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第3章:過去の傷*悠真

last update Date de publication: 2025-08-29 20:25:39

ステアリンググループの後継者――それが俺の人生の全てだ。父の冷徹な目と、終わらない会議室の重圧の中で、俺はただ従うように育てられた。自分で選べたものは何一つない。好きな服も、友だちも、将来も。全部、父が決めた「帝王学」の一部だった。この豪華な邸宅も、ただの檻だ。

遥花との結婚もそうだ。二年前、父が「ビジネスのため」と押し付けた政略結婚。彼女の養父母が大手取引先の物流系企業であるルミナスコーポレーションだと聞いた時、俺は素直に信じた。だが初めて会った夜、屈託のない笑顔を見せながら俺に身を委ねてきたその女性を抱きながら、かえって怖くなった。

人は誰しも打算的に動くものだ。遥花もそんな人間に違いないと思ったのに、まるで裏表が無いように振舞う彼女を見ながら、「正体がつかめない女」だと怯えた。

ひょっとしてこれは全部、遥花自身が仕組んだ罠じゃないのか? ルミナスコーポレーションも、2008年のリーマンショック以降、景気回復による物流需要と共に急成長した企業だと聞く。それ以前には名前も聞いたことのないような中小企業だったはずだ。

叩き上げである養父母の企みもあるだろうが、それもすべて遥花の思惑で、俺を縛るための策略だったんじゃないのか? そう疑い続けて、俺は彼女に嫌悪と警戒を抱いてきた。

「悠真……好きよ。あなたと一緒になれて良かった……。私の人生はすべて“借り物”だったわ。だけどあなたに出会えてようやく、ようやく私自身の人生を手に入れることができた。ずっと愛してる。いっぱい、いっぱい愛させて……」

そう言われ、夜のベッドで情熱的に求められたこともあった。俺も男なら、誘われたなら応じてしまうのが性というものだ。正直、体の相性も悪くなかった。妻として愛せなくても、娼婦だと思えば最高の相手なのではないか。そんな考えが湧いては、醜悪な自分自身に嫌悪感を抱いたりもした。

百合子が現れたのは、結婚して半年ほど経ったころだったろうか。転入してきた社員たちの研修で、「何か質問はありますか」と俺が尋ねた際、「はい!」と気持ちよい声を発して手を挙げた彼女の手首には、目立つような傷があった。

今どき手首に傷のある女性なんて珍しくはない。ただ普通はリストバンドなどを巻いて隠しているものだ。確か、妻の遥花も巻いていたように思う。理由は知らない。ただ養父母の元でいろいろ厳しく躾けられたのもあるだろうし、そのストレスで、ということも察しはつく。

一方、百合子が堂々と傷を見せてきたことは、俺の心に強い印象を与えた。少なくとも自分で付けた傷ではないのだろう。

それだけじゃない。その傷は俺が10歳のころの、失われたとある記憶を思い起こさせた――思い出したくもなくて、ずっと蓋をしていた記憶。学校でのイジメだっただろうか? 何かの事故だったろうか? いや、そんなありふれたものではない。もっと絶望を感じた出来事。それを、あの手首の傷が――あの少女が、救ってくれた。

記憶自体は不明瞭で絶望的でも、あの傷だけはポジティブな思い出であるはずだ。それだけは確かだった。

あの日、俺を救ってくれた少女と同じ傷。百合子の傷跡を見た瞬間、心の奥で何かが動き出した。「ようやく見つけられたのでは……」そう思った。百合子こそ、俺の「本物の愛」ではないかと。

ただ百合子が人懐っこく俺に近づくたびに、心が拒絶した。いくら運命の少女の面影があると言っても、間違いだったら? それに俺は既婚者だ。妻に不信感を抱いていようと、俺自身が他所の女を求めてしまっては、不貞行為になってしまう。

だがそんな百合子が、今日の夕方、俺の家にやってきた。

俺はたまたま、連日の外回りや長い会議で疲れた体と精神を休めるため、一ヶ月も帰らなかった家を訪れただけだった。遥花のこともしばらく抱いていなかったので、久々に慰めて欲しい気持ちもあった。けれど遥花はおらず、代わりにやってきたのが百合子だった。

ステアリンググループのロゴが入った封筒を手に、プロジェクトの話があると彼女は言った。入社して一年半の彼女が、そんなわざわざ俺の家に出向くような大きなプロジェクトを任されているのかと不審に思いつつも、「まぁ入りなさい」と言って俺は彼女を迎え入れた。

しかし靴を脱ぐや否や、玄関でいきなり彼女は泣き出し、俺に抱きついてきた。「大道寺さん……助けて! 私……!」封筒は床に落ちた。

やはりプロジェクトの話というのはただのカモフラージュだ。転入してきてから一年半、俺にずっと近づいてきていた女性が、いよいよ強硬手段に及んできた。一瞬、「ハニートラップ」という言葉が脳内に浮かんだ。それに気づいたとして、こう実際に泣きつかれてしまっては無理に引き離すこともできない。

ひとまず、彼女をリビングへ迎え入れた。まずは落ち着かせる必要があると思ったのだ。が、リビングのソファに座っても、彼女は俺から離れようとしない。

「とりあえず紅茶でも淹れようか……」

そんな提案にも彼女は首を振り、俺の腕の中で涙ぐんでこう呟いた。「遥花さんが……先月の新年会で、私に冷たい視線を投げてきたの」

俺は知っている。新年会でもニコニコと笑顔を振りまいていた遥花を。百合子の発言は嘘だ。仮に真実だとして、他所の女である百合子の方から俺に近づいてきたのだ。いくら寛大な遥花だって、妻としては冷たい視線を投げたくもなるだろう。

きっと百合子は、俺と遥花の仲を引き裂こうとして、わざとそんなことを言っているんだ。ただそう感じたとて、いまさら俺は遥花を擁護するのか。嫌悪と警戒を抱いてきた妻を、この後に及んでなぜ守ろうとする。

リビングのガラス窓越しに、日が傾き始めた東京の景色を見ながら、もっと百合子に近づいてみたくなった。彼女の真意を探りたいと、好奇心が湧いてしまったのだ。

彼女がハニートラップなのか、それとも本当に好意を寄せてくれているのか。“魔が差した”という風に捉えられても否定はできない。手首の傷はたまたまなのか、それとも俺の運命なのか。彼女の唇、俺の唇に触れそうになり――。

遥花が、リビングに入ってきた。まるで不倫の現場を目撃したような顔をして。いや、実際に俺は、不貞行為をしようとしていたじゃないか。妻の顔を見た俺は、瞬間、混乱、焦燥が一気に噴き出した。タイミングの悪さに気が狂いそうになった。

最終的に俺の感情は、怒りとなって爆発した。「佐野君を苛めるな!」自らの不貞を隠すように、俺は叫んだ。「佐野君に冷たくしたそうじゃないか。彼女は大事な社員だ! 傷つけるようなことをするな!」

遥花は何も言わず、静かに部屋を出て行った。最悪だ。妻に対して最も取ってはいけない態度を取ってしまったことに、酷く後悔を覚えた。

「大道寺……悠真さん、嬉しい! 私のために遥花さんを叱ってくれるなんて!」百合子はそう言い、俺を背中から抱きしめてくる。

「よ、よせ!」と、気が動転したまま、強引に彼女を振りほどく。呆然とした様子でこちらを見てくる百合子を、俺もどんな表情で見れば良いのかわからない。

「すまないが、今日はもう帰ってくれないか……ドライバーに送らせるよ」

そう言い出すのが関の山だった。百合子は急に冷めたような顔になりながら、「かしこまりました。悠真……大道寺さん」と、素直に応じた。やけにあっさりしている。やはり彼女は、ただのハニートラップだったのだろうか? 玄関に落ちた封筒も律義に拾い上げると、さっさと屋敷から出ていく。

車が去っていく様子を眺めながら、所在なく、俺は数週間ぶりのショートホープに火をつけた。久々に肺に入ってくる甘ったるい煙はやや重く、ゴホッとむせてしまった。

※

しばらくして遥花の部屋に向かう。行き違いから少し揉めてしまった後で、妻は俺に離婚届を突き出してきた。その瞳には、迷いがなかった。「離婚しましょう」。瞬間、俺の心が凍りついた。

「今度は、離婚だって? そんなことしてどうする」俺は叫んだ。心にもない言葉が次々に出る。「慰謝料でもせびるつもりか?」「スキャンダル狙いってわけか?」「お前ならやりかねないな!」

遥花の顔が、絶望に歪んだ。まるで、俺が知らない男になったかのように、彼女は俺を見た。すべてが俺の思惑とは逆の方向に行く。こんな最悪な日が今まであったろうか?これが、俺の運命か?

舐めやがって――そう感じた俺は、止まらなかった。離婚届に署名し、銀行カードを投げつけた。「この二年間、“よく尽くした妻”への支払いだ。存分に使えよ」

彼女がカードを拾う姿を見ながら、俺は努めて無感情でいようとした。「……痛っ」と言った彼女を見ると、カードの端で指を切り、血をこぼしていた。赤い一滴が、カーペットに落ちる。それでも俺は「ほらな、やっぱり金を取る」と無慈悲な言葉を投げつけた。

遥花はその後、無言で荷物をまとめた。スーツケースのジッパーを閉める音が、静かな部屋に響く。その音で、俺はハッと我に返る。何もかもが終わってしまう気がした。

「どこに行くつもりだ?」俺は叫ぶ。「お前はまだ俺の妻だ、離さないぞ!」

その言葉で、その場に膝をつく遥花。溢れる涙、震える肩。彼女の、本当の姿を見た気がした。裏表のない彼女は、本当にただ誠実なだけの女だったのではないか。真摯に俺に向き合い、愛してくれたのに、どうしてこんな仕打ちを受けねばならないのか。俺はなんて悪党なんだ。

だが、彼女はすぐに立ち上がると、部屋を出て長い廊下を走り、玄関を出ていった。一度も振り返ることもなく。

百合子を送ったあとで、ドライバーはすでに帰ってきていた。その車に、今度は遥花が乗り込む。いつものプチ家出じゃない。今度こそ、彼女は戻らない。車が遠ざかるのを見ながら、胸に確かな後悔が芽生えた。

百合子の傷跡は本当にあの日の少女のものか、それともハニートラップか? 遥花の瞳に宿る決意は何だったのか、まだ俺が知らなかった何かじゃないのか?

俺は一体、本当に大切なものをいくつ失ったんだ?

ふと手にした2本目のショートホープを、もう火をつける気にもなれず、ただただ東京のつまらない星空を見上げていた。

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