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第14話

Auteur: 桔梗
嘉之は突然手を伸ばし、鉗のような指で文乃の顎をぐいと掴んだ。そして無理やり顔を上げさせ、自分の目を見させた。

文乃は痛みに思わず低く呻き、混乱したまま目の前の男を見つめた。

「嘉之......な、なにしてるの......?」

芙実とよく似た泣き顔を目にして、嘉之の怒りはさらに燃え上がった。

彼は文乃の髪を掴んで洗面台に叩きつけ、そのまま顔を水の中に押し込んだ。まるで溺れさせるかのように強く――文乃のメイクが水で流れ落ちるまで、それをやめようとしなかった。

かつてはあんなにも優しくて、欲しいものは何でも与えてくれたはずの男が、今ではその瞳に憎しみと復讐心しか宿していない。

「最初から言ってただろ。金も権力も全部やる。ただひとつ、あの子の前で余計なことをするなって。どうしてそれすら守れなかった?」

嘉之は文乃に強い嫌悪感を抱いていた。だがそれ以上に、自分自身への憎しみのほうが強かった。

文乃が打算をもって近づいてきたことなど、最初から気づいていた。それを黙認し、彼女が好き放題に振る舞うのを見て見ぬふりをし、あげく芙実の主役の座まで奪って文乃に与えたのだ。

文乃にとって嘉之の反応はまったくの予想外だったようで、ようやく状況を飲み込んだ時、恐怖を必死に飲み込みながら、かつて芙実が嘉之を慰めた仕草を真似して、そっと彼の髪に手を伸ばした。

「芙実のことが辛いのは、わかる。でも、それって誰のせいでもないじゃない。あなたも言ってたよね?友達と飲んでたときに。『あの子はただの代わりだ』って......私はただ、芙実のことを思って真実を伝えただけ。芙実には芙実の人生がある。私が帰ってきた今、あの子が私たちの代わりになるなんて、おかしいよね?ねえ、嘉之......」

確かに、あの飲み会のとき、嘉之は酔っていて、文乃への気持ちを話していた。

「もし文乃と結ばれない運命なら、芙実と結婚するのも悪くない。俺に一途だし、どれだけ突き放しても離れようとしないんだ」

その時の情景を思い出すだけで、頭が爆発しそうだった。

実は、すべては嘉之の計画だった。

文乃が帰国した日、彼女はちゃんと説明していた。海外で男と付き合っていたなんて噂は全部嘘で、プロポーズもただの冗談みたいな演技だった、と。

けれどその演技を見抜けられなかった嘉之は腹いせにダイヤの指輪を買い、帰国するなり
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