Masuk彼らが入口として用いた通路は、その祭壇が設けられた壁面の、右隅の一角にある。正規の扉から入ると祭壇の死角になってほぼ分からない位置。
そこには、建物が古くなったためにちょうど子供一人が通り抜けられるぐらいの隙間が出来ていた。壁板が緩んで、簡単に取り外せるようになっているのだ。 堂内を、ぐるりと取り巻くように張り巡らされた彼らが入口として用いた通路は、その祭壇が設けられた壁面の、右隅の一角にある。正規の扉から入ると祭壇の死角になってほぼ分からない位置。 そこには、建物が古くなったためにちょうど子供一人が通り抜けられるぐらいの隙間が出来ていた。壁板が緩んで、簡単に取り外せるようになっているのだ。 堂内を、ぐるりと取り巻くように張り巡らされた注連縄には、人が三人連結したような形状の紙が沢山取り付けられている。これは魔の侵入を防ぐために用いられるヒナゴ幣と呼ばれるものなのだが、子供の目には不気味な人形にしか映らない。 気丈な性格の彩音だが、さすがに薄暗い堂内で、こんなものに囲まれていることを実感すると、一人にされるのが怖くなったらしい。「おにぃちゃん、まって!」 半ば悲鳴に近い声でそう叫ぶと、一目散に兄の背中を追った。「きゃっ!」 途端、近くにあった玉を踏んづけて転んでしまう。「彩音!?」 驚いたのは帝太郎だ。 彩音の悲鳴と同時に、一瞬にして堂内全ての灯火が消し飛び、辺り一面闇に包まれたのだから! 視界を奪われた闇の中、四方を取り巻く注連縄が激しい音を立てて千切れ飛ぶ気配が伝わってくる。と、間も無く辺り一面に生臭い臭気が漂い始めた。「彩音!」 叫ぶ声も、異様な空気に押し包まれてくぐもってしまう。「……おにぃちゃっ……!」 どこかで彩音が呼ぶ声が聞こえるが、その声はとても遠く、一体どこから発せられているものなのか、皆目見当もつかない。 その間にも周囲の空気は刻一刻と生臭さを増していく。 身体にまとわりつくようなねっとりと生暖かいその臭気に、意識が遠のきそうになった時、帝太郎は自分の周りを見えない何かが覆い始めるのを感じた。(……玉……?) 巾着の中から溢れてくるその〝気〟は、まるで帝太郎を守るかのように彼の周囲に見えない壁を作っていく。 帝太郎には分かる。 その結界が、微量な力しか有しておらず、自分の周りをカバーするので精一杯だということが。「彩音……っ!」 自分の周囲には防護壁が出来た
一人でここに入った時は、その振動の秘密が知りたくて、ついつい長居をしてしまう。でも、今日は別。彩音が一緒なのだ。 何だか嫌な予感がする。模糊とした胸騒ぎが広がって、帝太郎は一刻も早くここを出たいという衝動が抑えられなくなった。「……今はいったばっかりじゃん! それに彩音の服、まだびしょびしょだよ?」 言いながら彩音が水を含んで重く貼り付いたスカートの裾を摘み上げて見せる。そうしてもらうまでもなく、床に出来た水滴の染みを見ればそんなこと、一目瞭然なのだ。「いいから! 怒られそうになったらお兄ちゃんがかばってあげる! だから出よう!」 この吐き気をもよおす居心地の悪さに比べれば、びしょ濡れで帰って怒られるのなんて、大した問題じゃない。 普段、帝太郎がこんなに声を荒げることは滅多にない。彩音がどんなに我侭を言っても大抵のことは通してやるのだ。「……おにぃちゃん?」 相当険しい顔つきをしていたのだろう。恐る恐るそう呼び掛けながら、彩音が伺うように顔を覗き込んでくる。「……ごめん、大声出して。でも……何だか嫌な感じがするんだ。だから――」 今までも、この直感のお陰でかなり助けられてきた。 帝太郎自身は気付いていなかったが、これこそが彼の類稀なる霊力の片鱗、玉封師としての資質に富んでいる証拠なのだ。裏を返せば、それに従わなければ何か良くないことが起こるのは必至ということで――。「……やくそくだよ?」「?」「彩音が怒られそうになったらかばってくれるってやつ! パパってば彩音にばっかりうるさくするんだもん!」 それは、お転婆な彩音に、女の子らしくなって欲しいと願う隆親の親心だったりするのだが、彩音にとっては鬱陶しいだけのようだ。「うん、約束する」 ふんっ!と鼻息も荒く言い捨てる彩音に、帝太郎が優しく微笑みかける。「じゃ、行こうか」 そうと決まれば長居は無用。言うが早いか、妹に背を向けると帝太郎は出口に向かって歩き出した。 先刻、ここに侵入する際用いた入口は、実は【御霊屋】の扁額のすぐ下のあの扉ではない。 家の敷地内にある建物である
身体に重く張り付いた衣服に、気分まで滅入ってしまう。 「そろそろ帰ろっか?」 大事な妹に、風邪でもひかせてしまってはことだ。 帝太郎がそう思って優しく問いかけると、間髪入れずに抗議の声が上がる。 「イヤ! このまま帰ったらぜったいにおこられちゃうもん!」 確かにその通り。 いつも温和な母はともかく、厳格な父と口うるさいお手伝いさんはそう簡単に許してはくれないだろう。 「少しだけどこかで乾かしてから帰ったほうがいいかな……」 絶え間なく雨粒を降り注がせる天空を仰ぎ見ながら呟く。 「彩音、いい場所おもいついた!」 「どこ?」 帝太郎の言葉に、彩音が瞳を輝かせながら提案する。 「お家のはなれにあるお堂!」 そこは帝太郎もよく知っている。時々一人でこっそり忍び込んでいるからだ。 「でもあそこは……」 入ると首にさげた巾着の玉が、何だか妙な感じになる。それが気になってつい何度も出入りしてしまっているのだが、実のところ入ってはいけない、と両親から止められているのだ。 「彩音、おにぃちゃんがあそこにはいるの、みたことあるもん! ホントははいっちゃダメなんでしょ?」 「うっ……」 彩音には年の割におしゃまなところがある。当然口のほうもかなり達者なわけで――。帝太郎が言葉に詰まったのを見て取って、更なる追い討ちをかけてきた。 「今日、彩音をあそこにつれていってくれたら、パパたちにはナイショにしといてあげる」 その言葉が、言外に含む意味を汲み取れない帝太郎ではない。 これ見よがしにはぁ~っと大きく溜め息をつくと、渋々うなずく。 「やったぁ! おにぃちゃん、大スキ!」 満面の笑みを浮かべて飛びついてくる妹に、ただただ苦笑の帝太郎であった。 「わぁ、すごぉーい!」
「瑠璃、子供たちの姿が見当たらんようだが」 薄暗い部屋の中から、逞しい体躯の男が姿を現す。落ち着いた声音に見合う、厳格な面持ちの美丈夫だった。 声が発せられるまで彼の気配が感じられなかったのは、何も勝色の単姿のためばかりではないだろう。 三十代そこそことは思えない重厚な雰囲気を帯びた彼の胸元には、首からさげた小さな巾着袋。着物との色合を考えてか、黒の生地で作られたそれは、違和感なく単に馴染んでいる。 この男こそが現二条院家の長、隆親である。 縁側に佇む女性に近付きながらそう告げると、雨に煙る庭の一角を見つめていた視線がゆっくりと振り返った。 海老茶色の小紋姿のよく似合うその人は、艶やかな黒髪を日本髪に結い上げていた。それが少しほつれたようにうなじを流れる様も、どことなく彼女を色めかせている。年の頃は二十代半ばといったところ。 「あら、そういえば……」 今気付いたというようにおっとりと微笑む。 「……気付いていなかったのか?」 「……ええ。もう半時ばかりぼんやりと紫陽花を眺めていたものですから」 のほほんとした口調に、いつものことながらいささか脱力してしまった隆親である。 「帝太郎ももう六つですし、妹の面倒くらい一人で見られますわ」 「そうだな」 穏やかに告げられた言葉に、思わずうなずいてしまう。 いつも自分のほうがしっかりしているつもりで、瑠璃ののんびりとした雰囲気に支えられている気がする。 「……だがな、それにしたって彩音は女の子だ。いつまでもあの調子では困りものだろう?」 雨のせいでか、縁側の天井でさえ薄暗い。それを仰ぎ見るようにして、隆親が溜め息混じりに呟く。 「あの子のお転婆は私譲りですもの。もう二、三年もすれば自然と落ち着きます」 柔和な笑みを浮かべる瑠璃に、隆親が眉根を寄せて呟く。 「お前似だから二、三年では落ち着かんのでは?と心配しているんだ……」 好きな異性でも出来て、その男に女性らしく見られたいと思わない限りは。 幼い頃の妻によく似た娘の性格を思うと、先が思い遣られてならない隆親である。 梅雨の長雨に煽られて、気分が一層滅入ってしまう。 庭の片隅で咲き誇る紫陽花
「……いや、久し振りだったから何となく懐かしくって」(掘りごたつの中が!?) 一瞬そんな風に思ってしまった佐太郎であったが、ついさっき玉郎に言われたことを思い出して、深くは考えまいと自分に言い聞かせる。「佐太はしなかった?」「え?」「隠れん坊」 いきなり何を言い出すのやら。 きょとんとした顔つきで兄を見詰める佐太郎の眼差しに、帝太郎が慌てて付け加えをする。「佐太は小さい頃この中に隠れたりしなかったのかなぁ〜?って」 帝太郎の言わんとしていることがやっと理解出来た。「……やろうにも、相手がいなかったし……」 何の気なしに発したつもりだったが、帝太郎には自分の声が寂しげに聞こえたらしい。 申し訳なさそうな表情をすると「ごめんね、佐太。僕がもっと遊んであげれば良かったね」 そう告げてうつむいた。 正直なところ、兄は自分ともっと遊びたかったんだろうと思う。 しかし、兄の心の中には自分の知らないトラウマが存在していて、それが無意識のうちに佐太郎を遠ざけている。 それが何なのかは分からないけれど――。「ところでさ、例のやつ、うまくいった?」「……うん、一応。でもさ、兄さん、あんなトコに入るなんて……本気なの?」 先日電話越しに帝太郎に頼まれたこと。 それは家の離れに位置する、ある建物の合鍵を作っておくことだった。「もちろん! そのために来たんだもの」 ことの重大さを分かっているのかいないのか。春風駘蕩たる声音で告げる帝太郎の様子からは、緊張感なんて微塵も感じ取れない。(平常心、平常心……) そう自己暗示を掛ける佐太郎を、土間のほうから玉郎が笑いを必死に堪えながら見守る。「はい、これ」 佐太郎から手渡された鍵をそそくさとポケットに仕舞い込むと、「玉ちゃん、行くよ〜」 帝太郎がにっこり笑ってそう告げる。「あ。俺も……!」「佐太は駄目」 口調は極めて穏やかなのだが、その声は絶対の拒絶を含んでいる。 こう言うところが
鹿路という地名で呼ばれるその部落は、電車を降りてからは、自動車で離合出来るか出来ないかの狭い山道を延々一時間余りかけて上って行かねばならない。 普通に考えればこんなに不便な道、そこに暮らす誰かから苦情が出て、少しはマシになるはずなのだが、この部落には二条院家に縁のある者しか暮らしていないためか、誰一人不平を言う者はいなかった。いや、むしろ陸の孤島となることを望んでさえいるのかも知れない。 世帯数は部落全体で十もなく、住人自体も十数名しか暮らしていない、絶滅寸前の集落。 ここもかつては五十世帯以上が生活していたとのことで、荒れるに任せた感の漂う空き家や、石垣のみが残る民家跡が、帝太郎の生家である二条院家を中心に放射線状に広がっている。 道は一応舗装されてはいるものの、山頂に着くまで途中に民家はなく、一瞬どこにいるのか分からなくなってしまいそうになる。 所々に見られる苔むしたガードレールと、カーブに差し掛かるたびに登場する古びてくすんだカーブミラーの存在がなかったら、文明から取り残された気分に陥り兼ねない。 山の中腹辺りから、道の脇にちらほらと雪の積もった部分が増え始め、鹿路に着く頃には辺り一面薄っすらと銀世界に包まれていた。 同じ市内でも、山を登るということはこれほどまでに違うものなのかと帝太郎は今更ながら実感した。 「変わらないね〜。この家も」 家に着いてすぐ、帝太郎の第一声はこれだった。 たかだか数ヶ月で変われ、と言うほうが無理なのだが、面倒なので誰も追及しない。 「ところで父さんたちは?」 田舎の家らしく、屋根は|茅葺(かやぶき)。大層なことに土間なんて物も存在している。使わなくなって久しい埃まみれのかまどだって、手入れをすればまだまだ現役で活躍可能だ。 「今、ちょっと出てる」 「ふ〜ん」 佐太郎の返答を聞いてもまだ不安なのか、キョロキョロと辺りを見回していた帝太郎の目が、ある一点でふと