Share

14:仕組まれた視察

last update Dernière mise à jour: 2025-09-26 11:44:05

【夏帆視点】

 圭介との一件から1週間ほどが過ぎた。

 湊さんとは、仕事の場で顔を合わせる日々が続いている。

(仕事相手としては、これ以上ないくらい最高の人)

 打ち合わせでの彼は、的確で協力的で、何より私のデザインを心の底から信じてくれているのが伝わってくる。

 だからこそ苦しかった。

 あの夜のことがなければ、もっと素直にこの人を尊敬できたのに。

 彼は大勢の前では、完璧なクライアントとして振る舞う。

 でもふとした瞬間に二人きりになると、私の心の壁を試すように距離を詰めてくる。

 その日も、現場での打ち合わせが終わった後のことだった。

「今後の参考のため、使用するテキスタイルの工房を視察したい。専門家である相沢さんに、ぜひ同行してほしい」

 テキスタイルとは、生地や布地のこと。布張りのソファや壁紙もインテリアの領分だから、もちろん仕事だ。

 所長や他のスタッフも一緒だろう、と私が思っていると、彼は続けた。

「深い話もしたいので、2人だけで行かせてもらえませんか」

 クライアントからのほとんど「業務命令」に近い響きだった。

 私に断る選択肢はなかった。

 湊さんが運転するフランス製高級車で、私たちはテキスタイル工房へ向かった。

 緊張のあまり、ハンドルの上で組まれた彼の手を見つめることしかできない。

 助手席の空気がとても重い。

 車中、彼はあの夜のことには一切触れずに、私のデザイン哲学やインスピレーションの源について、巧みに質問を重ねてきた。

 彼の審美眼は鋭く、洞察力も深い。

 話しているうちに、私はクライアントと話しているという緊張感を忘れて、一人のデザイナーとして彼との会話に夢中になっていた。

 工房は緑豊かな山間の、静かな場所に佇んでいた。

 湊さんの車を降りると、目の前には古民家を改装したような趣のある建物が現れる。

 木の扉を軋ませて中に入れば、私は思わずその先の光景に見入ってしまった。

 高い天井は

Continuez à lire ce livre gratuitement
Scanner le code pour télécharger l'application
Chapitre verrouillé

Latest chapter

  • 王子様系御曹司の独占欲に火をつけてしまったようです   193

     専用車が角を曲がり、前方にサグラダ・ファミリアが見えた、その時。  私は思わず息をのんだ。「湊さん、停めて!」 私の切羽詰まったような声に、湊さんは驚いた顔をしながらも、すぐに運転手に指示を出してくれた。  車から降りる。私は目の前にそびえ立つ光景を見上げていた。「……嘘」 写真やテレビで見ていたものとは、全く違う。そこにあったのは、もはや建築物ではなかった。大地から直接、有機的に生えてきたかのような巨大な生命体。トウモロコシのようにも洞窟の鍾乳石のようにも見える塔が、空に向かってうねるように伸びている。「パパ、ママ、みて! おかしのおうちみたい!」 湊さんの腕の中で、帆波が楽しそうな声を上げる。「そうだね、帆波ちゃん。お菓子の家みたいだね」 湊さんは言いながら、視線は隣に立つ私の顔に注がれていた。「どうかな、夏帆さん。本物は」「……すごい。すごいとしか、言えない」 私はデザイナーとして、この建築を分析しようとする思考を、完全に放棄した。  存在に呑まれる。  ガウディという一人の天才が生み出した、圧倒的な狂気と神聖さの塊を前に立ち尽くすことしかできなかった。 私は半ば呆然としたまま、もう一度車に乗り込んで、今度こそそのサグラダ・ファミリアに近づいた。  聖堂の内部に、一歩、足を踏み入れる。  石でできた巨大な樹木のような柱が、枝を広げるようにして高い天井へと伸びている。枝と枝が複雑に絡み合い、頭上には巨大な木漏れ日のような天蓋が広がっていた。「すごい」 感嘆のため息が漏れる。「どうして、こんな構造を思いつくの? 直線が一つもない……」「みて! にじいろ、きらきら!」 帆波がきゃっきゃと歓声を上げた。彼女が指差す先、聖堂の床には、色とりどりの光の斑点が宝石のように散らばっている。東側のステンドグラスを通した朝の光が、青や緑の光のシャワーとなって、私たちの足元に降り注いでいた。 私は隣に立つ湊さんに、この建

  • 王子様系御曹司の独占欲に火をつけてしまったようです   192:バルセロナの魔法

     船がバルセロナの港に着いた日の朝。私たちは部屋のプライベートバルコニーで、朝食をとっていた。  私はコーヒーカップを片手に、少しずつ近づいてくる活気のある港と、独特の建築物が混じる街並みを夢中で眺めていた。  そんな私の横顔を、湊さんが優しい目で見つめていたことに、私は気づいていなかった。「夏帆さん」 彼が私の名前を呼ぶ。「この旅が決まった日、君が言っていたこと、覚えているかい?」「え?」「『本物のサグラダ・ファミリアを見てみたい』って」 もちろん覚えている。私の長年の夢。  湊さんはテーブルの上に、上質な革で装丁された小さな冊子を置いた。表紙には金色の文字で『For Kaho』とだけ記されている。「……?」 おそるおそるそのページをめくる。そこには今日の私たちのためだけに作られた特別な旅程表が、美しいカリグラフィーで記されていた。 サグラダ・ファミリア、カサ・バトリョ。そしてグエル公園。  それぞれの場所には建築様式や歴史だけでなく、デザイナーである私の視点を考慮した、専門的な解説まで添えられている。帆波が退屈しないように、公園での休憩時間もたっぷりと取られていた。 ただのプライベートツアーではない。私の夢と私たちの家族の幸せを心を尽くして作り上げてくれた、世界でたった一つの贈り物だった。 専用車がバルセロナの目抜き通りであるグラシア通りへと入っていく。「……あ」 私は思わず、小さな声を漏らした。  通りの向かい側、立ち並ぶ建物群の中に、一つだけ明らかに異質なものが紛れ込んでいる。建物の壁面を覆う、色とりどりのガラスと陶器のモザイク。まるで仮面のような不思議な形のバルコニー。一階部分の巨大な獣の骨を思わせる、滑らかな曲線の柱。「カサ・バトリョだ……」 湊さんが微笑んでいる。 学生時代、教科書やデザイン誌のページが擦り切れるほど、何度も眺めた建築。写真の中の平面的だった存在が今、確かな立体感と生命を持って、私の目の前に存在している。

  • 王子様系御曹司の独占欲に火をつけてしまったようです   191

     帆波は、こくりと一度頷くと、今度はパイそのものに小さな両手を伸ばした。  よほど気に入ったのだろう。帆波はパイを夢中で頬張って、口の周りも服の胸元も、パイ生地の欠片だらけにしてしまった。「あらあら。帆波、パイだらけよ」「んーっ」 私はハンカチを取り出して、娘の口元をぬぐう。  湊さんはその様子を愛おしそうに目を細めて見つめていた。 カフェを出た後も、私たちは、蜂蜜色の路地をゆっくりと散策した。  湊さんは私の隣を歩きながら、ある建物の前で立ち止まった。「夏帆さん、見てごらん。この出窓」 彼が指差す先には、鮮やかな青色に塗られた美しい木製の出窓があった。「これは、『ガレリア』と呼ばれる、マルタ建築に特有の様式なんだ。一説には、聖ヨハネ騎士団が、故郷のスペインの様式と、アラブの様式を融合させて生み出したものだと言われている。淑女たちが、顔を晒さずに、外の祝祭を眺めるためのものだったそうだ」 私は彼の言葉を聞きながら、青い出窓をじっと見つめた。外からは、中の様子は全くうかがえない。そういう造りなのだ。「美しいけれど、少しだけ寂しいデザインね」 私の呟きに、湊さんが不思議そうに顔を向けた。「寂しい?」「ええ。外の世界を眺めることはできるけれど、祝祭の輪の中に入ることはできない。この鮮やかな色は、中にいる人の『ここから世界を見ている』という、声にならない叫びのようにも見えるわ」 それは私のデザイナーとしての、純粋な感想だった。「……そうか。夏帆さんはやはり、鋭い感性を持っているね」 港さんは微笑んだ。  彼はただ娘を甘やかすだけの父親でも、私を溺愛するだけの夫でもない。私の知らない世界を見せてくれる。知的好奇心を分かち合える最高の旅のパートナーなのだと、私は改めて、実感していた。 ◇  その夜。遊び疲れた帆波は、クルーズ船のベッドでぐっすりと眠っていた。  私と湊さんは二人きりで、部屋のプライベートバルコニーの椅子に座

  • 王子様系御曹司の独占欲に火をつけてしまったようです   190

     マルタの道は石畳の敷かれた細い路地。その両側を太陽の光を浴びて輝く蜂蜜色の建物が、どこまでも続いている。街全体が同じ石材で、同じ色調で統一されているのだ。圧倒的なまでの統一感と、歴史の重み。 だが統一感の中に、鮮やかな個性が宝石のように散りばめられていた。建物のファサードに取り付けられた、赤や青や緑の、木製のバルコニー。同じ形は一つとしてない。それぞれがそこに住む人々の暮らしを、物語っている。 街全体という一つの巨大なコンセプト。その中に、無数の小さな物語が息づいている。 私はデザイナーとして、町全体の調和にただただ心を奪われていた。◇ ヴァレッタの街は、どこまでも続く急な坂道でできていた。 石畳の道を帆波は楽しそうに歩いていたが、足取りが少しずつ重くなっていく。「ママ、だっこ……」 私の手を小さな力で、きゅっと引っぱる。私が「もう少しよ」と言い聞かせようとした時のこと。 一歩先を歩いていた湊さんが、立ち止まって振り返った。彼はにこりと笑うと、帆波の前に屈みこむ。「おいで、帆波ちゃん。パパの特等席が空いたよ」 彼は娘を抱き上げた。急に視界が高くなった帆波は、きゃっきゃと嬉しそうな声を上げる。 湊さんの腕の中からなら、街の景色がよく見えるのだろう。帆波はすぐに新しい発見をした。「パパ! あかい、まど!」 彼女が指差す先には、蜂蜜色の建物の壁から突き出た木製の出窓があった。窓は鮮やかな赤色に塗られている。「本当だ。きれいだね。あっちには、緑の窓もあるよ」「ほんとだー!」 私たちの横をカッポ、カッポと軽快な蹄の音を立てて、観光用の馬車が通り過ぎていった。「おうまさん!」 帆波が小さな手を振る。私はその二人の後ろを、少しだけ離れて歩いていた。 夫の広い背中と、その腕の中で揺れる小さな娘。蜂蜜色の壁に落ちる二つで一つの影。その光景が私の胸を満たした。 私たちは広場に面した、赤いパラソルの立つカフェで休憩する

  • 王子様系御曹司の独占欲に火をつけてしまったようです   189

    「見てごらん、帆波ちゃん。お砂はね、こうやって遊ぶんだ。サラサラ……って、ほら、お山ができた」 湊さんは小さな砂の山を作る。帆波は彼の足の後ろから、おそるおそる覗き込んでいた。「おやま?」「そうだよ。帆波ちゃんも、触ってみるかい? ほんのちょっとだけ。パパの手の上で、どうかな?」 湊さんが手のひらに乗せた砂を、娘の目の前に差し出す。 帆波はしばらく迷っていたが、小さな人差し指をそろりと伸ばした。ちょんと砂に触れる。自分の指先を不思議そうに見つめた。「あったかい」「うん、少し温かいね。気持ちいいだろう?」 今度は帆波自身の小さな手で、砂を掴んでみる。指の間から砂がこぼれ落ちていく。その感触が面白かったのだろう。帆波の顔にぱあっと、花が咲くような笑顔が広がった。「きゃっきゃっ」 楽しそうな笑い声が、静かな入り江に響いていった。 砂遊びに飽きた帆波が、今度は海を指差した。「パパ、ママ、あっちいこ!」 私たちは三人で手をつなぎ、波打ち際へと歩いていった。 寄せては返す、穏やかなさざ波。白いレースのような波の縁が、私たちの足元までやってきては、また遠ざかっていく。「きゃっ!」 波が足に触れるたびに、帆波は驚きと喜びが混じった高い声を上げた。「ほら、帆波ちゃん、波が逃げていくぞ。追いかけよう」「まてまてー!」 帆波はと叫びながら、小さい足を一生懸命に動かして引いていく波を追いかける。「おっと、転ばないようにね」 私と湊さんも、小さな体に引っぱられるようにして一緒に砂浜を走った。 太陽の光が湊さんの髪をきらきらと輝かせて、帆波の弾けるような笑顔を照らし出している。 私の右手には、この世で何よりも大切な娘の小さな手の感触。この子の向こう側には、愛する夫がいる。 寄せては返す波の音と、みんなの笑い声。 幸せな一瞬を、私は強く心に焼き付けた。◇

  • 王子様系御曹司の独占欲に火をつけてしまったようです   188:シチリアの砂、マルタの蜜

     翌朝、私が目を覚ましたのは、ごくわずかな、ゆりかごのような揺れのせいだった。 一瞬、まだ夢の中にいるのかと思う。だが穏やかでどこまでも続くリズムは、紛れもない現実のもの。都会の喧騒も、車の音も聞こえない。静かな波の音と、船が水を切る微かな音だけが部屋を満たしていた。(そうだった。昨日から、クルーズ船に乗っているんだった) 私はベッドから身を起こして、厚手のカーテンへと歩み寄った。一気に引き開ける。 目に飛び込んできたのは、昨日までのローマとは全く違う鮮やかな光景だった。 突き抜けるような青空。目の前に広がる、深い深い紺碧の海。その海の向こうには、緑豊かな丘の斜面にテラコッタや黄色、白といったカラフルな家々が、まるで宝石箱をひっくり返したように密集して立ち並んでいた。シチリア島、メッシーナの港だ。 眠っている間に私たちは海を渡ったのだ。昨夜見たローマの夜景が、もう遠い昔のことのように思える。全く違う港町で、こうして新しい朝を迎える。船旅ならではの魔法のような体験だった。「ママ、パパ、うみー!」 帆波も目を覚まして、パジャマのままバルコニーへと駆け出していく。「帆波ちゃん、夏帆さん。おはよう」 湊さんはそんな娘を優しく抱き上げると、その小さな頬に朝のキスをした。◇ メッシーナの港に入った日の午前中。湊さんが手配してくれた専用車は、メッシーナの市街地を抜けて海岸沿いの道を走っていた。車窓からはレモンやオリーブの木が茂る丘と、キラキラと輝くイオニア海が見える。 私たちは観光客の喧騒から離れた、小さな入り江に面した砂浜にたどり着いた。 どこまでも続く青い空と、エメラルドグリーンから深い藍色へとグラデーションを描く透き通った海。寄せては返すさざ波の音だけが、静かに響いている。「わあ……! きれいな海」 湊さんと私は靴を脱いで、きめ細かい砂の感触を楽しんだ。秋とはいえ、南国シチリアの気温は高い。砂は温かく、海の水も心地よい。 だが帆波は違った。「ママ。おすな

Plus de chapitres
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status