Mag-log inがらんとしたマンションのリビングで、私は一人、彼を待った。
テーブルの上には一枚の紙。引き出しの奥で眠っていた、離婚届だ。以前、圭介とふざけ合っていた時に『一生離れないって約束の証!』なんて言って、役所からもらっておいたものだった。
まさか、こんな形で使うことになるなんて。 震える指でペンを握りしめ、自分の名前を書き込んだ。深夜、カチャリ、と玄関のドアが開く音がする。
ふわりと漂ってきたのは、私の知らない甘ったるい香水の匂いだった。「……おかえり」
リビングに立っていた私を見て、圭介は一瞬、驚いた顔をした。
「なんだ、起きてたのか」
「記念日、おめでとう」
私はテーブルの上の離婚届を、すっと彼の方へ滑らせる。
「これが、私からのプレゼントよ」
彼の顔から血の気が引いた。
「な、なんだよ、これ……」
「見ての通りよ。『急な仕事』、お疲れ様」
冷え切った声が出た。自分でも驚くくらい、落ち着いた声だった。
「ち、違うんだ! これは、その……!」
圭介の見苦しい言い訳が、やけに遠くに聞こえる。
「何が違うの? 町の真ん中でキスまでして、ずいぶん慣れた様子だったけど?」
「だから!」
圭介はやけになったように叫んだ。
「お前は仕事が忙しくて、俺にかまってくれないじゃないか。だから、癒やしが欲しかったんだよ。彼女といると、心が安らぐんだ。俺は真実の愛を見つけたんだよ!」
「へえ、真実の愛ねぇ」
もう、どうでもよかった。
彼が誰と何をしていようと、私の心はもう1ミリも動かない。「だったら、癒やされない私はいらないよね。真実の愛で結ばれた相手と一緒になれば?」
「ああ、そうするさ。お前みたいな冷たい女は、こっちから願い下げだ!」
圭介は乱暴な字で離婚届にサインした。
ゴミでも投げるように、投げつけてくる。「明日、それを出してこいよ。これで他人だ。せいせいする」
呆れた。最後の一手間まで私に当然のように押し付けてくる。
この人はいつもそうだった。面倒なことは後回しにして、にっちもさっちもいかなくなったら、私に押し付ける。 生活費の折半は、理由をつけて金額を減らしたり、振込を遅らせたりする。 家事の分担は「今やる」と言うだけで、結局何もしない。バカバカしい。本当に、馬鹿みたい。こんな男と3年も夫婦でいたなんて!
圭介をリビングに残したまま、私は寝室に入って内側から鍵をかけた。
◇ 翌朝。 圭介がソファで眠っている間に、私は家を出た。 向かったのは区役所だった。戸籍係の窓口は、ひどく事務的だった。差し出した離婚届を職員の人が無感情に受け取って、受領印を押す。
あっけないほど、簡単だった。「はい、こちら控えです」
渡されたのは、紙切れ一枚。
これで私たちの3年間は、完全に終わった。(終わったんだ……)
解放されると思っていた。
きっとすっきりした気分になるだろう、と。 でも胸の中に広がったのは、ぽっかりと穴が空いたような、どうしようもない虚無感だけだった。出社時刻が迫っている。そのまま事務所へ向かった。
「相沢さん、顔色悪いよ? 大丈夫?」
同僚の心配そうな声に、「大丈夫」と無理やり笑って見せる。
仕事なんて少しも手につかなかった。 ◇ それでも時間は過ぎていって、夜になった。 いつも通りのきらびやかなネオンが、今日はやけに目に染みる。 行き交う人々はみんな楽しそうで、幸せそうで、私はひどい孤立感に襲われた。冬の冷たい風が吹く。コートを着ていても防げない寒さと孤独に、私は身震いした。
(帰りたくないな……)
あのマンションに、もう圭介はいない場所に、どうしても帰りたくなかった。
行き先の当てなんてない。ふらふらと夜の町をさまよう私の足が、一つの建物の前でぴたりと止まる。『インペリアル・クラウン・ホテル』
いつか仕事で関わってみたいと憧れていた、最高級ホテル。
この前の大型コンペでやっと勝ち取った、大きな取引相手でもある。 今の私には、あまりにも不釣り合いな場所だ。でも、だからこそ、よかった。
ここに行けばすべてを忘れて、知らない誰かになれるような気がしたのだ。私は何かに吸い寄せられるように、その重厚な扉に手を伸ばしていた。
――魔法をかけてあげる。 湊さんはそう言うと、ベッドを抜け出した。リビングへと向かう。「……魔法って、何のこと?」 私は呆気にとられて、彼の後ろ姿を見送る。一体、何をどうするというのだろう。 リビングから彼の話し声がかすかに聞こえてくる。だが、内容は全く聞き取れない。 しばらくして、湊さんは寝室に戻ってきた。「もう大丈夫だよ。あとは、サンタクロースを待つ子供みたいに、いい子で眠って待っているだけでいい」「何をしたの?」「それは、朝になってのお楽しみ。さあ、今はぐっすり眠って」 彼は私の目を、その大きな手のひらで優しく覆った。その温かさに、私は子供のように素直に目を閉じる。彼の言う通りにしていれば、本当に何か素敵なことが起こるのかもしれない。 そんな不思議な安心感に包まれて、私はいつの間にか再び眠りに落ちていた。◇【湊視点】 夏帆さんの言葉を聞いて、僕はリビングで電話をかけた。「僕だ。夜分にすまない」 相手は、インペリアル・クラウン・ホテル札幌支社の総支配人。夜中にもかかわらず、すぐに電話に出てくれた。「すぐに、懇意にしているイチゴ農家を探してほしい。そうだ、ハウス栽培で「さちのか」を夏にも出荷しているところだ。……ああ、今すぐに頼む。これから、僕のプライベートジェットをそちらへ向かわせる。日の出までに最高の苺を、一粒も傷つけずに東京へ運んでほしいと、そう伝えてくれ」「かしこまりました」 次に電話するのは、プライベートジェットのパイロットだ。「羽田から、札幌へ。悪天候も予想されるが、必ず夜明けまでに、荷物を東京へ届けてくれ」「お任せください」(また過保護だと叱られてしまうかな) 電話を終えて、僕は苦笑する。でも、あの我慢強い夏帆さんが珍しくほしいと言ったものなのだ。できるかぎりの力を使って届けてあげたい。 贅沢かもしれない。だが、僕には
真夜中の二時。私はふと、喉の渇きで目を覚ました。 同じベッドの隣では、湊さんが穏やかな寝息を立てている。その静かな寝顔を見ていると、私の心までが安らいでいく。(よく眠っているわ。起こさないようにしないと) そっとベッドを抜け出して、キッチンで水を一杯飲んだ。けれどどうにも、渇きは癒えない。何かがものが足りないような、不思議な物足りなさがあった。 その時。一つの強烈な欲求が湧き上がって、私の頭を支配した。(イチゴが食べたい!) それもただのイチゴではない。北海道の「さちのか」という品種の、完熟した大粒のイチゴである。宝石のような見た目と、甘酸っぱい香り。口いっぱいに広がる瑞々しい果汁。その記憶があまりにも鮮明に蘇ってきた。 今の季節は真夏。さちのかの旬は春で、もうとっくに終わっている。ましてや東京の、この真夜中に手に入るはずもなかった。 念のためにスマートフォンで検索してみるが、どのサイトでも「売り切れ」の表示が出ている。(はぁ……。諦めなければ) 妊娠中特有の理不尽な食欲なのだと、自分に言い聞かせる。隣で眠る彼を起こすのは、あまりにも申し訳ない。私はでベッドに戻ると、イチゴの衝動が過ぎ去るのを待った。◇ 私が何度目かの寝返りを打った時のこと。「……どうしたの、夏帆さん。どこか痛むのかい?」 隣から、ささやくような声がした。心配に満ちた声。私が身じろぎしたわずかな気配で、湊さんは目を覚ましたのだ。「ううん、何でもないの。ごめんなさい、起こしちゃって」 私がそう誤魔化そうとすると、彼は私の額にそっと手を当てた。熱がないことを確かめて、今度は私の頬を優しく撫でる。「何でもなくはない顔をしているよ。何か、我慢しているんだろう? 教えてほしい」 彼にかかれば何でもお見通しだ。下手に心配させるより、話してしまおう。私は観念して口を開いた。「あのね、馬鹿みたいなんだけど……」
湊さんの視線が、床に広げられた壁紙のサンプルへと落ちた。次に私のスケッチブックへ。最後は鉛筆を走らせる私の手に留まる。「君の手から世界が生まれる瞬間を、こうして見ていられるのが、好きなんだ。幸せな光景だな、と思って」 その声は、心からの満足に満ちていた。◇ ベビーベッドの最後のディテールをスケッチブックに描き込んだところで、私はペンを置いた。 からん、と。乾いた音が静かな部屋に響く。 いつの間にか、西の空は茜色に染まっていた。午後の柔らかな日差しは、今はもう蜂蜜を煮詰めたような濃いオレンジ色の光に変わっている。その光がまだ何もない部屋の床に、窓の形の四角形を描き出していた。 私たちの足元には、何枚ものデザイン画や壁紙のサンプルが散らばっている。 私たちは言葉もなく、床に広げられたそれらの紙を並んで眺めていた。まだ線と色でしかない未来の断片。 けれど私たちの目には、もう見えていた。 このがらんとした部屋に、あの白樺のベビーベッドが置かれる。壁には優しいクリーム色の壁紙が貼られて、柔らかな光の中で小さな命が笑う風景が。 湊さんが私の隣に座ると、そっと私のお腹に手を当てた。「よかったな。君の世界は、世界一のデザイナーが作ってくれるそうだ」 お腹の子に、誇らしげに語りかける。私は彼の手の上に自分の手を重ねた。「ううん。世界一のデザイナーと、世界一心配性で優しいパパと、二人で作るのよ」 湊さんの指先が、私の頬にかかった髪をそっと耳にかけてくれた。その優しい手つきに、私はゆっくりと目を閉じる。 唇に柔らかく温かいものが触れる。 全てを許し受け入れ合うような、慈しみと愛情に満ちたキス。 唇が離れた後も私たちはしばらくの間、互いの額を寄せ合ったままだった。 彼の息遣いを感じる。触れ合った額が温かい。 やがて私が目を開ける。目の前には夕日でオレンジ色に染まる、がらんとした部屋が広がっている。 けれどもう、その部屋は空っぽには見えなかった。 こ
私は果物ならだいたい好きだが、イチゴが特に好きなのだ。「わ、おいしそう」「糖分補給も、大事な仕事のうちだよ」 彼はそう言うと、小さなフォークでイチゴを一つ刺す。私の口元へと運んできた。「やあね。一人で食べられるって」「でも、今は手がふさがっているだろう。スケッチが汚れてしまうといけない」 湊さんに食べさせてもらう(食べさせられる)のは、あの山荘の食事を思い出して苦笑してしまう。 あの時の彼は正気を失っていたが、それでも本質は変わらなかった。 湊さんは私の世話を何くれと焼きたがるのだ。 手がふさがっているのは本当だった。私は諦めてぱくりと苺を食べる。 甘酸っぱい果汁が口の中にあふれてくる。思わず笑顔になった。「んっ。ありがとう、美味しい」「それはよかった」 彼は満足そうに微笑んでいる。 苺を食べ終わった私は立ち上がる。本棚の少し高い位置にあるサンプルブックを取ろうと手を伸ばすと、すぐに彼が代わりに取ってくれた。「無理はしないで。僕をもっと頼ってほしい」「十分頼っているわ。たくさん助けられているもの」 本を受け取りながら言うと、湊さんは少し困ったように眉尻を下げた。「君が自立心旺盛な強い人だと、分かっているんだけどね。今は身重の体だから。危ないことはしてほしくないんだ」「危ないこと? たとえば、山荘の三階からカーテンのロープで伝い降りたり?」 私が意地悪く言うと、彼はますます困った顔になった。「そうだよ! 閉じ込めたのは完全に僕が悪かったけど、夏帆さんも無茶しすぎだから」「うん。無茶したのは反省している」 たとえ正気に戻っても、過保護なところは変わらない。不器用で愛情に満ちているところも。 私は笑って、再びスケッチブックに向き合った。 スケッチブックにデザイン画を描いていると、ふと隣の気配が消えた。(湊さん、また私の飲み物でも取りに行ったのかしら) そう思っ
私たちは床に大きな画用紙を広げて、子供部屋のデザインについて話し始めた。世界で一番幸せな、デザインの打ち合わせだった。 私はサンプルの一つを指さした。「壁紙は、この天然素材のものがいいと思うの。子供の肌に触れても安全だし、このクリーム色が、光を柔らかく見せてくれるから」「いい考えだね。じゃあ、部屋の角は、全てこの丸いR巾木(はばき)で仕上げよう。万が一、転んで頭をぶつけても、怪我をしないように。そういう加工が得意な職人を知っているんだ」 私はスケッチブックに、柔らかなタッチでベビーベッドの絵を描いた。「ベッドは塗装をしていない、天然の木材がいいと思う。例えば、この白樺(しらかば)とか。角は全部丸くして。赤ちゃんが初めて触れる世界だから、どこを触っても優しくて温かいものがいい」 湊さんは、私のスケッチを真剣な表情で覗き込む。「いい考えだね。そのデザインなら、僕が知っている職人に頼もう。子供用の家具専門で、木材の角を滑らかに仕上げる技術は、日本一なんだ。塗料を使わずに、米ぬか由来の自然なワックスで仕上げてくれる」「へえ、いいわね。ぜひお願いするわ」 彼は私のアイデアを、さらに完璧なものへと引き上げてくれる。「それから壁際には、授乳の時に使える、ロッキングチェアを置きたいの。体を優しく包んでくれるような、座り心地の良いものを」「じゃあ、椅子の生地は、アレルギーテストで最高の評価を得ている、オーガニックコットンにしよう。汚れてもすぐに交換できるように、カバーは三色、夏帆さんの好きな色で用意させるよ」「わあ、楽しみ。何色にしようかしら。青と、水色と……オレンジがいいかな?」 二人の専門知識とお腹の子への愛情が、少しずつ一つの形になっていく。その共同作業に、私はこれ以上ないほどの幸福感を感じていた。◇ 私がデザイン画に没頭していると、ふと背後から人の気配がした。振り返るより先に、クーラーの冷気から私を守るように、ふわりと薄手のショールが肩にかけられる。「一度、休憩しないか
※ここからは番外編になります。 黒瀬家との和解から少しの時間が経った。目にまぶしいほどの若葉が萌える、春も終わりの頃である。 私たちの新しい住まいは、公園の深い緑を見下ろせる高層マンションの角部屋だった。 大きく開け放たれたリビングの窓からは、若葉の匂いを乗せた心地よい風が吹き抜けていく。子供たちの遊ぶ声が遠い喧騒として、かすかに響いている。 この明るく開かれた空間は、私が閉じ込められていた、あの静かすぎる山荘とは別世界だった。 まだ家具の少ないがらんとした部屋も多い。けれどここには、これから始まる暮らしと幸せがある。 湊さんと私と、お腹の子と。これからの未来を考えるとわくわくしてしまう。 ある週末の午後、ソファで一緒に本を読んでいた湊さんがふと顔を上げた。「夏帆さん、ちょっと来て」「なあに?」 彼は少し笑うと、私の手を引いて立ち上がらせた。二人で廊下を進んで、まだ何も置かれていない一番奥の部屋の前に立つ。 ドアを開けると、磨かれたばかりのフローリングに午後の柔らかな日差しがたっぷりと降り注いでいた。新しい木の匂いが部屋中に満ちている。南向きの大きな窓からは、公園の豊かな緑とどこまでも続く青い空が見えた。 湊さんはその部屋の真ん中で、私の手を握ったまま言った。「この部屋が、この家で一番明るい。だからここを、僕たちの子供の部屋にしたいんだ」 優しく告げると、湊さんは部屋に置いてあった箱のふたを開けた。 中に入っていたのは、スケッチブック。私がいつも仕事で愛用しているメーカーの、真新しいスケッチブックだった。 彼は少し照れたように、ふいと視線を逸らす。「君の才能を僕とこの子のために、貸してほしい。僕たちの最初の共同プロジェクトとして、この部屋のデザインを君と一緒にやらせてくれないかな?」 私は差し出されたスケッチブックと彼の顔を、交互に見つめた。 ただ私に仕事を依頼しているのではない。この子のための世界を作る。二人で対等なパートナーとして、ゼロから一緒に創り上げていこう。そう言