Partager

第2話

Auteur: 清水雪代
祐介はその夜、家に帰らなかった。

けれど智美は彼がどこにいるのか分かっていた。

麻祐子のSNSには、千尋の帰国祝いのパーティーがライブ配信されていた。

祐介は大桐市最大のホテルを貸し切り、一晩中花火を打ち上げたらしい。

美しいシャンパンローズが、会場の隅々まで飾られていた。

彼の友人たちが千尋の帰国を祝い、会場は華やかなムードに包まれていた。

そこは、智美が一度も踏み入れたことのない世界だった。

祐介にとって、彼女はただの世話係。友人に紹介することもなければ、誰かに彼女の存在が知らされることもなかった。

朝食を食べ終わると瑞希から離婚協議書と離婚届が送られてきた。

彼女は名前を書き入れ、テーブルの上に置いた。

そのあと買い物かごを持って家を出た。

契約には、【婚姻中は祐介の生活の面倒を見ること】と明記されている。

だから、彼が家に帰らなくても夕飯はきちんと用意しておかなければならない。

夜8時、祐介が帰宅した。

きちんとスーツを着ていて、どうやら会社で着替えたらしい。

智美が料理を温めようとしたとき、「いい、今からまた出かける」と彼は言い、彼女を見ずに二階へ上がった。

智美は後を追い、彼が風呂場に入るのを確認すると、着替えを用意してドアの横に置いた。

下に戻り食卓の椅子に腰掛け、彼がシャワーから出てくるのを待っていた。離婚について話すつもりだった。

やがて彼は腕時計をつけながら降りてきた。「明日の夜から三日間、羽弥市に出張だ。荷物を準備しておいてくれ」

智美は「うん」とだけ返事をし、テーブルの上の書類を手に取った。

「この書類、見てもらいたいんだけど……」

彼は急いでいる様子で、「君の母さんの治療費の申請か?」とたずねた。

毎月彼女が費用を申請する際は、契約書を用意し、支出明細を添えることになっている。

一番大きな出費は、彼女の母の治療費だった。

彼はすっかり慣れたように書類を開きもせず、最終ページに署名した。

「これでいいだろう。荷物、ちゃんとまとめておいてくれ」

そう言って玄関を開け、出て行った。

智美はその背中を見送りながら、ぼんやりと笑った。

実のところ、母の容体はすでに安定していて、半年以上前から治療費の申請はしていなかった。

けれど彼は、それにすら気づいていなかった。

彼女は離婚協議書と離婚届を近所の郵便局から、瑞希に送った。

瑞希のやり方なら、役所に行かずとも離婚協議書と離婚届は処理できるはず。

ただし、時間は必要だった。

あと1ヶ月、彼女はこの家にいなければならない。

スマホを開くと、麻祐子の投稿が目に入った。

飛行機のチケットの写真とともに、【お兄ちゃんとお姉さんのおかげで、羽弥市で大好きなアーティストのライブに行ける!】と書かれていた。

つまり、祐介の出張は千尋とのコンサート旅行だった。

祐介が出張中、智美も忙しくしていた。

不動産業者を回り、1LDKの部屋を借りた。

瑞希が譲ってくれる予定の別荘は、良い物件だが、勤務地から遠く通勤に不便だ。

管理費も高いため、登記が済んだら売却して手元に資金として残すつもりだった。

母の治療費ももう多くはいらない。

家に戻ると、荷造りを再開した。

クローゼットを見渡すと、そこにある服はすべて、結婚前に自分で持ち込んだものばかりだった。祐介が彼女のために服を買ったことなど一度もない。

逆に彼のために買った服はどれもタグ付きのまま。

彼はいつも決まったブランドしか着なかった。

そのブランドが、千尋のお気に入りだったことを彼の妹から聞かされた。

自分が選んだ服など、彼の眼中になかったのだ。

そんな服は持っていても仕方がないので、すべてネットで安く売りに出した。

3日間で荷造りは完了し、自分の物はすべて新居に送った。

正直、彼が気づくとも思えなかった。

彼は家の中の物に、何一つ関心を持っていないから。

大桐市に戻る前、祐介から電話があった。

「明日、山口家の叔父の葬儀に行く。準備しておいてくれ」

山口家は渡辺家と付き合いの深い名家。

以前、智美も山口家の家族の集まりに同行したことがあった。

だから葬儀にも出席しなければならない。

本当はこういう場は苦手だった。

彼の交友関係の中では、自分などただの異物。

居心地の悪い視線が常に付きまとう。

自分の性格も、人に取り入って好かれるようなタイプではなかった。

でも断る権利はない。

まあ、もうすぐ離婚する。今後はこんな場に行くこともなくなる。

祐介が帰宅しても、家の変化には気づかなかった。

彼の荷物は智美がまとめたので、クローゼットの半分が空いていることも知らない。

「前に着てた服、あまり似合ってなかった。母さんに見てもらったほうがいい」

彼がスマホをさわりながら言った。

「分かった」と彼女は返事した。

彼が服装に口を出すのは、こういう時だけだ。

自分のメンツを保つためで、彼女を気にかけてのことではない。

彼女は瑞希に連絡を入れ、用意してもらった服を受け取った。

サイズもぴったりで、当日の準備は整った。

翌日、彼の車の助手席に乗り込み、山口家の葬儀へ向かった。

助手席でふと違和感を覚え、隙間に指を入れると、小さな黒いヘアピンが出てきた。

誰のものかは、すぐに察しがついた。

千尋が何度もこの席に座ったのだろう。

智美は皮肉めいた笑みを浮かべた。

幸いにも離婚手続き中だ。

でなければ、きっと吐き気がしたに違いない。

葬儀には千尋も姿を現した。

実際に彼女を見るのは、智美にとってこれが初めてだった。

ほっそりとした体に、智美とよく似た黒いドレス。薄化粧が彼女の儚げな美しさを際立たせていた。

まさに無垢な白い花。

彼女は祐介に近づき、「祐介くん」と甘えていた。

智美の存在を意識したのか、腕を組むことはしなかった。

祐介は微笑みを浮かべ、「千尋ちゃん」と呼びかけた。

そして隣の智美を指して言った。「こちらは智美」

彼の言葉に、智美はふと気づいた。

千尋には千尋ちゃんと呼びかけ、自分は智美。

もう気にしていないはずだった。

でも、どこか滑稽に思えた。

そのまま二人の雰囲気を壊すのも嫌で、「お義母さんに挨拶してくる」と告げて、その場を離れた。

祐介は去っていく智美の背中をじっと見つめていた。その表情には、少しだけ不機嫌さがにじんでいた。

それを見た千尋は不安を覚えた。

祐介は、智美のことなんて気にも留めていないんじゃなかったの?

でもあの目は、少しは気にかけているように見えた。

彼女はその不安な気持ちを打ち消そうと、心の中で強く言い聞かせた。

自分と祐介は幼なじみであり、お互いに初恋の相手だ。負けるはずがないと。

Continuez à lire ce livre gratuitement
Scanner le code pour télécharger l'application

Dernier chapitre

  • 無視され続けた妻の再婚に、後悔の涙   第764話

    会議室から他の人間が全員出ていくのを待ち、部屋に智美と心陽の二人だけが残ったとき、智美は静かに、しかしすべてを見透かすような微笑みを浮かべて口を開いた。「陽葵さんを裏で操っていたのは、心陽さんですよね?」心陽はハッと目を見開いた。「……全部、知ってたの?」「その程度の見え透いた手、誰にも通じないですよ」と、智美は事もなげに笑った。スマホのカレンダーを開き、画面を見つめたまま智美は続ける。「山本家の件、来週の金曜日にいよいよ審理が始まりますよね。お舅さんとご主人、それに山本颯――横領や詐欺の罪は重いわよ。あれだけの巨額の損失を今から埋め合わせるのも到底不可能だし、今のタイミングで沈みかけの山本家に手を貸すお人好しなんてどこにもいない。ねえ、このままお義母さんに振り回されて、自分の大切なお金をすべて使い果たすつもり?それとも、山本家とはきっぱり決別して、私と一緒に仕事をする?」智美は、最後にして最大の選択肢を提示した。ここまで言っても心陽が山本家と共倒れになる道を選ぶというなら、もうどうしようもない。心陽は長い間、ギリギリと唇を噛み締めて葛藤した。そして、ようやく絞り出すように口を開いた。「……離婚して、山本家を出るわ。もう、あそこには関わらない」最近になって、心陽は智美の底知れぬ力量をようやく認めるようになっていた。光瑞PRなどすぐに潰れると思っていたのに、智美の手にかかると、嘘のように業績が右肩上がりに伸びているのだ。いつまでも義母の都合のいい道具として搾取され続けるより、智美について仕事に生きるほうがよほど未来があると、心陽はようやく悟ったのだ。「なかなか頭が回るじゃない」と、智美は満足そうに笑った。心陽を引き入れたのは、他でもない彼女の人脈と確かな能力を買ってのことだ。これまでに多少の因縁はあったにせよ、ビジネスの世界に永遠の敵は存在しない。それくらいを呑み込む器は、智美には十分に備わっていた。……決断した心陽の行動は早かった。夫を相手取って即座に離婚を申し立て、実家の力もフルに借りて、あっさりと成立させた。美奈子は汚い言葉で罵倒しながら必死に引き留めようとしたが、まもなく彼女自身も夫と息子とともに警察へ連行されることになり、もはや心陽を構う余裕など完全になくなった。山本家の老当主清

  • 無視され続けた妻の再婚に、後悔の涙   第763話

    それまで悠人は毎日欠かさず智美を迎えに来ていたのに、ここ数日、ぱったりと姿を見せなくなった。それに気づいた心陽は、内心で小躍りした。陽葵の存在が確実に効いているようだ。あとは智美と悠人が喧嘩をして離婚話に発展し、会社どころではなくなった隙を突いて、颯と契約書を交わせばすべて思い通りになる。ところが陽葵のほうは、心陽からその状況を聞かされてすっかり図に乗っていた。心陽に頼まれていたのは、写真をいくつかSNSに投稿して智美を刺激する程度の、ほんの軽い仕事だった。しかし、陽葵はそれでは物足りなくなっていたのだ。業界でふんぞり返っている御曹司連中と比べても、悠人は格が違う。あの極上の男を自分のものにできれば、もう芸能界の誰かに頭を下げる必要など一生なくなる。ちょうど都合のいいことに、岡田家傘下のスポーツブランドが新商品発表会を開催し、悠人も登壇することになっていた。陽葵は、その絶好の機会を利用することにした。当日の発表会にはメディアや記者、そして多くのファンが詰めかけていた。悠人がステージに登壇しようとしたその瞬間を見計らい、陽葵はわざとらしくよろめきながら近づき、そのまま彼の胸元へ倒れ込もうとした。記者のカメラに収められれば、立派なスキャンダルの出来上がりだ。しかし、悠人はわずかな隙すら与えなかった。陽葵が倒れかかる寸前、彼はすでに横へ二、三歩下がって身をかわしていた。場数を踏んでいる秘書も素早く前に立ち塞がり、見事な壁を作った。完全に行き場を失った陽葵は、無様に床へ手をついた。悠人は冷たく眉をひそめただけで、彼女に見向きもせずステージへ登っていった。発表会が終わると、悠人はブランドの責任者を呼びつけて冷徹に言い放った。「スポーツブランドのアンバサダーが、あんなに貧弱では何の説得力もない。すぐに契約打ち切りを勧める」責任者の耳には、先ほどの騒動がすでに入っていた。陽葵が所属するグループが上昇気流に乗っており、明るく健全なイメージがブランドの方針と合致すると判断して起用したのだが、彼女がこれほど愚かな真似をしでかすとは夢にも思っていなかった。その後、責任者は陽葵の所属事務所に強い圧力をかけ、一方的に契約を解除した。事務所としても、岡田家という最大手のクライアントを怒らせるわけにはいかず、

  • 無視され続けた妻の再婚に、後悔の涙   第762話

    明日香は二人の男の子の顔を静かに眺めてから、曖昧に微笑んで話題を変えた。その大奥様が立ち去ると、明日香はお茶を一口飲んで気持ちを落ち着け、再び智美の耳元でそっとささやいた。「さっきのお孫さんたち、ご主人にそっくりで……詩乃と『幼馴染からの旦那様育成計画』なんて、お門違いもいいところよ」姑が「育成系」なんて今時の言葉を知っているとは思わず、智美は今度こそ吹き出さないよう、笑いをこらえるのに必死だった。明日香はすぐに他の方々に呼ばれて席を立った。一人になった智美が静かにお茶をすすっていると、そこへ見知らぬ若い女性が近づいてきた。「光瑞PRの社長さんですか?」振り返ると、愛らしい顔立ちの女の子が立っていた。智美は小さく頷く。「ええ、そうです」「はじめまして、椎名陽葵といいます。芸能活動をしています」陽葵は愛想の良い笑顔で続けた。「実は最近ちょっと困ったことがあって、PR会社さんにお力添えいただけないかと思って……こんな細々とした依頼で恐縮なのですが」「いえ、そんなことないですよ」陽葵はほっとしたような顔つきになり、抱えている悩みを打ち明けはじめた。そして、顔色をうかがうように恐る恐る尋ねた。「それって、簡単なこと……なんですよね?」話を聞いてみると、競合相手に根も葉もない噂を流されているというだけで、対処は決して難しくなかった。ステマ用のアカウントをいくつか動かせば、簡単に世間の流れを作れる。智美はその場で依頼を引き受けた。喜んだ陽葵が、ラインを交換しましょうと無邪気に提案してきた。智美が連絡先を交換すると、陽葵は今度は一緒に写真を撮りたいとねだった。二人で並んでセルフィーを撮り終えると、陽葵はにっこりと礼を言って去っていった。智美はその出来事を、特に気にも留めていなかった。しかしその夜、家に帰ってから何気なくSNSを開くと、陽葵が二人の写真を投稿しているのに気づいた。少しの好奇心から陽葵の過去の投稿を遡ってみると、奇妙な写真が二枚、目に留まった。一枚は、先日の食事会で撮られたらしいセルフィー。その背景の少し離れた場所に、端正な横顔の男性が写り込んでいた――悠人だ。もう一枚は、病院で点滴を打っている写真。そこには、隣で電話をかけている男性が偶然を装ってフレームに入り込んでいた――悠人の秘書だ。

  • 無視され続けた妻の再婚に、後悔の涙   第761話

    陽葵はこれまでにも女優として活動してきたが、巡ってくるのは五番手や六番手といった端役ばかりだった。それゆえ、ヒロインに次ぐ重要なポジションである二番手の役が取れると聞かされても、すぐには信じられなかった。「山本家はいくつかの映像制作に出資していて、業界には顔が利くのよ。二番手の役なんて、取ってくるのは造作もないわ。信じられないというなら、契約書を交わしましょうか」そこまで言い切られては、陽葵の心も動かざるを得なかった。……火曜日の夜、悠人は友人の飲み会に招かれていた。10分ばかり顔を出して挨拶だけ済ませ、すぐに智美の待つ家へ帰るつもりだった。ところが主催者があまりに熱心で、なかなかその場を抜け出せない。そこへ、必死に謝る声と、微かなすすり泣きが聞こえてきた。涙を浮かべた若い女性が、足元をおぼつかせながら、こちらへ倒れ込んでくる。悠人は微動だにしなかった。代わりに秘書がすかさず前へ立ちはだかり、倒れ込んできた女性を危なげなく受け止める。悠人は冷めた目で一瞥しただけで、表情ひとつ変えなかった。正直なところ、この手の見え透いた手口はこれまでに何度も見てきた。今さら驚くようなことでもない。若い女性が儚げに振る舞って同情を買い、男に拾ってもらおうとする――他の男ならそれで心を動かされるかもしれないが、悠人にはまったく通じなかった。案の定、相手は悠人を目当てに近づいてきたのだ。秘書に遮られながらも、陽葵はあからさまに悠人を見上げ、可哀想な泣き顔を作って訴えかけた。「岡田社長、さっき飲み物を小原(おばら)社長にかけてしまって、罰ゲームで一気飲みさせられそうで……もう限界なんです、どうか助けていただけませんか?」悠人はまともに取り合わず、隣にいる友人に静かに告げた。「すまない、家族のところへ帰らないといけない。今日はここで失礼するよ」友人も、悠人が決してこういう手に乗らない性格だと熟知していたため、苦笑いしながら頷いた。「分かった。またの機会にな」陽葵には一瞥もくれず、悠人は秘書を引き連れて足早に出ていった。地下駐車場から車が滑り出たとき、さっきの女性が物陰から飛び出してきて、車のすぐそばで派手に転んだ。運転手が慌てて急ブレーキを踏む。それでも悠人は車を降りず、秘書に様子を確認させた。戻ってきた秘書が淡々と

  • 無視され続けた妻の再婚に、後悔の涙   第760話

    「山本家の人間が、そう簡単に諦めるとは思えないな」と、悠人が静かな声で言った。「分かっているわ。でも、彼らの好きにはさせない」帰り道、後部座席で身体を休めながら、智美は保坂にメッセージを送った。【今日は先に知らせてくれて本当にありがとう。おかげでぎりぎり間に合ったわ。お礼と言ってはなんだけれど、近日開催される芸術展のVIPチケットが二枚あるの。よかったらあげるわ】そう打って、入手困難な電子チケットのデータを添付して送る。それを受信した保坂は、スマホの画面を見た瞬間、驚きで目を輝かせた。その芸術展のチケットは、彼女がずっと手を尽くしていたにもかかわらず、どうしても入手できなかったプラチナチケットだったのだ。各界の著名な人物が多く集まる展覧会で、単に顔を繋げるだけでなく、ダイレクトに大型のビジネスに繋がる可能性が極めて高い。うまくいけば、彼女個人の年間の業績が倍に跳ね上がるかもしれないほどの価値がある。いくら手柄を立てたとはいえ、これほど太っ腹な見返りを贈ってもらえるとは夢にも思っていなかった。興奮冷めやらぬまま、すぐに返信を打つ。【岡田社長、本当にありがとうございます!お美しいだけでなく、お人柄まで素晴らしい方ですね!一生ついていきます!】画面越しの熱狂を前に、智美はただ薄く微笑んで、何も返さなかった。二人とも、立場は違えどよく分かっている。言葉には出さなくても、今日という日を境に、二人は完全に運命共同体となったのだ。……思惑通りにいかなかったと報告を受けた美奈子は、またしても心陽を呼び出し、激しい剣幕で文句を並べ立てた。心陽はひたすら頭を下げながら、内心では心底辟易していた。自分なりに精一杯、与えられた手札でやったのだ。それでも智美があれほどまでに抜け目なく立ち回るのなら、どうしようもないではないか。たっぷり二時間、反論の口を挟む隙も与えられず、ただひたすらに叱責され続けた。だが、山本家が本当に傾き、没落していくのを黙って見ているわけにもいかない。自分と子どもの将来のためにも、山本家の財産と地位はなんとしてでも守り抜かなければならないのだ。ひとしきり怒鳴り散らして息をついた美奈子は、冷めたコーヒーを一口飲み、少しだけ落ち着きを取り戻した声で言った。「あの一介の小娘に過ぎなかった智美が、そこまで鋭

  • 無視され続けた妻の再婚に、後悔の涙   第759話

    心陽が圧倒されてひるんだ一瞬の隙を突き、智美は強引にパソコンを開いた。慌てて止めに入ろうとした心陽を、背後に控えていた保坂がさりげない身のこなしで体ごと遮る。智美は素早く、画面上の文面を流し読みした。――やはり、山本家の案件だった。しかも、心陽が独断で設定している請求報酬は、相場から見てもかなりの高額だ。もしこの契約を通してしまえば、光瑞は山本家の資金繰りに深く組み込まれ、完全に縁が切れなくなってしまう。顔から冷ややかな笑みさえも消え去った智美は、心陽を容赦なく問い詰めた。「これほどの重要な案件を、なぜ共同オーナーである私に事前に相談しなかったの?それに以前、山本家と岡田家に関連する案件は一切扱わないと明言したはずよ。そんなに早くお忘れになったのかしら?」心陽はまだ見苦しい言い訳を探していた。「そんなに大げさに言わなくていいじゃない。どうせ身内の取引なんだから、山本家のお金を稼いで何が悪いのよ」智美は冷ややかに鼻で笑い、颯のほうへ向き直った。「今後はこちらにいらっしゃらなくてけっこうです。この案件は、会社として正式にお断りいたします。たとえ心陽さんが個人の権限でサインをしたとしても、それは無効になります。会社設立前の合意書に明記してあります通り、当社は山本家・岡田家との取引は一切お断りすることになっておりますので」颯は不安げに、隣の心陽へ視線を向けた。心陽が智美をまったく抑えきれていない現状を目の当たりにした颯は、焦りと苛立ちを隠せなかった。彼にとっても、このまま手ぶらで引き下がるわけにはいかないのだ。山本家が傾けば、自分も容赦なく道連れになる。悠人の妻だからといって、怯むつもりはない。どんな手を使っても、今日の用件を成し遂げてみせる。「同じ一族じゃないですか。ずいぶんと冷酷なんですね。山本家と組まないということは、我々のことを見下しているということですか?」怒りに任せて一歩踏み出した颯の手は、しかし智美の身体に触れるよりも早く、長く骨張った力強い手にがっちりと掴み止められた。驚いて振り返った颯の目に映ったのは、氷のように冷徹な悠人の眼差しだった。「――俺が死んだとでも思っているのか?夫である俺の目の前で、妻を脅し、あまつさえ殴ろうとするとはな」颯は、本物の権力者である悠人を前にして、完全に気後

  • 無視され続けた妻の再婚に、後悔の涙   第426話

    その言葉を聞いた千夏は、頭を殴られたように呆然とした。今日の薬膳料理は、すべて智美の好物だったのか?つまり明日香は、本当に智美を受け入れたというのか?ありえない……!智美は自分より条件が悪いし、しかもバツイチなのに、明日香がどうして彼女を受け入れられるの?千夏は内心で悔しげに歯噛みした。美穂が智美に向き直る。「お義母さん、あなたが来ると知って何日も前から喜んでたのよ。今日のメニューも何度も変更して、すごく心を砕いたんだから」智美は感動して明日香を見つめた。明日香は照れくさそうに手を振る。「たいしたことしてないわよ。この料理はシェフが作ったものだし」食事が終わ

  • 無視され続けた妻の再婚に、後悔の涙   第436話

    「……もしママが良くならなかったら、僕が弟を守らないと。ママはきっとそうしてほしいって思ってるって分かるんだ」智美は思わず目頭が熱くなった。拓真は本当に聞き分けがいい。聞き分けが良すぎる子どもは、いつも大人を胸が痛くなるほど心配させる。彼女は思わず拓真を抱きしめた。「まだ子どもよ。弟の世話は、大人たちに任せていいのよ」拓真が智美の腕の中で首を振る。「ダメなんだ。僕は岡田家の長孫だから、将来岡田家を支えなきゃいけない。後ろに引けないんだ」拓真はとても賢い。年は若いが、自分が将来何を背負わなければならないか、痛いほど理解しているのだ。智美は心の中で深いため息をついた。岡

  • 無視され続けた妻の再婚に、後悔の涙   第411話

    礼央は咄嗟に智美を助けようと前へ出たが、智美はその隙を与えなかった。日頃から体を鍛えている彼女にとって、この程度の平手打ちをかわすのは造作もないことだ。軽やかに身を引くと、紗凪の手は空を切った。さらに追撃しようとした紗凪の手首を、礼央がガシッと掴む。紗凪は怒りに満ちた目で礼央を睨みつけた。「お兄さん、なんなの!?どうしてこの女を庇うわけ?こいつ、私のものを奪おうとしてるのよ。思い知らせて何が悪いの?」礼央が不機嫌そうに言い返す。「奪うも何も、このフロアは元々彼女に貸す予定だったんだ!お前こそ今日は何しに来たんだ、邪魔しに来たのか?」せっかくこの件をきっかけに智美に近づけ

  • 無視され続けた妻の再婚に、後悔の涙   第418話

    「若様の容姿も悪くはありませんが、残念ながら海知市のエリート容姿ランキングには、名前すら載っていないようですね」礼央は明敏に淡々と事実を突きつけられ、無性に腹が立ってきた。「おい、俺はそこまで酷くないだろ!」明敏は彼の怒りを全く意に介さず、スマホを閉じてプロフェッショナルな笑顔で答えた。「事実を述べているだけです。それに、これらの評価はすべて客観的なデータに基づいています。若様が受け入れられないのであれば、精神修行をお勧めします。それから、今後はご自身を正しく評価していただきたい。現代における男性の魅力ランキングの基準は、家柄と財産だけではありません。今年の女性による男

Plus de chapitres
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status