เข้าสู่ระบบステアリンググループの後継者――それが俺の人生の全てだ。父の冷徹な目と、終わらない会議室の重圧の中で、俺はただ従うように育てられた。自分で選べたものは何一つない。好きな服も、友だちも、将来も。全部、父が決めた「帝王学」の一部だった。この豪華な邸宅も、ただの檻だ。遥花との結婚もそうだ。二年前、父が「ビジネスのため」と押し付けた政略結婚。彼女の養父母が大手取引先の物流系企業であるルミナスコーポレーションだと聞いた時、俺は素直に信じた。だが初めて会った夜、屈託のない笑顔を見せながら俺に身を委ねてきたその女性を抱きながら、かえって怖くなった。人は誰しも打算的に動くものだ。遥花もそんな人間に違いないと思ったのに、まるで裏表が無いように振舞う彼女を見ながら、「正体がつかめない女」だと怯えた。ひょっとしてこれは全部、遥花自身が仕組んだ罠じゃないのか? ルミナスコーポレーションも、2008年のリーマンショック以降、景気回復による物流需要と共に急成長した企業だと聞く。それ以前には名前も聞いたことのないような中小企業だったはずだ。叩き上げである養父母の企みもあるだろうが、それもすべて遥花の思惑で、俺を縛るための策略だったんじゃないのか? そう疑い続けて、俺は彼女に嫌悪と警戒を抱いてきた。「悠真……好きよ。あなたと一緒になれて良かった……。私の人生はすべて“借り物”だったわ。だけどあなたに出会えてようやく、ようやく私自身の人生を手に入れることができた。ずっと愛してる。いっぱい、いっぱい愛させて……」そう言われ、夜のベッドで情熱的に求められたこともあった。俺も男なら、誘われたなら応じてしまうのが性というものだ。正直、体の相性も悪くなかった。妻として愛せなくても、娼婦だと思えば最高の相手なのではないか。そんな考えが湧いては、醜悪な自分自身に嫌悪感を抱いたりもした。百合子が現れたのは、結婚して半年ほど経ったころだったろうか。転入してきた社員たちの研修で、「何か質問はありますか」と俺が尋ねた際、「はい!」と気持ちよい声を発して手を挙げた彼女の手首には、目立つような傷があった。今どき手首に傷のある女性なんて珍しくはない。ただ普通はリストバンドなどを巻いて隠しているものだ。確か、妻の遥花も巻いていたように思う。理由は知らない。ただ養父母の元でいろいろ厳しく躾けられたのもあるだろうし、そのストレスで、ということも察しはつく。一方、百合子が堂々と傷を見せてきたことは、俺の心に強い印象を与えた。少なくとも自分で付けた傷ではないのだろう。それだけじゃない。その傷は俺が10歳のころの、失われたとある記憶を思い起こさせた――思い出したくもなくて、ずっと蓋をしていた記憶。学校でのイジメだっただろうか? 何かの事故だったろうか? いや、そんなありふれたものではない。もっと絶望を感じた出来事。それを、あの手首の傷が――あの少女が、救ってくれた。記憶自体は不明瞭で絶望的でも、あの傷だけはポジティブな思い出であるはずだ。それだけは確かだった。あの日、俺を救ってくれた少女と同じ傷。百合子の傷跡を見た瞬間、心の奥で何かが動き出した。「ようやく見つけられたのでは……」そう思った。百合子こそ、俺の「本物の愛」ではないかと。ただ百合子が人懐っこく俺に近づくたびに、心が拒絶した。いくら運命の少女の面影があると言っても、間違いだったら? それに俺は既婚者だ。妻に不信感を抱いていようと、俺自身が他所の女を求めてしまっては、不貞行為になってしまう。だがそんな百合子が、今日の夕方、俺の家にやってきた。俺はたまたま、連日の外回りや長い会議で疲れた体と精神を休めるため、一ヶ月も帰らなかった家を訪れただけだった。遥花のこともしばらく抱いていなかったので、久々に慰めて欲しい気持ちもあった。けれど遥花はおらず、代わりにやってきたのが百合子だった。ステアリンググループのロゴが入った封筒を手に、プロジェクトの話があると彼女は言った。入社して一年半の彼女が、そんなわざわざ俺の家に出向くような大きなプロジェクトを任されているのかと不審に思いつつも、「まぁ入りなさい」と言って俺は彼女を迎え入れた。しかし靴を脱ぐや否や、玄関でいきなり彼女は泣き出し、俺に抱きついてきた。「大道寺さん……助けて! 私……!」封筒は床に落ちた。やはりプロジェクトの話というのはただのカモフラージュだ。転入してきてから一年半、俺にずっと近づいてきていた女性が、いよいよ強硬手段に及んできた。一瞬、「ハニートラップ」という言葉が脳内に浮かんだ。それに気づいたとして、こう実際に泣きつかれてしまっては無理に引き離すこともできない。ひとまず、彼女をリビングへ迎え入れた。まずは落ち着かせる必要があると思ったのだ。が、リビングのソファに座っても、彼女は俺から離れようとしない。「とりあえず紅茶でも淹れようか……」そんな提案にも彼女は首を振り、俺の腕の中で涙ぐんでこう呟いた。「遥花さんが……先月の新年会で、私に冷たい視線を投げてきたの」俺は知っている。新年会でもニコニコと笑顔を振りまいていた遥花を。百合子の発言は嘘だ。仮に真実だとして、他所の女である百合子の方から俺に近づいてきたのだ。いくら寛大な遥花だって、妻としては冷たい視線を投げたくもなるだろう。きっと百合子は、俺と遥花の仲を引き裂こうとして、わざとそんなことを言っているんだ。ただそう感じたとて、いまさら俺は遥花を擁護するのか。嫌悪と警戒を抱いてきた妻を、この後に及んでなぜ守ろうとする。リビングのガラス窓越しに、日が傾き始めた東京の景色を見ながら、もっと百合子に近づいてみたくなった。彼女の真意を探りたいと、好奇心が湧いてしまったのだ。彼女がハニートラップなのか、それとも本当に好意を寄せてくれているのか。“魔が差した”という風に捉えられても否定はできない。手首の傷はたまたまなのか、それとも俺の運命なのか。彼女の唇、俺の唇に触れそうになり――。遥花が、リビングに入ってきた。まるで不倫の現場を目撃したような顔をして。いや、実際に俺は、不貞行為をしようとしていたじゃないか。妻の顔を見た俺は、瞬間、混乱、焦燥が一気に噴き出した。タイミングの悪さに気が狂いそうになった。最終的に俺の感情は、怒りとなって爆発した。「佐野君を苛めるな!」自らの不貞を隠すように、俺は叫んだ。「佐野君に冷たくしたそうじゃないか。彼女は大事な社員だ! 傷つけるようなことをするな!」遥花は何も言わず、静かに部屋を出て行った。最悪だ。妻に対して最も取ってはいけない態度を取ってしまったことに、酷く後悔を覚えた。「大道寺……悠真さん、嬉しい! 私のために遥花さんを叱ってくれるなんて!」百合子はそう言い、俺を背中から抱きしめてくる。「よ、よせ!」と、気が動転したまま、強引に彼女を振りほどく。呆然とした様子でこちらを見てくる百合子を、俺もどんな表情で見れば良いのかわからない。「すまないが、今日はもう帰ってくれないか……ドライバーに送らせるよ」そう言い出すのが関の山だった。百合子は急に冷めたような顔になりながら、「かしこまりました。悠真……大道寺さん」と、素直に応じた。やけにあっさりしている。やはり彼女は、ただのハニートラップだったのだろうか? 玄関に落ちた封筒も律義に拾い上げると、さっさと屋敷から出ていく。車が去っていく様子を眺めながら、所在なく、俺は数週間ぶりのショートホープに火をつけた。久々に肺に入ってくる甘ったるい煙はやや重く、ゴホッとむせてしまった。※
しばらくして遥花の部屋に向かう。行き違いから少し揉めてしまった後で、妻は俺に離婚届を突き出してきた。その瞳には、迷いがなかった。「離婚しましょう」。瞬間、俺の心が凍りついた。「今度は、離婚だって? そんなことしてどうする」俺は叫んだ。心にもない言葉が次々に出る。「慰謝料でもせびるつもりか?」「スキャンダル狙いってわけか?」「お前ならやりかねないな!」遥花の顔が、絶望に歪んだ。まるで、俺が知らない男になったかのように、彼女は俺を見た。すべてが俺の思惑とは逆の方向に行く。こんな最悪な日が今まであったろうか?これが、俺の運命か?舐めやがって――そう感じた俺は、止まらなかった。離婚届に署名し、銀行カードを投げつけた。「この二年間、“よく尽くした妻”への支払いだ。存分に使えよ」彼女がカードを拾う姿を見ながら、俺は努めて無感情でいようとした。「……痛っ」と言った彼女を見ると、カードの端で指を切り、血をこぼしていた。赤い一滴が、カーペットに落ちる。それでも俺は「ほらな、やっぱり金を取る」と無慈悲な言葉を投げつけた。遥花はその後、無言で荷物をまとめた。スーツケースのジッパーを閉める音が、静かな部屋に響く。その音で、俺はハッと我に返る。何もかもが終わってしまう気がした。「どこに行くつもりだ?」俺は叫ぶ。「お前はまだ俺の妻だ、離さないぞ!」その言葉で、その場に膝をつく遥花。溢れる涙、震える肩。彼女の、本当の姿を見た気がした。裏表のない彼女は、本当にただ誠実なだけの女だったのではないか。真摯に俺に向き合い、愛してくれたのに、どうしてこんな仕打ちを受けねばならないのか。俺はなんて悪党なんだ。だが、彼女はすぐに立ち上がると、部屋を出て長い廊下を走り、玄関を出ていった。一度も振り返ることもなく。百合子を送ったあとで、ドライバーはすでに帰ってきていた。その車に、今度は遥花が乗り込む。いつものプチ家出じゃない。今度こそ、彼女は戻らない。車が遠ざかるのを見ながら、胸に確かな後悔が芽生えた。百合子の傷跡は本当にあの日の少女のものか、それともハニートラップか? 遥花の瞳に宿る決意は何だったのか、まだ俺が知らなかった何かじゃないのか?俺は一体、本当に大切なものをいくつ失ったんだ?ふと手にした2本目のショートホープを、もう火をつける気にもなれず、ただただ東京のつまらない星空を見上げていた。【2026年1月】冬の陽射しは冷たく、墓地の石碑に白い影を落としていた。香澄の墓前には、家族みんなが揃っていた。悠真、蓮、菖蒲、そして私。今日は香澄の四十九日。去年の11月、彼女は静かに息を引き取った。墓石には「遠藤香澄」と刻まれている。香澄と反町家の関係は、香澄が亡くなる前からすでに切れていた。ネットブロード社がステアリンググループに対して起こしたハッキング攻撃は、すべて香澄の独断として責任を押し付けられる形となった。元夫であり、社長の創業者であった反町信弘氏は植物人間状態。それに代わり、会社の重役や幹部達、それに反町家の血縁者たちが徒党を組んで、香澄社長を追い出した。酷い話だが、香澄自身も死期が近かったとあって、マスコミなどの取材に煩わされることもなかった。ユナイトコーポレーションの買収の話も凍結され、ネットブロード社は今、再編に追われているが、もはや香澄とは無関係な話だ。ある意味では、香澄自身が望んだ通りの結末だったのかもしれない。彼女らしい、見事な幕引きだ。世間は、反町香澄なんて最初から存在しなかったかのように動き始めている。けれど私たちだけは――あの日、病室で最後に交わしたキスと抱擁の感触は、今も私の肌に残っている。菖蒲が小さな花束を墓前に置いた。彼女はもう10歳。去年のドラマが大ヒットして、天才子役としてますますオファーも増えて忙しくなっているのに、今日は撮影を休んで来てくれた。「香澄さん……お元気? 菖蒲、ちゃんと大きくなってるよ。ママとパパと、お兄ちゃんと、みんなで頑張ってるからね」菖蒲の声は少し震えていた。蓮は黙って菖蒲の肩を抱いた。蓮の『Phantom Guard』は警察のサイバー捜査に正式採用され、彼はもう「天才少年プログラマー」として有名人になり始めている。悠真は私の手を握っていた。総帥就任から数ヶ月、ステアリンググループは安定を取り戻した。社長令嬢である阿左美さんも蘇った霊視の力で手腕を振るいつつ、ユナイトコーポレーションの株価も回復傾向にある。「散々苦労かけさせられたが……ある意味では、お前のお陰で成長できたとも言える。ライバルとして、元友人として、お前を失って俺も辛く思っているよ、香澄……できればまた、若い頃の武勇伝でも語り合いたかったな」悠真の声は静かだった。私は彼の肩に頭を預けた。「カッコつけてるけど、昨日の
私の手は、遥花の細い首に絡まっていた。指先に、彼女の脈が伝わる。温かくて、速くて、生きている証。なのに、私はその脈を止めようとしていた。 「わかったわ、遥花……ありがとう。それなら私の手で、殺してあげる」 声は震えていた。自分の声なのに、どこか遠くから聞こえるようだった。sophilaの冷徹さも、過去の香澄の優しさも、もう混ざり合って一つの私になっているはずなのに、今この瞬間だけは、どちらでもない何かだった。 遥花の瞳が、驚きと悲しみで揺れる。彼女は抵抗しない。ただ、私を見つめている。その目が、私の心を抉る。 「……香澄……?」 彼女の声が、かすれる。首を絞める力が、徐々に強くなる。息が詰まる音がする。遥花の顔が、赤くなる。涙が、一筋、頬を伝う。 その涙を見た瞬間、何かが弾けた。 ――できない。 手から力が抜けた。指が、勝手に離れる。遥花は大きく咳き込み、ベッドに倒れ込んだ。彼女の胸が激しく上下する。息を吸うたび、喉が鳴る。 私は、自分の手を呆然と見つめた。 「ごめんね……」 声が、震えた。涙が、ぽろぽろと落ちる。遥花は咳をしながら、私を見上げた。首に赤い痕が残っている。それを見ただけで、また胸が裂けそうになる。 「遥花……ごめん」 私は、彼女の体を抱き寄せた。遥花はまだ息を荒げながら、私の胸に顔を埋めた。 「香澄……」 「遥花を殺すなんて、できない。あなたに生きていてほしいから。私はあなたと共に生きられない。それならせめて、一生私のことを想って、ずっと引きずったまま生きていて欲しいと思うの。ごめんね、それが私のワガママ」 遥花の肩が、震えた。彼女は、私の胸に顔を押しつけて、泣きじゃくった。 「そんな……そんなワガママ、許さない……」 「許さなくていい。でも、私の願いはこれだけなの。遥花が、私を忘れずにいてくれること。蓮と菖蒲が大きくなって、私のことを話してくれること。悠真が、遥花を支え続けてくれること」 私は、遥花の髪を撫でた。彼女の涙が、私の病衣を濡らす。 「遥花……最後に、ひとつだけお願い」 遥花は、顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃの顔が、愛おしい。 「なに……?」 「私を抱いて。最後に、一度だけ……」 遥花の目が、揺れた。でも、すぐに頷いた。 「うん……」 私
【2025年11月】 病院の個室は静かで、白いカーテンが柔らかい陽射しを遮っていた。香澄はベッドに横たわり、点滴のチューブが腕に繋がれている。顔色はまだ青白いが、目だけは昔のままの優しさを取り戻していた。 私はベッドの脇に座り、香澄の手を握っていた。彼女の指は細くて冷たい。でも、握り返してくれる力が、確かにあった。 「遥花……ありがとう。来てくれて」 香澄の声は弱々しかったが、穏やかだった。私は微笑んで、首を振った。 「ありがとうはこっちよ。戻ってきてくれて」 香澄は小さく笑った。目尻に、涙が溜まる。 「戻れたのは、遥花のおかげ。蓮の作ったアプリがなかったら……私はまだ、sophilaのままでいた」 蓮のアプリ。あの子の執念が、封印を解いた。統合の瞬間、香澄の体が震え、過去の香澄とsophilaが一つになった。あのときの衝撃で、腫瘍が一気に悪化した。医師の診断は、残酷だった。 「脳腫瘍、末期です。手術はもう不可能。余命は……数週間から数ヶ月」 その言葉を聞いたとき、私は膝から崩れ落ちた。香澄はベッドの上で、静かに泣いていた。 でも、今は泣かない。泣いている暇はない。残された時間を、一緒に過ごすために。 「香澄……私たち、残された時間を一緒に過ごそう」 私は、香澄の額にそっとキスをした。彼女は目を閉じて、頷いた。 「うん……お願い」 ※ 病院の廊下で、蓮と菖蒲が待っていた。菖蒲はマネージャーの奥野さんと一緒に来ていて、今日は撮影の合間を縫って駆けつけた。 「ママ! 香澄さん、どう?」 菖蒲が駆け寄ってきて、私の腰に抱きつく。私は菖蒲を抱き上げて、頷いた。 「少し落ち着いたわ。ありがとう、来てくれて」 蓮はノートパソコンを抱えたまま、静かに言った。 「遥花……ステアリンググループの件、終わったよ」 私は目を丸くした。 「終わった……?」 蓮はパソコンを開いて、画面を見せてくれた。株価チャートが、急回復している。赤かった線が、緑に変わっていた。 「香澄さんのサーバーから抜き出した不正データ、全部公開した。ネットブロード社のハッキング証拠も、警察に提出した。ユナイトコーポレーションの買収計画は凍結。総帥に就任した悠真……父さんの采配もうまくいってる」 菖蒲が目を輝かせた。 「すごーい! ざあこお兄ちゃん、めっちゃカッコい
頭が割れそうだった。 膝をついた瞬間、世界が音を失った。社長室の床が冷たくて、指先が震える。遥花の声が遠くから聞こえる。 「香澄……過去のあなたを、解放するわ。もう、恐れなくていい」 その言葉が、胸の奥に突き刺さった。次の瞬間、私の意識は体から引き剥がされた。暗闇の中に落ちていく。まるで深い井戸の底へ、ゆっくりと沈んでいくような感覚。 そこは真っ白な空間だった。どこまでも続く白い床と、白い天井。まるで病院の無菌室のようだ。 私は立っていた。黒いスーツを着た「反町香澄」――sophilaの私が。 そして、向かい側にもう一人の私がいた。白いワンピースを着た、遥花の恋人だった頃の、柔らかい笑顔の香澄。 二人の私が、静かに向き合っていた。 「……やっと、会えたね」“過去の香澄”が、優しく微笑んだ。私は、唇を歪めた。 「会いたくなんてなかった。私は弱い。すぐにあなたに頼ってしまう。だから……」“過去の香澄”は、静かに首を振った。 「あなたが私を封印したせいで、遥花は泣いたわ。私が、遥花を悲しませてしまった」 怒りか、悔しさか、自分でもわからない。 「違う、あなたじゃない! 遥花を悲しませたのは私のせい……私は、あなたを独占しようとしたの!」 しかし“過去の香澄”が否定する。 「あなたはただ、強くあろうとしただけ。弱いままじゃ、遥花を幸せにできない。隆一に作られた道具のままじゃ、彼女を傷つけるだけだと思った。だから、私を封印したんでしょ。強くなって、すべてを壊して、遥花を自由にしてあげようとしたんじゃない」“過去の香澄”がゆっくりと近づいてきた。彼女の瞳は、涙で濡れていた。 「違うわ。私は、ただ怖かったのよ。弱いままで、遥花に嫌われてしまうのが。遥花に、愛され続ける自信がなかった。だから、あなたを閉じ込めて、強がった。復讐なんて、ただの言い訳。本当は、遥花に触れたくて、抱きしめたくて、でも怖くて……」 白い空間に、私の声が反響する。頭痛が、再び激しくなる。腫瘍が、脳を締め付ける。“過去の香澄”は、悲しげに微笑んだ。 「もう、いいのよ。遥花が来てくれた。彼女は、私たちを愛してくれている。sophilaも、香澄も、全部愛してくれているって……抱きしめてくれた」 その瞬間、外の世界から、遥花の温かさが流れ込んできた。彼女の腕の感触、唇の柔ら
朝の陽射しがカーテンの隙間から差し込む。リビングのテーブルに、蓮と菖蒲の朝食を並べながら、私は静かに息を吐いた。今日は香澄に会いに行くと決めた日。「ママ、どこか行くの?」菖蒲が目をこすりながらリビングに入ってきた。彼女の髪は寝癖で跳ねていて、いつものように可愛い。私は微笑んで、菖蒲の頭を撫でた。「うん、ちょっと用事でね。一人で出かけてくるわ」菖蒲の目が、大きく見開かれた。「え……一人で? また、帰ってこないつもり?」「心配しないで、夕方には帰るから」菖蒲は、唇を尖らせた。「ママ……絶対帰ってきてね。菖蒲、ママがいないと寂しいもん」その言葉に、胸が締め付けられた。菖蒲の小さな手が、私の服の裾を握る。私はしゃがんで、菖蒲を抱きしめた。「うん、絶対帰ってくる。菖蒲と蓮とパパと、一緒にいるよ」蓮が階段を降りてきた。ノートパソコンを抱えている。「遥花……僕のアプリで、香澄さんの位置は追えるよ。リアルタイムで。危なくなったら、すぐに連絡する」蓮の声は、落ち着いている。でも、目が少し赤い。私の決意を、止める気はないみたいだ。「ありがとう、蓮。頼りにしてるわ」悠真は、朝から会社に出かけていた。昨夜、すべてを話した。香澄に会いに行くこと。過去の香澄を救うために、一人で行きたいと。彼は悩んでいたようだが、もう私を止めることはしなかった。ただ、「気をつけて。帰ってきてくれ」とだけ言った。家を出た。菖蒲は玄関で手を振って、「ママ、絶対帰ってきてね!」と泣きながら叫ぶ。蓮は「アプリで追ってるから、大丈夫だよ」と静かに言いながら、私に笑顔を向けてくれた。電車の中で、過去の記憶が蘇る。香澄と出会った子供の頃。彼女はいつも明るくて、私の厳しい家庭環境を笑い飛ばしてくれた。香澄は、私の初めての友達……そして私が双子を身ごもってから、とても短い間だけど、共に暮らし、共に双子を育て、そして愛し合った、かけがえの無い家族だ。今、香澄は反町香澄として、私たちの敵になっている。でも、私は信じている。彼女の中には、まだ過去の香澄がいる。sophilaが封印した、優しい香澄が。東京駅に着き、ネットブロード社の本社へ向かうタクシーの中で、蓮からLINEが来た。「遥花、香澄さんの位置は最上階の社長室。アプリでリアルタイム追跡中。……でも、解放アプリを入れるには、香澄さんのデバイ
学校から帰ってきて、すぐに自分の部屋にこもった。ノートパソコンを開いて、『Phantom Guard』のコードをいじり始める。 sophila――反町香澄社長のサーバーに侵入して、彼女の秘密を探る。最新のバージョンで、今度こそ突破してやる。 「よし……ファイアウォールの抜け道、昨日見つけたやつを使って……」 キーボードを叩く。画面にデータが流れ込んでくる。機密ファイル、ログ……そして、変なフォルダを見つけた。「Sealed Memory」って名前。封印された記憶? なんだこれ。 パスワードがかかってるけど、僕のアプリでクラック。開くと、中に古いプログラムのコードがいっぱい。洗脳プログラム……? プログラムの製作者の名前を見ると、“ryuichi”と記載されている。sophila自身が作ったものではない。 ログを見ると、sophilaが自分の意思でプログラムを起動して、過去の香澄の人格を封印した記録が残ってる。 「香澄は、自分の意思で過去の自分を封印してた……? どうして?」 さらに深く掘ってみる。プログラムのコメントに、sophilaのメモみたいなものが残ってる。「弱い自分を閉じ込めれば、私は強くなれる。遥花を傷つけないために」。 ……遥花? ママのこと? sophilaは、ママを傷つけないために、過去の香澄を封印した? でも、今のsophilaはママを傷つけるようなことばっかりしてる。矛盾してる。 「もしかして、封印したせいで、sophila自身がおかしくなっちゃったのかも……」 頭を掻く。この洗脳プログラムは、元々人格を操るためのものだったようだ。“ryuichi”というのが誰かはよくわからないが、ともかく第三者が作ったプログラムをsophila自身がいじったら、予想外の結果になったのかも。弱い自分を封印したつもりが、逆に強すぎる人格が暴走し始めた……みたいな。 「sophilaを倒すんじゃなくて、過去の香澄を解放すれば……元の香澄に戻れるかも」 閃いた。アプリをさらに改良して、封印データを解除するハッキングコードを書く。プログラムの構造を解析して、逆の動作をするように。理論上は可能だ。でも、実際にやるには、香澄のスマホかパソコンに直接アクセスしないと……。 「まずは、家族に話さないと」 リビングへ降りる。菖蒲はソファでSwitchや
【2015年12月24日(木)】日没から間もない東京は、イルミネーションで煌めいていた。六本木のけやき坂を彩る白い光と、赤い東京タワーのコントラスト。車窓から見える街は、まるで別世界だ。秘書の佐伯敏夫がハンドルを握る黒いセダンで外回りの最中で、いつものドライバーは、今日と明日は休暇を取っている。クリスマスを共に過ごす恋人や家族がいるようには思えなかったが、確かクリスチャンだと言っていたような気がする。通年通りということもあり、許可した。「例のクライアントは何と言ってる?」俺は後部座席から尋ねる。佐伯はバックミラー越しに、機械的な声で答えた。「我が社と契約する意向を固めたようです。彼ら
覗き穴の外に立つ人物の姿に、疑問と恐怖が湧く。嘘……何で? 数時間前にホテルで別れたときは、確か出張だと言っていた。なのにどうして彼――隆一が、私のアパートを訪ねてきているんだろう? しかも、こんな早朝に。本物か? 誰か別の人物がなりすましているんじゃ……あるいはドッペルゲンガー?「百合子、入れろ」胸がざわつく。隆一の声はいつも通り無機質だ。私は無言でドアを開け、彼を招き入れる。冷たい朝の空気が入り込み、部屋ごと震えるようだった。リビングまで通すと、隆一はソファに腰を下ろす。煙草の匂いがする。いつものセブンスター。私は躊躇したが、隆一に手招きされ、隣に座る。足が、不安と恐怖で震えてい
【2015年5月】離婚から3ヶ月、俺の生活は空虚だ。ステアリングタワーの最上階に君臨する父の冷徹な目や、ガラス張りのオフィスでの会議の重圧に追われる日々。「後継者たれ」という父の命令や、書類の山、数字の羅列。それが俺のすべてとなった。俺の離婚報道は、ささやかながら世間を賑わせた。離婚のきっかけや原因は何だったのかという突撃の取材も電話で舞い込むようになり、社員達にはすべてシャットアウトするよう通達された。それでも「モラハラが原因か?」「夫の不倫か?」などの記事が書かれ、もしかして遥花や百合子が記者に情報を売ったのかと慌てて雑誌を買い漁り、読み込んだりもした。だが載っている情報はどれもデタ
【2015年3月】前の客が吸ったのであろうタバコの香りが残る、安いビジネスホテルの窓から見える東京の街は、夜の光で冷たく輝いていた。こんなところに泊っているなんて悠真が知ったら、多少は気の毒に思ってくれただろうか。プチ家出の際も、贅沢はしなかった。冷たくされた腹いせに旦那の稼ぎで豪遊する妻も世の中にはいるようだが、それと同じことをするのは私のプライドが許さなかった。悠真に隠れて更新していたライフハック系ブログや、フリマアプリの収入ですべてまかなっていた。当然ながら、愛のない養父母の元へ帰るという選択肢は最初からなかった。今は悠真から渡された“報酬”でまとまったお金もあるが、すぐ手を出す気