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第3話

作者: u_u
裏切りという現実はあまりにも衝撃的で、私は、一瞬それが現実だと理解できなかった。

気づけば、震える指でそのメッセージに【?】を返していた。

すると相手は何か悟ったのか、すぐにそのメッセージを取り消した。

その夜、私は一睡もできなかった。

隣で、西洲は半分眠りながら体勢を変え、いつものように私を抱き寄せて眠った。

昔なら、その腕を愛だと思った。

けれど今、私にはそれがただの習慣にしか思えなかった。

私は石のように硬直したまま、涙を止められずにいた。

どうすればいいのか、何も分からなくなっていた。

翌朝。

私の濃いクマに気づいた西洲は、そっと私を抱き寄せ、優しい声で宥めた。

「昨日は仕事がハードで、気が回らなかった。ごめん。もう怒るな。

南柚は会社に置かない。お前が嫌なら、それでいい」

そうやって彼は、いつだって完璧に私の不安を消してきた。

若い頃から、彼の周りには綺麗な女性なんて珍しくなかった。

でもそのたび、私の視線ひとつで彼は迷いなく距離を置いてくれた。

今回も同じだと思っていた。

私は笑顔を作り、彼のネクタイを整え、少しだけ頷いた。

「行ってらっしゃい」

「うん」

西洲は笑った。

もう若くはないけれど、その落ち着いた佇まいは今のほうが魅力的だった。

靴を履きながら、ふと思い出したように言った。

「そうだ。エステにまた二百万円入れておいた。暇な時に行ってこいよ」

――いつも通りの優しさ。

……なのに。

今日だけは、違う意味に聞こえた。

まるで、「老けたお前は見ていられない」と言われたようで。

私はぼんやりと彼の背中を見送り、窓ガラスに映る自分の顔を見た。

目尻の細かな皺。

どれほどケアしても、確実に増える年月の痕跡。

――私は老いたのだ。

娘は急ぎ足で玄関へ向かいながら振り返って言った。

「ママ、明日誕生日だから!忘れないでね!」

私は笑ったふりをして手を振り、扉が閉まる。

次の瞬間、私はほとんど走るように書斎へ向かった。

パソコンにパスワードを入力する。

20100701。

――四回目で開いた。

それは私たちが初めて手紙を交わした日付。

その事実に、ほんの少し救われそうになったのに。

画面が更新され、スクリーンセーバーに映ったのは南柚の笑顔だった。

呼吸が止まり、世界が沈む。

震える指でLINEを開く。

ログアウトされていない。

――私が書斎に入らないと知っているから。

トーク画面がリアルタイムで更新される。

その度、涙が落ちる音が聞こえた。

【会社着いた?私も赤ちゃんも会いたいよ】

【すぐ行く】

【ねぇ、いつ奥さんと離婚するの?会社でしか会えないなんて嫌。朝も夜も、ずっとあなたの隣がいい】

メッセージの流れが一度止まり、次に届いたのは彼の音声。

再生ボタンを押す。

西洲の声。

私に向けるときと同じ優しさで――いや、それ以上に甘かった。

【南柚、お前みたいに若い子が俺なんかに付いてきてくれるなんて、ありがたいよ。娘の受験が終わったら妻には話す。少し待っててくれ】

【それに……私生児でも、跡継ぎとして問題ない】

その瞬間。

私の中で最後の希望が静かに崩れ落ちた。

音声を何度再生しても、言葉の意味が理解できなかった。

一語一語は知っているのに、それが現実として繋がらない。

西洲は私と娘を愛していたはずなのに。

どうして。

どうしてこんなことをできるの?

あの日プロポーズしたとき、彼は言った。

「一生、真実の愛を誓う」と。

その声までも、もう嘘だったのだろうか。

私は椅子にもたれ、崩れ落ちるように泣いた。

声は出ないのに、涙だけが止まらなかった。

――そうか。

愛は存在した。

でも、愛は移ろう。

そして、残酷なほど簡単に消える。

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