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第4章:決意の代償*遥花

last update Last Updated: 2025-08-31 21:41:33

【2015年3月】

前の客が吸ったのであろうタバコの香りが残る、安いビジネスホテルの窓から見える東京の街は、夜の光で冷たく輝いていた。こんなところに泊っているなんて悠真が知ったら、多少は気の毒に思ってくれただろうか。

プチ家出の際も、贅沢はしなかった。冷たくされた腹いせに旦那の稼ぎで豪遊する妻も世の中にはいるようだが、それと同じことをするのは私のプライドが許さなかった。悠真に隠れて更新していたライフハック系ブログや、フリマアプリの収入ですべてまかなっていた。当然ながら、愛のない養父母の元へ帰るという選択肢は最初からなかった。

今は悠真から渡された“報酬”でまとまったお金もあるが、すぐ手を出す気にはなれなかった――数日前のあの夜、悠真の冷たい瞳と百合子の影を背に、家を飛び出した私。スーツケース一つでこのホテルに身を寄せ、新居を探す日々を送っていた。

双子を守るため、新しい人生を始めると決めたのだ。“報酬”は新生活の資金に充てたかった。

だが同時に、心のどこかで、悠真への愛がまだ疼く。借り物の身分で縛られた私でも、彼を愛していたのは本当だった。彼から受け取ったお金に手を出せないでいるのは、まだ未練があるからかもしれない。

それに、彼の言葉――「浅ましいよ、遥花」が、いまだに私の胸につっかえている。倹約も、その「浅ましい」という言葉を否定するための無駄な努力のように思えた。

とにかく、この過渡期のような日々も、じきに終わる。新しい部屋を見つけたのだ。狭いアパートだが、双子と私の未来を築くには十分だ。

翌日、契約のため、住民票を取りに区役所へ向かった。カウンターの職員が事務的な声で告げる。「道仲みちなか様――いえ、大道寺遥花様」と、いきなり旧姓で呼ばれて驚く。いや、旧姓はどちらだろう? 嫌な予感がした。

「どうやらお伺いした内容と齟齬があり、あなたはまだ大道寺家の籍に入られたままのようです。離婚届、提出されてませんね」

予感が的中し、心臓が止まりそうだった。悠真の怯えた瞳、最後の「離さないぞ」が頭をよぎる。あの言葉は、ただの気の迷いじゃなかったのか?

それに「役所には俺の方から出しといてやる」と、彼の方が言ったのだ。そんな言葉を信じた私が浅はかだったのか。

いずれにしても、私が動かなければこの借り物の婚姻関係は終わらない。双子の命を守るため、私はもう彼から独立すると決めたのに――。

突然、鋭い腹痛が襲ってきた。お腹を押さえるが、痛みは止まらない。視界が揺れ、意識が遠のく。「大丈夫ですか!?」役員の声が遠く聞こえる。次の瞬間、すべてが暗闇に落ちた。

目を開けると、白い天井と消毒液の匂い。知らない病院のベッドだった。医師が、穏やかだが心配そうな顔で私を見下ろしている。「大道寺さん、意識が戻ってよかったです」

だが、私は気が気じゃなかった。

「私……お腹に双子がいるんです! 子供は無事ですか!? 子宮頸管無力症で、リスクが高いって言われて……」

「安心してください、お子さんも無事ですよ」

言われて、安堵と恐怖が同時に押し寄せる。双子は無事。でも、この子たちの存在を、あの家に知られたくない。

「先生、このこと……夫には伝えていませんよね?」

「旦那さん? 緊急のため役所の方から連絡先をいただきまして、携帯電話にも職場にもかけてみたのですが、会議が長引いてると言われてしまいまして……」

「お願いです」私は医師の手を握り、声を震わせた。「私が妊娠していることは、誰にも言わないでください。夫にも、ステアリンググループにも」

医師は一瞬、驚いたように目を見開いたが、「何やらわけありのようですね。そもそも奥さんが倒れられたときに電話に出られない旦那さんなんて、おかしいと思ったのですが……」やがて何か納得したように、静かに頷く。

「了解しました、遥花さん。こういうとき、できればご家族のサポートを得ることが重要なのですが、そこに困難があるのであれば、今は母体の精神的な安定が一番の優先事項です。あなたの意志を尊重します」

その優しい声に、涙がこぼれそうになる。でも、泣くわけにはいかない。双子のために、私は強くならなければならない。

退院後、私は決意を固めた。悠真が動かないなら、私が動くしかない。ステアリンググループの若夫人という肩書きを、完全に捨てる時だ。ステアリングタワーの最上階、総帥――悠真の父のオフィスに向かった。秘書は驚いた顔をしながらも、私を通してくれた。

広大なオフィスに、総帥が座っていた。白髪交じりの髪、鋭い目。だが、私を見るその瞳には、いつもと違う柔らかさがあった。

「遥花君、急な訪問だな」総帥の声は低く、落ち着いている。「何か用か?」

私は深く息を吸い、言葉を紡いだ。

「総帥、婚姻契約の解除を申し入れます」

総帥の、白くて太い眉が上がる。私は続ける。「二年間、私は若夫人として務めました。でも、もうその役割は終わりです。悠真と築き上げてきた家庭は、私の居場所ではありませんでした」

養父母の「借り物の娘」という言葉、百合子の不倫の影、玄関の封筒――偽りに満ちたあの家を思い出す。もちろん、それらの話を打ち明けはしない。話したのは、すべて私の力不足であるという内容だ。それでも総帥は何かを察したように静かに聞き、深いため息をついた。

「君は惜しい人材だった。誠実で、知性がある。本当に、それでいいのか?」彼の声には、無念の色がにじむ。私は頷く。「はい。私の決意です」

翌日、再びステアリングタワーの会議室にて。総帥から呼び出された悠真が現れた。その顔は、怒りと混乱で歪んでいる。「また同情を買うつもりか?」部屋に入るなり、叫んだ。「俺を悪者に仕立てて、満足かよ!」

総帥は白い眉を上げて言う。

「悠真よ、遥花君はお前に対して何一つ不満は述べなかったぞ。なのに、その態度はなんだ。まるで聞いた話と違うな。これでは本当に、お前の方に非があったように見受けられるが」

ハッとして悠真は口をつぐむ。私も、そんな哀れな彼の姿は見たくなかった。かつての彼の姿を感じられないだけでなく、もはや本当に可哀そうなだけの人にすら思えてくる。

ただ、同情してもいられない。双子を守るため、強くならねば。静かに悠真を見つめる。自分でも想像以上に冷たい目をしてしまっていたのか、彼は一瞬、私を見て息を呑んだ。

「本日をもって、婚姻契約の解除を正式に申し入れます」私の声は淡々と響く。「ステアリンググループの“若夫人”という肩書きも、そこに付随する一切の権利・利益も、全て放棄いたします」

会議室の空気が凍りつく一方で、総帥は静かに頷く。離婚届は、すでに秘書の手に渡っている。悠真は何かを言い返そうとしているように見えた。だが、私の決意に圧されたのか、口を開くことはなかった。

彼の瞳に、怯えた光が揺れる。あの夜の「離さないぞ」という言葉を思い出すが、それがもう数十年も過去のことのように感じられた。

秘書の手から、同時にその場に呼び出されていた役所の職員の手に、離婚届が渡された。「確かに」と、職員の一言で、今度こそ私達の夫婦生活は幕を閉じた。

私は会議室の人々から背を向ける。ステアリングタワーのガラス窓から、東京の街が見えた。この借り物でしかなかった世界から、私は自由になる。双子と、私だけの新しい人生を始めるために。

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