Masukそれから数日が経った。
私は仕事に没頭することで、あの夜の記憶を頭の隅に追いやっていた。圭介と暮らしていたマンションを出て、今はビジネスホテルで仮住まいをしている。
早めに一人暮らしのアパートを見つけなければならない。私は内心でため息をついた。離婚届は早々に出したものの、雑事は多い。共有の貯金はどう分けるか、家具などはどうするか。
弁護士に相談して、慰謝料の請求だけはきっちりとやった。お金の問題じゃない。圭介が有責の離婚だと、私自身にも周囲にも納得させるためだ。「相沢さん、クライアントの方、もうすぐ見えるから。準備お願いね!」
「はい!」
所長の声に、私は背筋を伸ばす。
先日コンペで勝ち取った、大型案件。 『インペリアル・クラウン・ホテル』のスイートルームの全面改装の案件だ。 最高の仕事をして、くだらない感傷なんて吹き飛ばしてやる。応接室のドアがノックされる。
「どうぞ」
入ってきた人物を見て、私は呼吸を忘れた。
穏やかな微笑み。
上質なスーツの着こなし。王子様のように上品に整った顔立ち。
あの夜の、彼だった。「ご紹介します。インペリアル・クラウン・ホテルズ副社長の、黒瀬湊(くろせ・みなと)様です」
頭の中で、所長の声が反響する。
副社長……。 確か今の副社長は、社長の息子。次期社長に内定している人だったはず。 穏やかな物腰とおっとりした上品な佇まいで、「ホテル界の王子様」と呼ばれている。彼は私を見て、大きく目を見開いた。
「黒瀬副社長。こちらは御社の案件を担当します、相沢夏帆です。どうぞよろしくお願いいたします」
所長の紹介の声が遠く聞こえる。
最悪だ。
金と地位目当てでクライアントに近づいた、最低の女。 彼はきっと、そう思っているに違いない。「またお会いできて、嬉しいです」
湊さんは、私の凍り付いた心を見透かすように、優しく微笑んだ。
「これからよろしくお願いしますね、相沢さん」
その余裕のある態度が、私をさらに絶望の淵に突き落とした。彼は一体何を考えているのだろう?
私はただ、「相沢です。よろしく、お願いいたします」と、絞り出すのが精一杯だった。 ◇ 【湊視点】インテリア事務所との打ち合わせが終わり、自社の重役室に戻った湊は、デスクの引き出しにそっと手を伸ばした。
中から現れたのは、柔らかなシルクのスカーフ。 あの日、彼女が置き忘れていったものだ。そのなめらかな手触りを確かめるように、湊はスカーフにゆっくりと指を滑らせる。
(相沢夏帆さん……)
あの夜、傷つき絶望しながらも、瞳の奥に強い光を宿していた彼女。
これまで彼の周りにいた、どんな女性とも違っていた。 お互いの孤独を埋め合うように言葉を重ねて、肌を合わせた。 湊は傷ついた彼女を癒やしてあげたかったし、彼女もまた彼の心の隙間を理解してくれた。今まで群がってきた女性たちは、湊の肩書や財産だけを求めていた。
けれど彼女は、その奥に立ち尽くす本当の彼を見てくれたのだ。今まで誰一人、そんな人間はいなかったのに。やっと見つけた、と思った。
自分が求めていたのはこの人だったのだ、と。『ごめんなさい。昨夜のことは、全て私の責任です。あなたを傷つけるつもりはありませんでした。どうか忘れてください』
ところが、彼女はこんな置き手紙を残して立ち去ってしまった。
残された手がかりは、一枚のスカーフだけ。「ひどいシンデレラもいたものだ」
ガラスの靴であればサイズから持ち主を推し量れるが、スカーフだけではどうしようもない。
彼女との時間を邪魔されたくなくて、ホテルの人間を遠ざけていたのが裏目に出た。 去ってしまった彼女を探すすべはなく、それでも諦めきれなくて、この数日探し続けていた。『相沢です。よろしく、お願いいたします』
それが、思わぬところでもう一度出会えた。
偶然の再会?
いいや、これは運命だ。この広い都会で、このような形で出会える確率がどれほどあるというのか。「もう、二度と」
湊はスカーフをそっと唇に寄せ、静かに呟いた。
「逃がすつもりはありませんよ」
湊の穏やかな表情の裏側で、彼女を手に入れるための静かで激しい執着の炎が、ゆらりと燃え上がっていた。
旅の最後の一日は、船の上でゆっくりと過ぎていった。 午前中は、キッズルームで最後の時間を楽しむ帆波に付き添う。午後は、三人でプールサイドのデッキチェアに座って、ジェラートを食べた。帆波はアテネで買ってもらった、女神の絵が描かれた小さなブレスレットを、何度も得意げに私に見せてくれた。 その夜私たちは、船で最も格式の高いメインダイニングで、ドレスアップして最後の夕食を楽しんだ。「今回の旅で、一番美味しかったものは、何だったかな」 湊さんが尋ねると、帆波は元気いっぱいに手を挙げる。「いちごの、じぇらーと!」 ローマで食べたジェラートのことだろう。私たちは顔を見合わせて、笑った。「楽しかった旅に、乾杯」「かんぱーい!」 旅の思い出を語り合いながら、湊さんと私はワインで乾杯する。帆波も子供用のドレスを着て、少しだけお姉さんになった気分で、ジュースの入ったグラスを得意げに掲げていた。 ◇ 翌日。ローマの港に帰港して、私たちは船を降りた。「おふね、ばいばーい」 帆波が名残惜しそうに、巨大な船に何度も手を振っている。 空港へ移動し、日本への帰国便に搭乗する。帆波は離陸するとすぐに、自分の小さなベッドですーすーと深い寝息を立て始めた。遊び疲れていたのだろう。 湊さんは娘の寝顔を、愛おしそうに見つめている。 機内が暗くなり、静かな時間が流れる。私は湊さんのタブレットを借りて、この旅のたくさんの写真を見返していた。 シチリアの砂浜で、帆波と手をつないで波を追いかける私。バルセロナの公園で、チュロスを頬張りながら笑う湊さん。アテネの丘で、眠る娘を抱く夫の隣で夕日を見つめる私。 写真の中にいる私は、どれも屈託もない笑顔を浮かべていた。過去の傷や不安の影は、どこにもない。 この旅が私の中に残っていた最後の小さな氷を、完全に溶かしてくれたのだ。 ◇ 日本に到着し、懐かしい我が家に戻る。リビングのソファに座れば、旅の疲
「人間の目の錯覚を、全て計算し尽くしているの。どこから見ても完璧な調和と、安定した美しさが感じられるように。何千年も前にこれだけの数学と美に対する執念が、ここに存在していたなんて」 ただの美しい遺跡ではない。神々に捧げるために、当時の人々が持てる技術と知恵の全てを注ぎ込んで作り上げた、美の結晶なのだ。 時を超えたデザイナーたちの魂の叫びのようなものが、私の胸に響いていた。「おしろ、きいろいねぇ!」 湊さんの肩車の上で、帆波が楽しそうな声を上げる。湊さんは娘の小さな足を支えながら、私に微笑みかけた。「そうだね、帆波ちゃん。お日様の光で、金色に光ってるんだ」 空はオレンジから赤へ、そして深い紫へと、刻一刻とその色を変えていく。 この神殿は遺跡になる前から、そして現代のこの姿になっても、ずっと変わらず日差しを浴び続けてきたのだろう。 私たちは悠久の時を刻む神殿と、沈みゆく夕日が織りなす美しい光景を見つめていた。◇ 最後の茜色が西の空から完全に消え去ると、辺りはは深い藍色に包まれた。眼下に広がるアテネの街に、ぽつりぽつりと温かい光が灯り始める。 周囲で聞こえていた様々な国の言葉のざわめきが、いつの間にか遠のいていく。昼間の喧騒が嘘のように、丘の上には静かな夜の空気が満ちていた。 静寂の訪れを合図にしたように、目の前のパルテノン神殿が、ふわりと柔らかな光に照らし出された。「……あ」 黄金色ではなく、月光のような穏やかで荘厳な光。ライトアップの光は、大理石の柱の風雪に削られた傷の一つひとつを、優しく浮かび上がらせている。 湊さんは眠ってしまった帆波を、起こさないように慎重に自分の胸に抱き直した。空いた方の腕で私の肩を抱き寄せる。 私は彼の胸に頭を預けた。規則正しい心臓の音が耳元で聞こえる。「最高の旅だったね」 湊さんがささやいた。私は微笑む。「ええ、本当に。ありがとう、湊さん。私と帆波に、こんなに素敵な世界を見せてくれて」
旅の最後の寄港地は、ギリシャのアテネだった。 朝、私が目を覚ますと、船はすでにアテネの外港であるピレウス港に停泊していた。 バルコニーに出る。これまでの西ヨーロッパの港とは違う、少し乾いた歴史の匂いがする空気が肌を撫でた。眼下には白い建物が並ぶ、広大な港湾都市の姿が広がっていた。「ママ、みて! やまのうえに、おしろ!」 帆波が遠くの丘の上に見える、小さな白い点を指差した。アクロポリスの神殿だ。「本当だ。きれいね」 バルコニーですでにコーヒーを飲んでいた湊さんが、私の肩を抱き寄せる。「いよいよ、最後の寄港地だね。今日は、この旅の締めくくりに、一番美しいものを見に行こう」 彼は帆波に向かって微笑んだ。「そうだよ、帆波ちゃん。あれは大昔の、神様たちのお城なんだ」 ◇ その日の午後、市内観光を終えて。日が傾き始めた頃、私たちはアクロポリスの麓にいた。 オリーブの木々が生える、乾いた岩肌の坂道。帆波は、最初こそ元気いっぱいにその坂を駆け上がろうとしていたが、すぐに疲れてしまったらしい。「パパ、だっこ!」 湊さんに向かって、小さな両手を広げる。「はいはい、お姫様」 湊さんは慣れた様子で、娘を軽々と肩車した。急に視界が高くなった帆波は、ご機嫌な声を上げる。 私は夫と娘の微笑ましいやり取りを、少し後ろから見守りる。数千年の歴史が刻まれた、神聖な丘をゆっくりと登っていった。◇ 最後の坂道を登り切り、視界が開けた瞬間。私は思わず息をのんだ。 眼下に広がる白壁のアテネの街並み。その向こうに沈んでいく、巨大な夕日。 その最後の光を一身に浴びて、パルテノン神殿が丘の頂上に佇んでいた。 何千年もの風雪に耐えてきた、巨大な大理石の柱。その一本一本が夕日を受けて、燃えるような黄金色に輝いている。「……すごい」 私の口から感嘆のため息が漏れる。
「帆波!」「帆波ちゃん!」 私と湊さんの叫び声が路地に響く。心臓が凍ってしまったように、一瞬止まった。 すぐに角を曲がるが、その先の路地にはもう娘の姿はない。そして道はさらに二手に分かれている。どこへ行ったのか、全く分からない。 私は湊さんの顔を見た。彼の顔は蒼白で、瞳には一瞬、あの山荘での理性を失った時の光がよぎったように見えた。だが彼は固く拳を握りしめると、その感情を必死に抑え込んだ。「落ち着いて、夏帆さん」 彼の声はわずかに震えていたが、冷静だった。「あの子の足では、遠くへは行けないはずだ。僕は左を、君は右を探そう。名前を呼びながら」 私が右の路地へ駆けだそうとした時。 どこからか美しいバイオリンの音色が、壁に反響しながら聞こえてきた。「あれは……?」 私と湊さんは顔を見合わる。その音のする方へと向かった。路地を抜けると、そこは陽光が降り注ぐごく小さな広場だった。 広場の真ん中で、若い大道芸人がバイオリンを弾いている。彼の目の前で、帆波がぽつんと一人、立っていた。彼女は蝶のことなどすっかり忘れて、夢中になってバイオリンの美しい音色に聴き入っていたのだ。 全身から力が抜けていく。 湊さんが娘のそばへ歩み寄り、小さな体を力いっぱい抱きしめた。「パパ?」 帆波は急に現れた父親を不思議そうに見ている。 湊さんはしばらくの間、娘の髪に顔をうずめていた。やがて顔を上げた彼の目には、涙が浮かんでいた。 バイオリン弾きがイタリア語で何事か言った。 湊さんは頷いて、「グラッツェ」と返す。お礼の言葉だ。「彼、なんて言ったの?」「小さな子が一人で歩いていたから、音楽を聞かせて引き止めていたそうだ。親が迎えに来るはずだからと」「そうだったの……」 私たちはバイオリン弾きに心からの礼を言うと、その広場を後にした。湊さんはもう、帆波を腕から降ろそうとはしない。 その日の昼食は、ジェノバの郷土料理であるトロフィエ・アル
翌朝、私が目を覚ますと、これまでとは違う船の静かな振動と、港の喧騒が混じり合った独特のざわめきが聞こえてきた。船はすでにジェノバの港に停泊していた。「ママ、パパ! みて!」 バルコニーから、帆波の興奮した声が聞こえる。私と湊さんが向かうと、彼女はガラスの手すりに小さな手をかけて、夢中で外の景色を指差していた。 眼下に広がるのは、これまで見てきたリゾート地の港とは全く違う風景。巨大なクレーンやコンテナが並ぶ、活気に満ちた働く港の姿だった。 港のすぐ背後には、急な丘の斜面が迫っていた。 その斜面には、オレンジや黄土色の背の高い建物が、隙間なくびっしりと立ち並んでいる。 それらは折り重なって、一つの巨大な壁を形成しているようにも見えた。 建物の隙間からは、迷路のような暗い路地が見える。路地は毛細血管のように、街の奥へと続いていた。 シチリアの陽気さともマルタの荘厳さとも違う。荒々しく力強い、海洋国家の歴史を感じさせる圧巻の光景だった。「すごいわね。なんだか、建物がお互いに寄りかかり合っているみたい」 私が言うと、隣で景色を眺めていた湊さんが教えてくれた。「ジェノバは、かつてヴェネツィアと覇を競った、偉大な海洋共和国だったんだ。あの丘の中腹に見える、密集したエリアが旧市街だよ。『カルッジ』と呼ばれる、迷路のような細い路地で有名なんだ」「歩いてみたいわ」 私のデザイナーとしての好奇心がうずいた。「ベビーカーは難しいかもしれないけど、帆波ちゃんが疲れたら、僕が抱っこすればいい。行ってみようか」 彼はすぐに賛成してくれた。 ◇ 私たちは迷路のような路地へと、足を踏み入れた。 道幅は二メートルもないかもしれない。両側から色褪せた壁の高い建物が、空を覆い隠すように迫ってくる。頭上には住人たちのものだろうか、洗濯物が万国旗のようにはためいていた。「帆波、パパとママの手をしっかり握っていてね」「はーい」 帆波は、私と湊さんの間に挟まれ、二人としっか
一人になった私は、部屋のプライベートバルコニーのデッキチェアに座る。スケッチブックを広げた。 目の前に広がる、雄大な海の景色。水平線の彼方まで続く深い青。 仕事のデザイン画ではない。この幸福な一瞬を記録するために、自由に線を引いた。 しばらくして、帆波を預けてきた湊さんが戻ってきた。手には白ワインの瓶を持っている。グラスを二つ取り出し、ワインを注いで私の隣に座った。 私はワイングラスを手に取る。午前中からお酒だなんて、とっても優雅。「キッズクラブはどうだった?」「すごく楽しそうだったよ。最初は少しだけ、人見知りしていたけどね。すぐに他の国の子たちと、言葉も通じないのにぬいぐるみで遊び始めた。子供はすごいね」「そっか。よかったわ」 私は白ワインのグラスを片手に、昨日の感動を湊さんに語った。「昨日のサグラダ・ファミリア、本当にすごかったわね……。特に、あの光の入り方。まるで森の中にいるみたいだった。石であんな有機的な空間が作れるなんて、今でも信じられない」「君があんなに夢中になっている顔を、初めて見たかもしれない。君のデザインにも、何か新しいインスピレーションを与えたんじゃないかい?」 湊さんは私の仕事の話を、心から楽しそうに聞いてくれる。「ええ、たくさん。……そういえば、今朝、帆波が面白いことを言うのよ」 私はくすくすと笑った。「『とかげしゃん、またあいたい!』って。グエル公園のトカゲが、すっかりお気に入りみたい」「トカゲのぬいぐるみも、とても気に入っていたよね。じゃあ次の寄港地でも、トカゲを探さないといけないな。……いや、いないか」 湊さんが本気で困ったような顔をするので、私たちは二人で声を上げて笑った。 仕事の話も子供の話も、こんなふうに笑いながら話せる。それがどれだけ幸せなことか。私はグラスを傾けながら、満ち足りた時間を味わっていた。 ◇ ふと沈黙が落ちる。潮騒が静かに響く中、私は湊さんの肩に頭を預けた。「こんな日が来るな