Share

第3話

Author: 清水雪代

瑞希は山口家の人たちと話していて、彼女は口を挟めず気分転換に庭へ出た。

山口家も大桐市では有名な名門で、庭はとても広い。

しばらく歩いて少し疲れた彼女は、ブランコを見つけてそこに腰を下ろした。ふと目に入ったのは、ブランコのそばのフェンスに彫られた小さな文字。

【祐介と千尋、ずっと一緒にいようね】

筆跡から見れば、おそらく子供のころに刻んだものだろう。

祐介と千尋は幼なじみで、昔はよく山口家に遊びに来ていたのだろう。そう考えれば、この落書きも不思議ではない。

立ち去ろうとしたそのとき、前方から二人の声が聞こえてきた。

「祐介くん、今の家をリフォームすることになってね。実家に戻ると両親に色々言われるのが嫌だから、しばらくあなたの家に住んでもいい?」

祐介は穏やかな声で答えた。「もちろん。君の部屋はずっとそのままにしてあるよ」

智美は、思わずブランコのロープを強く握りしめた。

彼女と祐介が一緒に暮らしている別荘には、一番広くて日当たりのいい客室があった。

使用されていないのに毎日家政婦が掃除し、数日おきにシーツも交換されていた。

最初はなぜ誰も使わない部屋をそんなに手入れするのか不思議だったが、今ようやく理解できた。

その部屋は、祐介が千尋のためだけに空けておいたものだったのだ。

葬儀が終わり、智美は祐介の後ろを歩いていた。

祐介は無言で携帯を見ており、話しかける気配もない。

智美も祐介の冷たい態度に合わせるつもりはなかった。今、彼のそばにいるのは契約のために過ぎないのだから。

後ろから千尋が追いかけてきて、祐介の腕に絡みついた。

「祐介くん、先に私の家に荷物を取りに行ってもいい?」

祐介は頷き、ようやく智美の存在を思い出したように言った。

「智美、千尋ちゃんがうちにしばらく住むから、君暇だろ?ちゃんと彼女の面倒を見てやってくれ」

それは頼みではなく、明らかに命令だった。

彼にとって、妻という立場の智美は、家政婦と何ら変わりがないのだ。

もうすぐ離婚するのだから、彼女もこの話が理不尽かどうかなど議論するつもりもなかった。

智美は冷静な表情で答えた。「わかったわ」

あまりに素直に答えたので、祐介は少し意外に思い、彼女の顔をじっと見た。

イギリスから戻るたびに、智美の機嫌が悪くなるのがわかっていた。

だが今の彼女は、何の感情もないように見える。

それが逆に彼の心をざわつかせた。

駐車場に着くと、祐介は助手席のドアを開けて千尋を乗せた。

智美は後部座席に向かい、ドアを開けようとしたとき祐介が言った。「俺、先に千尋の家に行く。君は帰り道も違うし、自分でタクシーを呼べ」

山口家の別荘は山の上にあり、タクシーなど簡単につかまらない。

だが祐介は、そんなことお構いなしに車を走らせ、千尋を連れて去っていった。

智美は冷たい山風に一時間以上さらされ、結局四万円多く払ってようやくタクシーをつかまえた。

家に戻ると、空腹と疲労で倒れそうだった。

だが、食卓では楽しげな笑い声が響いていた。

祐介、千尋、麻祐子が揃って、鍋を囲んでいた。

麻祐子は不満げに言った。「智美、どこ行ってたの?ご飯作る人いなかったから、仕方なく鍋食べてるのよ」

祐介は、煮えた牛肉を千尋の器に入れてから智美に言った。「山内さんのタレ、味がイマイチだった。お前、新しく作ってこい」

家政婦の山内は申し訳なさそうに智美を見た。

彼女は元々料理係だったが、祐介が彼女の料理を好まなかったため、今は掃除専門になっていた。

智美がいない間、山内は祐介の好みがわからず、代わりに鍋を選んだのだった。

山内にはよくしてもらっているので、智美は文句も言わず素直にタレを作りに行った。

ちょうどタレを置いたところで、麻祐子がまた言ってきた。「智美、肉団子作ってよ。外で売ってる肉団子は、添加物ばっかで不味いのよ」

だが、智美は疲れと空腹でもう限界だった。

彼女は黙って席に着き、鍋の中にあるじゃがいも、牛肉団子、イカ団子を全部自分の器に入れた。

麻祐子は彼女が台所に立たないどころか、出来上がった団子を全部食べたのを見て怒鳴った。「ちょっと、私の言ってること聞こえなかったの?!」

智美は肉団子をひとつ口に入れ、ゆっくり答えた。「全部添加物入りだから、私が先に食べといたわ。それに、手作り団子の材料がないから、買いに行ったら?」

麻祐子は怒りで言葉を詰まらせ、祐介に訴えようとした。

だが祐介は彼女を制した。「嫌なら自分で出前取れ」

いつもなら祐介は妹の肩を持つのに、今日は智美が素直に千尋の件を受け入れたことで、少しだけ態度が違っていた。

麻祐子は納得できず、牛肉を噛みちぎった。

しかし、智美は祐介が自分の味方をするわけがないと知っていた。案の定、彼はすぐ次の命令を口にした。「千尋ちゃんはお粥が好きなんだ。手間がかかるけど、明日朝早く起きて用意しろ」

智美の箸を持つ手に力が入った。

祐介の中で、千尋は明らかに麻祐子より大事な存在だった。

麻祐子の世話を断っても、千尋の世話は拒否できない。

智美はにこりと笑った。「わかったわ」

やれと言われればやる。

でも美味しくできるかは、知らない。

千尋はにっこり笑って言った。「智美さん、よろしくお願いしますね」

智美は黙ったまま、自分の器の中の団子を食べ続けた。

すべての団子を智美が取ってしまったことで、麻祐子は一つも取れず、ひどく怒っていた。

そして彼女は智美が席を立った瞬間を狙って、わざと箸で熱い鍋を突いた。

熱々のスープが智美に向かって跳ねた。

智美はとっさに身をかわしたが、腕にはスープがかかり、激痛が全身に走った。

顔は真っ青になり、額にはじっとりと汗がにじんだ。

だが祐介は智美を見ることもなく、千尋に駆け寄った。

彼女の手の甲にも数滴スープがかかり、赤くなっていた。

「病院へ連れて行く!」

彼は彼女を抱き上げて、外へ駆け出した。

麻祐子は智美を見下すような笑みを浮かべ、後に続いた。

山内が慌てて智美に駆け寄り、袖をめくると、腕一面に水ぶくれができていた。

目を潤ませて言った。「奥様……」

智美は痛みに顔をしかめながらも答えた。「大丈夫よ、山内さん。心配しないで」

その後、山内が智美を渡辺家が出資している私立病院へ連れて行った。

医者は応急処置を施し、点滴を打つよう指示した。

智美は山内に自分の孫の面倒を見るよう勧め、一人で病院に残った。

うとうとしていた智美は、看護師に呼ばれて目を覚ました。点滴はもう終わっていた。

帰り支度をしていたとき、隣の看護師たちの会話が耳に入った。

「渡辺社長、上のVIPフロア全部貸し切ったらしいよ。佐藤さんが静かに休めるようにって」

「ただの軽い火傷でしょ?あのままだったら痕すら残らなかったのに、一階全部貸し切るなんて」

智美は足を止めた。

そして、自分の傷だらけの腕を見て思わず笑ってしまった。

タクシーで帰宅し、シャワーを浴びてベッドに入った。

翌朝、祐介に叩き起こされた。

目をこすりながら聞いた。「……何?」

祐介は冷たい表情で、怒気を帯びた声を放った。「昨日、お粥を作れって言ったよな。お粥は?」

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 無視され続けた妻の再婚に、後悔の涙   第114話

    かつての千尋は、天真爛漫で少しわがままな、愛らしいお嬢様だった。だが今、電話口から聞こえる彼女の声は、どこか遠慮がちで、弱々しく響いた。「祐介くん……本当に、もう私はいらないの?」その言葉には、切なさと恨めしさが滲み、聞く者の心を揺さぶる。だが、祐介の心はもう動かなかった。愛しているのが智美だと気づいてから、彼は完全に目が覚めたのだ。智美は、ずっと千尋の存在を気にしていた。智美を手に入れるためには、千尋と完全に縁を切らなければならない。以前はどれだけ千尋を愛していても、それはもう過去の話だった。今の千尋には、何の魅力も感じなかった。男が一度冷めた感情から抜け出す速さは、女には到底理解できないものだ。千尋はそれが分からない。だから、昔の美しい思い出に縋れば、祐介がまた自分のもとに戻ってきてくれると信じている。彼が黙っているのを聞いて、千尋は口を尖らせて甘えた。「祐介くん、私、本当に会いたいな。今夜、一緒に夕食でもどう?」蜜のように甘い声が、スピーカーから滴る。しかし、祐介の表情は冷たいままだった。「千尋ちゃん、もう連絡してこないでくれ」その言葉は、まるで雷のように千尋の心を打ち抜いた。顔色は紙のように白くなり、血色の良かった唇も色を失って、身体がぶるぶると震え始めた。目を見開き、信じられないという表情を浮かべた。あれほど自分を大切にしてくれた男。自分のために車に轢かれて足に怪我を負い、それでも海外まで追いかけてきてくれた男が──もう自分を愛していないなんて。どうして、こんなひどい言葉を……?あまりのショックに、彼女の声は震え続けた。「え……何を言ってるの、祐介くん?私、何か悪いことしちゃった?直すから!お願い、そんなこと言わないで!」涙がこみ上げてくる。千尋はパニックに陥っていた。今すぐにでも彼の元へ飛んでいきたい。「飽きたんだ」祐介は無表情に言い放った。「確かに以前は君に夢中だった。でも、その気持ちはもう消えた。昔はパイナップルが好きだったけど、ある日突然、あの味が嫌いになって、もう食べたくなくなった。それと同じだよ。感情なんて、そんなものだ。一度消えたら、もう二度と戻らない。だから、もう電話してくるな。かけてきても出ないから」そう言うと、祐介は容赦なく通話を切った。ツーツーとい

  • 無視され続けた妻の再婚に、後悔の涙   第113話

    「智美……」祐介の声が震えている。その目には、涙さえ浮かんでいた。彼はゆっくりと手を伸ばし、智美の手を取ろうとする。しかし智美は素早く一歩下がり、その手を避けるようにして距離を保った。祐介の瞳に罪悪感の色が滲む。彼は智美の目を見て、懇願するように言った。「昨夜は俺が悪かった。本当にごめん。どんな罰でも受ける。だから、無視だけはしないでくれ」智美の口角が、ゆっくりと吊り上がった。それは笑顔の形をしていたが、温もりのかけらもない。ただ冷たく、嘲るような笑みだった。「どんな罰でも?いいわよ。じゃあ、死んでちょうだい」その言葉は、鋭い刃のように祐介の心を貫いた。祐介の顔が強張る。期待と後悔に満ちていた表情が、一瞬で凍りついた。その場に立ち尽くし、智美の冷たく決然とした顔を見つめるだけで、言葉が出てこない。彩乃が慌てて二人の間に割って入った。「智美ちゃん、そんな言い方しなくても!祐介くんは反省してるのよ」智美は容赦なく言い返す。「反省しても、また繰り返すでしょう?次に私が他の男と出かけたら、きっとまた昨日と同じことをする。違うかしら?渡辺社長?」冷たい視線が、祐介を射抜いた。祐介は苦痛に顔を歪めた。「智美、俺の気持ちを知っていて、わざと俺を怒らせようとしているんだろう?」彩乃も心の中で腹立たしさを感じ、娘の方を振り返って睨み、責めるように言った。「あなたって子は、どうしてそんなに頑固なの?祐介くんとちゃんと話し合えないの?」智美は断固として答えた。「話し合う?無理よ。離婚した時点で、私たちは他人。特に昨夜、暴力を振るわれてからは、敵同士よ!この恨み、一生忘れないわ!」彼女は昼のうちに病院へ行き、診断書を取っていた。しかるべき時が来たら、この証拠を突きつけて彼を訴えるつもりだ。もう昔のような、卒業したばかりで絶望し、なすがままにされるしかなかった無力な娘ではない。祐介は言った。「智美、全部俺が悪かった。君がまだ怒っているのは分かっている。冷静になる時間が必要だろう。安心して、数日は君の邪魔はしない。ゆっくり休んでくれ」そう言うと、祐介は力なく屋敷を後にした。彩乃が何か言おうとした時には、智美はすでに部屋のドアを固く閉ざしていた。しかし屋敷を出た祐介は、すぐに友人へ電話をかけた。彼の顔から

  • 無視され続けた妻の再婚に、後悔の涙   第112話

    智美は、いつかニュースで見た話を思い出していた。家庭内暴力を受けた女性が、実家に助けを求めて帰る。けれど家族は「あなたのためよ」と優しい言葉をかけながら、彼女を地獄のような牢獄へと送り返してしまう。それどころか、夫に頭を下げる親までいるのだ。「娘の躾が至らず、申し訳ありません」と。彼女たちは、娘を独立した一人の人間としてではなく、ただの「他人の嫁」として育ててきたのだろう。そんな話は、自分とは無縁の世界だと思っていた。でも、違った。自分の母親も──そういう考えの持ち主だったのだ。心底、疲れ果てた。それでも、祐介を許すつもりは微塵もない。母さえ連れ出すことができれば、祐介に脅される理由もなくなる。問題は、どうやって母を説得するか──夜、祐介が屋敷に戻ってきた。額には白いガーゼが貼られ、照明の下で妙に目立っている。彩乃はリビングのソファに座り、入口のほうをじっと見つめていた。祐介の姿を認めると、その目に失望の色が浮かんだ。祐介は彩乃の表情から、自分が智美に手を上げたことを知っているのだと察した。このままでは義母の支持を失う──そう判断するや否や、彼はその場に膝をついた。涙を流し、声を震わせる。「お義母さん、昨夜は本当に申し訳ありませんでした!俺が、俺が悪かったんです!たぶん、酒を飲みすぎて、どうかしていて……それに、智美が男に送られて帰ってくるのを見た時、胸が張り裂けそうで、感情を抑えられなかったんです!我に返った時には、自分を殺してやりたいとさえ思いました。もう二度とこんなことはしません。どうか、もう一度だけチャンスを……!」彩乃はため息をついた。「あなたって人は、本当に……」娘のことは可哀想だと思う。だが、それでもこの男と娘に復縁してほしいと願っていた。「私が智美ちゃんの代わりに許せたらいいのだけどね。でも、これは私が決めることじゃないわ。彼女本人に謝って、許してもらいなさい」彩乃は心を込めて説得するように語り、表情に緊張の色を浮かべる祐介から視線を外さなかった。その話を聞いた祐介は内心でほくそ笑んだ──義母はまだ、自分の味方だ。「もちろんです!智美には心から謝ります。たとえ彼女がナイフで俺の胸を刺したとしても、甘んじて受け入れます!」彼は迷うことなく頷いて応じた。彩乃も彼の

  • 無視され続けた妻の再婚に、後悔の涙   第111話

    智美は、ついに堪えきれなくなった。震える手で、マスクを外す。白く繊細だったはずの顔は、今は見るも無残に赤く腫れ上がっていた。そして、ぐっと顎を上げる──首には、指の痕が痣となって、くっきりと残っていた。「お母さん、よく見て!これが、昨夜酔っぱらった彼が私にしたことよ!こんな暴力を振るう男と、それでも復縁しろって言うの!?」智美の声はひどく震え、堪えきれなくなった涙が頬を伝った。彩乃は、娘の変わり果てた姿に言葉を失った。目を見開き、信じられないというように何度も首を横に振る。「嘘……そんな……祐介くんがあなたに手を上げるなんて……」いつも優しく、思いやりに溢れた祐介が、娘に暴力を振るうなど──彩乃には到底信じられなかった。だが、やがて何かを思いついたように、ハッと顔を上げ、真剣な顔つきで智美に問い詰める。「ねえ智美ちゃん、正直に答えなさい。昨夜、他の男と会っていたんじゃないの?それを祐介くんが知ってしまったんでしょう?祐介くんだって普通の男よ。あなたを愛しているからこそ、嫉妬もするわ。きっと、それでカッとなってしまったのよ!」「お母さん!どうしてそんなことが言えるの!」もう気が狂ってしまいそうだった。智美の叫びは、もはや悲鳴に近かった。「何度も言ってるでしょう!私と祐介はもう離婚したの!赤の他人なのよ!私が誰と再婚しようと、彼には何の関係もないの!お母さんが私たちのことに口出しさえしなければ、とっくに完全に縁を切れていたのに!」しかし、娘の言葉を聞いても、彩乃は頑として譲らず、堂々と述べた。「とにかく、あなたが他の男と付き合うのはダメ!この件は、あなたにも非があるわ。あなたがもっとしっかりしていれば、こんなことにはならなかったはずよ!」彩乃は、ずっと古い価値観の中で生きてきた女性だった。彼女にとって、結婚とは簡単に二人が結ばれるだけのものではなく、責任であり、誓約だった。夫が決定的な過ちを犯さない限り、妻は離婚など口にすべきではない。たとえ夫が過ちを犯しても、反省して戻ってくるのなら、妻はそれを許すべきだ。良き妻とは、夫を許し、自分の立場を守り、家庭を守るべきもの──そんな考えに縛られている彩乃にとって、娘の離婚は大きな衝撃と深い悲しみでしかなかった。彼女の考えでは、離婚などというもの

  • 無視され続けた妻の再婚に、後悔の涙   第110話

    次の瞬間、頬に焼けるような痛みが走った──平手打ちだった。乾いた音が、狭いバスルームに響き渡る。祐介は智美の頬を張り倒し、凄まじい剣幕で詰問した。「言えよ!なぜ俺を裏切った!俺が君に何をしたって言うんだ!よくも浮気なんて真似を!」罵声と共に、もう一発。頭がぐらぐらと揺れる。意識が遠のきそうになった。智美は冷たい床に膝をついていた。全身に染み渡る冷たさよりも、じりじりと熱を持つ頬の痛みの方が、遥かに辛い。その時──彼女の手が、何かに触れた。床に置かれたボディソープのボトル。溺れる者は藁をも掴むように、智美はそれを強く握りしめる。そして、ありったけの力を込めて──祐介の頭部めがけて投げつけた。ゴッ、と鈍い音が響く。ボトルは祐介の頭に命中し、白い泡が辺りに飛び散った。強い衝撃か、あるいは別の何かで、祐介の体が、ぐらりと揺れる。そして──そのまま、ゆっくりと後ろへ倒れ込んだ。床に崩れ落ち、ぴくりとも動かなくなる。その光景に智美は一瞬息をのんだが、すぐに我に返った。――今こそが、逃げ出すための絶好の機会なのだと。彼女は痛みと恐怖感をこらえて立ち上がり、よろめきながらドアへと走った。部屋の外へ転がり出ると、すぐさまドアを閉めて鍵をかけた。祐介が不意に目覚めて追いかけてくることを、ひどく恐れていたのだ。背中をドアに押し付け、ぜえぜえと荒い呼吸を繰り返した智美の心臓が、張り裂けそうなほど激しく脈打っている。その夜、彼女は別のゲストルームで夜を明かした。ドアに鍵をかけ、念のために椅子でバリケードを作った。びくびくしながら一夜を明かした。翌朝、山内さんがドアをノックする音が聞こえた。マスクをつけてドアを開けると、山内さんの心配そうな顔が目に飛び込んでくる。「奥様、昨夜旦那様と何か……?今朝、旦那様のお顔に怪我があったものですから……病院へ行かれました」智美は、詳しい説明はしなかった。この家の防音性が高いせいで、山内さんは昨夜の惨状に気づいていないのだろう。だが、祐介が自分を殴った痕は、この顔に確かに残っている。この傷があれば、母を説得できるかもしれない。一緒にここから出るために。その時、彩乃はリビングで朝食の準備をしていた。娘の姿を認めると、その顔に不満の色が浮かぶ。「昨夜はどうして帰ってこなか

  • 無視され続けた妻の再婚に、後悔の涙   第109話

    次の瞬間、祐介は容赦なく智美の体をソファの方に突き飛ばした。ソファに叩きつけられた智美の体が、鈍い音を立てる。ソファの背もたれに頭を激しく打ち付け、視界が一気に歪んだ。目の前に星が散り、意識が朦朧とした。そこへ──獣のように、祐介がのしかかってきた。太い指が、智美の華奢な首筋に深く食い込む。「こんな時間まで……どこの男とほっつき歩いてたんだ!?」祐介の怒声が、耳をつんざく。全身の力を使い果たしてしまいそうだった。そして息が、できない。智美は必死にもがいた。目の前の悪魔のような男を、両手で突き放そうとする。だが、力の差は歴然としていた。どれだけ抵抗しても、祐介の体はびくともしない。智美は咄嗟に手を伸ばし、傍にあったクッションを掴むと、無我夢中で彼に叩きつけた。何度か殴りつけると、ようやく圧力がふっと緩み、祐介は首から手を離した。呼吸ができると、智美は激しく咳き込みながら、躊躇いなくよろめく足で自分の部屋へと逃げ込もうとする。部屋に駆け込み、ドアを閉めようとしたその時。凄まじい力で、ドアが押し返された。祐介が、亡霊のようにすぐそこまで迫っていた。太い腕がドアの隙間に差し込まれ、閉じることができない。二人の間には、ただ細いドアの隙間があるのみ。そのわずかな隙間から覗く、祐介の暗い瞳。まるで底なしの沼のような、冷たい瞳に、背筋が凍りつく。そんな眼差しを浴びる智美の全身がわなないた。額に、背中に、じっとりと冷や汗が噴き出す。汗で張り付いた服が、ひどく不快だった。三年間の結婚生活で、祐介が荒れ狂う姿は何度も見てきた。彼は体の痛みに耐えきれず、感情の制御を失うことがあった。それで智美が理由もなく怒鳴られ、突き飛ばされ、罵られた。けれど、どんなに酷い時でも──最後の一線だけは、守られていたはずだった。彼女を、そこまで深く憎んではいなかった。しかし今日は、違う。祐介の目に宿っているのは、紛れもない殺意。智美にとって、それは初めてのことだ。その殺意は鋭い刃そのもので、彼女の心臓を貫くように向けられ、未曾有の恐怖と絶望を感じさせた。「妻を殺害した夫」というニュースが、不意に脳裏をよぎる。膝が、がくがくと震えて立っていられない。祐介は、ドアの隙間から、じりじりと身体をねじ込んでくる。悲鳴を上げよ

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status