LOGIN翌日、優希は10時に起きた。
当然ながら暁春は既に出勤しているようで、優希の隣には既に人の体温はなかった。 朝方まで酷使した体は全身が筋肉痛のように痛かったが、 暁春が体を清めてくれたのか、痛み以外の不快感は感じられなかった。 今日は妊婦健診を予約していたためゆっくりとベッドを降りた。昨晩の激しい行為が影響ないかも心配だった。 ふとサイドテーブルを見ると、薬の箱が置いてあることに気づく。見慣れた避妊薬のものだ。暁春が置いていったのだろう。テーブル横のゴミ箱には口を縛ったコンドームが何個も入っている。 実は暁春はまだ2人の時間が欲しいと言って、子供を望んでいなかった。子供を希望していない暁春は、自身がコンドームを使用する他に、優希にも毎日避妊薬を飲むよう指示していた。 少し考えて、優希はその避妊薬とサイドテーブルの引き出しの中にある未使用のコンドームをゴミ箱に捨てた。 昨日は妊娠のことを伝えられなかったが、今晩帰ってきた時に伝えるつもりだった。もうこれらはいらないだろうと思ったのと、後ろめたい証拠を破棄したかったという理由もあった。 暁春が子供を望まず、避妊を徹底しているのに何故優希は妊娠できたのか。 もちろん他の男性を頼ったなどではなく、恥を忍んで未使用のコンドームに針で穴を開けていたのだ。 優希は自分の年齢を考え、それでも暁春のプレッシャーにならないようにと、結婚当初からさりげなくアピールをしていたが暁春は認めなかった。どんなに余裕がない時でもコンドームは着用していた。2週間前のあの夜も、スラックスのポケットからそれを取り出すのを、疲れでかすんだ目でぼんやりと見ていた。 子供は、優希の望むものの中で唯一暁春が拒否したものだった。 だから優希は未使用のコンドームの袋に針を刺し、避妊薬の摂取をこっそりやめた。突拍子もない行動に感じるが、優希はそれだけ子供が欲しかったのだ。 暁春を騙す行為だと自覚していたが、妊娠してしまえば子供を拒否しないだろうと思っていた。なにせ2人は夫婦なのだから。 シャワーを浴びた後ダイニングへ行くと、冷蔵庫のメモを見つけた。 おはようございます。昨日は無理させてしまいすみません。冷蔵庫にサンドイッチを作って入れておきました。食べてください。 貴方の大事な人より 綺麗な字で書いてあるそのメモは、なんて事ない内容だったが優希は心が暖かくなった。 目を細めながら大事そうに冷蔵庫から外し、携帯ケースの中に閉まった。後でクローゼットの中に隠してある缶に仕舞おうと思ったのだ。 暁春は他人が家に入るのを嫌がり、お手伝いさんは雇っていなかった。だから料理は専ら優希の役割だったが、朝食はこうして暁春が作ってくれることもあった。 サンドイッチは卵フィリングのものと、レタスとハムのものだった。アクセントでマスタードが塗られておりとても美味しかった。これは幼い頃、父から教わって気に入った優希が、暁春に教えたものだった。お姉さん風を吹かせて得意げに話していたのを覚えている。暁春も彼女がこの味が好きなことをずっと覚えていたようだ。 当時の優希は今とは違い、天真爛漫に明るくいつも笑顔だった。そして自信家でもあった。大人になった今は自信なんて消えてしまっていた。 変わってないところは馬鹿な選択ばかりするところね… 幼い頃の思い出を思い出し柔らかい表情でサンドイッチを口に運んでいたが、思い出したくもない過去の出来事も同時に思い出し口角が下がる。 食べ終わった優希はお皿を片付け、出かける準備をするために主寝室のウォークインクローゼットに向かった。 クローゼットの中は広かったが、優希も暁春も余分な服は持たないのでスペースは余っていた。手前の方にかかっている普段使いの質素なワンピースをとり、ベッドに置く。その後またクローゼットに入り、床に置かれた箪笥を開ける。下着などの細かい衣類の奥にピンクの丸い缶が置いてあった。そっとそれを取り出し蓋を開けると、中にはメモ紙が沢山入っていた。暁春からの小さなメモ達だった。 おはようございます。先に会社に行きます。 お弁当ありがとうございました。とても美味しかったです。 庭の花が綺麗に咲きましたよ。 愛しています。 どれも取り留めのない内容だったが優希の宝物だった。時間が無い時に急いで書いたであろう、走り書きのようなメモも愛おしかった。暁春が出張で留守にする時にこのメモ書きを読んで寂しさを紛らわしていた。 そこに先程冷蔵庫から外したものをそっと入れる。「…時間がある時にでも、三滝社長とゆっくり話をしたらどうかしら。彼も離れていた間のことをゆうちゃんから聞きたいと思うの。」 老夫人の提案にそうだろうかと不安に思うも、とりあえず頷き車に乗った。 手を振る老夫人の横で、老人も優希に軽く頭を下げるとすぐに老夫人に視線を向け、彼女の肩にストールをかけた。 (今、おじいさんにとって1番気にかかってることはおばあさんなのね。) あからさまな老人の態度に思わず優希の口元に笑みが浮かぶ。 そこまで気にかけてもらえる老夫人が羨ましく思うと同時に、今や自分と暁春ではその未来像が浮かばなくなっていることに気づき、優希の胸に悲しみが滲む。 車が本邸の門から出る時、玄関から暁春が出てくるのが見えた。 その傍らに有美がいるのも見え、優希は目を逸らして前を向く。 遠目で見た2人は最初に見た時に感じた通り、お互い揃えたように服装のバランスが取れていた。 まるでカップルがパーティのドレスを合わせるように、デートでペアルックを楽しむように。 優希は息苦しさを感じて窓を開けた。 春の夜風が顔を撫で、どこか懐かしい匂いが鼻腔に触れる。 (…人がずっと覚えているのは嗅覚だったかしら。) 夜の少し湿った匂いは子供の頃に嗅いだものだったか、それとも昼は外出出来ないからとたまに暁春としていた夜の散歩の時だったか。 思い出せないが、とても懐かしい気持ちになるのは、この匂いを嗅いでいた当時の彼女はとても幸せを感じていたのだろう。 優希は背もたれに体を預けて目を閉じると、自然と体の力が抜け、今日1日緊張していたことを思い出した。 あの2人を見た時の嫌な気持ちは、懐かしい匂
優希が振り返ると、沈痛な面持ちの老夫人が立っていた。 眉毛を下げて視線を落とし、肩も落とした姿は桃子に退去を命じていた時の毅然とした姿と真逆だった。 「桃子と桜が本当にごめんなさい。あの馬鹿な2人が台無しにしてしまった…。」 頭を下げる老夫人に優希が慌てて肩を支える。 「謝らないでください!おばあさんが謝ることじゃありません!」 「あの2人は私が育てたの、私の育て方が間違っていたのよ…。本当に申し訳ない…。申し訳ない…。」 顔を下げたまま声を震わせる老夫人から少し離れた所に老人が立っている。 その表情は怒りなのか悲しみなのか、優希には判断がつかないもので、ただ分かるのは、老夫人を心配しているようだということだった。 優希は、顔をあげない老夫人の背中を優しく撫でながら話しかける。 「おばあさんとおじいさんが味方でいてくれたので大丈夫です。…お父さんも、たぶん庇ってくれたんだと思います。それだけで十分ですよ。」 ちょうどダイニングから見えなくなった隆一の背中に目を向け、優希は落ち着いた声で言った。 「だから顔を上げてください。結果的に妊娠を伝えることは出来ましたし、桃子さんに笑われる原因を作ったのも私ですから…この後のことは、帰ったら暁春と話します。」 老夫人は顔を上げると優希の手を握る。 「もしあの子が馬鹿なことを言ってきたら…、必ずおばあさんに連絡を頂戴。」 その言葉に優希の表情が固まった。 考えないよう
「細工、しましたね。」 優希が反応をしないと、暁春は誰に言っているのか知らすように口調を変えた。 優希がそろりと目線をあげると、先ほどの睨みは和らいだが、それでも凍りつきそうな視線でまっすぐ見てくる暁春と目が合う。 その目には老人の言う通り喜びは無く、優希は歯を噛み締めた。 「え?何のこと?」 桜は戸惑った声をあげるが、桃子は察したのか大きく吹き出した。 隆一が嫌そうな顔をするも桃子は気付かず、今までで1番蔑んだ目で優希を見て言った。 「優希ちゃん、地味なくせに案外行動派なのね。あはっ、コンドームに細工するなんて!」 大きな声で言われ優希は耳まで真っ赤にして俯いた。 隆一はますます眉を寄せて桃子を睨みつける。 「どうやったの?やっぱり穴を開けたのかしら?」 静かなダイニングには桃子の楽しそうな声だけが響き、優希は居た堪れず、さらに顔を俯かせた。 俯くことはより自分を惨めに見せるだけだとわかっていても、暁春が笑うならまだしも、桃子から笑われることに優希は顔を上げて耐えることができなかった。 - 既に妊娠を知っていた老人は密かに暁春と有美の反応を見ていた。
「本気で言ってますか?」 沈黙は桜の冷たい声で破られた。 有美に向けていた笑顔の欠片も見えない表情は、顔立ちは違えど暁春と似ており、2人は兄妹なのだと改めて思わされる。 「本当よ。今6週目になるわ。」 優希は桜をまっすぐ見て頷いた。 ようやく言えた達成感から少し気分が軽くなったように感じるが、目の端にぼんやりと見える暁春を直視することは出来ずにいた。 「有り得ません。お兄ちゃんはいつも避妊をしていました。何故妊娠が可能なんですか?」 桜の言葉に優希は眉を寄せた。 (桃子さんと桜ちゃんが何故知ってるの…?) 先ほどの桃子の発言でも感じたが、夫婦生活のことを何故2人が知っているのか…、優希 は暁春と有美を見る。 暁春は何か考え事をしているようで、グラスを握ったままテーブルの上をぼんやり見ており、その隣の有美は呆然とした表情で優希を見ていた。 「嘘か、野良の種か…どっちかしらね。」 桃子が懲りずに愉快そうな顔でテーブルに乗り出し言った。 不倫を言われていることに気づいた優希が顔を青くさせる。 彼女はコンドームへの細工の説明ばかりに気を取られて、他の男性の存在を疑われたり、そもそも妊娠自体を疑われる可能性を失念していたのだ。 「野良なんてっ…お腹の子は正真正銘暁春の子供です!」 「ふーん?まず妊娠が本当ならエコー写真見せて欲しいわね。」 優希の焦った声に桃子の眉毛が上がる。 「持ってきていないので、今はお見せできません…。ですが、井竜中央病院に記録があります。」 「そう。まぁ、妊娠が事実だとしても、暁春の子供かどうかの疑問は残るけどね。」 「うちの病院の産科で優希ちゃんの元カレが働いてるらしいじゃない。…その元カレの子供だったり
しかし優希の想像とは違い、桜は有美と優希を比較するような発言をすることはなく、むしろ優希をいないかのように全く絡んでこなかった。 桃子も隆一に熱心に話しかけ、いつもことある事に言っていた優希への「指導」が来ることもない。 優希を煩わせるものがなく一見平和な食事会だが、しかし優希は惨めな気持ちだった。 目の前の暁春は隆一と話しながら時折有美と穏やかに話し、その話し方や接し方は優希へのそれよりもとても自然に感じられ、さらに桜と有美の仲の良さがまるで有美こそが彼の妻のように思えた。 本来はとても美味しいはずの料理も美味しく感じず、優希は微笑みを顔に貼り付けながら機械的に料理を口に運ぶ。 「ちょっといいかしら、それぞれで話すのもいいけど、みんなの最近の出来事を聞きたいわ。」 優希を心配そうに見ていた老夫人はフォークを置くと咳払いをして言った。 皆が話を中断して老夫人を見るのを確認し、再び口を開く。 「まずは私からね。みんなも気づいていると思うけど、最近おじいさんと喧嘩をしているのよ。お墓に入るまでに仲直りできるかも分からないわ…。」 上品に頬に手を当てため息をつく老夫人。 優希は本邸に来た時から感じていた違和感の正体に納得した。 先日来た時はべったりという表現がしっくりくるほど老夫人の隣をキープし、老夫人はお菓子を食べさせるなど仲睦まじい2人を見せていたのに今日は2人が話すとこを見ておらず、食事中も老夫人は老人の隣に座らなかった。 ちらりと老人に目を向けると、表情は変わらないが片眉が僅かに動いたのを優希は見た。 「じゃあ次はゆうちゃんね。」 老夫人が妊娠を伝える機会を作ってくれたのだと理解した優希は、緊張で目を泳がせる。 「えっと…。」 心臓は破裂しそうなほど激しく動き、膝に置いた両手は緊
暁春はそう言いながら椅子を引き、ずっと立っていた老夫人を座らせると、その隣の椅子も引いて老人に促す。 年長者の2人を気遣っているように思える行動も、一瞬老人に向けた挑戦的な目つきに裏を考えてしまった美代子は、持ってきた椅子を置いて急いでキッチンに入っていった。 - 優希はトイレの鏡の前で化粧を直していた。 隆一との再会の衝撃が落ち着いた今、彼女の頭には混乱が生じていた。 本邸では今日のような食事会は定期的に行われているが、過去の食事会は家族のみで、招待されたとしても親戚の人たちだけだった。 だから優希は自然と、食事会は気軽なホームパーティではなく、家族間の近況報告も兼ねたものだと思っていた。 そこに有美と隆一を連れてきた暁春の意図が分からず、優希はため息をつく。 考えに耽ると手元の注意が疎かになり、マスカラがまぶたに着いてしまった。 慌てて拭き取ろうとしたら今度はマスカラを落としてしまい、ベージュのワンピースにマスカラの黒が付着した。 優希は思わず天を仰ぐ。 (上手くいかないわね…。) 妊娠報告の失敗や事故、有美と暁春の過去、そして先日の喧嘩など、最近の物事のうまくいかなさに優希は再び大きなため息をついた。 桜が昔から有美を姉のように慕っていたとは老夫人から聞いており、今日の食事会は優希を好いていない桜による、有美との比較会になるのではないかと憂鬱になる。 それでもお腹に手を当て、妊娠をきちんと伝えるのだと自分を奮い立たせた。 何とか身なりを整え終わった優希はトイレを出てダイニングへ行く。 ダイニングに近づくにつれ、桜が甘えるように話している声が聞こえてくる。 おそらく有美に話しかけているのだろう。 出入口のとこで一旦足を止め、深呼吸をすると笑顔を作り中に入る。







