LOGIN昨晩桃子が言っていたことを思い出し有美の口元が大きく弧を描く。
真実はどうでも良く、野良の子を孕んでいる可能性を井竜家の人間が認識した時点で子供を残しはしないだろう。 なんと言っても名家は血筋が重要なのだから。 そして最初から産ませなければ、追い出された優希が子供を盾に何かを要求する憂いも無くなるのだ。 自分が手をくださずとも優希の子は淘汰されるだろうと、有美は冷たく笑った。 (ああ…、本当に全てが私の望んだ通りだわ…。)」 幸運の女神に愛されるていることに愉悦に浸った有美は、暁春が階段を降りてきたことに気づいてすぐに表情を変え走りよる。 「お姉さん怒ってなかった?」 心配した表情を作り、緊張している(どこかで見たことあるような…。) 誰かに似ていると思ったが思い出せずに悶々とする優希の元に女性職員が来た。 優希は安心して無意識に女性職員に寄っていく。 「あら、あなたどこかで見たことあると思ったら、三滝家のお嬢さんね。」 背中にかけられた都の声に優希の体が固まる。 「国を出てたのね。英断だわ。今じゃ国中が井竜若奥様の転落事故の真相を知っているもの。」 ゆっくり振り向いて都を見ると、楽しそうに細められた目にははっきりと悪意が込められている。 覚えのない人から突然向けられた悪意に優希は戸惑う。 この国に来た経緯を優希は誰にも言っていなかった。 もはやこの孤児院しか居場所のない優希は、母親が愛人で、あろうことか嫉妬から身重の正妻を突き落としたこと、そしてその原因は優希自身にもあるということを知られたくなかった。 身勝手だとしても、子供だった優希はこの居場所に縋るしか無かったのだ。 「優希ちゃん、お知り合い?」 女性職員は無邪気に尋ねる。 「まぁ、若奥様は植物状態だって診断されて、坊ちゃんもお嬢様も寂しい思いをしてるのに、あなたはこんな所で呑気に暮らしてるの?なんて薄情な人。そこのお姉さん、気をつけた方がいいわよ。この子自分を可愛がってくれた妊婦を母親と一緒になって突き落としたんだから。」 都の大きな声はよく響き、それまで賑やかだった部屋が静まり返る。 優希は知られてしまったという思いと、初めて知った美緒のその後に顔色を無くした
道端で公衆電話を見つけ、早る気持ちで駆け寄った。 時差についてはこの時の優希の頭にはなかった。 緊張で震える手はなかなか言うことを聞かないが、なんとかカードを入れ、自宅の番号を押すと単調なコール音が鳴り出す。 (誰が出るかな…。お父さんかな、お手伝いさんかな…。話、聞いてくれるかな…。) しかしコール音の回数が増えていくにつれ、期待はだんだんと不安に変わっていく。 「……はい。」 留守なのかと電話を切ろうとした時、隆一の掠れた声が聞こえ心臓が跳ね上がった。 久しぶりに聞いた隆一の声に優希は恋しさで声を詰まらせる。 目は涙でかすみ、鼻が詰まり、喉からは嗚咽が漏れる。 「…どちら様ですか?」 訝しむ隆一の声に優希は焦って呼びかけた。 「お、お父さ…。」 「…優希?」 痙攣する喉に邪魔されきちんと呼べなかったものの、隆一は優希に気づいた。 嬉しさに優希は何度も頷く。 「お、とうさん…、私…。」 視界を覆う涙を拭いながら、優希は声を絞り出した。 ちゃんと話したい、と優希が呼吸を整えていると、電話の向こうで声が聞こえてきた。 「おじ…お父さん?」優希よりも幼いであろうその声は、優希の父を「お父さん」と呼んだ。 「ああ、起きちゃった
「どいて!!」 気持ち悪さに両手足をがむしゃらに動かして英二の下から抜け出そうとするも、英二が腹部に乗っていてただ体力を消耗させるだけだった。 英二は疲れて息を荒くする優希に満足気に笑うと、片手を優希のシャツの中に入れる。 その行動に男が何をするつもりなのかを察した優希は先ほどよりも激しく暴れた。 「やめて、離して!!お母さん助けて!!」 殴る、蹴る、噛み付く。 いくら子供といえど、13歳の全力の抵抗には英二も手を焼き、目的の箇所に触れない。 「黙れ!!」 次の瞬間、顔が横を向くほどの衝撃を頬に感じ、優希は一瞬放心した。 目の前が点滅し、頬に熱と痛みを感じ始めると殴られたことに気づく。 英二は思わず出た手だったのか驚いた顔をしたが、大人しくなった優希の体に再び手を這わせた。 優希はもう死にものぐるいだった。 頬の痛みも忘れるほど暴れた。 目の端に椅子を見つけ、必死でそれを手繰り寄せる。 「やめてってば!!」 渾身の力で叩きつけると、英二は叫び声をあげて優希の上から転がり落ちた。
翌日には井竜財閥が美緒の件を公式に発表した。 社長の愛人関係とはさすがに公表出来ず不慮の事故とされ、同時に英二も体調不良により休職となることも発表された。 「親父は今頭に血が上っているだけだ。もう歳も歳だから、暁春が後を継ぐ前に体が限界になるだろうな。落ち着いたらそれに気づいて俺を呼び寄せるさ。」 英二はニュースを見ながら楽観的に言い、勘当を真剣に受け止めていないようだった。 英二はもちろん、舞も秘書として同行している時の映像から顔が割れており、このまま国内で生活するのは周りの反応が煩わしいと英二が嫌がったため、すぐに国外に移住することになった。 「これからは家族としてよろしくね。」 空港に向かうタクシーの中、英二は優希にそう笑いかけた。 密かに睨みつけてくる舞の目と笑いかける英二の目が怖く、優希は俯き僅かに頷いた。 垂れた髪が2人の視線を遮ると安心することに気づき、それ以降優希はずっと俯いていた。 英二が決めた移住先は世界でもトップクラスに物価が高い国だった。 しかし貧富の差が激しく、煌びやかな大通りを1本逸れると孤児や薬物中毒者、ギャングなどの巣窟で、毎日誰かが道で倒れている。 英二たちはだいぶまとまった金額を貰ったようで、一等地の一軒家を買い、毎日外食をし、働かずカジノに通った。 2人はその国の言葉を話せたが優希は日常会話も不慣れだったため、学校には行かずに豪邸でひっそりと過ごしていた。 隆一が一括で払った優希の養育費など、本来の目的で使われなかったのだ。
ずっと泣くわけにもいかず、強引に涙を止めた優希は舞を追って家を出る。 隆一にこれ以上迷惑をかけられないと思ったからだ。 そして自分に向けた隆一の失望と嫌悪感と拒絶の目を見たくないという逃避の気持ちもあった。 とぼとぼと井竜家の門のところに来ると、玄関の方で舞が騒いでいるのが聞こえた。 「ちょっとなんでよ!彼は井竜社長よ!?彼がいなくなったら会社はどうするのよ!」 どうやら老人が帰宅し、若奥様になると意気揚々とやってきた舞を門前払いしているようだ。 優希は急いで門の柱に隠れる。 門から玄関までは距離があるので老人の言葉は聞き取れないが、喚く舞の声は響いた。 玄関に立つ老人は冷徹な視線を舞に向けると口を開き、何かを話す。 「~っ若奥様はどうするの!?跡継ぎも若奥様もいないなんて、天下の井竜様の面子が立たないんじゃない?」 「若奥様は美緒であることは変わらん。暁春が大人になって結婚したら、その相手が次の若奥様で、美緒は奥様になる。少なくともお前では無い。暁春が継ぐまではまた儂が社長に就くから会社も大丈夫だ。」 地団駄を踏む舞に老人は少し苛立ったように声を張り上げた。 舞はなおも諦めず喚く。 「桃子ちゃんを呼んで!あの子私に言ったのよ!美緒を排除出来たら私が若奥様だって!隆一と離婚したのに、若奥様にもなれなかったらどうするのよ!!」 「知らん。お前たちの真実の愛があれば若奥様の地位などなくても幸せというものだ。あのクズは今ゴールデンホテルで待機させている。生前分与と退職金としてまとまった金を渡しているから、あとは愛し合うもの同士好きにしろ。」 老人はそう言うと勢いよく扉を閉めた。 舞は汚い言葉を吐き捨てると振り向いて優希の方に歩いて来る。 「ちょっと桃子ちゃん!?どういうことよ!家に入れてもらえないんだけど!」
隆一は室内に目を走らせ状況を理解すると、顔面を蒼白にさせながら「救急車!」と声を張り上げた。 そしてすぐに倒れた老夫人に駆け寄り手首に触れると安堵の息を吐き、駆けつけたお手伝いさんたちに動かさないように指示を出す。 そして自分は走って部屋を出ていった。 呆然としていた暁春はすぐさま執事に指示を飛ばし、自分も隆一の後を追う。 走り去る前に優希に向けられた視線はとても鋭いものだった。 残された優希はショックで足が動かず、その場で立ち尽くす。 傍の舞は窓の下を凝視しながら口元に邪悪な笑みを浮かべており、優希の背筋を凍らせた。 外で救急車のサイレンが聞こえ、救急隊員が美緒と老夫人を運び出した後も優希は動けなかったが、舞は平然と近くの椅子に座ると鼻歌を歌い出す。 戻ってきた隆一はそれに顔をしかめた。 「お父さん、おば様は…?」 優希が駆け寄り尋ねると、隆一は大きくため息をつく。 「…僕が見に行った時は美緒おばさんは頭部から出血をしていて既に意識はなかった。下腹部からの出血もあったから、おそらく搬送先で緊急帝王切開になるだろう。」 出血と聞いて、優希は隆一の服に血がついていることに気づく。 優希は顔を青ざめ震える声で「…赤ちゃんは?」と聞いた。 「美緒おばさんが落下時に腹部を守る体勢を取っていたが、どのくらいの衝撃が胎児に行っているか不明だからなんとも言えないね。」 深刻な状況に優希の顔は色を無くし、体は震え出す。 美緒に伸ばした手が痺れるほどに冷たく感じて無意識にその手を握った。
「…時間がある時にでも、三滝社長とゆっくり話をしたらどうかしら。彼も離れていた間のことをゆうちゃんから聞きたいと思うの。」 老夫人の提案にそうだろうかと不安に思うも、とりあえず頷き車に乗った。 手を振る老夫人の横で、老人も優希に軽く頭を下げるとすぐに老夫人に視線を向け、彼女の肩にストールをかけた。 (今、おじいさんにとって1番気にかかってることはおばあさんなのね。) あからさまな老人の態度に思わず優希の口元に笑みが浮かぶ。
指輪を見ながら有美は聞いた。 どうする?とは聞いたが、心の中では中絶させるだろうと思っていた。 結局、暁春は優希との子供を望んでおらず、今回も優希の勝手な行動で妊娠しただけなのだから。 「……。」 しかし暁春から返ってきたのは予想していた返答ではなく沈黙だった。 それの意味に気づいて有美の顔から表情が消える。
「細工、しましたね。」 優希が反応をしないと、暁春は誰に言っているのか知らすように口調を変えた。 優希がそろりと目線をあげると、先ほどの睨みは和らいだが、それでも凍りつきそうな視線でまっすぐ見てくる暁春と目が合う。 その目には老人の言う通り喜びは無く、優希は歯を噛み締めた。 「え?何のこと?」
蚊に刺されたようにも見えるそれを最初は気に止めていなかったが、それを囲むように点線状の凹みも見つけた瞬間、優希の目は釘付けになった。 だいぶ薄いが、カーブを描いたその凹みは歯型のように見える。 「下ろしますね。」 もっとよく見ようとしたが、暁春の言葉に思わず自分の足元を見てしまい、気づいてすぐに顔を戻すも、襟で隠れていた。 優希は大人しく浴槽に浸かる。しかし頭の中では先ほどの光景が揺れていた。 歯型………? なぜ?