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エピローグ

Author: 佐薙真琴
last update Last Updated: 2025-12-04 17:58:40

 深澄が老いたとき、彼女は最後の潜航を決意した。

 六十八歳。体はまだ動く。だが、深海の圧力に耐えられるのは、これが最後だろうと感じていた。

 珊瑚は、もう四十四歳。ベテランの海葬師として、浮島で尊敬されていた。そして、珊瑚にも弟子ができていた。若い少年、名前は潮。

 潮は十六歳で、母を海で亡くしていた。その経緯は、かつての珊瑚と似ていた。

 そして、珊瑚は潮に、あの歌を教えていた。

 循環は続いている。

 深澄は最後の潜航で、あの遠くの光を見に行くことにした。

 三十年前、珊瑚と一緒に潜ったときに見た、謎の光。

 あれは何だったのか。

 ずっと気になっていた。

 深澄は一人で蒼鯨に乗り込んだ。珊瑚は心配そうに見送った。

「本当に、一人で大丈夫ですか?」

「大丈夫」

 深澄は微笑んだ。

「これは、私の旅。一人で行かなきゃ」

 珊瑚は頷いた。

「分かりました。でも、必ず帰ってきてください」

「約束する」

 深澄は蒼鯨を沈めた。

 三千メートル、四千メートル。

 蒼鯨は深く潜っていく。

 やがて、あの光が見えた。

 三十年前よりも、ずっと明るくなっている。

 そして、近づくにつれて、深澄は理解した。

 それは、複数の珊瑚礁だった。

 いくつもの、巨大な珊瑚礁が、海底に広がっている。

 それぞれが、異なる色で光っている。

 白、青、紫、紅、緑、黄色。

 まるで、海底の都市のように。

 深澄は息を呑んだ。

 これは──人類の記憶の集積だ。

 何世紀にもわたって海で亡くなった人々の記憶が、ここに保存されている。

 個々の珊瑚礁は、それぞれ異なる時代、異なる場所の記憶を宿している。

 そして、それらがすべて繋がって、巨大なネットワークを形成している。

 深澄は蒼鯨を降りて、珊瑚礁の中に入った。

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  • 珊瑚の葬送 ―深海に眠る記憶―   エピローグ

     深澄が老いたとき、彼女は最後の潜航を決意した。 六十八歳。体はまだ動く。だが、深海の圧力に耐えられるのは、これが最後だろうと感じていた。 珊瑚は、もう四十四歳。ベテランの海葬師として、浮島で尊敬されていた。そして、珊瑚にも弟子ができていた。若い少年、名前は潮。 潮は十六歳で、母を海で亡くしていた。その経緯は、かつての珊瑚と似ていた。 そして、珊瑚は潮に、あの歌を教えていた。 循環は続いている。 深澄は最後の潜航で、あの遠くの光を見に行くことにした。 三十年前、珊瑚と一緒に潜ったときに見た、謎の光。 あれは何だったのか。 ずっと気になっていた。 深澄は一人で蒼鯨に乗り込んだ。珊瑚は心配そうに見送った。「本当に、一人で大丈夫ですか?」「大丈夫」 深澄は微笑んだ。「これは、私の旅。一人で行かなきゃ」 珊瑚は頷いた。「分かりました。でも、必ず帰ってきてください」「約束する」 深澄は蒼鯨を沈めた。 三千メートル、四千メートル。 蒼鯨は深く潜っていく。 やがて、あの光が見えた。 三十年前よりも、ずっと明るくなっている。 そして、近づくにつれて、深澄は理解した。 それは、複数の珊瑚礁だった。 いくつもの、巨大な珊瑚礁が、海底に広がっている。 それぞれが、異なる色で光っている。 白、青、紫、紅、緑、黄色。 まるで、海底の都市のように。 深澄は息を呑んだ。 これは──人類の記憶の集積だ。 何世紀にもわたって海で亡くなった人々の記憶が、ここに保存されている。 個々の珊瑚礁は、それぞれ異なる時代、異なる場所の記憶を宿している。 そして、それらがすべて繋がって、巨大なネットワークを形成している。 深澄は蒼鯨を降りて、珊瑚礁の中に入った。

  • 珊瑚の葬送 ―深海に眠る記憶―   第八章 潮の満ちるとき

     十年が過ぎた。 深澄は三十六歳になっていた。 珊瑚は二十二歳。立派な海葬師として、深澄と共に働いていた。 深澄が記憶潜りの技術を教え、珊瑚は熱心に学んだ。そして今では、珊瑚も独自の感性で、死者にふさわしい場所を見つけられるようになっていた。 ある日、深澄と珊瑚は一緒に深海に潜った。 目的地は、あの新しい珊瑚礁。 十年の歳月で、珊瑚礁はかなり大きくなっていた。まだかつてのキサラギの珊瑚礁ほどではないが、それでも印象的な大きさだった。「すごい……」 珊瑚は息を呑んだ。「こんなに大きくなってる」「ええ」 深澄は珊瑚礁を見つめた。「そして、もう記憶を宿し始めている」「記憶?」「触れてみて」 珊瑚は恐る恐る、珊瑚に手を伸ばした。 触れた瞬間、珊瑚の目が見開かれた。「お母さん……」 珊瑚は涙を流した。「お母さんの記憶が……ある」「そう」 深澄は微笑んだ。「あなたのお母さんも、ここにいる。海は、すべてを記憶する」 珊瑚はしばらく珊瑚に触れていた。母との記憶を辿りながら。 やがて、珊瑚は手を離した。「ありがとう、深澄さん」「どういたしまして」「私、やっと分かった」 珊瑚は深澄を見た。「お母さんは、消えてなかった。ずっと、ここにいた」「ええ」「そして、いつか──」「光になる」 二人は同時に言った。 そして、笑い合った。 深澄と珊瑚は、珊瑚礁を離れて浮上を始めた。 だが、その途中で──深澄は何かを見た。 遠くに、別の光が見えた。 それは珊瑚礁ではなかった。 もっと大きく、もっと広範囲

  • 珊瑚の葬送 ―深海に眠る記憶―   第七章 継承

     深澄の新しい儀式は、浮島の人々の間で評判になった。 海葬に、歌を加える。それは単純なことだった。だが、その歌には不思議な力があった。 遺族たちは、深澄の歌を聞いて涙を流した。 だが、それは悲しみだけの涙ではなかった。 慰めがあった。希望があった。 死者は消えない。形を変えて、存在し続ける。 いつか、光になる。 その信念が、人々の心を癒した。 深澄のもとには、多くの依頼が来るようになった。だが、深澄はすべてを受けるわけではなかった。 彼女には、もう一つの使命があった。 記憶を探すこと。 深澄は定期的に、深海に潜った。新しい珊瑚礁を訪れ、その成長を見守った。 珊瑚は少しずつ、だが確実に育っていた。 まだ記憶を宿すには小さすぎる。だが、いつか──何十年後、何百年後──また巨大な珊瑚礁になるだろう。 そして、新しい記憶を保存するだろう。 深澄は思った。 これは循環なのだと。 生と死、記憶と忘却、個と全体。 すべてが繋がり、循環している。 ある日、深澄は一人の少女と出会った。 十二歳の少女、名前は珊瑚。 皮肉な偶然だった。 珊瑚は母親を海で亡くしていた。事故だった。突然の嵐で、母親の船が転覆した。 珊瑚は海を憎んでいた。「海は、お母さんを奪った」 珊瑚は深澄に言った。「私、海が嫌い」 深澄は珊瑚を見た。 その目に、かつての祖母を見た気がした。 海を恐れ、憎みながら、それでも海に惹かれていた汐音を。「珊瑚ちゃん」 深澄は優しく言った。「海は、お母さんを奪ったんじゃないの」「でも──」「海は、お母さんを受け入れたの」 深澄は珊瑚の手を取った。「お母さんは、今も海の中にいる。消えてない。形を変えて、存在してる

  • 珊瑚の葬送 ―深海に眠る記憶―   第六章 新しい儀式

     数週間後、深澄は海葬師として新しい儀式を執り行っていた。 依頼主は、あの鷹臣だった。 医者の予想よりも早く、鷹臣の体調は悪化した。彼は自分の死期を悟り、深澄に最後の依頼をした。「俺を、深い場所に送ってくれ」 鷹臣は病床で言った。「お前が見つけてくれた場所に」 深澄は頷いた。「分かっています。必ず」 鷹臣は三日後、静かに息を引き取った。 葬儀の日、深澄は鷹臣の遺体を特殊な繭で包んだ。これは深海の圧力にも耐える素材で作られており、遺体をゆっくりと分解させながら、海の生態系に還していく。 深澄は蒼鯨に繭を載せ、鷹臣が選んだ場所へと向かった。 三千メートルの深海。 かつて「沈黙の庭」があった場所の近く。今はもう珊瑚礁はない。だが、深澄はここを選んだ。 鷹臣もまた、あの珊瑚礁を見た人間だったから。 深澄は繭を海に沈めた。 繭は静かに降下していく。暗闇の中へ、深海の底へ。 そして、深澄は歌い始めた。「深き海の底にて、眠りにつく者よ」 深澄の声が、通信機を通じて蒼真にも聞こえている。「波の揺籃に抱かれ、夢を見よ」 蒼真は何も言わなかった。ただ、静かに聞いていた。「いつかまた、潮が満ちるとき」 繭が、視界から消えた。「わたしたちは、光になる」 深澄は歌い終えた。 しばらく、沈黙があった。 やがて、蒼真の声が聞こえた。「美しい歌だな」「ええ」 深澄は微笑んだ。「大切な歌よ」 深澄は浮上を始めた。 だが、その途中で──奇妙なものを見た。 かつて珊瑚礁があった場所に、小さな光が見えた。 深澄は蒼鯨を近づけた。 そこには、新しい珊瑚が育ち始めていた。 まだ小さい。だが、確かに光っている。 深澄は息を呑

  • 珊瑚の葬送 ―深海に眠る記憶―   第五章 帰還

     深澄が蒼鯨に戻ったとき、通信機が激しく鳴っていた。「深澄! 深澄! 応答しろ!」 蒼真の声は、怒りと安堵が入り混じっていた。「ごめん、蒼真。心配かけた」「心配? 心配どころじゃない! お前、禁止区域に入っただろう! どうなってるんだ!」「説明する。今、浮上するから」 深澄は蒼鯨のバラストを調整し、浮上を始めた。 上昇しながら、深澄は考えた。 今、何が起きたのか。 珊瑚礁は消えた。死者たちの魂は解放された。 では、彼らはどこへ行ったのか? 深澄は思い出した。祖母の最後の記憶で見た光景。魂が上昇し、海面を超え、空へ、そしてその先へ。 宇宙か? いや、もっと抽象的な何かかもしれない。 量子レベルでの情報の再編成。意識のネットワークへの統合。あるいは、単純に──次の存在形態への移行。 深澄には分からなかった。 だが、一つだけ確かなことがあった。 彼らは、平和だった。 苦しみから解放され、次の段階へ進むことができた。 そして、それを可能にしたのは──歌だった。 三世代にわたって受け継がれた、あの子守唄。 深澄は思った。歌には力がある。言葉には力がある。 それは科学では説明できない力。だが、確かに存在する力。 記憶を繋ぎ、魂を慰め、そして──解放する力。 蒼鯨は浮上を続けた。 千メートル。 五百メートル。 やがて、光が見え始めた。太陽の光。 深澄は窓の外を見た。 そして、息を呑んだ。 海面の上、夜空に──流れ星が降っていた。 いや、降っているのではない。昇っているのだ。 無数の光の筋が、海から空へ、そして宇宙へと伸びていく。 死者たちの魂。 彼らは、本当に光になったのだ。 深澄は涙が止まらなかった。 美し

  • 珊瑚の葬送 ―深海に眠る記憶―   第四章 汐音の帰還

     記憶が洪水のように押し寄せてきた。 だが、それは祖母の若い頃の記憶ではなかった。年老いた汐音の記憶だった。 汐音は小さな船に乗っていた。一人で。夜の海。星が無数に輝いている。 彼女の髪は白く、顔には深い皺が刻まれている。だが、目には決意があった。 手には、紅い珊瑚の欠片。 深澄が母の遺品の中で見つけたものと、同じ欠片。「ずっと、ここに来たかった」 汐音は海を見つめながら呟いた。「でも、怖くて来られなかった。渚が生まれてから、ずっと」 渚──深澄の母。 汐音は娘を産んだ後、海を恐れるようになった。船の沈没のトラウマ。夫を失った悲しみ。海は汐音から、最も大切なものを奪った。 だが同時に、汐音は海に惹かれ続けた。矛盾する感情。海を憎みながら、愛していた。「渚は大きくなった。もう、私がいなくても大丈夫」 汐音は自分の手を見た。痩せて、血管が浮き出ている。「私の時間も、そう長くない。医者はまだ数年と言うけれど、自分の体は分かる。もう、終わりが近い」 汐音は珊瑚の欠片を握りしめた。「だから、最後に──あなたたちのそばに帰りたい」 汐音は立ち上がった。 そして、何の躊躇もなく、海に飛び込んだ。 水が冷たい。だが、汐音は泳いだ。深く、深く。 呼吸が苦しくなる。肺が悲鳴を上げる。だが、汐音は潜り続けた。 やがて、光が見えた。 深海に、不可思議な光。青白く、時おり紫色に変わる光。 珊瑚だ。 汐音の意識が薄れていく。酸素が足りない。体が限界を訴えている。 だが、汐音は微笑んだ。 届いた。あの場所に。 汐音の体が珊瑚に触れた。 その瞬間── 汐音は見た。 蓮がいた。 若い頃の蓮。嵐の夜、汐音を救命艇に乗せた蓮。あの笑顔。「待っていたよ」 蓮が言った。

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