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真心は移ろいやすい

真心は移ろいやすい

By:  u_uCompleted
Language: Japanese
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私は桐島西洲(きりしま さいしゅう)の手紙に、少しずつ落とされた。 一通、また一通――あの人は、そうやって私を手に入れた。 遠距離恋愛。 私たちは、あの四年間をひたすら信じて、耐えて、続けてきた。 今でも覚えている。 お急ぎ便で届いた便箋の手触りも、最後に必ず書かれていたあの言葉――【愛してる、西洲より】 だから私は、一度たりとも、彼の本気を疑ったことがなかった。 あの女に会うまでは。 私の娘より二歳年上の、まだ幼さの残る女。 彼の子どもを宿したそのお腹は、少しだけ膨らみ始めていた。

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Chapter 1

第1話

私は桐島西洲(きりしま さいしゅう)の手紙に、少しずつ落とされた。

一通、また一通――あの人は、そうやって私を手に入れた。

遠距離恋愛だった四年間。

結婚して十数年が過ぎたいまでも、私は当時受け取ったすべての手紙の内容と、最後に必ず添えられていたあの言葉を覚えている。

――【愛してる、西洲より】

だから私は、一度たりとも、彼の本気を疑ったことがなかった。

あのメッセージを見るまでは。

【会社に着いた?私も赤ちゃんも会いたいよ】

……

アメリカとの時差は14時間。

当時の私と西洲は、昼夜がひっくり返ったような生活を送っていた。

けれど彼は、私の生活リズムに合わせるために仕事を夜中にまとめ、時差があるのにまるで同じ場所にいるかのように寄り添ってくれた。

そして毎晩、必ず一通の手紙。

結びの言葉はいつだって決まっていた。

――【愛してる、西洲より】

四年間。

千四百六十二通。

すべて両面びっしりの文字だった。

私たちは、ほとんどの人が途中で諦めてしまう遠距離恋愛を乗り越え、そして結婚した。

隣で眠る西洲を見つめながら、私は思った。

十年以上経った今でも、彼は変わらず毎晩私を抱いて眠る。

その瞬間、下腹部に鈍い痛みが走った。

起き上がろうとすると、腕を引かれた。

「どこ行くの、彩葉?」

低く掠れた声。

私はくすぐったくなるほど幸せな気持ちで、小声で答えた。

「お手洗い」

「俺も行く」

私は暗い場所が苦手だということを、西洲はずっと知っている。

夜中に起きれば、必ず眠そうな目でトイレの前に立ち、私が出てくるまで待ってくれた。

戻ったころには眠気はすっかり消えていて、私は横向きになって彼の穏やかな寝息に耳を澄ませた。

――私は、きっと世界で一番幸せな女だ。

十年以上変わらず愛してくれる夫。

素直で優しい娘。

そして今、お腹には二人目の命。

神様がやっと私を許したのだと思った。

アメリカで留学中、家族を事故で一気に失い、生きる理由をなくした私を、支え続けてくれたのが西洲だったのだ。

得たものすべてが奇跡だった。

翌朝。

西洲はいつもと同じように、私にスーツを整えさせ、そして、当たり前のような仕草で額にキスを落として出かけていった。

朝食中の娘が目を細めてこちらを見て笑っていた。

「もう、見てるこっちが恥ずかしいよ、ママ」

私は笑いながら娘のおでこを指ではじいた。

そのとき、テーブルに忘れ物が落ちているのに気づく。

――書類だ。

私は急いで家を出た。

車はすでに走り去っていた。

彼らしい、抜けているところ。

タクシーで会社に着くと、受付の女性が目を丸くした。

「奥様……今日はどうされたんですか?」

「西洲の書類を届けに」

差し出そうとしたその瞬間、受付の彼女が妙に慌てた笑顔で言う。

「私が預かります!奥様はお帰りに――」

その過剰な親切が、逆に胸の奥をざわつかせた。

私は手を引っ込め、微笑んだ。

「いいわ。自分で行く」

「奥様!」

背中に声が飛ぶ。

不自然なほど必死な制止。

胸が冷える。

――嫌な予感。

ドアを開けた瞬間。

そこには、細くしなやかな体つきの若い女がデスクに腰掛け、西洲のネクタイを整えていた。

血が逆流したようだった。

世界が傾き、視界が揺れた。

「彩葉?」

西洲はすぐに私に気づき、立ち上がってそっと支えながらソファへ座らせた。

その顔には、いつもの優しい表情が浮かんでいた。

「どうしたの……?」

私は震える呼吸を整え、絞るように問う。

「それ、何をしてるの?」

答える前に、その女が振り返り、笑みを浮かべてお辞儀した。

「初めまして、奥様。私は桐島社長の新しい秘書、朝霧南柚(あさぎり みなゆ)と申します」

私は思わず眉をひそめた。すると、西洲が続けるように口を開いた。

「彼女はうちの部下の奥さんだよ。妊娠してるから、負担のない仕事を任せてるだけだ。ここにいた方が、旦那も余計な心配しなくて済むだろ?」

胸がすっと軽くなり、私は息を吐いた。

――疑う必要なんて、なかった。

「いくつ?」

私は何気なく聞いた。

南柚は微笑んだまま答えた。

「二十歳です。妊娠三ヶ月」

二十歳。

――うちの娘より、ちょうど二歳上。

私はゆっくりうなずき、彼女がヒールを鳴らして去っていく背中を見送った。

すると、西洲が頬を寄せ、冗談めかして言う。

「彩葉、まさか俺を疑った?」

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松坂 美枝
松坂 美枝
浮気して妻子に捨てられたクズの話 反省はしてるようだけど社会的地位は揺らいでないしすぐ立ち直りそう 娘ちゃんが健気だった 母子共に幸せであれ
2025-11-25 09:24:07
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第1話
私は桐島西洲(きりしま さいしゅう)の手紙に、少しずつ落とされた。一通、また一通――あの人は、そうやって私を手に入れた。遠距離恋愛だった四年間。結婚して十数年が過ぎたいまでも、私は当時受け取ったすべての手紙の内容と、最後に必ず添えられていたあの言葉を覚えている。――【愛してる、西洲より】だから私は、一度たりとも、彼の本気を疑ったことがなかった。あのメッセージを見るまでは。【会社に着いた?私も赤ちゃんも会いたいよ】……アメリカとの時差は14時間。当時の私と西洲は、昼夜がひっくり返ったような生活を送っていた。けれど彼は、私の生活リズムに合わせるために仕事を夜中にまとめ、時差があるのにまるで同じ場所にいるかのように寄り添ってくれた。そして毎晩、必ず一通の手紙。結びの言葉はいつだって決まっていた。――【愛してる、西洲より】四年間。千四百六十二通。すべて両面びっしりの文字だった。私たちは、ほとんどの人が途中で諦めてしまう遠距離恋愛を乗り越え、そして結婚した。隣で眠る西洲を見つめながら、私は思った。十年以上経った今でも、彼は変わらず毎晩私を抱いて眠る。その瞬間、下腹部に鈍い痛みが走った。起き上がろうとすると、腕を引かれた。「どこ行くの、彩葉?」低く掠れた声。私はくすぐったくなるほど幸せな気持ちで、小声で答えた。「お手洗い」「俺も行く」私は暗い場所が苦手だということを、西洲はずっと知っている。夜中に起きれば、必ず眠そうな目でトイレの前に立ち、私が出てくるまで待ってくれた。戻ったころには眠気はすっかり消えていて、私は横向きになって彼の穏やかな寝息に耳を澄ませた。――私は、きっと世界で一番幸せな女だ。十年以上変わらず愛してくれる夫。素直で優しい娘。そして今、お腹には二人目の命。神様がやっと私を許したのだと思った。アメリカで留学中、家族を事故で一気に失い、生きる理由をなくした私を、支え続けてくれたのが西洲だったのだ。得たものすべてが奇跡だった。翌朝。西洲はいつもと同じように、私にスーツを整えさせ、そして、当たり前のような仕草で額にキスを落として出かけていった。朝食中の娘が目を細めてこちらを見て笑っていた。「もう、見てるこっち
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第2話
私は鼻で笑い、わざと強めに彼の腕を捻った。「部下の奥さんなんだから。距離感、間違えないで」「はいはい。奥さんの言う通り。ちゃんと気をつける!」人前では冷静で近寄りがたいくせに、こうして二人きりだと子犬みたいに甘えてくる。その姿に、さっきまでの苛立ちがすっと消えていった。会社を出る前、私はもう一度振り返った。南柚はその部長の隣に座り、何か耳打ちしていた。距離が近く、あまりに柔らかい空気。――きっと、私の考えすぎ。ちょうど、娘は受験を控えている。私は帰宅すると、さっそく栄養バランスのいい夕食を作ろうと思った。けれど、肝心のレシピが見当たらない。普段滅多に入らない書斎に入り、棚を引っかき回していると、一冊の分厚いノートが出てきた。開いた瞬間、視界がじんわりにじんだ。そこには、結婚してからの西洲が、毎晩私に宛てて書いた言葉がびっしり詰まっていたのだ。――あぁ、この人は何も変わっていなかったんだ。毎日一緒にいるからこそ、手紙を書く代わりに日記にしていたのだと気づき、胸の奥が暖かくなる。午前中、疑った自分が情けなくて仕方なかった。今日、伝えよう。――お腹にもう一つ、新しい命がいることを。その夜。西洲は仕事で遅く帰ってきた。娘はすでに寝ている。私を見ると、彼は嬉しそうに目を細め、額にそっとキスし、スーツとバッグを渡して風呂場へ向かった。シャワーの規則的な音が響き、胸の奥にはゆっくりと甘い幸福が満ちていった。娘を産んでからずっと望みながら叶わなかった二人目を、ようやく授かったのだ。きっと西洲は、笑って泣きながら抱きしめてくれる――私は迷いなくそう信じていた。その時、バッグの中から一枚の白い紙がひらりと落ちた。私は滑るように拾い上げ、見る。――エコー写真。震える指先のまま視線を落とすと、名前欄には朝霧南柚と記されていた。喉が締め付けられ、息ができなかった。どうしてこれが彼のカバンに?シャワーを終え、西洲が部屋に入る。一歩踏み込んだだけで、私の様子が違うと悟ったようだ。私の手から紙を取ると、一瞥し、無造作にベッドへ投げた。「これ?知らない。多分、あいつが整理してる時に紛れたんだろ」「そう。私も聞きたいわ。どうしてあなたが持ってるの?」声が震
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第3話
裏切りという現実はあまりにも衝撃的で、私は、一瞬それが現実だと理解できなかった。気づけば、震える指でそのメッセージに【?】を返していた。すると相手は何か悟ったのか、すぐにそのメッセージを取り消した。その夜、私は一睡もできなかった。隣で、西洲は半分眠りながら体勢を変え、いつものように私を抱き寄せて眠った。昔なら、その腕を愛だと思った。けれど今、私にはそれがただの習慣にしか思えなかった。私は石のように硬直したまま、涙を止められずにいた。どうすればいいのか、何も分からなくなっていた。翌朝。私の濃いクマに気づいた西洲は、そっと私を抱き寄せ、優しい声で宥めた。「昨日は仕事がハードで、気が回らなかった。ごめん。もう怒るな。南柚は会社に置かない。お前が嫌なら、それでいい」そうやって彼は、いつだって完璧に私の不安を消してきた。若い頃から、彼の周りには綺麗な女性なんて珍しくなかった。でもそのたび、私の視線ひとつで彼は迷いなく距離を置いてくれた。今回も同じだと思っていた。私は笑顔を作り、彼のネクタイを整え、少しだけ頷いた。「行ってらっしゃい」「うん」西洲は笑った。もう若くはないけれど、その落ち着いた佇まいは今のほうが魅力的だった。靴を履きながら、ふと思い出したように言った。「そうだ。エステにまた二百万円入れておいた。暇な時に行ってこいよ」――いつも通りの優しさ。……なのに。今日だけは、違う意味に聞こえた。まるで、「老けたお前は見ていられない」と言われたようで。私はぼんやりと彼の背中を見送り、窓ガラスに映る自分の顔を見た。目尻の細かな皺。どれほどケアしても、確実に増える年月の痕跡。――私は老いたのだ。娘は急ぎ足で玄関へ向かいながら振り返って言った。「ママ、明日誕生日だから!忘れないでね!」私は笑ったふりをして手を振り、扉が閉まる。次の瞬間、私はほとんど走るように書斎へ向かった。パソコンにパスワードを入力する。20100701。――四回目で開いた。それは私たちが初めて手紙を交わした日付。その事実に、ほんの少し救われそうになったのに。画面が更新され、スクリーンセーバーに映ったのは南柚の笑顔だった。呼吸が止まり、世界が沈む。
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第4話
娘の受験が目前に迫っている――その事実だけが、私をなんとか現実に縫い止めていた。崩れ落ちたいほど苦しくても、泣き叫びたいほど惨めでも、私は飲み込むしかなかった。――娘の未来を守るために。その夜。西洲と娘はリビングで参考書を広げ、並んで問題を解いていた。まるで何一つ壊れていない家族の風景。私はその光景を見に行くことができなかった。寝室のドアを閉めたまま、息を潜めるようにそこへ座り込んでいた。――私は、どう向き合えばいいのだろう。――何を言えばいいのだろう。あれほど私を愛し、世界で一番大切だと言ってくれた人が、簡単に別の場所で「同じ言葉」を与えているなんて。時間がどれだけ経った頃だろう。ふいに背後に影が落ち、温い息が首筋を撫でた。「どうした?娘が言ってたぞ。夕飯も食べてないって。まさかダイエット?」私は薄く笑い、問い返した。「ねえ、西洲。私、痩せたほうがいい?」彼は気づかない。私の声に混じる棘に、ひとかけらも。軽く私を見回しながら、いつもの調子で笑った。「そうだな、もう少しウエスト細かったら完璧。冗談だよ。怒るなって」その気のないフォローが、逆に胸に突き刺さる。だから私は、わざと踏み込んだ。「細ければいいの?朝霧南柚くらい、細ければ」西洲の表情が、一瞬で凍りついた。私を抱いていた腕を離し、クローゼットへ歩いていき、ネクタイを外し始めた。「その名前、三日連続で聞いてる。いい加減にしてくれないか?」淡々と、しかし苛立ちを隠そうともしない声。「前にも言っただろ?あの子は部下の妻だ。妊娠中なんだ。それを俺に解雇しろと?もう限界だ。疲れてる。くだらない疑いに付き合う余裕なんてない」そう言ってネクタイを外すと、シャツをベッドに乱暴に放り、浴室へ向かった。扉が閉まる音だけが響く。私はその背中を見送ることしかできず――そして、笑った。皮肉に。悲しく。ああ、そうか。彼が私に与えてきた安心は、愛じゃなくて義務だったんだ。あの人の目には、私はただのしつこい女でしかない。いつからだろう。私が、彼の中で面倒な女になってしまったのは。唇を噛みしめ、溢れそうになる涙を必死に押し戻しながら、私はしゃがみ込み、床に落ちたネクタイを拾った。その瞬間、呼
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第5話
私は娘の頭をそっと撫でて微笑んだ。「何言ってるの。あの人はパパの会社の子よ。妊娠してるから婦人科にいただけ。この前、私が書類届けに行ったときにも会ったの」私が何でもないふうに言うと、娘は胸をなでおろして笑った。「よかった……ほんとに焦った。でもね、ママ。そんな日なんて来ないよ。パパはママが一番好きなんだから!」その言葉に、私は一瞬だけ動きを止め、そして微笑んで頷いた。「そうね」娘の部屋の扉を閉め、寝室に入った途端、堪えていた涙が一気に溢れ落ちた。――もし隠すつもりなら、どうして最後まで隠してくれなかったの?どうして、私と娘に気づかせるような隙を残したの?娘にまで信じ込ませるくらい、完璧な愛を演じておきながら、あなたは、本当に天性の役者だ。涙が乾いても、眠気は訪れない。私はただ、暗闇の中で横になり続けた。夜遅く、仕事を終えた西洲がベッドに入り、私の背後から腕を回す。「悪かった。今日はきつく当たった。仕事が立て込んでてさ」仕事?婦人科への付き添いが?心の中で毒を吐きながらも、私は何も言わなかった。しばらく沈黙が落ちたあと、私は小さく言った。「明日、娘の誕生日プレゼント忘れないで」「もちろん」空が白み始める頃になって、ようやく意識が落ちた。目を覚ましたときには、家の中にはもう私ひとりしかいなかった。しばらく天井を見つめたまま動けず、やっとの思いで身体を起こす。何をすればいいのかもわからない。何を考えればいいのかさえ、もう思い出せなかった。ぼんやりしたままスマホをいじっていると、突然通知が表示された。写真。最新モデルのカメラ。【娘への誕生日プレゼント。どう?よくない?】続けて送られてきたのは南柚が西洲の腕に寄り添った自撮り。背景は高級ブランドのカウンター。彼の手にはそのカメラの紙袋。胸の奥で何かが弾け飛んだ。私は震える手で返信した。【不倫して誇らしい?家庭壊して楽しい?】返事はすぐ来た。【男の心を掴めないほうが愛人。だから負けてるのはあなただよ】【家庭だけ守ってればいい女が、何を勘違いしてるの?西洲さんくらいの男、あなたに勿体ない】そして最後。【離婚して。じゃないと――娘さん、受験の前に壊れることになるよ】添付された
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第6話
西洲は一瞬目を丸くし、反射的に私から視線をそらした。低く冷たい声が落ちる。「最近のお前、本当に少しおかしい。少し頭を冷やしなよ。俺は書斎で寝る」それだけ言うと、枕と布団を抱えたまま背を向け、部屋を出て行った。残された私は、広すぎるベッドの真ん中にぽつんと座り込む。――いつからだろう。私たちの関係が、こんなふうにすり減り始めたのは。西洲と付き合い始めたのは、高校卒業のすぐあとだった。私は海外へ、彼は国内の大学へ進学した。周りの人たちは口を揃えて言った。「遠距離恋愛なんてやめておけ。あれは人間がやるもんじゃない」でも、西洲だけは笑って言った。「遠距離恋愛の99%は別れるらしい。でも俺たちは、その1%になる」そして――本当に、私たちはその1%になった。時差は十四時間。授業が詰まっているはずの彼は、私の生活リズムに合わせて早寝早起きを続け、無理やり時差を合わせた。遠距離恋愛だったはずなのに、いつの間にか同じ時間を生きる恋になっていた。当時、通信環境は今ほど便利じゃなかった。しかも西洲は貧しくて、買った安物の携帯はすぐ圏外になり、連絡が途絶えることもしょっちゅうだった。だから私たちは手紙を書いた。投函して、ひたすら待つ。今月出した手紙が届くのは、来月の終わり。それでも、気持ちは増えるばかりだった。異国の四年間は長く、そして孤独だった。言葉は通じない。友達もいない。夜になると胸の奥がきゅっと痛んだ。恋しさは、寒さみたいに骨に染みた。大学二年の時、私の人生は一夜で崩れ落ちた。父の会社が敵対企業に陥れられ、破産した。そしてその翌日、両親は揃って飛び降りた。その日から私は家も帰る場所も、何もかも失った。西洲はその知らせを聞くなり、貯金をすべて払い、急いでパスポートを取り、航空券を買い、大学に休学届を出し――たった一人で海を越えて来た。空港で彼の顔を見た瞬間、私は崩れるように泣きながら叫んだ。「西洲、私、もう帰る家がない……」西洲は私を抱きしめた。強く、壊れるほど、息が詰まるほどに。私をその胸に埋め込むみたいに。「俺が作るよ」震える声で、でも何度も、何度も。「俺がお前に家をあげる。だからもう大丈夫だよ、彩葉。俺がお前の帰る場所だ」
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第7話
まばたきをして、天井を見つめる。けれど眠気は一向に降りてこない。代わりに脳裏に浮かぶのは、恋人だった頃の甘い日々ばかり――西洲は、本当に私を大事にしてくれた。あの頃の彼は、両親よりも私を優先してくれる人だった。帰国してからは、私は西洲と一緒に起業した。ゼロから始め、資金もコネも何もない状態から――十年かけて、彼は上場企業の社長にまでなった。泣いた日も、笑った日も、苦しくて倒れそうな日も、甘くて胸がいっぱいになった日もあった。でも――たった一度も、愛がない日はなかった。今でも覚えている。いちばん貧しい頃、二人で一杯のうどんを分け合った晩ごはん。西洲は笑いながら言った。「俺、あんまり腹減ってない。さっき取引先と高級料理食べたから」――嘘だった。だって彼は、私が残したうどんごとスープまで綺麗に飲み干したのだから。食べ終わって、二人で顔を見合わせて笑った。何も言わないのに、全部分かっていた。少し生活が安定した頃、私はふざけ半分に聞いた。「ねえ。お金持ちになったら、家に本妻、外に愛人とかやるタイプ?」西洲は私の頬をむにっとつまみ、笑って言った。「そんなの、人として終わってるだろ。俺がここまで来られたのは、お前が支えてくれたからだ。だったら、ちゃんとその分返すのが男の筋ってもんだろ」真っ直ぐな視線、燃えるような誓い。私は彼を見上げ、静かに答えた。「返してもらわなくていいよ。最初みたいに、大事にしてくれるだけで十分」西洲は確かに約束を果たした。私は不自由なく暮らしてきた。でも、果たしていないものがひとつある。あの頃のままの想いだけは、もうどこにも残っていなかった。私は恋に盲目な女じゃない。昔、彼が仕事に没頭していた頃も、一人で海外出張し、自分の仕事を広げてきた。そして今、彼が浮気していると知っても、私は彼の謝罪なんて待たないし、戻ってくることを期待するつもりもない。――必要ない。翌朝すぐ弁護士を呼び、南柚から送られてきた証拠、そしてPCに残したすべての資料を提出した。もう若くはない。私には守るべき娘がいる。未来を選ばなきゃいけない。離婚届はすぐに整った。財産分与は、私が一割、彼が九割にした。家から追い出すつもりも、奪うつもりも
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第8話
きっと、私がこんな顔を見せるのは、初めてだったのだろう。西洲の瞳が瞬く間に赤く染まった。そして次の瞬間、鈍い音とともに、彼は私の前に膝をついた。「一度だけ、俺に償わせてくれ。なぁ、彩葉……お願いだ」掠れた声。必死の懇願。「俺たち、こんなに長い年月一緒に生きてきたんだ。お前なら俺の人間性だって知ってるだろ?今回だけなんだ。すぐにあの女のことは片付ける」真剣な表情なのに、私はふと、遠い記憶に引き戻された。結婚式当日。彼はこうして片膝をつき、指輪を掲げ、情けないくらい泣きながら言った。「ずっと大切にする。ずっと愛する。彩葉――俺と結婚してくれ」あのときの私は?泣きながら、彼を信じた。何の疑いもなく、未来全部を差し出した。そして今、残ったのは瓦礫みたいな結婚生活。「遅いのよ、西洲」私はゆっくりと言った。「酔ってミスした?ならそのとき謝ればよかった。妊娠?じゃあ、その瞬間に終わらせればよかった。会社に入れた?嘘を続けた?検査に付き添った?どうしてそこまでしたの――」私は彼をまっすぐ見た。「選択肢は、いくらでもあったのよ。でもあなたは一度も選ばなかった。なぜだか分かる?」沈黙。「それはね――私が絶対に気づかないと思ってたから。だって私が、あなたを信じきってたから。そして、あなたはもう、私を愛してなかった」最後の言葉は震えていた。涙が滲むなんて、馬鹿みたいだと思っても止められなかった。いい歳をして――恋で傷ついて泣いている自分が、情けなくて笑えてくる。でも、痛かった。苦しかった。西洲の大粒の涙が床に落ちた。そして彼は、手にした離婚届をぐしゃりと握り、乱暴に引き裂いた。「離婚はしない。俺はお前を手放さない。未来全部使って償う。だから――側にいてくれ」……話し合いは決裂した。私は娘の受験が終わったら、裁判に持ち込むと決めた。あと一ヶ月。――それくらいなら耐えられると思った。けれど、夜、同じベッドで横になりながら普通の夫婦を演じる時間は、吐き気がするほど辛かった。受験まであと一週間になった頃――西洲は突然言った。「南柚が流産した。もう終わらせる。彼女にはこの街を出てもらう。情緒不安定で、先兆流産になったらしい」――神様は、案外見てい
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第9話
西洲は離婚届にとうとうサインした。娘が受験を引き合いに出したからだ。けれど、署名された紙を見つめながら、私はなぜか胸がきゅっと痛んだ。悲しいのは離婚じゃない。私の自由の代償に、娘が自分の未来を賭けたこと。それが胸に刺さって仕方なかった。その夜、娘と同じ布団で眠った。小さかった頃と同じように私の胸に顔を埋め、「歌って」とせがむ。やさしく歌っていると、突然、娘が呟いた。「ママ。これからは私が、ママの唯一の味方だからね。だから何かあったらちゃんと言って。私のためなんて言い訳で、ごまかさないで」その言葉に、私は息をのんだ。そして涙のにじむ視界のまま、強く頷いた。「ごめんね。もう、隠さない」翌朝、西洲はスーツケースを持って家を出た。娘が「いると勉強の邪魔」と言ったからだ。去る前、彼は私がゴミ箱に捨てた婚約指輪を拾い、ひどく静かな声で言った。「受験が終わったら、戻る。彩葉……本当に、ごめん」私は返事をしなかった。ただ、十年以上指に馴染んだ跡が残る薬指を見つめた。あぁ――本当に終わったんだ。不思議と、空っぽにはならなかった。娘は受験前の追い込みに必死で、私は流産手術を終え体調を戻し――静かに、日常に向き合っていた。そしてついに、受験の日々が終わった。私は校門前で娘を待っていた。遠くから見つけ、思わず声を張り上げる。「こっちー!」娘は弾むように走り寄り、笑顔で私に飛びついた。「ママ、どうしよ。私、清城大学と東都大学どっち行こう?」私は彼女の鼻をつつき、笑った。「好きに選びなさいよ。天才様なんだから」そう言って振り返ったとき――目に入った。不自然なほど大きな花束を抱え、作り笑いを浮かべる西洲。周囲がざわつく。「えっ、桐島グループの社長じゃない!」「本物……写真よりかっこいい!家族想いとか羨ましすぎる!」「離婚なんてありえないよね、絶対愛妻家だもん!こんな旦那欲しい!」彼はその言葉を聞き、得意げに娘へと歩み寄った。「頑張ったな。これ、お前に」娘は花束をじっと見て、小さく笑った――冷たい笑いだった。「ふぅん。これ、パパが選んだの?それとも、あの人が?」西洲の笑顔が固まった。しばらく沈黙したあと、かすれた声で答える。「パパが
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第10話
私はゆっくりと言葉を吐き出した。「あなた、自分がどれだけ気持ち悪いかわかってる?家では私を抱きしめて愛してるって言って、会社ではその女といちゃついて。パソコンのパスワードは私たちが初めて手紙を交換した日。でも、スクリーンセーバーの写真は朝霧南柚。娘への誕生日プレゼントは彼女が選んだもの。私にくれた服だって――彼女とお揃い」私は吐き捨てるように笑った。「そんなことして……罪悪感、減った?気休めの公平ごっこで誤魔化せた?ほんと、胸が悪くなる。あなたと同じ空気吸うだけで吐きそう」西洲の顔から、みるみる血の気が引いていった。しばらくして、絞り出すような声。「ごめん」「えぇ。あなたは確かに私に酷いことをした。でも、もう謝らなくていい」そう言って私はシートベルトを外し、ドアに手をかけた。腕を掴まれ、振り返ると彼が必死に目を泳がせながら言った。「でも……俺が愛してるのはお前だけだ」「でも、あなたは裏切った」私は彼の手を振り払った。ドアを開け、家に入る。西洲はたぶん、本気で私を愛していたのだろう。ただ、私だけではなかったというだけだ。私はずっと信じていた。本物の想いは変わらないものだと。特に、自分に一途に見えた男ならなおさら――でも今思えば、それこそが一番の皮肉だった。離婚してからも、西洲は何度か家に現れた。でも私も娘も、見もしなかった。拒むほどに、彼は不思議と慣れていった。嘲笑にも、無視にも、冷たい言葉にも。なのに、笑っていた。――痛々しいくらいに。娘は遠い大学を選んだ。見送ったあと、私は航空券を買った。昔の仕事へ戻るために。昔の仕事仲間たちは、何度も連絡をくれていた。今回、私が向こうへ行くと知ったら――嬉しそうに大騒ぎしていた。渡航の準備をしていると、玄関のチャイムが鳴った。西洲だった。スーツケースを引く私を見て、彼は静かに言った。「空港まで送る」断る理由が思いつかず、私は頷いた。車内は終始静かだった。空港に着き、私はふいに口を開いた。「覚えてる?あのボロいアパートであなたが私に言った言葉」西洲は下を向いたまま、小さく答えた。「俺がここまで来られたのは、お前が支えてくれたからだ。だったら、ちゃんとその分返すの
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