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第2話

作者: u_u
私は鼻で笑い、わざと強めに彼の腕を捻った。

「部下の奥さんなんだから。距離感、間違えないで」

「はいはい。奥さんの言う通り。ちゃんと気をつける!」

人前では冷静で近寄りがたいくせに、こうして二人きりだと子犬みたいに甘えてくる。

その姿に、さっきまでの苛立ちがすっと消えていった。

会社を出る前、私はもう一度振り返った。

南柚はその部長の隣に座り、何か耳打ちしていた。

距離が近く、あまりに柔らかい空気。

――きっと、私の考えすぎ。

ちょうど、娘は受験を控えている。

私は帰宅すると、さっそく栄養バランスのいい夕食を作ろうと思った。

けれど、肝心のレシピが見当たらない。

普段滅多に入らない書斎に入り、棚を引っかき回していると、一冊の分厚いノートが出てきた。

開いた瞬間、視界がじんわりにじんだ。

そこには、結婚してからの西洲が、毎晩私に宛てて書いた言葉がびっしり詰まっていたのだ。

――あぁ、この人は何も変わっていなかったんだ。

毎日一緒にいるからこそ、手紙を書く代わりに日記にしていたのだと気づき、胸の奥が暖かくなる。

午前中、疑った自分が情けなくて仕方なかった。

今日、伝えよう。

――お腹にもう一つ、新しい命がいることを。

その夜。

西洲は仕事で遅く帰ってきた。娘はすでに寝ている。

私を見ると、彼は嬉しそうに目を細め、額にそっとキスし、スーツとバッグを渡して風呂場へ向かった。

シャワーの規則的な音が響き、胸の奥にはゆっくりと甘い幸福が満ちていった。

娘を産んでからずっと望みながら叶わなかった二人目を、ようやく授かったのだ。

きっと西洲は、笑って泣きながら抱きしめてくれる――私は迷いなくそう信じていた。

その時、バッグの中から一枚の白い紙がひらりと落ちた。

私は滑るように拾い上げ、見る。

――エコー写真。

震える指先のまま視線を落とすと、名前欄には朝霧南柚と記されていた。

喉が締め付けられ、息ができなかった。

どうしてこれが彼のカバンに?

シャワーを終え、西洲が部屋に入る。

一歩踏み込んだだけで、私の様子が違うと悟ったようだ。

私の手から紙を取ると、一瞥し、無造作にベッドへ投げた。

「これ?知らない。多分、あいつが整理してる時に紛れたんだろ」

「そう。私も聞きたいわ。どうしてあなたが持ってるの?」

声が震え、叫ぶようになっていた。

西洲は呆れたように眉を寄せた。

「まさかまだ、俺と南柚を疑ってるのか?本気で?俺、疲れたんだよ。もういいだろ、彩葉」

そう言うと、私に背を向け、布団を被り、何もなかったように眠り始めた。

背中を向けられたのは、結婚して初めてだった。

時計の音だけが響く。

その隣で、私はひとり、指先まで冷えていくのを感じていた。

やがて微かな鼾が聞こえた。

――私の痛みに気づく気配もなく。

胸の奥に、言葉にならない亀裂が広がる。

気づけば、私は彼のスマホを手に取っていた。

ロック解除。

チャットを開き、検索履歴を遡り、そして消去されたログを見つめた。

何も残っていなかった。痕跡すら完全に消され、むしろその完璧さが不自然だった。

指が震えながら、最後のアプリを開いた。

――LINE。

トーク一覧は整然としている。

異性とのやり取りもない。

……なのに。

ちょうどその瞬間、画面がふっと明るくなり、ひとつの通知が浮かび上がった。

【寝た?今日はよく頑張ったね。お疲れさま】

【ところで、赤ちゃんが元気でよかった。嬉しい】

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