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02:3年目の結婚記念日2

last update Last Updated: 2025-09-22 07:51:38

 がらんとしたマンションのリビングで、私は一人、彼を待った。

 テーブルの上には一枚の紙。引き出しの奥で眠っていた、離婚届だ。

 以前、圭介とふざけ合っていた時に『一生離れないって約束の証!』なんて言って、役所からもらっておいたものだった。

 まさか、こんな形で使うことになるなんて。

 震える指でペンを握りしめ、自分の名前を書き込んだ。

 深夜、カチャリ、と玄関のドアが開く音がする。

 ふわりと漂ってきたのは、私の知らない甘ったるい香水の匂いだった。

「……おかえり」

 リビングに立っていた私を見て、圭介は一瞬、驚いた顔をした。

「なんだ、起きてたのか」

「記念日、おめでとう」

 私はテーブルの上の離婚届を、すっと彼の方へ滑らせる。

「これが、私からのプレゼントよ」

 彼の顔から血の気が引いた。

「な、なんだよ、これ……」

「見ての通りよ。『急な仕事』、お疲れ様」

 冷え切った声が出た。自分でも驚くくらい、落ち着いた声だった。

「ち、違うんだ! これは、その……!」

 圭介の見苦しい言い訳が、やけに遠くに聞こえる。

「何が違うの? 町の真ん中でキスまでして、ずいぶん慣れた様子だったけど?」

「だから!」

 圭介はやけになったように叫んだ。

「お前は仕事が忙しくて、俺にかまってくれないじゃないか。だから、癒やしが欲しかったんだよ。彼女といると、心が安らぐんだ。俺は真実の愛を見つけたんだよ!」

「へえ、真実の愛ねぇ」

 もう、どうでもよかった。

 彼が誰と何をしていようと、私の心はもう1ミリも動かない。

「だったら、癒やされない私はいらないよね。真実の愛で結ばれた相手と一緒になれば?」

「ああ、そうするさ。お前みたいな冷たい女は、こっちから願い下げだ!」

 圭介は乱暴な字で離婚届にサインした。

 ゴミでも投げるように、投げつけてくる。

「明日、それを出してこいよ。これで他人だ。せいせいする」

 呆れた。最後の一手間まで私に当然のように押し付けてくる。

 この人はいつもそうだった。面倒なことは後回しにして、にっちもさっちもいかなくなったら、私に押し付ける。

 生活費の折半は、理由をつけて金額を減らしたり、振込を遅らせたりする。

 家事の分担は「今やる」と言うだけで、結局何もしない。

 バカバカしい。本当に、馬鹿みたい。こんな男と3年も夫婦でいたなんて!

 圭介をリビングに残したまま、私は寝室に入って内側から鍵をかけた。

 翌朝。

 圭介がソファで眠っている間に、私は家を出た。

 向かったのは区役所だった。

 戸籍係の窓口は、ひどく事務的だった。差し出した離婚届を職員の人が無感情に受け取って、受領印を押す。

 あっけないほど、簡単だった。

「はい、こちら控えです」

 渡されたのは、紙切れ一枚。

 これで私たちの3年間は、完全に終わった。

(終わったんだ……)

 解放されると思っていた。

 きっとすっきりした気分になるだろう、と。

 でも胸の中に広がったのは、ぽっかりと穴が空いたような、どうしようもない虚無感だけだった。

 出社時刻が迫っている。そのまま事務所へ向かった。

「相沢さん、顔色悪いよ? 大丈夫?」

 同僚の心配そうな声に、「大丈夫」と無理やり笑って見せる。

 仕事なんて少しも手につかなかった。

 それでも時間は過ぎていって、夜になった。

 いつも通りのきらびやかなネオンが、今日はやけに目に染みる。

 行き交う人々はみんな楽しそうで、幸せそうで、私はひどい孤立感に襲われた。

 冬の冷たい風が吹く。コートを着ていても防げない寒さと孤独に、私は身震いした。

(帰りたくないな……)

 あのマンションに、もう圭介はいない場所に、どうしても帰りたくなかった。

 行き先の当てなんてない。ふらふらと夜の町をさまよう私の足が、一つの建物の前でぴたりと止まる。

『インペリアル・クラウン・ホテル』

 いつか仕事で関わってみたいと憧れていた、最高級ホテル。

 この前の大型コンペでやっと勝ち取った、大きな取引相手でもある。

 今の私には、あまりにも不釣り合いな場所だ。

 でも、だからこそ、よかった。

 ここに行けばすべてを忘れて、知らない誰かになれるような気がしたのだ。

 私は何かに吸い寄せられるように、その重厚な扉に手を伸ばしていた。

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