ステアリンググループの後継者――それが俺の人生の全てだ。父の冷徹な目と、終わらない会議室の重圧の中で、俺はただ従うように育てられた。自分で選べたものは何一つない。好きな服も、友だちも、将来も。全部、父が決めた「帝王学」の一部だった。この豪華な邸宅も、ただの檻だ。遥花との結婚もそうだ。二年前、父が「ビジネスのため」と押し付けた政略結婚。彼女の養父母が大手取引先の物流系企業であるルミナスコーポレーションだと聞いた時、俺は素直に信じた。だが初めて会った夜、屈託のない笑顔を見せながら俺に身を委ねてきたその女性を抱きながら、かえって怖くなった。人は誰しも打算的に動くものだ。遥花もそんな人間に違いないと思ったのに、まるで裏表が無いように振舞う彼女を見ながら、「正体がつかめない女」だと怯えた。ひょっとしてこれは全部、遥花自身が仕組んだ罠じゃないのか? ルミナスコーポレーションも、2008年のリーマンショック以降、景気回復による物流需要と共に急成長した企業だと聞く。それ以前には名前も聞いたことのないような中小企業だったはずだ。叩き上げである養父母の企みもあるだろうが、それもすべて遥花の思惑で、俺を縛るための策略だったんじゃないのか? そう疑い続けて、俺は彼女に嫌悪と警戒を抱いてきた。「悠真……好きよ。あなたと一緒になれて良かった……。私の人生はすべて“借り物”だったわ。だけどあなたに出会えてようやく、ようやく私自身の人生を手に入れることができた。ずっと愛してる。いっぱい、いっぱい愛させて……」そう言われ、夜のベッドで情熱的に求められたこともあった。俺も男なら、誘われたなら応じてしまうのが性というものだ。正直、体の相性も悪くなかった。妻として愛せなくても、娼婦だと思えば最高の相手なのではないか。そんな考えが湧いては、醜悪な自分自身に嫌悪感を抱いたりもした。百合子が現れたのは、結婚して半年ほど経ったころだったろうか。転入してきた社員たちの研修で、「何か質問はありますか」と俺が尋ねた際、「はい!」と気持ちよい声を発して手を挙げた彼女の手首には、目立つような傷があった。今どき手首に傷のある女性なんて珍しくはない。ただ普通はリストバンドなどを巻いて隠しているものだ。確か、妻の遥花も巻いていたように思う。理由は知らない。ただ養父母の元でいろいろ厳しく躾けられたのもあるだろうし、そのストレスで、ということも察しはつく。一方、百合子が堂々と傷を見せてきたことは、俺の心に強い印象を与えた。少なくとも自分で付けた傷ではないのだろう。それだけじゃない。その傷は俺が10歳のころの、失われたとある記憶を思い起こさせた――思い出したくもなくて、ずっと蓋をしていた記憶。学校でのイジメだっただろうか? 何かの事故だったろうか? いや、そんなありふれたものではない。もっと絶望を感じた出来事。それを、あの手首の傷が――あの少女が、救ってくれた。記憶自体は不明瞭で絶望的でも、あの傷だけはポジティブな思い出であるはずだ。それだけは確かだった。あの日、俺を救ってくれた少女と同じ傷。百合子の傷跡を見た瞬間、心の奥で何かが動き出した。「ようやく見つけられたのでは……」そう思った。百合子こそ、俺の「本物の愛」ではないかと。ただ百合子が人懐っこく俺に近づくたびに、心が拒絶した。いくら運命の少女の面影があると言っても、間違いだったら? それに俺は既婚者だ。妻に不信感を抱いていようと、俺自身が他所の女を求めてしまっては、不貞行為になってしまう。だがそんな百合子が、今日の夕方、俺の家にやってきた。俺はたまたま、連日の外回りや長い会議で疲れた体と精神を休めるため、一ヶ月も帰らなかった家を訪れただけだった。遥花のこともしばらく抱いていなかったので、久々に慰めて欲しい気持ちもあった。けれど遥花はおらず、代わりにやってきたのが百合子だった。ステアリンググループのロゴが入った封筒を手に、プロジェクトの話があると彼女は言った。入社して一年半の彼女が、そんなわざわざ俺の家に出向くような大きなプロジェクトを任されているのかと不審に思いつつも、「まぁ入りなさい」と言って俺は彼女を迎え入れた。しかし靴を脱ぐや否や、玄関でいきなり彼女は泣き出し、俺に抱きついてきた。「大道寺さん……助けて! 私……!」封筒は床に落ちた。やはりプロジェクトの話というのはただのカモフラージュだ。転入してきてから一年半、俺にずっと近づいてきていた女性が、いよいよ強硬手段に及んできた。一瞬、「ハニートラップ」という言葉が脳内に浮かんだ。それに気づいたとして、こう実際に泣きつかれてしまっては無理に引き離すこともできない。ひとまず、彼女をリビングへ迎え入れた。まずは落ち着かせる必要があると思ったのだ。が、リビングのソファに座っても、彼女は俺から離れようとしない。「とりあえず紅茶でも淹れようか……」そんな提案にも彼女は首を振り、俺の腕の中で涙ぐんでこう呟いた。「遥花さんが……先月の新年会で、私に冷たい視線を投げてきたの」俺は知っている。新年会でもニコニコと笑顔を振りまいていた遥花を。百合子の発言は嘘だ。仮に真実だとして、他所の女である百合子の方から俺に近づいてきたのだ。いくら寛大な遥花だって、妻としては冷たい視線を投げたくもなるだろう。きっと百合子は、俺と遥花の仲を引き裂こうとして、わざとそんなことを言っているんだ。ただそう感じたとて、いまさら俺は遥花を擁護するのか。嫌悪と警戒を抱いてきた妻を、この後に及んでなぜ守ろうとする。リビングのガラス窓越しに、日が傾き始めた東京の景色を見ながら、もっと百合子に近づいてみたくなった。彼女の真意を探りたいと、好奇心が湧いてしまったのだ。彼女がハニートラップなのか、それとも本当に好意を寄せてくれているのか。“魔が差した”という風に捉えられても否定はできない。手首の傷はたまたまなのか、それとも俺の運命なのか。彼女の唇、俺の唇に触れそうになり――。遥花が、リビングに入ってきた。まるで不倫の現場を目撃したような顔をして。いや、実際に俺は、不貞行為をしようとしていたじゃないか。妻の顔を見た俺は、瞬間、混乱、焦燥が一気に噴き出した。タイミングの悪さに気が狂いそうになった。最終的に俺の感情は、怒りとなって爆発した。「佐野君を苛めるな!」自らの不貞を隠すように、俺は叫んだ。「佐野君に冷たくしたそうじゃないか。彼女は大事な社員だ! 傷つけるようなことをするな!」遥花は何も言わず、静かに部屋を出て行った。最悪だ。妻に対して最も取ってはいけない態度を取ってしまったことに、酷く後悔を覚えた。「大道寺……悠真さん、嬉しい! 私のために遥花さんを叱ってくれるなんて!」百合子はそう言い、俺を背中から抱きしめてくる。「よ、よせ!」と、気が動転したまま、強引に彼女を振りほどく。呆然とした様子でこちらを見てくる百合子を、俺もどんな表情で見れば良いのかわからない。「すまないが、今日はもう帰ってくれないか……ドライバーに送らせるよ」そう言い出すのが関の山だった。百合子は急に冷めたような顔になりながら、「かしこまりました。悠真……大道寺さん」と、素直に応じた。やけにあっさりしている。やはり彼女は、ただのハニートラップだったのだろうか? 玄関に落ちた封筒も律義に拾い上げると、さっさと屋敷から出ていく。車が去っていく様子を眺めながら、所在なく、俺は数週間ぶりのショートホープに火をつけた。久々に肺に入ってくる甘ったるい煙はやや重く、ゴホッとむせてしまった。※
しばらくして遥花の部屋に向かう。行き違いから少し揉めてしまった後で、妻は俺に離婚届を突き出してきた。その瞳には、迷いがなかった。「離婚しましょう」。瞬間、俺の心が凍りついた。「今度は、離婚だって? そんなことしてどうする」俺は叫んだ。心にもない言葉が次々に出る。「慰謝料でもせびるつもりか?」「スキャンダル狙いってわけか?」「お前ならやりかねないな!」遥花の顔が、絶望に歪んだ。まるで、俺が知らない男になったかのように、彼女は俺を見た。すべてが俺の思惑とは逆の方向に行く。こんな最悪な日が今まであったろうか?これが、俺の運命か?舐めやがって――そう感じた俺は、止まらなかった。離婚届に署名し、銀行カードを投げつけた。「この二年間、“よく尽くした妻”への支払いだ。存分に使えよ」彼女がカードを拾う姿を見ながら、俺は努めて無感情でいようとした。「……痛っ」と言った彼女を見ると、カードの端で指を切り、血をこぼしていた。赤い一滴が、カーペットに落ちる。それでも俺は「ほらな、やっぱり金を取る」と無慈悲な言葉を投げつけた。遥花はその後、無言で荷物をまとめた。スーツケースのジッパーを閉める音が、静かな部屋に響く。その音で、俺はハッと我に返る。何もかもが終わってしまう気がした。「どこに行くつもりだ?」俺は叫ぶ。「お前はまだ俺の妻だ、離さないぞ!」その言葉で、その場に膝をつく遥花。溢れる涙、震える肩。彼女の、本当の姿を見た気がした。裏表のない彼女は、本当にただ誠実なだけの女だったのではないか。真摯に俺に向き合い、愛してくれたのに、どうしてこんな仕打ちを受けねばならないのか。俺はなんて悪党なんだ。だが、彼女はすぐに立ち上がると、部屋を出て長い廊下を走り、玄関を出ていった。一度も振り返ることもなく。百合子を送ったあとで、ドライバーはすでに帰ってきていた。その車に、今度は遥花が乗り込む。いつものプチ家出じゃない。今度こそ、彼女は戻らない。車が遠ざかるのを見ながら、胸に確かな後悔が芽生えた。百合子の傷跡は本当にあの日の少女のものか、それともハニートラップか? 遥花の瞳に宿る決意は何だったのか、まだ俺が知らなかった何かじゃないのか?俺は一体、本当に大切なものをいくつ失ったんだ?ふと手にした2本目のショートホープを、もう火をつける気にもなれず、ただただ東京のつまらない星空を見上げていた。玄関のベルが鳴り、百合子を迎えに行っていたドライバーが帰ってきたことを知らせた。「お連れしました」屋敷のエントランスで百合子を迎え入れる。黒のタイトスカート、赤いリップ。いつもの妖艶さだ。だが、今日はどこか疲れた目をしている。ドライバーは、今日の仕事はもう終わりといった表情をしていたが、目配せしてもうしばらく敷地内に待機するよう指示した。意外そうな表情をしながらも、彼は電子煙草を取り出して玄関の外へと出ていった。もちろん、その分のチップが受け取れることを了解して、だ。彼女をリビングに招き入れ、ソファに腰を下ろさせる。広い部屋に二人きりだ。「怖い顔してどうしたの、悠真」「お前こそ、なかなか会ってくれなくてどうしたんだ。俺に愛想尽かしたのかと思った」百合子が笑う。細い指で、俺の手を取る。思いのほか冷たい。「そんなわけないじゃない。あなたは私の運命なのに」「運命、か」俺は手を振りほどく。彼女の言葉に、違和感が募る。「その運命とやらにかこつけて、俺が利用されてるとしたら、たまったもんじゃないな」百合子が目を細める。「何を言ってるの?」「周りの連中がうるさいんだ。俺は“女狐”にハメられてるだけだって」「言いたい奴には言わせておけばいいのよ」彼女が再び手を取る。冷たい指。俺は思い出す。2月のあの日、彼女が初めて家を訪れ、ここで手を取り合っていたことを。それが、俺と遥花の離婚のきっかけになった。けれど5月、彼女が手首の傷について語り、俺の記憶の奥底で眠っていた誘拐事件を思い出させてくれた。そのことで、百合子の出会いは運命だったと感じることができた。離婚後の虚しさも、百合子が埋めてくれたはずだった。「幼いころ、私が誘拐されていたあなたを救ったのは事実。そしてあなたと付き合い始めてから、何度も熱い夜を過ごしあったのだって事実でしょ」「何度も……」だが、その言葉に引っかかる。彼女との営みに関して、俺の記憶では数えるほどだ。「百合子、お前、いま誰と会話しているんだ?」「誰って……あなたよ、悠真……」当たり前のことを言う百合子。もし間違えて他の男の名を呼べば尻尾がつかめると思ったが、そう簡単にはいかないようだ。「悠真、なんだか変よ。最近、いろいろありすぎて疲れちゃったんじゃない?」そう言う百合子に、いつもだったら仕事のことを労ってくれてい
ホテルのスイートルーム。乱れたベッドのシーツ。先ほどまでの体の熱が冷たく消えていくのを感じ、裸の上半身を毛布でくるむ。ベッドの縁に座っている男が、そちらも裸の姿のままでセブンスターにライターで火をつける。煙が漂う薄暗い部屋。窓の外では、11月も暮れの夜の東京が光っている。「大道寺家の御曹司を取り込む計画はどこまで進んでる?」彼――隆一の声はいつも通り無機質だ。ダスクコーポレーションの再起の話を私に持ち掛けてきたビジネスパートナー。私を利用し、私も彼を利用している。「ちょっとした計画のズレが生じてね……あの佐伯敏夫とかいう秘書に言いくるめられて。悠真ったら、私に内緒でお見合いしたみたいなの。信じられる? 浮気と一緒でしょ」私は笑ってごまかす。悠真がお見合いに本気じゃないのは分かる。でも、佐伯の裏工作が気に入らない。わざと私を遠ざけるようなことをして、完全にこちらの素性をお見通しだと言わんばかりに。「浮気、か。今の今まで他所の男に抱かれていたお前とは違うのか?」隆一の目が鋭く光る。私は肩をすくめる。「ぜんぜん違うわ。私とあなたはビジネス。事を円滑に進めるためのコミュニケーションじゃない。そのハズでしょ? それともあなた、私に変な気を持った? やっぱりあなたも単なるオスだったってワケ?」隆一が笑う。「馬鹿にしてもらっちゃ困る。私もわきまえてるよ。酒を飲みかわす行為の延長線上だ。それ以上でもそれ以下でもない。だいいち、自分の娘ほどの年齢のお前に、そんな気を起こすと思うか」「自分の娘ほどの年齢の女と抱き合った男が言うセリフじゃないでしょ」「はは、そりゃそうだ。まあ、どんなときにもエンターテインメントは必要だからな」そう言って煙を吐くと、隆一は私の唇を奪う。冷たく、乾いたキス。舌が絡む、計算された動き。私は目を閉じ、受け入れる。「ふふっ、私、あなたのそういうところは嫌いじゃないわよ。ちゃんとドライに弁えてるところも、どこかのお坊ちゃんと違ってキスが上品なところも」「どこかのお坊ちゃん、か。今はそれが大事なターゲットだろ。離すな、モノにしろ」隆一の声が低く響く。悠真はダスク再起の鍵。ステアリンググループの御曹司である彼を手中に収めれば、未来が開ける。なのに最近、思うようにできない。「じゃああなたも、あの秘書をどうにかしてよ」私が
部屋の暗闇が、私の心を優しく包み込む。テレビに映るのは、TSUTAYAから借りてきたDVDの映像だ。ハイスピードアクションもので、主人公が敵の銃弾をかわし、ビルを駆け上がっていく。爆発の炎が画面を赤く染め、追う影が迫る。ドキドキが止まらない。隣に座る香澄がポップコーンの袋をガサガサ開ける音が、唯一の現実味だ。取り出しやすいように袋の側面を開く、いわゆる“パーティ開け”されたポップコーンに手を伸ばすと、指先が香澄の手に触れた。温かく、柔らかい感触。「あ、ごめん、当たっちゃった」香澄の声が耳元で囁くように響き、彼女の指が私の指に軽く絡む。離さないまま、笑顔を向けてくる。「あはっ、相思相愛だね」その言葉に、胸がときめいてしまう。香澄の目が、スクリーンの光を反射して輝く。女同士なのに、こんな気持ちになるなんて思わなかった。ほんの数ヶ月前まで、私は別れたはずの悠真の影を完全には払いきれないまま、養父母や脅迫めいた謎の手紙に怯え、双子の命を案じていただけだった。離婚の痛みや早産の恐怖に心を支配され続けていた。でも今は違う。すべての苦しみが、香澄の存在で少しずつ溶けていった。この温もりが、私の新しい現実なんだ。映画の銃声が鳴り響く中、手を握り返す。香澄の掌が汗ばんでいる。緊張から? それとも、私と同じドキドキを感じてくれているのだろうか。アクションの連続が、心臓の鼓動を加速させる。敵の罠に落ちかけた主人公が、逆転のカウンターを決める。香澄が小さく声を上げる。「よしっ! かっこいい!」興奮する香澄。私はただ、隣の存在に意識が奪われる。女同士の恋。世間がどう見ようと、今、この瞬間は純粋だ。数ヶ月、共に過ごした時間――病院のベッドサイドで手を握り、NICUのガラス越しに双子を見つめ、夜遅くまで語り合った。あの親密さが、私を変えた。いや、それ以上に。香澄のまっすぐな視線が、私を「遥花」として見てくれるから。映画がクライマックスを迎える。主人公が、恋人を守るために最後の賭けに出る。爆風が画面を揺らし、静寂が訪れる。エンドロールが流れ終わり、香澄が照明を点ける。放心状態の私の肩に、彼女の手が触れた。「あー、面白かったねぇ。やっぱアクションってスッキリするわぁ……って、え、遥花!? 泣いてる!? そんな、泣くようなシーンあった?」目から涙がこぼれる。拭いながら、首を
【2015年10月】マンションの部屋で独り、PCに向かって密かに作業を進める私。まだ入院中の遥花は帝王切開の痛みに相当苦しんでいたし、早産でNICUに運ばれた双子の様子も心配だった。また医者から「安静に、ストレスを避けて」と念を押されたが、養父母がまたいつ訪ねてくるかという不安が最も大きなストレスとして私たちにのしかかっていた。遥花がいない、久しぶりに独りきりの部屋で、私はルミナスのネットワークにハッキングを仕掛けた。その道の専門家としては簡単だったけど、心はざわついた。画面に広がるデータの中から、私たちの個人情報が流出したことさえわかればよかったが、潜れば潜るほどルミナスが隠していた不正が次々と出てきた。顧客の個人情報が闇市場に流れるログ、税務署への虚偽報告。叩き上げで地位を築いてきた会社の蔵は真っ黒に染まっていた。やがて私は、最も厳重になっている扉にたどり着く。パスワードは、5回間違うと完全にネットワークからシャットアウトされるばかりか、彼らにハッキングの通知が飛んでしまう。開けるか、開けまいか。私たちの個人情報が流出していたという事実がつかめなくても。彼らを訴えるには十分すぎるほどの材料がある。何もこんな危ない橋まで渡らなくていいだろう。そんな気もして、一旦は離れたのだが。「私……そのパスワード、わかるかもしれない」翌日、遥花を見舞いに行ったときに、彼女はそう言った。「養父がある日、呪文のように変な言葉を唱えていたの。確か、“ルミナスの心臓、誕生日……ルミナスの心臓、19500825”って。何を言ってるかと思ってこっそり部屋を覗き込んだら、パソコン画面に表示された小さなダイアログに、何か文字を入力していて。それを打ち込むと、一気に画面の中に、データの波が広がっていったの」“ルミナスの心臓、誕生日”がパスワードに紐づく情報? それを口にしていたというなら何とも間抜けだが、彼ほどの老人ならありえる話だ。「でもそれ、いつの話?」「私が結婚する直前だったから、2年半くらい前になるわ」2年半くらい前のパスワード。そんなものをいまだに使っているだろうか。いや、老いた人々には、パスワードを頻繁に変える習慣はない。システムから変えるように警告されて一度変えても、次に警告されたときにもとに戻してしまう人間だっている。どんなにシステムを刷新したところで、
【1993年~2000年】養父母の影は、私の人生の始まりからずっと付きまとっている。6歳より前のことは何も覚えていない。物心ついたのがいつだったかさえ、ぼんやりしている。目が覚めたら、6歳の道仲遥花としてそこにいた、という感覚だ。白い壁の部屋、知らない大人たちの声。そして偽りの家族。すでに言葉も話せるし、自分が「遥花」という名前なのも理解している。ただ「道仲」という苗字がどうも馴染めなかった。他所の家から間違えてそこに連れてこられたような感覚は、その頃からあった。家族との記憶の最初は、養母の膝の上に座らされ、冷たい紅茶を飲まされる場面。砂糖も入れてもらえず、苦みだけが口に広がって、思わず吐いてしまった。「ちょっと、なんてこと! カーペットが汚れたじゃない!」養母はそんな私の頬を反射的に叩いた。躾ではなく、単純な怒りで叩いたという感じだった。重厚な本棚が並ぶ養父の書斎はビジネス系の書籍で埋め尽くされ、革の椅子には煙草の匂いが染みついている。当時ルミナスコーポレーションは、まだ小さな会社だった。養父は夜遅くまで机に向かい、数字を睨み、電話で怒鳴っていた。「この契約が取れれば、俺たちは大物だ。ステアリンググループとの提携だって夢じゃない」そんな養父が私を見る目は、いつも計算高かった。「遥花、お前は親戚から預けられた仮の存在だ。本当のお父さんとお母さんは、事故で死んだ。もう会えない。だから、俺たちを大事にしろよ」6歳の私にそんな残酷な言葉を突きつけるなんて。夜はいつも、布団の中で泣きじゃくった。両親が死んだのは何の事故? 顔も、声も、何ひとつ思い出せない。ただ、胸にぽっかり空いた穴が痛かった。養母は慰めもせず、ため息を吐いてはいつもこう言い聞かせた。「泣くんじゃないよ。女の子は強くないと。ルミナスの娘として、恥をかかせてもらっちゃ困るの」“娘”? そんなときばかり“娘”なんて言葉を使う。大人は卑怯だ。いつもは“仮の存在”だ、“駒”だと言うくせに。会社が成長途中の頃、養父はよく豪語した。「遥花、やがてお前は大企業の経営者の元へ、妻として嫁ぐことになる。お前は会社と会社をつなぐ大事な駒だ。そのために、あらゆるマナーや作法を叩きこむ。それらを身に付けて、“上流階級の娘”として恥じない振る舞いをしろ」毎日のレッスンは地獄だった。朝からドレスを着せら
11月の朝、マンションの窓から差し込む柔らかな光がリビングを照らす。秋の空気がカーテンを揺らし、外では街路樹の葉が赤く染まり始めている。遥花が双子より先に退院して1週間。お腹の傷はまだ疼くようで、私も最初のころはあまり笑わせないようにと気遣っていたが、「もう無理して真面目ぶらなくても大丈夫だよ。いつもの香澄じゃないみたいだし。また前みたいに、いっぱい冗談言って笑わせてよ」と、数日前に許可も下りた。ただ、それで私が調子に乗り「よぉし、じゃあ私が遥花を笑顔120点満点にしてやるぞぉ~!」と思いっきり変顔をしてみたら、遥花のツボに入ってしまったのか大笑いさせ、「イタッ、イタタタタタッ……やばっ、しぬ!」とまた苦しめてしまって猛省したりもした。そして今、日曜日に至る。リビングで二人、ハムとチーズを挟んだマフィンを食べながら、「今日も双子、元気にしてるかな」と言う私。NICUですくすくと育つ双子は、徐々に体重も2,000g前後まで増えていった。もちろん今日も、これから二人で面会に行く予定だ。「このまま順調だったら、今日で退院時期も決まるって言ってたね」と遥花。そのセリフには少し不安も見え隠れしているよう。「大丈夫だって! 昨日もいっぱいほぎゃあ、ほぎゃあって元気に泣いてたじゃない」と励ました。支度をしてマンションを出、電車に乗って2駅先の産婦人科へ向かう。前に遥花が住んでいたアパートからは徒歩で行ける距離だったが、遠くなってしまったのは私のマンションで一緒に暮らし始めたことの弊害だ。「姫……出産直後の大事な体に無理をさせて、申し訳ございませぬ……」時代劇っぽく詫びを入れる私。今さらというか、毎回のルーチンになっている気がする。「いいよ気にしなくて。どうせ歩いていくのと負担は変わらないし。それに、香澄とデートしてるみたいで楽しいじゃん」と、遥花。食卓にいたときの不安も薄れたのだろうか、「デート」だなんて可愛いことまで言ってくれる。やばっ、惚れ直しちゃうじゃん。産婦人科に到着し、NICUに通される。「蓮くんも、菖蒲ちゃんも元気ですよ」と、案内しながら言う看護師。双子に名付けたのは遥花だ。ちなみに私の「レッドとピンクにしようよ! じゃなかったら、アクアとルビー!」といった案は、ことごとく没にされた。NICUのガラス越しに、双子が