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第2話

Author: ごはんまん
稚菜は逃げるように従業員用の控室に駆け込み、やっとの思いで着ぐるみを脱ぎ捨てた。その途端、恭太からの電話が鳴り響いた。

「なっちゃん、もう9時だぞ。まだ来ないのか?迎えに行こうか?」

「なっちゃん」。そのいつもと変わらない親しげな呼びかけに、彼女の胸は残酷に締め付けられる。震える息を深く吸い込み、辛うじて平静な声を保ってみせた。

「……いいの、今夜は用事があって行けない。みんなで楽しんできて」

恭太の返事を待つことなく通話を切る。着ぐるみを端に寄せ、手の中に残ったふたつの指輪をただ静かに見つめた。

ひとつは、結婚指輪。もうひとつは、彼女が密かに恭太だけを想って特注した指輪。

なのに今、このふたつの指輪は掌を焼くように熱く感じられ、彼女の胸をひどく締め付けてくる。

17歳のあの夏の記憶が、ふいに脳裏へ蘇った。薄暗い路地で不良たちに囲まれた時、駆けつけて庇ってくれたのが恭太だった。脚の骨を折られてもなお、彼は無理に笑ってみせたのだ。

「怖がるな、俺は平気だ」

その後、彼は安井家に戻り、身寄りのない少年から一躍後継者の座へと駆け上がった。

それでも彼女へ向ける態度は、あの頃と何ひとつ変わることはなかった。

机の上にはいつも温かい牛乳が置かれ、雨の日には決まって傘が用意されていた。悔しい思いをして泣いた時には、いつも「俺がいる」という揺るぎない言葉をかけてくれた。

付き合って4年、結婚して5年。彼は壊れ物を扱うように、まるで幼い子供を相手にするかのように彼女を甘やかしてきた。

……それなのに、自分がただの身代わりだったなんて!

稚菜はゆっくりと目を閉じ、再び開いた時、その瞳の奥には氷のような冷たい光が宿っていた。

彼女はすっとふたつの指輪を外すと、傍らの椅子の上に無造作に置き、そのまま踵を返した。

会員制クラブを出るなり、彼女は弁護士に電話をかけた。

「吉田先生、離婚協議書を作成してください。できるだけ早く」

その「できるだけ早く」という言葉どおり、翌朝、稚菜のもとには法律事務所の職員から、分厚い離婚協議書と1枚の離婚届が届いた。

財産分与の条項を丁寧に確認し、迷いなく自分の名前を書き込む。ちょうどその時、朝帰りの恭太が扉を開けて部屋へと入ってきた。

「何にサインしてるんだ?」

その声に、稚菜のペン先がぴたりと止まる。昨夜、誰かが離婚について尋ねた時の、恭太の投げやりな声が脳裏をよぎった。

「あぁ……でも、離婚なんて考えてない。稚菜は俺の妻としてちょうどいいし、あいつがいれば連中の攻撃を綾奈の代わりに受けてもらえる。おかげで綾奈が厄介な連中に狙われる心配もしなくて済む」

その言葉は鈍い刃物のように、稚菜の胸の奥を抉り、目の奥がじんと熱くなった。

付き合って4年、結婚して5年。そこには少しくらい本物の想いがあるのだと信じていた。それなのに彼にとって、自分の価値はただ、綾奈を守るための頑丈な盾でしかなかったのだ。

今、離婚を切り出したところで、彼が素直に応じるはずがない。なにしろ、彼の心にあるのは、綾奈を守り抜くことだけなのだから。

だから恭太が再び「何にサインしてるんだ」と尋ねてきた時、稚菜はさりげなく書類の文字を手で隠した。

「前に話していた買収契約書よ。私の署名は終わったから、あとはあなたのサインだけ」

近づいてくる恭太を前に、稚菜は慎重に書類の中身を隠しながらも、心のどこかで彼が異変に気づいてくれることを、何か問いかけてくれることを、密かに期待してしまっていた。

だが恭太は中身を見もせず、あっさりと自分の名前を書き込んだ。

稚菜は一瞬呆然とし、すぐに自嘲めいた笑みをこぼす。

また、自分の勝手な期待だったのだ。

今の恭太の心も視線も、すべて綾奈でいっぱいなのだから。こんな小細工をしたのも、心の底にある無意味な期待のせいだ。

濡れた目元を隠すように深く俯き、書類を手に取って部屋を出ようとした稚菜を、恭太が鋭い声で呼び止めた。

「……俺を尾行してたのか?」

稚菜は戸惑いながら振り返る。彼の言葉の意味がすぐには分からなかったが、彼の手にあるものを見た瞬間、すべてを悟った。

それは、健吾が探偵に依頼して撮らせた盗撮写真だった。

昨夜は目もくれなかったそれを、今は恭太の手を通して、いやというほど鮮明に見せつけられている。

百枚以上もの写真の中で、ふたりは手を繋ぎ、抱き合い、熱く見つめ合っていた。鮮明な写真は、恭太の瞳に宿る愛情の色までも克明に映し出している。

その眼差しなら、嫌というほど知っている。この9年間、恭太は毎日そんな目で自分を見つめてきた。特に、目の下にあるふたつのほくろに優しく口づける時には。

だが今なら分かる。彼が見ていたのは自分ではなく、自分の影に隠れていた綾奈だったのだと。

恭太の目に浮かぶ警戒と問い詰めるような色に、稚菜は心の中が完全に空っぽになるような感覚を覚えた。

喉の奥に綿が詰まったように、言葉が出てこない。

「……そうよ。誰かに頼んで尾行させなかったら、あなたが浮気してるなんて、どうやって知るのよ」

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