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「蓮さん、あれが白衣のおじさんです!」森也が恐怖に引きつった声で叫んだ。蓮はとっさに森也を抱きかかえ、前へと駆け出した。廊下の両側には無数のドアが並んでいる。任務の指示は明確だ。「どれか一つの扉を選べ」というものだ。しかし、単に三十分間隠れるだけなら、わざわざドアを選ばせる必要などないはず。つまり、どの部屋を選ぶかが生死を分ける重要な鍵になる可能性が高い。背後から、白衣の怪物が猛スピードで迫ってくる。長く狭い廊下が、一瞬にして曲がりくねった配管のように歪んで見えた。前方に続く扉は果てしなく続いているように錯覚するほどだ。ふと、蓮はドアに部屋番号のプレートがついていることに気づいた。しかも、その番号には赤いものと黒いものがあり、規則性が見当たらない。彼は走りながら森也に尋ねた。「森也、この部屋番号に見覚えはある?」森也も怯えきっていた。「そ、それは……休憩室の番号です!」「その色のは何を表しているんだ?」蓮が問いかけた直後、背後から生臭い息遣いが吹きかかった。蓮は頭皮が痺れるような恐怖を感じ、反射的に森也を抱いたまま地面を転がり、白衣の怪物の背後へと回り込んだ。ドガンッ!間一髪だった。蓮は恐怖に目を見開きながら、怪物の昆虫のような手が振り下ろされ、コイルの巻かれたバトンが先ほどまで自分たちがいた場所を叩き潰すのを目撃した。床は無惨に砕け散り、耳障りな電流音が響き渡った。怪物の背中は腐乱して昆虫のよう変異しており、白衣からは得体の知れない液体が滲み出している。蓮は体を起こし、廊下の出口の方へと走ろうとした。背後から、老人のような笑い声が聞こえた。その声は優しげで、ぶつぶつと何かを呟いている。「若者、逃げることはない。その懐にいる子供を、ワシに預ければいいんじゃ」森也がビクリと震え、すがるような声を出した。「蓮さん、私を……私を見捨てないでください!」蓮は喉元まで込み上げてくる血の味を必死に飲み込み、強張った笑顔を作った。「ぜ、絶対にあなたを見捨てたりしないから……安心しな!」蓮が要求を拒否したからだろうか。白衣の怪物の声に、怒気が混じり始めた。「その子を……よこせぇぇ!」歪んだ廊下が再び激しく振動し始める。巨体でありながら、その動きは不気味なほど俊敏だ。すぐにまた、あの腐臭が漂ってきた。森也が絶叫した。
【実習会員・蓮が、担当生徒とのリンクに成功しました】【個別メインクエスト:枯れゆく花 開始します】【生徒・森也に最適な学習方法を見つけ出し、蕾が枯れ果てるのを防いでください】【任務失敗は、すなわち試練失敗とみなされます】冷ややかなシステム音が脳内に響き渡る。背後から、教壇に立つ教師が事務的な口調で尋ねてきた。「カウンセラーさん、その子はこのまま教室に残って、授業を受けさせますか?」蓮は眉をひそめた。森也の様子を見る限り、座学の効果は明らかに低い。だからこそ、彼の花は枯れかけている。これ以上、ここで時間を無駄にすれば、状況は悪化する一方だろう。そう判断して、蓮は森也の手を引いた。その瞬間、森也が苦悶の声を漏らしたのを蓮は敏感に感じ取った。「先生、お邪魔しました。この子は連れて行きます」……教室を出ると、スーツの男、厚化粧の女、そしてパーカーの男がまだ様子を窺っていた。スーツの男はすぐに愛想笑いを浮かべて近づいてきた。「おや、この子を選んだ理由を教えてもらえませんか?」蓮は瞬きをした。本能的に、このスーツの男のことは信用できないと感じている。とはいえ、今のところ確実な手がかりはない。多少の推測を共有することで、相手から情報を引き出せるかもしれない。「現実世界では漫画家をしててね。この子を選んだのは、絵を描くのが好きからなんだ」スーツの男は鋭く、すぐにその意図を察した。「なるほど。つまり、生徒の育成は趣味嗜好からアプローチできるとお考えで?」蓮はただ微笑むだけで、それ以上の説明はしなかった。その時、厚化粧の女が相変わらず見下したような態度で口を挟んだ。「なによ。ただのしがない絵描きじゃない。漫画家だなんて偉そうに」蓮は薄く笑って言い返した。「どんなに貧乏な絵描きでも、特別なお仕事で汗もかかずに、大金を得るのが得意な人よりは、よっぽど清潔だと思うけどね」女は瞬時に激昂し、掴みかかろうとしたが、スーツの男に制止された。「まあまあ。では、如月君。また今夜会いましょう」蓮は頷き、森也を連れてその場を離れた。すれ違いざま、あのパーカーの男の視線に蓮は一抹の不安を覚えた。漫画を描く上で、人物の微細な表情についての知識は必須だ。今のあの目つき……漫画であれば、快楽
「カウンセラーの皆さん、こちらはまだ担当が決まっていない生徒たちの資料です。ついてきてください」教頭の笑顔は一見すると温和に見えたが、その表情の裏に言葉にできない不気味さを蓮が感じ取った。同行する四人のうち、スーツの男が真っ先に後に続いた。少年は周囲を一瞥し、無言のまま歩き出した。女は少し苛立っている様子だ。化粧用のコンパクトをバッグにしまう際、その手が微かに震えていたのが見えた。口では強気なことを言っていても、内心はそうではないらしい。パーカーの男に至っては、すでに恐怖で肝を潰しているようで、瞬きすら忘れたかのように遠くを見つめている。……移動中、教頭はずっと説明を続けていた。この学校では、全ての生徒を校長の好む「完璧な子供」に育てるため、生徒一人につきカウンセラーを一名つけるのだという。カウンセラーは生徒に対して、成績や身体能力から、日々の食事に至るまで、全方面からの育成を行わなければならない。ただし、その育成方法について学校側は干渉しない。求められるのは結果だけで、生徒が校長を満足させさえすればいい。蓮は記憶を辿る。十五年前、彼はまだ八歳だった。あの頃……周り大人たちは、子供の勉強が大変だと言っていた気がする。しかし、教頭の言うような「放任主義」の教育方針など、十五年前の時代には考えられないことだったはずだ。……やがて、一行は校舎に到着した。「現在、中学一年一組の数名だけが、まだカウンセラーを必要としています」教頭は笑顔で目の前の教室を指差した。五人は、その声に促されて視線を向けた。窓ガラスが一瞬、光を反射したが、教室内の様子をはっきりと目にした瞬間、全員の顔色が一変した。手元の資料にある写真はどれも目鼻立ちのくっきりした可愛らしい子供たちだった。しかし……目の前にいる子供たちの顔には、目鼻立ちというものがまるでなく、その代わりについているのは花の蕾である。ある子供の蕾は枯れかけていて、ある子供の蕾は今にも咲き誇りそうだ。生命力に溢れて見える者もいれば、凋落し始めている者もいる。さらに異様なのは、彼らから色彩が完全に奪い去られていることだ。その白黒の姿は、まるで古い写真の人物のようで、色鮮やかな学校の風景から完全に浮いている。【警告、崩壊率2%】システム
三十分後、蓮は団地の入り口に立っていた。雨はまだ降り止まない。空気は霧で淀んでおり、視界は悪い。高層ビルに掲げられたネオンサインの光だけが濃霧の中で明滅している。突然、耳障りなクラクションが蓮の注意を引いた。かつては、多少なりとも生活感のあった団地が一瞬にして死のような静寂に包まれる。「ラビットヘッド」のロゴが入ったバスが濃霧を切り裂き、蓮の目の前に停まった。プシューッ!ドアが勢いよく開き、蓮は思わず身をすくませた。ゴクリ……蓮は唾を飲み込み、ポケットの中の果物ナイフを握りしめたまま、慎重にバスへと乗り込んだ。運転手は色あせた服を着て、目鼻立ちのないのっぺらぼうのような金属仮面をつけている。背後のドアが乱暴に閉まった。蓮は車内を見渡した。自分を含めて乗客は五人だけだ。そのうちの一人、スーツを着こなした男が眼鏡の位置を直し、上品な笑みを浮かべた。「君も試練に参加するのは初めてですか?早く座りなさい。このバスはスピードが出ますから」蓮は何度も頷いて礼を言い、足早にバスの最後尾へと向かった。やがてバスが発車し、蓮はようやく、前にいる四人の乗客を観察する余裕ができた。一人は、先ほど声をかけてきた温厚そうなスーツの男。彼は蓮に、クラブの逃走試練に参加するのは初めてかと尋ねてきた。もう一人は、明らかに怯える表情のパーカーの男。三十代くらいだろうか、目の下の隈が酷く、長い間眠っていないようだ。彼の体からは、飴のような甘ったるい匂いが漂っている。そして、派手な服装の美女が一人。熱心に化粧直しをしているが、身につけているのは中度汚染区域の住人には到底手が出ないブランド品ばかりだ。最後は八歳くらいの少年だ。半袖にリュックサック、ヘッドフォンという出で立ちで、狂ったように携帯ゲーム機を操作している。見たところ……皆、普通に見えるが、蓮は警戒を解くことができない。今の社会において、法律などとうの昔に機能を失っている。住む区域の汚染レベルが違えば、待遇や身分、家柄には天と地ほどの開きがある。しかも、そこから這い上がる術など皆無に等しい。誰もが面従腹背に慣れきっているのだ。それに慣れない者は、死んだか、狂ったか、あるいは崩壊寸前の精神状態で必死に耐えているかだ。ましてや……自ら進んでこん
「最近、放射線による変異性エリアにおいて、汚染指数が著しく上昇し……中度汚染区域管轄下のヘリオス貴族学園にて、教師による自傷・自殺が相次いで発生しています。初期判断では、すでに怪異禁域が形成された模様です。現在では学校および周辺施設の運営は停止され、隔離措置が取られています……以上、怪異調査局からお伝えしました」静まり返った診察室に、ラジオの無機質な声が響く。如月蓮(きさらぎ れん)は病室のベッドに横たわり、青白い顔で、肺の奥からせり上がる重苦しい痛みと窒息感に耐えていた。彼は検査機器の強烈なライトを見つめ、相手を安心させるような笑みを浮かべた。しばらくして、防護服に身を包んだ橘千暁(たちばな ちあき)が機器の電源を切り、深刻な表情で告げた。「数値を見る限り、すでに耐性ができてしまってるわ。新薬に変えなきゃ。そうしないと、三ヶ月も持たないかも」蓮は身を起こし、少し古びたパーカーを整えると、ベッドの脇に座ってヘラヘラと呟いた。「うーん……新薬って、結構高いんですよね……」千暁は息を呑み、その目に痛ましい色を浮かべた。「一本でおよそ100万円よ。こうしよう、とりあえず三ヶ月分の薬代を立て替えておくわ」蓮は少し小首をかしげ、笑顔のまま手を振って断った。「橘さんにそんな負担はかけられないですよ。父さんと母さんが言ってたんです。重すぎる恩は、返せなくなったら大変ですって。それに、橘さんは母さんの同僚だったというだけで、ここまで優しくしてもらって……これ以上は申し訳ないです」千暁は何か言おうとしたが、蓮は穏やかな口調でそれを遮った。「俺の漫画、もう審査段階に入ってるんです。掲載が決まれば、原稿料で薬代くらいは払えるようになりますから。安心してください!」千暁は諦めたように溜息をつき、渋々同意するしかなかった。蓮はまた笑って言った。「耐性がついたら、もう飲むのはやめときます。あの薬、すごく苦いですから」そう言いながら、蓮は千暁のデスクからキャンディを一つ手に取り、笑顔を見せた。「橘さん、今度ご飯、ご馳走になりますね!」千暁は目を赤くしながらも、去っていく蓮の背中を見送ることしかできなかった。そして、彼のために用意していた栄養キャンディをそっと引き出しに入れた。病院の廊下で、蓮は急患






