寝室の空気が凍りつく。離婚届を前に、悠真は明らかに動揺した様子だった。だが、しばらくして。彼は頭を何度か振り、大きなため息をつくと、急に嘲るような笑みを浮かべてこう言った。「お前が、俺を捨てる気か?」その声は低く、拳を握りしめた手はわずかに震え、取り繕っているのがわかる。しかしその口から発せられる言葉は、相変わらず無慈悲だ。「遥花、お前はいつもこうだ。何を企んでる? この結婚だって、お前の養父母の――ルミナスコーポレーションの計画だったんだろ? それが……今度は、離婚だって? そんなことしてどうする。慰謝料でもせびるつもりか?」胸が締め付けられる。慰謝料? 私がそんなものを欲しがる人間だと? 悠真を愛していた。心のどこかで今も愛している。なのに彼の目には、やはり私は養父母の道具としか映っていないのだ。「いいえ。そんなもののためじゃない」私も声が震えたが、もう後には引けない。「親の都合なんて関係ない。私自身がもう、この家にいる理由を見いだせないの。だからよ」悠真の目が細まる。「理由を見いだせない、か」次の瞬間、彼の手が私の首に伸びた。「また新しい策略か? 今度は何を狙ってる!」指が食い込み、息が苦しくなる。でも、私は目を逸らさなかった。「あなたには本物の愛が必要なんでしょう?」言葉を喉から絞り出す。「あなたは、私より百合子さんが大切なんでしょう? なぜサインできないの? 私なんかと別れて、堂々と付き合えばいいじゃない!」悠真は怯えるような顔をした後、首から手を離した。一瞬だけ私から目を逸らしたが、じきにハッとしたような表情を浮かべ、「……なるほど、スキャンダル狙いってわけか?」彼の声が、鋭く切り込む。「俺が彼女と不倫してるとでも思ってやがるんだな……離婚して、俺を週刊誌に売り出す気だろう。お前ならやりかねないな!」慰謝料の次は、スキャンダル目的だと――正気だろうか?私の愛したあの優しい笑顔を、ほんの一瞬でも見せてくれた彼は、もうそこにはいなかった。目の前にいるのは別の生き物。冷たく、疑い深い、知らない男だ。絶望に打ちひしがれる私から、悠真は離婚届を奪う。ペンを握る手を震わせながら、乱暴に署名を殴り書き、しっかりとこちらに見せつけてくる。「これで満足か、遥花? 役所には俺の方から出しといてやるよ。ほら、ついでにお前への“報酬”だ!」彼の手から黒い銀行カードが投げられた。カードが大理石の床にカチンと音を立てて落ちる。「この二年間、“よく尽くした妻”への支払いだ。存分に使えよ」その言葉が、ナイフのように胸を刺す。慰謝料か、週刊誌の口止め料か。いずれにせよ、お金なんて欲しくはなかった。“こんなもの要りません”と、そう口にしかけた。だがそのとき、お腹にチクッと痛みが走る。ハイリスク妊娠だと――命に関わると言った医師の言葉が脳裏を駆ける。双子を守ると決めたのに。この子たちを守るのに、必ずお金は必要だ。離婚話を持ち出したのは、私の最後の賭けだった。その結果、勝ち得たものがこれだとするなら、最後につまらない感情で負けてしまってはいけない。屈辱だった。私一人ならプライドを優先しただろう。震える手でカードを拾い上げる。「……痛っ」思わず叫ぶ。カードの鋭い縁が指を切り、赤い血がカーペットにぽたっと落ちた。痛みはまるで、私の心そのものだ。「ほらな、やっぱり金を取る」悠真の嫌味が追い打ちをかける。「浅ましいよ、遥花。ルミナスと同じ、打算的な女だ」私の血を見ても、もはや動揺することもない彼。ならば私も、彼の言葉にもう動じない。強く生きると決めたのだ。双子を守るため、どんな屈辱にも耐え抜く。私はカードを財布に仕舞うと、静かにスーツケースに服を詰め始めた。豪華な寝室のシャンデリアが、冷たく光を投げかける。ステアリンググループの富を象徴するこの家から、すでに“私の居場所”という感覚が消えつつある。玄関で見たあの封筒が頭をよぎった。グループのロゴ、握り潰された角。百合子の企み――何か、隠されている気がした。これでステアリンググループとルミナスコーポレーションの蜜月も終わりかもしれない。でも、だからなんだと言うのだ。私を犠牲にした上で成り立っていたような栄光なら、私が壊してやったっていい。その権利があるはずだ。スーツケースに最後の服を詰めながら、ふと窓の外を見た。夜の東京が、きらめくビル群とともに広がっている。この家を出て、私は自由になる。双子の命を背負う重さも感じながら、子宮の痛みが決意を強くする。私は、もう戻らない。「どこに行くつもりだ?」私が服をしまうのを黙って見ていた悠真が、荷物がまとめ終わった瞬間、ようやく言葉を放つ。振り返ると、彼の目はどこか怯えた光で揺れていた。まるで、私が去ることで何か大切なものを失うと気づいたかのように。「お前はまだ俺の妻だ、離さないぞ」その言葉に一瞬、心が揺らぐ。愛していた悠真の面影が、怯えた瞳にちらつく。私は思わず、その場に膝をついてしまう。不意に涙が溢れた。我慢していたのに、堰を切ったように流れ出す。肩を震わせながら、子供のように泣きじゃくってしまう。でも、すぐに現実が押し寄せる。彼の腕にいた百合子、彼の冷たい言葉。私を「浅ましい」と嘲った男に、もう愛はない。今更「俺の妻だ」なんて言うのも気の迷いで、身を委ねれば、また拒絶されるのも目に見えている。今までずっとその繰り返しだった。何も答えなくていい。すぐに立ち上がり、スーツケースのジッパーを閉めた。その重い音を響かせた直後、部屋を出ていく。「お……おい、待て!」今更のように悠真が追いかけてくる。逃げるように長い廊下を走り、玄関を出る。「奥様、お出かけでございますか?」玄関の前で電子タバコを吸いながら待機していたドライバーの車に、黙って乗り込む。彼も何かを察したように、すぐに運転席に座った。「――とりあえず例のホテルまで向かいますが、それでよろしいですか?」「ありがとう。いつも悪いわね」そう言い、ドライバーにいくらかのチップを渡した。車が出る。今まで通り、プチ家出を決行したときと同じ流れだ。違うのは、もうこれが“プチ”ではないこと。本当に、二度と家には戻らないこと。察しのいいドライバーも、いつもより多めにチップを受け取ったことで気づいたろうか。車を飛ばしながら何も言わないのも優しさだろう。この家で最後に優しさを感じられた相手が、ただの使用人の一人だというのも、なんだか皮肉な話だ。とにかく、ようやくこれから私の新しい人生が始まる。双子と、私だけの人生が。これは絶望なんかじゃない。新たな希望の物語なのだ。必ずそうする。私が、そうしてみせる。
寝室の空気が凍りつく。離婚届を前に、悠真は明らかに動揺した様子だった。だが、しばらくして。彼は頭を何度か振り、大きなため息をつくと、急に嘲るような笑みを浮かべてこう言った。「お前が、俺を捨てる気か?」その声は低く、拳を握りしめた手はわずかに震え、取り繕っているのがわかる。しかしその口から発せられる言葉は、相変わらず無慈悲だ。「遥花、お前はいつもこうだ。何を企んでる? この結婚だって、お前の養父母の――ルミナスコーポレーションの計画だったんだろ? それが……今度は、離婚だって? そんなことしてどうする。慰謝料でもせびるつもりか?」胸が締め付けられる。慰謝料? 私がそんなものを欲しがる人間だと? 悠真を愛していた。心のどこかで今も愛している。なのに彼の目には、やはり私は養父母の道具としか映っていないのだ。「いいえ。そんなもののためじゃない」私も声が震えたが、もう後には引けない。「親の都合なんて関係ない。私自身がもう、この家にいる理由を見いだせないの。だからよ」悠真の目が細まる。「理由を見いだせない、か」次の瞬間、彼の手が私の首に伸びた。「また新しい策略か? 今度は何を狙ってる!」指が食い込み、息が苦しくなる。でも、私は目を逸らさなかった。「あなたには本物の愛が必要なんでしょう?」言葉を喉から絞り出す。「あなたは、私より百合子さんが大切なんでしょう? なぜサインできないの? 私なんかと別れて、堂々と付き合えばいいじゃない!」悠真は怯えるような顔をした後、首から手を離した。一瞬だけ私から目を逸らしたが、じきにハッとしたような表情を浮かべ、「……なるほど、スキャンダル狙いってわけか?」彼の声が、鋭く切り込む。「俺が彼女と不倫してるとでも思ってやがるんだな……離婚して、俺を週刊誌に売り出す気だろう。お前ならやりかねないな!」慰謝料の次は、スキャンダル目的だと――正気だろうか?私の愛したあの優しい笑顔を、ほんの一瞬でも見せてくれた彼は、もうそこにはいなかった。目の前にいるのは別の生き物。冷たく、疑い深い、知らない男だ。絶望に打ちひしがれる私から、悠真は離婚届を奪う。ペンを握る手を震わせながら、乱暴に署名を殴り書き、しっかりとこちらに見せつけてくる。「これで満足か、遥花? 役所には俺の方から出しといてやるよ。ほら、ついでにお前への“報酬”だ!」彼の
【2015年2月】朝の光がカーテンの隙間から差し込み、温かな腕に抱かれる夢を溶かした。目を覚ますと、頬に残る甘い感触が消え、冷たい天井だけがそこにある。胸が締め付けられるように痛んだ。隣の枕は、いつものように空っぽだ。夫の大道寺悠真(だいどうじ ゆうま)――ステアリンググループの御曹司であり、あの冷たい瞳の持ち主は、もう一ヶ月もこの東京・港区に構える屋敷に帰っていない。広い寝室に、私の吐息だけが響く。二年前、悠真との結婚を「愛の始まり」だと思った。ルミナスコーポレーションの経営者である養父母に育てられ、ビジネスの駒として厳しく躾けられた私にとって、この婚姻は初めて「本当の家族」をくれる希望だった。でも、それは悪夢の始まりだった。「お前は借り物の娘だ」「恩を返せ」。養父母の声が今も耳に残り、企業間の冷たい取引の記憶が時折よぎる。私の愛だけは、借り物なんかではない、私自身のものだと思っていた。そう思いたかったのに。再び夢の中へ戻りたいという欲望に駆られる。“好きだよ、愛してる”と、甘い声で囁きながらベッドの中で深く私を抱きしめてくれた悠真。そんな彼とはもう、夢の中でしか会えない。そもそも結婚当初の彼も、実際にそんな風だったろうか。もはや過去を美化しすぎた妄想か、ただの夢かとも思えてくる。ふと、お腹をさする。何やら違和感があった。最後に「あれ」がきたのはいつだったろう。季節やストレスなどの影響によって時期がズレることもあるが、心当たりがないこともなかった。悠真が酔った勢いで私を抱いたのは、まさに最後に彼が家に帰ってきた一ヶ月前だ。まるで性処理道具のように扱われ、私の心は打ちひしがれた。当然、避妊もなかった。「夫婦だろ。何を気にしてやがる」アルコール臭い息を吐きながら悠真は言った。わかっている。ステアリンググループという大きな組織の跡取りの妻として、子を為すことは私の義務だ。また、時には夫のストレスの捌け口になることだって妻の使命。それでも、彼の腕の中で愛を感じたかった。大切な夫婦の営みに、そうした心の安らぎを望むのは悪なのだろうか。許されないのは、私が所詮“借り物”の存在に過ぎないからなのか。気怠さを振り払いながら、近くの産婦人科の予約を確認する。予感が的中したとしたらどうしよう。わからない。ただ、先のことなど思案する余裕はなかった。午前中の予約