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last update Last Updated: 2025-10-31 21:23:14

 もちろん、職人だって人間だ。日々の暮らしがあり、家族を支えていかなければならない。

 仕事としてやっている以上は、対価が必要になる。

 でも。私自身がデザイナーの仕事に心から打ち込んでいるように、彼らにも譲れない一線があるはずなのだ。

 少し前、ガラス職人の高村さんは「作り手の気持ちをよく分かっている」と言ってくれた。そうした信頼が私たちの間にはあったはずだ。

「今から車を回します。一緒に行きましょう、相沢さん。金で動かされた彼らの心を、もう一度、僕たちの側に取り戻しに」

 彼は金や権力ではなく、私と私のデザインが持つ「魂の力」を信じてくれていた。彼自身がそれらの力を強く持っているにもかかわらず、私を信じて任せてくれる。

 それは私にとって、何よりも心強い宣戦布告となった。

 湊さんと共に小樽に飛んだ私は、高村さんの工房の前に立っていた。

 工房の扉は少しだけ開いていたが、中から聞こえてくるはずのガラスを溶かす炉の音や、道具の触れ合う音は一切しなかった。

 不自然な静けさが、私の胸をざわつかせる。

「入りましょう。……ごめんください」

 湊さんに促されて、おそるおそる工房の中へ足を踏み入れる。

 やはり、ガラス炉の熱気は感じられない。ひやりとした空気が流れている。

 工房の中央に、数人の男たちが立っていた。

 ガラス職人の高村さんだけではない。

 がっしりとした体つきの、家具工房の親方。

 藍色の作務衣を着た、テキスタイル工房の染織家。

 プロジェクトに関わる主要な工房の親方たちが全員、腕を組んで厳しい顔つきで、私たちを待ち構えていた。

 個々の話し合いの場ではない。彼らが組織立って私たちを待っていたのは、一目で分かった。

 工房の壁には、使い込まれた道具が整然と並ぶ。作業台の上には、作りかけのガラスのオブジェが埃を被って置かれている。

 彼らが仕事を止めているのは、明らかだった。

 工房の空気は、以前訪れた

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