LOGINステアリンググループの後継者――それが俺の人生の全てだ。父の冷徹な目と、終わらない会議室の重圧の中で、俺はただ従うように育てられた。自分で選べたものは何一つない。好きな服も、友だちも、将来も。全部、父が決めた「帝王学」の一部だった。この豪華な邸宅も、ただの檻だ。遥花との結婚もそうだ。二年前、父が「ビジネスのため」と押し付けた政略結婚。彼女の養父母が大手取引先の物流系企業であるルミナスコーポレーションだと聞いた時、俺は素直に信じた。だが初めて会った夜、屈託のない笑顔を見せながら俺に身を委ねてきたその女性を抱きながら、かえって怖くなった。人は誰しも打算的に動くものだ。遥花もそんな人間に違いないと思ったのに、まるで裏表が無いように振舞う彼女を見ながら、「正体がつかめない女」だと怯えた。ひょっとしてこれは全部、遥花自身が仕組んだ罠じゃないのか? ルミナスコーポレーションも、2008年のリーマンショック以降、景気回復による物流需要と共に急成長した企業だと聞く。それ以前には名前も聞いたことのないような中小企業だったはずだ。叩き上げである養父母の企みもあるだろうが、それもすべて遥花の思惑で、俺を縛るための策略だったんじゃないのか? そう疑い続けて、俺は彼女に嫌悪と警戒を抱いてきた。「悠真……好きよ。あなたと一緒になれて良かった……。私の人生はすべて“借り物”だったわ。だけどあなたに出会えてようやく、ようやく私自身の人生を手に入れることができた。ずっと愛してる。いっぱい、いっぱい愛させて……」そう言われ、夜のベッドで情熱的に求められたこともあった。俺も男なら、誘われたなら応じてしまうのが性というものだ。正直、体の相性も悪くなかった。妻として愛せなくても、娼婦だと思えば最高の相手なのではないか。そんな考えが湧いては、醜悪な自分自身に嫌悪感を抱いたりもした。百合子が現れたのは、結婚して半年ほど経ったころだったろうか。転入してきた社員たちの研修で、「何か質問はありますか」と俺が尋ねた際、「はい!」と気持ちよい声を発して手を挙げた彼女の手首には、目立つような傷があった。今どき手首に傷のある女性なんて珍しくはない。ただ普通はリストバンドなどを巻いて隠しているものだ。確か、妻の遥花も巻いていたように思う。理由は知らない。ただ養父母の元でいろいろ厳しく躾けられたのもあるだろうし、そのストレスで、ということも察しはつく。一方、百合子が堂々と傷を見せてきたことは、俺の心に強い印象を与えた。少なくとも自分で付けた傷ではないのだろう。それだけじゃない。その傷は俺が10歳のころの、失われたとある記憶を思い起こさせた――思い出したくもなくて、ずっと蓋をしていた記憶。学校でのイジメだっただろうか? 何かの事故だったろうか? いや、そんなありふれたものではない。もっと絶望を感じた出来事。それを、あの手首の傷が――あの少女が、救ってくれた。記憶自体は不明瞭で絶望的でも、あの傷だけはポジティブな思い出であるはずだ。それだけは確かだった。あの日、俺を救ってくれた少女と同じ傷。百合子の傷跡を見た瞬間、心の奥で何かが動き出した。「ようやく見つけられたのでは……」そう思った。百合子こそ、俺の「本物の愛」ではないかと。ただ百合子が人懐っこく俺に近づくたびに、心が拒絶した。いくら運命の少女の面影があると言っても、間違いだったら? それに俺は既婚者だ。妻に不信感を抱いていようと、俺自身が他所の女を求めてしまっては、不貞行為になってしまう。だがそんな百合子が、今日の夕方、俺の家にやってきた。俺はたまたま、連日の外回りや長い会議で疲れた体と精神を休めるため、一ヶ月も帰らなかった家を訪れただけだった。遥花のこともしばらく抱いていなかったので、久々に慰めて欲しい気持ちもあった。けれど遥花はおらず、代わりにやってきたのが百合子だった。ステアリンググループのロゴが入った封筒を手に、プロジェクトの話があると彼女は言った。入社して一年半の彼女が、そんなわざわざ俺の家に出向くような大きなプロジェクトを任されているのかと不審に思いつつも、「まぁ入りなさい」と言って俺は彼女を迎え入れた。しかし靴を脱ぐや否や、玄関でいきなり彼女は泣き出し、俺に抱きついてきた。「大道寺さん……助けて! 私……!」封筒は床に落ちた。やはりプロジェクトの話というのはただのカモフラージュだ。転入してきてから一年半、俺にずっと近づいてきていた女性が、いよいよ強硬手段に及んできた。一瞬、「ハニートラップ」という言葉が脳内に浮かんだ。それに気づいたとして、こう実際に泣きつかれてしまっては無理に引き離すこともできない。ひとまず、彼女をリビングへ迎え入れた。まずは落ち着かせる必要があると思ったのだ。が、リビングのソファに座っても、彼女は俺から離れようとしない。「とりあえず紅茶でも淹れようか……」そんな提案にも彼女は首を振り、俺の腕の中で涙ぐんでこう呟いた。「遥花さんが……先月の新年会で、私に冷たい視線を投げてきたの」俺は知っている。新年会でもニコニコと笑顔を振りまいていた遥花を。百合子の発言は嘘だ。仮に真実だとして、他所の女である百合子の方から俺に近づいてきたのだ。いくら寛大な遥花だって、妻としては冷たい視線を投げたくもなるだろう。きっと百合子は、俺と遥花の仲を引き裂こうとして、わざとそんなことを言っているんだ。ただそう感じたとて、いまさら俺は遥花を擁護するのか。嫌悪と警戒を抱いてきた妻を、この後に及んでなぜ守ろうとする。リビングのガラス窓越しに、日が傾き始めた東京の景色を見ながら、もっと百合子に近づいてみたくなった。彼女の真意を探りたいと、好奇心が湧いてしまったのだ。彼女がハニートラップなのか、それとも本当に好意を寄せてくれているのか。“魔が差した”という風に捉えられても否定はできない。手首の傷はたまたまなのか、それとも俺の運命なのか。彼女の唇、俺の唇に触れそうになり――。遥花が、リビングに入ってきた。まるで不倫の現場を目撃したような顔をして。いや、実際に俺は、不貞行為をしようとしていたじゃないか。妻の顔を見た俺は、瞬間、混乱、焦燥が一気に噴き出した。タイミングの悪さに気が狂いそうになった。最終的に俺の感情は、怒りとなって爆発した。「佐野君を苛めるな!」自らの不貞を隠すように、俺は叫んだ。「佐野君に冷たくしたそうじゃないか。彼女は大事な社員だ! 傷つけるようなことをするな!」遥花は何も言わず、静かに部屋を出て行った。最悪だ。妻に対して最も取ってはいけない態度を取ってしまったことに、酷く後悔を覚えた。「大道寺……悠真さん、嬉しい! 私のために遥花さんを叱ってくれるなんて!」百合子はそう言い、俺を背中から抱きしめてくる。「よ、よせ!」と、気が動転したまま、強引に彼女を振りほどく。呆然とした様子でこちらを見てくる百合子を、俺もどんな表情で見れば良いのかわからない。「すまないが、今日はもう帰ってくれないか……ドライバーに送らせるよ」そう言い出すのが関の山だった。百合子は急に冷めたような顔になりながら、「かしこまりました。悠真……大道寺さん」と、素直に応じた。やけにあっさりしている。やはり彼女は、ただのハニートラップだったのだろうか? 玄関に落ちた封筒も律義に拾い上げると、さっさと屋敷から出ていく。車が去っていく様子を眺めながら、所在なく、俺は数週間ぶりのショートホープに火をつけた。久々に肺に入ってくる甘ったるい煙はやや重く、ゴホッとむせてしまった。※
しばらくして遥花の部屋に向かう。行き違いから少し揉めてしまった後で、妻は俺に離婚届を突き出してきた。その瞳には、迷いがなかった。「離婚しましょう」。瞬間、俺の心が凍りついた。「今度は、離婚だって? そんなことしてどうする」俺は叫んだ。心にもない言葉が次々に出る。「慰謝料でもせびるつもりか?」「スキャンダル狙いってわけか?」「お前ならやりかねないな!」遥花の顔が、絶望に歪んだ。まるで、俺が知らない男になったかのように、彼女は俺を見た。すべてが俺の思惑とは逆の方向に行く。こんな最悪な日が今まであったろうか?これが、俺の運命か?舐めやがって――そう感じた俺は、止まらなかった。離婚届に署名し、銀行カードを投げつけた。「この二年間、“よく尽くした妻”への支払いだ。存分に使えよ」彼女がカードを拾う姿を見ながら、俺は努めて無感情でいようとした。「……痛っ」と言った彼女を見ると、カードの端で指を切り、血をこぼしていた。赤い一滴が、カーペットに落ちる。それでも俺は「ほらな、やっぱり金を取る」と無慈悲な言葉を投げつけた。遥花はその後、無言で荷物をまとめた。スーツケースのジッパーを閉める音が、静かな部屋に響く。その音で、俺はハッと我に返る。何もかもが終わってしまう気がした。「どこに行くつもりだ?」俺は叫ぶ。「お前はまだ俺の妻だ、離さないぞ!」その言葉で、その場に膝をつく遥花。溢れる涙、震える肩。彼女の、本当の姿を見た気がした。裏表のない彼女は、本当にただ誠実なだけの女だったのではないか。真摯に俺に向き合い、愛してくれたのに、どうしてこんな仕打ちを受けねばならないのか。俺はなんて悪党なんだ。だが、彼女はすぐに立ち上がると、部屋を出て長い廊下を走り、玄関を出ていった。一度も振り返ることもなく。百合子を送ったあとで、ドライバーはすでに帰ってきていた。その車に、今度は遥花が乗り込む。いつものプチ家出じゃない。今度こそ、彼女は戻らない。車が遠ざかるのを見ながら、胸に確かな後悔が芽生えた。百合子の傷跡は本当にあの日の少女のものか、それともハニートラップか? 遥花の瞳に宿る決意は何だったのか、まだ俺が知らなかった何かじゃないのか?俺は一体、本当に大切なものをいくつ失ったんだ?ふと手にした2本目のショートホープを、もう火をつける気にもなれず、ただただ東京のつまらない星空を見上げていた。「私はもう一人の香澄、sophilaよ」そう言った香澄は、私の知っている香澄とは完全に別人だった。いつもオタクっぽくて、中二病っぽいところもあるけれど、ここまで雰囲気が違うことは初めてだ。まるで女優のように違う人物を演じているような。ただ、侵入してきた五人組を撃退した彼女は、まるで容赦がなかった。強くて、カッコよかったけど、同時に「怖い」という感情も湧いた。「血が出てるよ……大丈夫?」さっきナイフを持っていた五人組のうちの一人から、思いっきりお腹に膝蹴りを食らったところも見ていたし、その後、壁に背中をぶつけたところも見ていた。私自身も突き飛ばされ、肩から床に倒れた痛みがまだ残っているのに、彼女はそれ以上に辛い筈だ。けれど、香澄――いや、sophilaと名乗った彼女は、ニッコリ笑う。そして抱いていた蓮を私に差し出した。「すぐに終わらせるから。そうしたらすぐに、香澄を返してあげる」「終わらせる……って、何を?」妙な胸騒ぎがした。sophilaは、一体何をしようとしているのか……。「決まってるでしょ。侵入者たちを殺さなきゃ。あいつら、すぐに目覚めてまた襲ってくるよ」と、私に背を向けると、床に落ちた敵のナイフを拾い上げるsophila。「ま、待って! そんなことしなくても……嘘でしょ、やめて!」私の叫びに、振り返るsophila。キョトンとした顔をしながら。「どうして? こいつら、遥花と双子を襲った危険なやつなのよ」「そ、そうだけど……もう警備会社の人たちも来るはずだから! 殺したりなんかしたら、香澄……sophilaが悪者になっちゃうよ!」「警備会社? ごめんね遥花。警備会社の人は来ないんだ。だって、私がハッキングして、来ないようにしたから」……え? 何を言ってるの……?と、警報のサイレンと赤い警告灯が同時に止まる。部屋には双子の鳴き声と、五人組のうめき声だけが響いていた。「さて、と。じゃあすぐに楽にしてあげるね……」ナイフを持ったsophilaが、五人組のうちの一人の元へ向かう。心臓を目掛けて、ナイフを構えた。「だ、ダメ……やめてーっ!」と、私が叫んだとき、ベランダの外から、新たな人物が入って来た。すぐにsophilaは反応するが、新たな侵入者の方が動きは速い。sophilaがナイフを持つ腕を素早くつかみ、締め上げた。「うっ
警報のサイレンが部屋中に轟き、赤い警告灯が壁を血のように染めていく。蓮と菖蒲の泣き声が、それに重なる。割れた窓から吹き込む冷たい夜風が、カーテンをはためかせ、ガラスの破片を床に散らす。五つの影が、双子を抱えてベランダへ向かおうとしている。そして愛する遥花は床に倒れ、肩を押さえてうめいている。状況は最悪。そんな中で私――sophilaは目覚めた。いや、これは正確ではない。私の意識は常に香澄と共にある。状況が最悪なのもわかっていたし、今何をしなければいけないかもわかっている。"遥花を、双子を助けたい”香澄は私にすべてを託した。影の5人から双子を取り返す。香澄はそれを望んでいる。私は、香澄が望むことをやる。五人の影は、プロだ。黒いマスク、手袋、そして無駄のない動き。一人ひとりが、訓練された体躯を持っている。私には武術の知識がある。香澄が昔、格闘ゲームやアクション映画、雑学本で覚えた技の断片――『ストリートファイター』の“昇龍拳”、『鉄拳』の“風神拳”。映画で見たジャッキー・チェンの"酔拳"。すべて、香澄の記憶の断片。ほとんど忘れていたものだが、私の潜在意識にはすべて残っている。私はそれを取り出し、体に落とし込む。でも、体は香澄のもの。体は鍛えていないし、筋力はない。技は出せても、見よう見まね。威力は半分だ。それでも、香澄の願いのためなら、やるしかない。幸いなことに、相手はこちらが非力な女二人だけだと思って、油断してこちらに背中を見せている。最初の一手で、すべてが決まる。最初に、蓮を抱えた右端にいる人物から攻める。一気に間合いを詰め、ターゲットの首筋に手刀を入れる。雑学本で読んだ「気絶技」の応用だ。敵の体がガクンと傾き、蓮を抱えた腕が緩む。私は素早く蓮を受け止め、敵を床に押し倒した。ドサッ、と音を立てて気絶。蓮は私の腕の中で泣きじゃくるが、怪我はない。まずは一人目だ。他の数人が振り返る。「何ッ!?」「女が……!」と驚きの声を上げるが、遅い。そばにあったクッションの上に蓮を優しく置き、次は菖蒲を抱えた人物の背後に回り込む。相手が振り向く前に、背中の腎臓付近に肘打ち。映画で見た「急所攻撃」。普段なら絶対にやってはいけない危険な技だ。相手がうめき、菖蒲を抱えた腕が震える。私は菖蒲を奪い取り、敵の膝裏を蹴って崩す。二人目。三人目が、菖蒲を腕に抱えたままの
【2016年2月15日(月)午前2時】窓ガラスが砕け散る音がしたと同時に警報が部屋中にけたたましく響き渡り、部屋全体に赤い警告灯が点滅し始める。あまりの衝撃でベビーベッドの蓮と菖蒲も目を覚ましたのか、すぐに二人の泣き声が重なって部屋中に広がった。「うわあああ!」「きゃあきゃあ!」――いつもの可愛らしい声じゃなく、恐怖に満ちた本気の叫びだ。例の襲撃から警備会社を入れたけど、こんなに騒がしくなるなんて。パニックになりかけながらも、咄嗟に遥花を抱き寄せた。「あ、あなたが隆一? と、とうとう来たわね……すぐに警備員が駆け付けるわよ。こんな強引な手を使って、どうする気……?」窓の外にいる、まるで悪夢から這い出してきたような黒いシルエットに向かって叫ぶ。震える声で、心臓が喉までせり上がるかと思いながら。クリスマスの夜、神崎にナイフを突きつけられた恐怖がフラッシュバックする。でも、大丈夫だ……いつこうなっても良いようにと何度もシミュレーションした。部屋には催涙スプレーなど武器もある。相手はたった一人、大丈夫だ、私たちで撃退できるはず……。だがその直後、ベランダにロープが引っかかる音がして、複数人が登ってくる。やがて窓から手を突っ込んで鍵を開けると、部屋の中に侵入してきた。黒いマスクと手袋、動きに無駄がない。全部で5人もいる。「さすがにそっちも数を揃えてきたってわけ……?」恐怖で声が上ずる。体がすくんで、足も動かない。その間に敵は部屋に入り、ジリジリとにじり寄ってくる。彼らがすぐ近くまでやってきて、遥花をかばいながら、私は目を閉じることしかできない。……が、私たちに興味も示さず、彼らはすぐ横を通り抜け、ベビーベッドへ向かった。そして一人が泣き叫ぶ蓮を、そして別の一人が菖蒲を抱き上げた。「ま、待って……私たちの大事な子供たちよ……連れていかないで、お願い!」泣いて懇願することしかできないなんて。しかし、黒い影たちは一切耳を貸さない。まるで感情のないロボットのように動き、泣き叫ぶ双子を連れてベランダから出ていこうとする。「……ダメ! 返して!」咄嗟に私の腕の中から離れた遥花が、双子の片方を抱く影に飛びかかる。ダメだ、無茶だ!「……きゃっ!」ドタン!案の定、傍らにいた別の人物に突き飛ばされ、肩から床に倒れる遥花。その瞬間、私の中で何かが弾けた。――お
【2016年2月14日(日)】双子が生まれて4ヶ月。蓮も菖蒲も首がすわり、寝返りを打ち始めた。少しずつ「人」になってきている。今日も二人はベビーベッドで並んで、ぬいぐるみを蹴りながら「キャッ、キャッ」と声を上げている。徐々に表情も豊かになり、今は楽しそうに笑っている様子だ。香澄は契約社員になって在宅勤務が増えるはずだったのに、逆に忙しくなった。朝から晩までパソコンに向かい、ブツブツ呟いているかと思えば、急に「ちょっと出かけてくる!」と飛び出していく。そんな風に忙しい香澄の代役として、先月の半ばあたりからベビーシッターさんも来てもらうようになった。おかげで育児ストレスはあまり感じずに過ごせているが、一体、香澄は何の仕事をしているのか。尋ねても「地球の平和を守ってるのです!」なんて誤魔化すばかりだ。「香澄、日曜なのに、また出かけるの?」「うん、ごめん! 今日は絶対早く帰るから!」今朝も香澄はそう言い、慌てて玄関を飛び出していく。「あっ、遥花! 玄関ドア用の補助ロック、絶対に忘れちゃダメだからね!」でも、そういう注意はいつも忘れずに。留守が増えても、私たちのことを大切に思ってくれてるんだという気持ちは伝わってくる。だから今日は、特別なことをすることにした。今年で65歳になるという、紫パーマヘアーのベビーシッター・万田(まんだ)さんに双子の面倒を見てもらい、自分はキッチンに立つ。オーブンを170度に予熱し、バターとビターチョコを湯煎で溶かす。香澄が好きだから、チョコは70%のビターを多めに。溶けて艶やかになったチョコの、甘い匂いが立ち上る。卵を割り、黄身と白身を分けて、白身はしっかり角が立つまで泡立てる。砂糖を加えながら「香澄、喜んでくれるかな」と呟く。黄身にチョコと溶かしバターを合わせ、小麦粉をふるい入れ、ゴムベラでさっくり混ぜる。最後にメレンゲを3回に分けて加え、ツヤツヤの生地を型に流す。焼けるまでの40分、キッチンに広がるチョコの香りに胸がきゅんとする。焼き上がったガトーショコラはふわっと膨らみ、表面にぱりっとした皮。ナイフを入れると、しっとり濃厚な香りがもう一度立ち上った。香澄の好きな、ほんのりビターな味。今日だけは、全部香澄にあげたい。万田さんは、「まあ、遥花ちゃん上手! 香澄ちゃん喜ぶわよ~」と笑ってくれた。双子も喜ぶように、
松山支社の支社長室は、冷たい空気が張り詰めていた。窓の外は強い風が吹き、ガラスを細かく震わせる。俺は支社長のデスクの前に立ち、周りを囲むように集まった連中を見回した。老若男女、十数人。全員が、香澄にハッキングしてもらった例のLINEグループにいた"組織”のメンバーだ。「人数は合っているようだ。逃げ出すやつが1人もいなくて助かった。よほど強い団結力のようだな」皮肉も込めながら俺は言う。目の前の連中は、表情も様々だった。ある者は俺をにらみ、ある者は恐怖に怯え、ある者は全くの無表情で何を考えているやらわからなかった。無表情のやつに関しては、仕草からしてまるで佐伯敏夫のようでもあった。「お前たちが大道寺家に対して快く思っていないことはわかっている。だからと言って仕事の遅延や隠ぺいが許されていいことじゃない」一人のメンバーが開き直って言う。「じゃあ、どうする気じゃ? 減給にでも処す気ね? それとも懲戒解雇ね?」俺は答える。「そうだな、それも視野に――」と、連中は一斉に動き出した。女たちが距離を取って離れ始める一方で、男たちはスーツの上着を脱ぎ捨て、シャツ一枚でたくましい体を見せつけるように俺を取り囲む。「……何の真似だ?」「決まっとるじゃろ。おどれボコボコにしちゃる。箱詰めにして、クール便で東京に送りつけちゃる!」よく鍛えられた体の男たちが迫ってくる。「嘘だろ……暴力で反抗する気か? そんなことしたら貴様ら、解雇どころか警察沙汰だ。社会的に終わるぞ?」「知ったことか。ここは東京やないんじゃ! 祭りやったらケンカになるのも当たり前の松山だぞな」「わざわざこの部屋におどれに恨み持つ者ばっかり集めたのが仇となったな。愚か者!」どうやら話の通じる相手じゃないらしい……。最初に飛びかかってきたのは、30代後半に見える筋肉質の男。いきなり俺に顔に向かって右ストレートを繰り出してきた。咄嗟に目をつぶる――。が、痛みは一向に襲ってこない。目を開くと、俺の後ろからボディガードの熊谷――bearが前に出て、拳を受け止めていた。「下がっていろ、大道寺。ここは俺の出番だ」bearの声は低く、静かだった。男の拳が、今度はbearの顔面に向かう。だが、bearはわずかに体を捻り、男の腕を掴んだ。次の瞬間、「大外刈り」。男の体が宙を舞い、背中から床に叩きつけられ、
東南アジアとの交易に関する資料の整理を任されて、もう3日目。部長から「完璧に仕上げろ」と言われたけど、何度もダメ出しを食らってる。「ここは数字が合わない」「この表は見づらい」「もっと簡潔にまとめろ」……。あたしはパソコンに向かいながら、歯を食いしばった。資料は修正コメントだらけで、もはや何から手を付けたら良いかわからない。すでに直したところも重ねて指摘が入り、一周回って「これ元の記載に戻っているだけでは?」と思うような箇所も多い。もちろん、それが大事な仕事であるなら何を言われたって直すのが私だ。しかしそのモチベーションを下げている原因が一つある。それはこの仕事が、総帥の息子である大道寺悠真の肝いり施策だから、ということだ。たまたまにしては都合が良すぎる。円城寺家の出身であるあたしに、わざとこの仕事を押し付けているのではないか。大道寺家め、絶対に許すものか。※昼休み。食堂で女性社員同士でコーヒーを飲んでいるとき、オフィスビル全体にアナウンスが鳴り響いた。「大道寺悠真だ。本日、東京の本社から、抜き打ちで社内調査に来た。これからこの松山支社内で不正な仕事の遅延行為や隠ぺい行為などがないか調査させてもらう」「え、大道寺悠真……って、誰?」「何か聞いたことあるけど……偉い人?」「大道寺ってさ、確か社長? の苗字よね……いや、違う? なんやったっけ」女性社員たちは暢気だが、あたしだけ血の気が引いている。まさか……大道寺家の人間が直々に現れるなんて! 総帥の御曹司の急な訪問に、食堂の社員たちは顔を見合わせ、ざわめき始める。あたしは、スマホを握りしめ、"組織"のグループLINEにすぐメッセージを打つ。「大道寺悠真が来た! どうする?」返事はすぐ来た。「落ち着け。まずは様子を見ろ」「隆一様に報告だ!」「それより、悠真を東京に送り返す方法を考えろ」心臓がドクドク鳴ってる。※オフィスに戻ると、悠真が部長と話していた。例の交易資料のダメ出しを食らっているのだろうか。部長の顔は青ざめている。悠真の隣には、ガタイのいいスーツ姿の男がいた。あれが、噂になっていた悠真の秘書の佐伯敏夫だろうか? あんなにマッチョなだったとは……。悠真は、冷たい目で社員たちを見回す。私はすぐに視線を下げ、PCに向かうフリをしながらLINEグループに書き込んだ。「大道寺悠真