LOGINぎこちない笑顔で玄関前の男に挨拶した優希だが、返事は無い。
「警護中は私語が禁止されているので、話しかけても雑談の返事は帰ってきません。」 「そうなの…。じゃあ…玄関を開けてもいいかしら?」 悟の言葉に戸惑いながらそう言うと、男は素早くカードキーをかざして扉を開けた。 「鍵は暗証番号や指紋認証はなくなり、カードキーのみとなります。」 それを聞いて優希は男に手を差し出して鍵を受け取ろうとするが、それも反応が無い。 「失くすと再発行手続きに時間がかかるため、奥様の鍵は失くさないようにボディガードがお持ちします。」 「私、鍵を失くしたことないわ!」 「無くしてからでは遅いので。」 思わず声を荒らげた優希にも動じず、悟は淡々と説明する。 暁春がそう指示をしたなら何を言っても覆ることはないと悟りそれでも舞が優希に酷い扱いをするよりはいいかと思っていたが、ある日とうとう、その無関心が優希を危険に晒した。 優希に無関心ということは、優希の安否へも関心がないということだ。 「スカートに鼻水が付いたじゃない!」と怒鳴る舞は、縋るように伸ばされた小さな手を避けた。 階段でバランスを崩す優希を見た瞬間、全身が凍りつくのを感じた。 無我夢中で走り寄って優希を抱き上げるも、彼女は頭から血を流して激しく泣きじゃくっていた。 綾子の頭にはその時の情景が鮮明に浮かぶ。 先ほど優希の頭の傷跡を見た時、当時のことを思い出し、申し訳ない気持ちになったのだ。 結局その数年後に、娘である麗華が未婚で妊娠し、そして続く騒動で優希を見守ることができなくなってしまった。 躊躇せず引き離すべきだったという後悔は今更にしかならないが、綾子の胸には重石となってのし掛かっている。 「…あの子をきちんと見守っていてあげていれば、20年前のことも起きなかったし、今回のことも起きなかったわ…。ああ…謝りたい。」 綾子はそう言って両手で顔を覆う。 「優希は何の事情も知らないんだ。今謝罪をしても、それは優希にいらない気を使わせるだけだ。今のあの子には謝罪よりも背中を押す言葉の方が必要だろう。」 松三は静かに言った。 「俺が意地を張らずに歩み寄っていれば、綾子がここまで気を病むことはなかった…。」 綾子も、松三が長年後悔を抱えているのを知っている。 だからこそ綾子はこの言葉に何も返さず、ただ手を握り返した。 - 悟は目
正直に言えば、33年前の綾子たちは優希の誕生を望んでいなかった。 三滝家は、経営する会社は松三が立ち上げた製薬会社のみで会社の歴史は古くないが、松三の兄まで代々医者という家系で、医学会では名家と言われる位置にいる。 そのため、家に嫁ぐ女性にはそれなりの教養やマナーなどの淑やかさを求めていた。 しかし隆一が連れてきたのは、露出の多い派手な服を身につけ、クラブで出会ったばかりの男性とも関係を持つような、奔放という言葉が真っ先に浮かぶ女性だった。 それが優希の実の母、舞。 しかも既に妊娠していると言われれば、時代錯誤と言われようが、そんな女性を嫁として迎え入れるわけにはいかないと、家長である松三は結婚を猛反対した。 しかし真面目な隆一は責任を取ると言って引かず、強引に籍を入れてしまったのだ。 素行に不安がある女性の産む子供に、誰が希望を持つだろうか。 松三が病に倒れたことをきっかけに隆一は社長補佐となり、仕事中は今まで通りに接するが、プライベートでは全く関わらなくなっていった。 そのため、優希が産まれた時も形ばかりの祝いの品を贈るだけで、顔を見にいくこともしなかった。 綾子と松三はずっと優希を拒絶していたのだ。 それは隆一からDNA検査の結果が郵送されてきても、変わらない。 そんな中、優希が産まれて8ヶ月が経とうという時、松三の従兄妹である老夫人から、舞が優希に全く関心を持たずに育児放棄していると聞いた。 ベビーシッターがいるので命に
「あの愛人も、妊婦を階段から突き落としたり、記事をでっち上げたり、頭おかしいよ!あの記事でゆうちゃんがしたって書かれてることって、むしろあの愛人がしたことじゃないの!?」 「どっちも気持ち悪い!!」と吐き捨て、茜は話すごとに怒りを募らせていく。 そんな中でも茜のメイク技術は素晴らしく、メイクを施す手の迷いのなさに、優希はストレスを感じなかった。 「そうね…優希が受けた仕打ちはとても惨いことだわ。」 ようやく開けることができた優希の目に、綾子が目を伏せるのが見えた。 何と声をかけようかと迷っていると、目を上げた綾子が「あら…。」と声を出す。 「そこ、跡が残っちゃったの?」 綾子の視線の先には、昔優希が階段から落ちて怪我をした頭。 そこは怪我の影響か、一部髪の毛が生えていないところがある。 髪を結ぶために、茜が触っているから見えたようだ。 薄毛の範囲も狭く、普段は髪に隠れてわからないので優希自身はあまり気にしていないが、綾子は心配しているように眉を下げている。 気を遣わせてしまったかと思い、優希は普段は見えないので気にしていないことを伝えた。 綾子たちとのまともな会話は初めてだったので、彼らに嫌な気持ちになって欲しくなかったからだ。 「…目立たなくて良かったわね。」 綾子は優しく微笑むとそう言った。 しかしその笑みは、優希には少し切なく見えた。 (傷の跡が気持ち悪かったかしら…。) 理由がわからず、優希も気まずそうに目を伏せる。 車内には微妙な空気が流れるが、気づいていない茜の「できた!!」という元気な声に、優希は小さく息を吐いた。 「うわぁー!!ほら、見てみて!!」 興奮気味な茜から大きな手鏡を渡され、優希は素直に覗き込むと、すぐに何度も助手席の綾子と見比べる。 「嘘…これが私?」 鏡の中にはまさに綾子本人が映っており、輪郭から細部の皺、髪質に至るまで、優希の頭の中が混乱しそうになるほどそっくりだった。 「顔はシリコンでできた特殊パーツで輪郭を変えて、ウィッグは専門の人に、お祖母さんの写真を見せて作ってもらったの!特注品よ!」 得意気に説明する茜。 綾子も驚き、感心したように言う。 「まぁ、松三さんも見分けがつかないんじゃないかしら。」 運転席の松三が鼻で笑う
ピロン その時、優希の携帯がひとつの通知音を鳴らした。 優希の意識も過去となった自宅から離れ、未練なくその目を携帯の画面に移す。 その後通知音は立て続けに鳴り続け、それほど広くない車内では耳障りなくらいだったが、それは優希が予約投稿していたものが次々と投稿されている音なので気分は悪くない。 実は前もって新しいアカウントを作り、優希のアカウントをフォローしていた。 投稿が完了していくのを確認している間にもリポストの数は増え続け、同時にコメントも倍増していく。 "これ本物ならヤバくない?" "偽物に決まってるじゃん。記事通りの頭イカれた女だよ。" "ありえない!女神を裏切ってたのか!?" "いや、スクショ見た?女の方も既婚者って知ってるじゃん。" "奥さんが井竜社長の不倫と愛人の挑発に耐えかねて焼身自殺したってこと?" 「上手くいった?」 優希の携帯を覗き込んだ茜は、更新され続けるコメントを読むと手を叩いて笑った。 「いいじゃん!これを見たあの人たちの顔が見れないのが残念ね!」 優希も小さく笑って頷く。 気づけば車は動き出しており、家から遠ざかっていくと、すれ違う消防車や救急車が増えていく。 「優希!」 優希が茜とコメントを読んでいると、運転席から大きな声が聞こえた。
少しの間不思議な感覚に思いを馳せていたが、当初の目的を思い出す。 「…ナイフはやりすぎたかしら。」 ゆっくり立ち上がりながら、優希は小さく呟いた。 実際、返り討ちに遭う可能性もあるし、揉み合いになった結果2人とも怪我を負う危険性もあった。 怖がらせるためとはいえ、衝動的すぎたと唇を噛み締め、自分を戒める。 (優越感に溺れるのは危険だわ。) そう反省し、拾ったナイフをお皿に戻すと、お皿の影に置いていた携帯を取り出す。 それは有美に見せたものとは別の、以前老夫人が優希に与えた新しい携帯だった。 家の中を見回った時に引き出しから取り出していたのだ。 携帯を操作して、録音停止ボタンを押す。 もう一度操作すると、携帯から声が流れた。 『単刀直入に言うわね。さっき私が遭遇した暴走タンクローリーは、あなたの差金かしら。』 それは先ほどの有美との会話だった。 少し音が遠いが、雑音もなくきちんと録音されていることを確認すると、優希は満足げに口角を上げる。 有美に確認したかったこと、というより欲しかったものがこれだった。 録音内では、タンクローリーの件は肯定していないが否定もしておらず、むしろ肯定と取れる発言
「その時はその時ですね。何かあればまた子供を作ればいいんです。」 その言葉で優希の頭の中は異常なほど静かになり「そう。」と言うと手だけは機械的に食べかけのオレンジを口に運び出す。 しかしその顔からは一切の表情が消え、ゾッとする冷たさを放っていた。 「まぁ色々話しましたけど、つまり私にとってお姉さんは立場もその抱えているモノも邪魔なので、いなくなってほしいと言うことです。」 「正妻の座を降りて子供も堕して、二度と目の前に現れないと契約書にサインするなら、これ以上は見逃しますよ。」 この女は人の心がない。 人の痛みがわからない、否、わかろうとしない悪魔だ。 口をついて出そうな言葉を、オレンジと一緒に飲み込む。 (…少し、邪魔と切り捨てられる気持ちをわかってもらおうかしら。) このままでは、老夫人や美緒にも危険が向かうかもしれない。 それ以前に有美のお腹の子が心配だ。 優希の胸に冷たい決意が固まる。 (卑劣な悪魔は私じゃない…あなたよ。) 「有美ちゃん、前に私が言ったことを覚えている?私を攻撃したらそれ相応の対応をするって。」 オレンジを食べ終え、汚れた指を拭きながら静かに言う。 感情を揺さぶられた様子のない優希に、有美の眉が僅かに反応したが、優希の問いには返事をしなかった。 「私は聖女じゃないから、納得できない不当な扱いを黙って受け入れることはできないわ。私の子供への侮辱でもあるもの。」 爪の中まで綺麗になったことを確認すると、ティッシュを捨てて椅子から立ち上がる。 「それでもあなたが私を排したいと言うなら、私は私と子供を守るために抵抗するわ。」 立ち上がった優希を見る有美の怪訝そうな目は、優希の手に握られたものに気づくとぎょっと見開かれた。 優希の手に握られているものは、オレンジを切ったフルーツナイフ。 余裕の表情が恐怖に塗り替わり、近づいてくる優希から逃げようとソファの上を後ずさる。 「お、お姉さんにそんな度胸はないわ!暁春に負い目があるんでしょう!?あ、暁春の大切な人である私への暴力は、暁春に楯突くことと同じよ!!」 「おかげさまで、私の子供を侮辱したあなたたち2人への怒りと嫌悪感で、暁春への罪悪感もだいぶ影が薄くなったみたい。」 ソファの肘掛けにぶつかって逃げ場がな