる。二度と姿を現させないようにする。夫婦の間で、そう簡単に離婚など口にするものではない」素羽は唇を噛みしめ、はっきりと言った。「おじいさん。司野と美宜の間に、不倫はなかったのかもしれません。でも、彼が心の底から慕っているのは、美宜のお姉さんなんです。私はただ、彼が何よりも大切にしているものを壊しただけ。それだけで、彼は私を殺しかけた。次に、いつ彼の逆鱗に触れるか分からない。その時、本当に殺されるんじゃないかと、私は思うんです」琴子は息子を庇うように言った。「馬鹿なことを言うんじゃないわ。司野はそんな暴力的な人間じゃない。彼を怒らせなければいいだけでしょう?」素羽は真っ直ぐ琴子を見つめた。「お義母さん。もし、お義父さんが、ずっと亡くなった恋人を忘れずにいたとしたら……お義母さんなら、どうなさいますか?」琴子は即座に声を荒らげた。「お義父さんは、そんなことしないわ!」素羽は、苦しげで、胸を引き裂かれるような表情で言った。「ええ、お義父さんはしないでしょう。でも……あなたのご子息は、します。お義母さんご自身が受け入れられないことを、どうして私が受け入れなければならないのですか。司野が私を愛していないことも、私は我慢しました。でも、結婚して五年。妻である私が、亡き元カノにも劣るなんて。私と子供を作ったのも、あの人との約束を果たすためだったなんて……」琴子たちの視線は、思わず司野へと向けられた。驚きと動揺が浮かぶ中、司野だけが暗い目をして沈黙している。その胸中は、誰にも読めなかった。素羽は顔色を失い、震える声で続けた。「この数年間、私がしてきたことは、一体何だったんでしょう。私は須藤家の妻として、恥じるような振る舞いは一つもしてこなかったつもりです。私の家柄は高くありません。