瑠璃は、まっすぐな視線で問いかけた。「クルーザーでの銃撃事件、あなたは無関係だったの?」瞬は首を横に振った。その目には、もはや怒りも嘘もなかった。「遥が言ってた通りだ。俺はずっと隼人に嫉妬していた。彼の方が人生うまくいってることに、君を手に入れたことに……」彼は自嘲気味に笑い、胸元にかけられた小さなガラス瓶を見つめる。中には、遥の遺骨の一部が収められていた。「やるべきことはもう全部終わった。あとは、贖罪のときだ」その言葉に、瑠璃は不安げに眉を寄せる。「瞬、何をするつもり?」瞬は何も答えず、ただ微笑みながらガラス瓶を指で撫でた。「遥なら、分かってくれるさ」その深い後悔と痛みは、言葉にせずとも彼の全身から伝わってくる。「目黒グループの全株式は、すでに君の名義に移してある。弁護士が手続きを進めてる最中だ。俺は違法なビジネスに手を出していたが、目黒グループの資金はクリーンだ。これからは君が管理してくれ」彼はまっすぐ瑠璃を見て、はっきりと言った。「千璃、ごめん」そう告げて、瞬は踵を返した。「瞬!」慌てて駆け寄ってきたのは祖父だった。その声に、瞬の背中がぴたりと止まる。細くて儚げな背中が、ひどく寂しく映った。「瞬、隼人はもういない。お前までいなくなったら、目黒グループはどうなる。お前が支えていかねばならんのだ」「千璃なら、俺よりもはるかに上手くやれる。それに——俺には、やるべきことがある」瞬はそう答えてから、祖父を見つめた。老いた顔には、無念と優しさが入り混じる。その姿に、瞬の瞳が濡れた。「伯父さん……俺は、ずっと誤解していた」「年長者が、若造の過ちをいちいち責めるか?瞬、お前はここに帰ってきていいんだ。ここは、お前の家なんだ」その言葉に瞬の胸が苦しくなる。「……それだけで、十分だ。もしチャンスがあるなら……必ず戻ってくるよ」必ず戻ってくる。彼は少し微笑み、再び歩き出す。だが、目黒家の鉄の門が見えた瞬間——視界がかすみ、彼の足はふと止まった。数日後。瑠璃は、いまだ隼人の死を受け入れられずにいた。しかし現実は、容赦なく彼女に突きつけられる。青葉がどれほど反対しても、祖父は目黒グループの経営権を彼女に託した。瑠璃は仕事に集中することで、痛みから逃れようとし
瑠璃は、隼人の写真にそっと触れていた指先を、ふと止めた。姿は見えなくても、その声が聞こえるより前に、彼女の脳裏には——この世で最も憎んでいるあの顔が浮かんでいた。「チッ、そんなに悲しんでるの?泣けるわ〜」恋華の得意げな声が、だんだんと近づいてくる。瑠璃は冷ややかな眼差しを向け、恋華の前に立ちはだかった。「出ていけ。ここは、あんたなんか歓迎しない」恋華は腕を組み、にっこりと笑った。「目黒さんとは一応お友達だったからさ。亡くなったと聞いて、手を合わせに来るのは、当然のことよ。常識でしょ?」そのまま彼女は線香を三本取り出し、火をつけようと進み出た。だが瑠璃は即座に手首を掴んで阻止する。「江本恋華、あんたが黒江堂の人間だからって、好き放題できると思わないで。この国はF国でも黒江堂でもない。うちの夫は、あんたみたいな恥知らずに弔ってほしくなんかない」恋華の手から線香を奪い、それを火鉢に投げ入れた。「出てけ」冷酷なその一言に、恋華の顔から笑みが消える。だが怒りが沸き上がるその時——「千璃、何してるのよ!」青葉が駆けつけてきた。「隼人の友達が弔いに来たっていうのに、なんて無礼な態度を取るの!?」彼女はいつだって瑠璃の敵になるなら、誰であれ味方をするタイプだった。恋華はすぐに悲しそうな顔を作る。「伯母さま、こんにちは。私は目黒さんの友人の江本恋華です。訃報を聞いて、本当にショックで……せめて線香を手向けたかっただけなのに、目黒夫人に出て行けと罵られました……」青葉はその言葉に冷笑する。「目黒夫人?この女が目黒夫人だって?冗談じゃない。隼人が死んだのは、全部この女のせいよ!」恋華はすっと目を見開き、あくまで知らなかったふりで言う。「えっ?じゃあ目黒さんの死って、この碓氷さんのせいだったんですか?」——彼女はとぼけたふりをしながらも、内心では面白がっていた。この騒ぎを引き起こした張本人であるくせに――。当初のターゲットは瑠璃。隼人が彼女を庇って銃弾を受けるとは、計算外だった。けれど、それがかえって恋華の欲望を刺激した。命をかけて愛する男——ますます手に入れたくなる。青葉は線香を三本取り、恋華に差し出す。「江本さん、私は隼人の母親よ。安心してお香を上げて。あの女がまた邪
瞬は、これは祖父による時間稼ぎだと疑った。だが、たかが数分。瞬は位牌の前に歩み寄り、手を伸ばすと——本当に、そこには透明な袋に入れられたメモリーカードが隠されていた。「これは当時、お前の父親が事故を起こした車のドライブレコーダーだ。これを見れば、すべてが分かる」手の中の小さなカードを、瞬はぼんやりと見つめた。心が揺れ、しばし呆然と立ち尽くす。やがて彼はノートパソコンを持ってこさせ、メモリーカードを差し込む。再生ボタンを押した瞬間、スピーカーから流れ出したのは——この世で最も懐かしい声だった。「安くん、お願い、やめて……瞬ちゃんには、私たちが必要なの……」瞬の母親の切実な叫び声が、震えるように響く。「静華……もう限界なんだ……この世界が、僕には辛すぎる……逃げたい……一緒に、終わりにしよう……」「ダメ!安くん!お願い、やめてえええ!!」——その叫びとともに、車内に響く衝突音。そして、それきり音は途絶えた。瞬は、パソコンの画面を見つめたまま動けなくなった。次の瞬間、彼の手から拳銃が落ちた。彼の体から力が抜け、膝をつき、親の位牌の前に崩れ落ちた。祖父は深いため息をつきながら口を開く。「お前をF国に送ったのは、お前の父親の遺言だった。彼は自分が成し得なかったことを、息子であるお前に託したかったのだ。将来、お前が立派な男になることを願っていた」F国にいた時、お前はわしの関心がないと思っていたかもしれない。裕福な家庭に生まれながら、なぜか節制を強いられ、自力で働くことを求められた。それはすべて、お前を鍛えるためだった。わしはずっと、お前の生活を影で見守っていた。毎日の様子は、報告を受けていた。お前は目黒家の血を引く者、わしの大切な甥だ。見捨てるわけがない。わしは、お前が戻ってきて、目黒家の後を継ぐ日を待っていた。だが……お前は、違う道を選んでしまった」——祖父は、瞬がF国で越えてはならぬ道を歩んでいたことを知っていたのだ。それでも責めなかった。何も言わず、ずっと待ち続けていた。祖父は瞬のそばに寄り、肩にそっと手を置いた。「瞬……今からでも、やり直せる」その優しい言葉に、瞬の瞳から、ついに涙がこぼれ落ちた。彼は位牌を見つめ、胸が引き裂かれるような痛みに襲われる。——何を恨み、何に囚われ
目黒家の祖父は、はっきりとした声で瞬を制止した。そして穏やかに瑠璃を背後に庇いながら、満足げに彼女を一瞥した。「お祖父様、ダメ……」「心配いらん」祖父は彼女を優しく宥め、怒りに目を曇らせた瞬へと、静かな目で向き直った。「このままだと、どうにもならんな。今こそ、お前にあの時の真実を話す時が来たようだ。でなければ、お前はさらに深みに嵌ってしまう」あの時の真実——その言葉に、瞬の引き金をかけていた指が、わずかに緩んだ。本当に……事故じゃなかったのか?瑠璃もまた驚きを隠せず、青葉でさえ思わず声を漏らした。「真実……って、まさか、爺さんが——」「黙れ!」邦夫が彼女を制した。瞬はなおも疑念を拭いきれずにいたが、それでも知りたい気持ちが勝っていた。「嘘で誤魔化すつもりなら、聞くだけ無駄だぞ」だが、祖父はその疑念を正面から受け止め、深いため息とともに、語り始めた。「そうだ、あれは事故などではない。人為的なものだった」その一言に、その場にいた者全員が息を呑んだ。本当に——作為的なものだったのか?だが瑠璃は、祖父がそんな人間ではないと信じていた。祖父は、過去を静かに語り出す。「当時、お前はまだ無垢で無邪気な子どもだった。優しい両親に愛され、家庭は幸せそのものに見えた。だが——それは、ただの表面だった。わしの父、つまりお前の曾祖父は、晩年にお前の父を得て、大変に溺愛していた。そして目黒集団のすべてを彼に任せると宣言した。だが、その偏愛こそが、悲劇の始まりだったお前の父は、もともとビジネスの世界には興味がなかった。彼が愛したのは芸術、絵を描くことだった。お前の母とも、画展で出会ったのだ。だが巨大な企業を継がされるという重責に押し潰され、彼はやがて、心を病んでいった。——うつ病になったのだ」うつ病——その言葉に、瞬の表情が急変した。「つまり、両親はその病気が原因で死んだと言いたいのか?」「そうだ」祖父は頷いた。「外から見れば、礼儀正しく穏やかな男だったが……実際には、彼は日々、薬を飲んでも効果がないほど病んでいた。お前の母親はそれを知っていたが、父を失望させたくなかった。だから二人で、誰にも真実を明かさなかった。そして、あの日——お前の父は、限界を超えた。出社する途中で、妻を連れて
かつては優雅で上品だった瞬。だが今の彼は、まるで別人だった。髭すら剃っておらず、だらしない姿。ただ、その眉間に残る鋭さだけが、かつての面影をわずかに残していた。彼はゆっくりと歩きながら、目黒家の本宅に設けられた隼人の霊堂を見ると、口元に皮肉な笑みを浮かべた。「隼人……やっぱりお前も、地獄行きからは逃れられなかったか」「瞬!あんたとこの女がグルになって、うちの息子を殺したんでしょう!」青葉は何の証拠もなく、全ての罪を瑠璃に擦りつけた。瞬は鼻で笑い、平然と屋敷の奥へと足を進める。その行く手を瑠璃が鋭い眼差しで遮った。「瞬……あなたは遥を殺した。十年以上もあなたを想い続けた、あの純粋な子を。地獄へ行くべきなのは……あなたよ!」瞬は微笑みながら、あっさりと認めた。「そうだ。遥を殺したのは俺だ。愛してくれた女を、俺は自分の手で殺した」——その言葉を聞いて、瑠璃の胸に走った痛みは、既に傷ついていた心をさらに抉った。「そんな……そんなにも軽く、自分の罪を語って……あなた、本当に罪悪感もないの?」「罪悪感?」瞬は嘲るように笑い、だがその目は真剣だった。「隼人の罪悪感は、君の許しと愛を得た。じゃあ俺の罪悪感には、一体何の意味がある?」そう言った彼の瞳が、少しだけ潤んでいた。……泣いている?「最後に一つ、やらなきゃならないことがある。それが済んだら……俺は、俺の行くべき場所へ行く」瞬はそう呟くと、目黒家の祖父に鋭い視線を向けた。その目の光を見て、瑠璃は何かを察し、急いで立ちはだかった。「瞬!やめて!これ以上、罪を重ねないで!」「罪を重ねたのはこいつだ。すべての悲劇は、この男が蒔いた種だ!」瞬の目は怒りと憎しみに満ちていた。邦夫も瞬の狙いに気づき、彼を止めに入った。だが瞬の方が早かった。彼は瑠璃をやさしく押しのけ、走ってきた邦夫に向かって彼女を突き飛ばした。「千璃、君を傷つけたくない。だが今日は、両親の無念を晴らさなければならない!」瞬は懐から拳銃を取り出し、それを祖父の胸元に向けて言った。「——祖霊堂へ行け」突然の銃口に、青葉と使用人たちは震え上がった。瑠璃と邦夫は、下手に動けなかった。祖父は眉をひそめたが、落ち着いた様子で拐杖をつき、瞬に従って祖霊堂へ向かった。
瑠璃の心に、突然ぽっかりと大きな穴が空いたようだった。季節は夏のはずなのに、まるで真冬のような冷たい風が体の中に吹き込んでくる。寒い……目の前も、暗く沈んで見えた。そんな時、勤が重苦しい表情で部屋に駆け込んできた。彼は瑠璃が目覚めているのを見て、すぐに近づいた。「救助隊が戻ってきました。いくつかの遺留品が見つかったので、奥様に警察署で確認していただきたいのです」瑠璃は悲しみに耐えながら小さくうなずき、勤のあとをついて警察署へ向かった。後ろからは、青葉の罵声が絶えず追いかけてくる。警察署では、彼のTシャツの破片や、血で染まった衣類の切れ端しか残っていなかった。出航の時に彼が着ていた白いTシャツは、すでに真っ赤に染まり、形もなかった。瑠璃は震える指で、その血に染まった布切れをそっと拾い上げた。涙は、いつの間にか頬を伝って落ちていた。「……隼人」もうこれ以上、見る勇気はなかった。ほんの数日前まで生きてそばにいた彼が、今はただの遺品になってしまっていたのだ。彼女は深く息を吸い、背を向けてその場を離れようとした——だが、その時、衣類の破片の中に、見覚えのある何かを見つけた。その場にしゃがみこみ、それを掴み上げる。——それは、あの書きかけの「栞」だった。彼はあの日、祖父のお墓の前で、自分の目の前でそのしおりを燃やしたはずだった。彼女への思いを、すべて断ち切ると、そう言っていた。けれど、どうしてこの栞がここにあるのだろう。まさか、あの時彼はただの仕草で、彼女に「栞を燃やした」と思わせただけで、本当は燃やしていなかったのか。彼女への想いも執念も、燃やして消えたのだと、そう誤解させただけだったのか。けれど実際には、栞は残っていた。そして彼の彼女への感情も、決して消えてはいなかった。瑠璃は、彼との新居のベッドに一人で横たわり、彼が使っていた枕に顔を埋めた。彼の残り香は、どんどん薄れていく。最後には、何も感じられなくなった。出航の前日、彼女は彼にひどいことを言って、頬を打ってしまった。——信じていればよかった。たとえ恋華と本当に何かあったとしても、彼にはきっと理由があった。どうして私はもう少し冷静でいられないの。どうして自分の感情を抑えられず、あなたを疑ったり、あなたの気持ちを問いただしたりし