LOGIN「なんて顔してんの」
「だって、私から聞きたくて聞いたのに、なんだか嫉妬しちゃって……。紅玲は、助教授に恋愛感情を抱いてなかったって知ってるのに……」 千聖は紅玲から目を逸らした。 「嫉妬してくれるのは、嬉しいよ。だって、それだけオレのこと愛してくれてるんでしょ?」 紅玲は言い終えると、千聖を自分の方に向かせてキスをした。 「あなたって、本当に変わってるわ」 千聖は自分の唇に触れながら、小さく笑う。 「褒め言葉として受け取っておくよ。そうだ、チサちゃんがずっと知りたがってたこと、教えたげる」 「私が知りたがってたことって?」 思考を巡らせるもなんのことが分からず、千聖は首を傾げる。 「オレがどうしてチサちゃんを好きになったのか」 紅玲の言葉に、千聖は目を丸くする。それは千聖が紅玲に苦手意識を持っていた時の疑問だ。 「あの時は、好きになるのに理由なんかない、とか言ってたわよね?」 「もちろんそれは嘘じゃないよ。でもね、チサちゃんを好きになった理由は一応いくつかあるんだよね」 「それは是非とも聞きたいわ」 千聖は紅玲の腕に抱きつき、彼を見上げた。 「まずは純粋に一目惚れ。次に、オレに冷たい態度とったこと」 「わけが分からないんだけど……」 千聖が呆れ返ると、紅玲は小さく笑った。 「実は大学でさ、名前と顔はほとんど覚えてないけど、占いサークルの部長に『アンタの運命の人は、アンタを嫌ってる人かもね』って言われたんだよ。なんかその言葉が忘れらんなくて」 「顔も名前も覚えてない人の言葉を信じたわけ?」 「なんか納得しちゃったんだよね。チサちゃんも知ってるでしょ? オレに言い寄ってくるのは、金目当てか、頭のおかしい子だけだったって」 紅玲の言葉に、千聖は顔をしかめる。紅玲の歴代の恋人は全員金目当てで、金をもらったら彼をボロ雑巾のように捨てた。紅玲に好意を寄せる女性もいたが、彼女達は自分が紅玲の恋人だと思い込み、他の女性や紅玲の親友である斗真に危害を与えたりと酷かった。 千聖はそれを斗真と、紅玲本人から聞かされている。「そうだったら嬉しいね。チサちゃんが俺に染まってるってことでしょ?」「もう、すぐ恥ずかしいこと言う……。はやくまとめて、今日はもう休みましょう」千聖は頬を染めながら、手を動かす。「照れちゃって、可愛いんだから」紅玲は千聖の近くに置いてある着替えを取るついでに、彼女の頬にキスをする。「なにするのよ……」「ただの愛情表現だよ」千聖はなにか言い返そうとしたが、いつもの余裕たっぷりの笑顔を見てやめた。ふたりは時折こうしてじゃれ合いながら荷物をまとめると、風呂と夕食を済ませて眠った。翌朝、ふたりは荷物の最終確認をする。「パスポートに、海外旅行保険証。証明写真と空港券。ちゃんとある?」「うん、あるよ」千聖はスマホを片手に、必要な荷物を読み上げていく。「現金にクレジットカード。セキュリティポーチでしょ。あと、歯磨きセットとトイレットペーパーにタオル」「あるよ」「くし、石鹸、シャンプーとコンディショナーは?」「えーっと、あぁ、あった」紅玲はがさごそと奥の荷物を漁りながら確認する。「粉末ポカリと薬」「風邪薬、酔い止め、痛み止めがあるよ」「日焼け止め、下着、靴下、着替え。あとパジャマね」「あぁ、ケースの大半を占領してるよ」「充電器、カメラ、海外用電源プラグ変換アダプター。筆記用具と使い捨てスリッパ」「うん、あるよ」「トラベル枕と紙製便座シート、ペットボトルのお水。これで確認はおしまいよ。全部あった?」千聖は顔を上げて紅玲に聞く。「うん、あった」「それならよかったわ」「ドレスやタキシードは向こうに送ってあるしね」紅玲の言葉に、胸が高鳴る。「いよいよね……」「そうだね。もう少ししたらタクシー来ちゃうから、はやくまとめなきゃ」ふたりは荷物をまとめ直すと、家から出た。タイミングよくタクシーがふたりの前に停まった。千聖は海の向こうで行われるふたりきりの結婚式に期待で胸を膨らませながら、タクシーに乗り込んだ。
椅子の座り心地のよさと薄暗さで眠くなって来た頃、ブザーが鳴り、満天の星空が広がる。柔らかな女性ナレーターの声が語るのは、オリオン座とさそり座の物語。ポセイドンの息子であるオリオンは優れた狩人としてその名を馳せ、月の女神アルテミスと恋に落ちる。オリオンは自分の腕前に慢心し、横暴を極めた。そんな彼に立腹した女神ヘラは、1匹の大サソリを地上に遣わす。さすがのオリオンもサソリの猛毒にはかなわず、息絶えてしまう。大サソリはその功績を讃えられ、星座にされた。オリオンの死を悼んだアルテミスが彼を天に昇らせて星座にしたが、星座になっても大サソリが怖く、さそり座が出ている時期は地平線の下に逃げ隠れているという話だ。上映が終わると、ふたりは起き上がって伸びをする。「大丈夫? 怖くなかった?」紅玲は気遣わしげに千聖の顔をのぞき込む。「あなたが手を握ってくれてたから平気よ。むしろ面白いくらいだわ」千聖は無邪気に笑った。「それならよかった。じゃあまた来ようか」「えぇ、そうね。また来たいわ」満足したふたりは、肩を並べてプラネタリウムを後にした。ふたりは帰宅すると、キャリーケースを引っ張り出して荷物を詰め始める。「本当はもっと前もってやるべきだったんだろうね」「まぁいいんじゃない? 出発は明日の午後だし、午前中に最終確認できるんだから」苦笑する紅玲に、千聖はのんびりした口調で答えた。「なんかチサちゃん変わったよね。付き合う前よりおおらかになった気がする」「そうかしら?」「そうだよ。前だったら1週間前にはリスト作って、2、3日前から荷造り始めてもおかしくなかったよ」紅玲に言われてなんとなく納得する。「確かにそうかもしれないわね。会社も辞めたし、紅玲と一緒にいられて充実してるから、心の余裕が出来たもの。それに、完璧主義者でなくなってきてる気がするわ」「それはいいことだね」「あなたのおかげよ」千聖が笑顔を向けると、紅玲は口元に弧を描く。
「もう大人になったし、紅玲と一緒なら楽しめると思ったの」「それは嬉しいね。あ、ついたみたいだよ。あの建物だね」紅玲は屋根がドーム状になっている建物を指さす。「どんな内容なのかしら?」「それは入ってからのお楽しみじゃない?」ふたりは建物の中に入った。受付でチケットを買うと、すぐに館内へ案内された案内された。広々とした館内は客が少なく、席のほとんどが空いている。「幸い指定席じゃないからね。観やすいところ行こっか」「プラネタリウムの観やすいところって?」「後ろ中央の、なおかつ機体から離れた場所らしいよ」「詳しいのね」紅玲の博識ぶりに、千聖は感心する。「プラネタリウムの場所調べるついでに調べただけだよ。えっと……、ここらへんかな?」紅玲は千聖の手を引いて、後ろから2番目にある中央の席に座った。ふたりの周りに座っている人はおらず、千聖はふたりきりで楽しめると密かに喜んだ。なんとなく天井を見ると、館内での注意事項が浮かび上がっている。その中にスマホの電源を切るように書いてあったので、千聖はすぐにスマホの電源を切る。紅玲もそれに気づき、電源を切った。「こうやってスマホ切ってる時間って、落ち着く。何にも縛られずにじっくり集中できる時間って、結構貴重だと思うんだ」「よく言うわよ。執筆し始めたらスマホが鳴っても気づかないくせに」ふたりが同棲する少し前、千聖がいくら電話をかけても、紅玲が出ないことがあった。後に執筆に集中しすぎてスマホが鳴っていたことにすら気づいてなかったと聞かされたのだ。「あの時は……、筆が乗ってたんだよ……」紅玲がバツが悪そうに言うと、上映まで5分のアナウンスが流れた。「ほら、あと5分だって。楽しみだね」紅玲は千聖の手を握り、椅子を倒す。「ふふっ、えぇ、楽しみね」彼らしくない子供じみた逃げ方を愛おしく思いながら、千聖も椅子を倒して上映時間を待った。
「それで、チサちゃんの行きたいところ決まった?」「決まったには決まったけど、やってるかしら?」千聖は困り顔で紅玲を見上げる。「どこに行きたいの?」「プラネタリウムよ」「ちょっと待ってて」紅玲はスマホを出して調べ物をする。「今から駅に行って、10分歩いたところにあるみたいだよ。次の上映時間は、オレ達がついて10分くらいしてからだから、少し余裕があるね。さっそく行こうか」「そこまで調べられるなんて……」「今の地図アプリは便利だからねぇ」紅玲は千聖の手を握ると、駅に向かって歩き出した。千聖は紅玲の手を握り返し、彼に寄り添いながら歩く。駅に着くと、紅玲は戸惑うことなく改札を通ってホームへ行く。「電車は2、3分で来るはずだよ」「電子版も見てないのに、よく分かるわね」千聖はちらりと電子版を見ながら言う。紅玲の言う通り、あと3分で電車が来ることになっている。「チサちゃんと同棲する前は、色んなところに食べに行ってたからねぇ。大まかに覚えちゃった」「本当に頭がいいのね……」本人も以前地頭がいいと言っていたが、まさかここまでとは思ってもみなかった。時間になると電車が来て、ふたりは乗車する。利用客は少なく、席がたくさん空いている。ふたりが座ると、電車は動き出した。「1駅で降りるからね」「結構近いのね」てっきりもう少しかかると思っていた千聖は、少し拍子抜けした。電車が駅に停車すると、少し寂れたホームに降り立つ。紅玲は地図アプリを起動させ、駅から出る。「ところで、どうしてプラネタリウムに行きたいって思ったの?」「最後にプラネタリウムを観たのって、小学5年生の時なんだけど、海洋生物の星座神話についてやってたのよ。内容はあまり覚えてなかったけど怖くて、それ以来観に行こうと思わなかったわ。怖かったけど、星がとても綺麗だったことも覚えてたのよ」「あぁ、星座神話のイルカとか全然可愛くなかったからねぇ……。それに残酷な話も結構あるし、そのへんは小学生からしたら怖いかもね」紅玲は納得したように頷いた。
その後男性は女性の墓参りをしたあと、彼岸花畑で服毒自殺を図るも失敗。彼女の墓を管理する寺で目が覚める。悪友と住職と話して女性の真相を知り、誰とも恋をせずに生きていくことを密かに誓う。そんな話だった。読み終えた千聖は、複雑な気持ちで本を閉じる。「ふぅ……。あ、チサちゃんも読み終わったの?」満足げに本を閉じた紅玲は、にこやかに千聖を見る。「えぇ、読み終わったんだけど後味悪い話だったわ。主人公の男性は恋人がお嬢様だと知った途端一方的に別れて、女性は自殺しちゃうの」「それは悲しい話だね……。その男性は金持ちが嫌いだったとか?」千聖は静かに首を振る。「いいえ、女性の愛が重すぎると思っていたんですって。それに、女性には勝手に決められた婚約者がいたんだけど、その婚約者や義理のお母さんから逃げるにしても、逃げる資金も外国に逃げる度胸もないからって、理由を並べ立ててたわ。ひどい話よ」「愛だけじゃどうにもならないって話?」「それもあるんでしょうね、たぶん。最後に男性が美談にまとめて、その女性以外のことは好きにならず、幸せに暮らしていきたい、みたいな終わり方だったのが気に入らないのよ」千聖の話を聞き終えると、紅玲は腕を組んで唸る。「本を読んでないからなんとも言えないけど、ほかの女性を好きにならないって言うくらいだから、大きな幸せは手に入らないんじゃないかな? それでも小さな幸せは許してくれってことじゃない?」「うーん、たぶんそんな話、なのかしら?」「その本、あとで読んでみるよ」紅玲はテーブルのすみにあるボールペンでしおりになにか書き込むと、徒花にしおりを挟んだ。「じゃあ私は、次ここに来た時はその本を読もうかしら」千聖は“綾瀬”と書くとすぐに塗りつぶし、“鈴宮千聖”と書き直した。「さっそく苗字書いてくれたんだ、嬉しいな」紅玲は本を差し出しながら言う。ふたりは自分が読んでいた本を本棚に戻すと、会計を済ませて店を出た。
「チサちゃんはなに読んでるの?」紅玲はエスプレッソをひと口飲むと、千聖の手元に目をやる。「なんて読むか分からないのよ」千聖はしおりを挟むと、紅玲の前に本を置いた。「これは“あだばな”って読むんじゃないかな」「どういう意味なの?」「むだばなとも読むんだけど、言葉の通りだね。普通植物って、種が残るものでしょ? でも徒花は種を残さず、枯れたらおしまい。表紙になってる彼岸花もそうなんだよ」「悲しい花ね……」本を返してもらうと、千聖は表紙の彼岸花にそっと触れてから、再び本を開いた。男性は祭りで女性を介抱して羽織を貸すも、持病のぜんそくでかかりつけの診療所に運ばれてしまう。1日だけ入院し、退院すると女性が羽織を返しに来る。ふたりは交際して幸せな日々を送るが、女性は自分の素性をまったく明かさない。(どうしてこの子は、自分のことを話さないのかしら?)不思議に思っていると、いちごのパンケーキが運ばれてきた。写真で見るよりもボリューミーなパンケーキは、ご丁寧に2等分されている。「とりわけ皿はこちらです」店主は2枚の皿を置いてくれた。「丁寧な人だね」紅玲はパンケーキをとりわけ皿にうつしながら言う。「えぇ、そうね。とても感じのいい方だわ」「はい、どうぞ」紅玲はいちごを振り分け終えると、千聖の前にパンケーキを置く。「ありがとう」さっそくひと口サイズにカットにて頬張ると、ふんわりしっとりした生地に頬が緩む。卵の風味といちごの酸味は相性バツグンだ。「美味しい……」「素晴らしい読書の友だね」ふたりは時折パンケーキを食べながら、読書を楽しむ。千聖が読み進めている徒花は、不穏な空気になってきた。性格の悪そうな中年女性と議員が現れたことによって、女性が名家のお嬢様だと知る。そして彼女の義母である中年女性は、娘はこの議員と婚約するから別れてほしいと手切れ金を渡す。男性は手切れ金を突っぱねるが、女性と別れると言う。男性は一方的に別れを告げ、女性は自害してしまうのだ。