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第15話

Auteur: 桔梗
文乃は御村家の家を一通り見て回り、芙実の持ち物が思っていたほど多くないことに気がついた。

いや、「多くない」なんてものじゃない。正確に言えば、芙実がここで暮らしていた形跡がまるでない。

女性用のスリッパもなければ、歯ブラシや歯磨きセットといった基本的な生活用品すら見当たらない。この家の持ち主が芙実と親しい間柄だったと知らなければ、最初から芙実なんて人間は存在しなかったんじゃないかとすら思える。

たぶん嘉之は、死んだ人の持ち物を不吉だと感じて、全部まとめて捨ててしまったんだろう。

でも、それならそれで都合がいい。わざわざ自分で片づける手間が省けたわけだから。

「引っ越し業者さん?今朝連絡した者だけど。住所を送るから、私の荷物をすぐに運んできて」

電話を切ると、文乃は家の中を見て回りながら、一番気に入った部屋を選び始めた。

そしてすぐに、二階の日当たりのいいベッドルームが目に留まった。この家の持ち主が特に大事にしていたらしく、内装も家具も最高級の素材で統一されている。しかも、大きなガラス窓から朝日が差し込み、部屋全体が明るく照らされていた。

ただひとつ残念なのは、その部屋の装飾がどこか上品で柔らかく、ひと目で「女性が住んでいた部屋」だとわかってしまうこと。

文乃はその雰囲気に、思わず吐き気を催した。

すぐさま階下へ降り、物置からペンキの缶を持ち出すと、その中身を壁やベッド、床へと乱暴にぶちまけた。真っ赤なペンキが部屋一面を血まみれのように染め上げ、ようやく彼女は動きを止めた。

明日には業者を呼んで、この部屋を完全にリフォームするつもりだ。芙実の痕跡を、跡形もなく消し去るために。

ベッドルームを出ると、文乃は隣の部屋に足を向けた。

そこはおそらく、赤ちゃん用の部屋として設計されたのだろう。先ほどの主寝室ほど広くはないが、光がしっかり入り、あたたかく優しい雰囲気に包まれていた。

文乃はすっかり気に入ってしまった。

部屋の中を見ていると、衣装棚の中に未開封の服がずらりと並んでいるのを偶然見つけた。サイズは小さいものから大きいものまであり、生まれて間もない赤ん坊から十七、八歳くらいの少年まで、成長に合わせて用意されたもののようだ。

文乃は心の中で、ふっと笑みをこぼした。

嘉之とあの死んだ女の間に子どもがいないことは、彼女も知っている。ということ
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