LOGIN私は桐島西洲(きりしま さいしゅう)の手紙に、少しずつ落とされた。 一通、また一通――あの人は、そうやって私を手に入れた。 遠距離恋愛。 私たちは、あの四年間をひたすら信じて、耐えて、続けてきた。 今でも覚えている。 お急ぎ便で届いた便箋の手触りも、最後に必ず書かれていたあの言葉――【愛してる、西洲より】 だから私は、一度たりとも、彼の本気を疑ったことがなかった。 あの女に会うまでは。 私の娘より二歳年上の、まだ幼さの残る女。 彼の子どもを宿したそのお腹は、少しだけ膨らみ始めていた。
View More私はゆっくりと言葉を吐き出した。「あなた、自分がどれだけ気持ち悪いかわかってる?家では私を抱きしめて愛してるって言って、会社ではその女といちゃついて。パソコンのパスワードは私たちが初めて手紙を交換した日。でも、スクリーンセーバーの写真は朝霧南柚。娘への誕生日プレゼントは彼女が選んだもの。私にくれた服だって――彼女とお揃い」私は吐き捨てるように笑った。「そんなことして……罪悪感、減った?気休めの公平ごっこで誤魔化せた?ほんと、胸が悪くなる。あなたと同じ空気吸うだけで吐きそう」西洲の顔から、みるみる血の気が引いていった。しばらくして、絞り出すような声。「ごめん」「えぇ。あなたは確かに私に酷いことをした。でも、もう謝らなくていい」そう言って私はシートベルトを外し、ドアに手をかけた。腕を掴まれ、振り返ると彼が必死に目を泳がせながら言った。「でも……俺が愛してるのはお前だけだ」「でも、あなたは裏切った」私は彼の手を振り払った。ドアを開け、家に入る。西洲はたぶん、本気で私を愛していたのだろう。ただ、私だけではなかったというだけだ。私はずっと信じていた。本物の想いは変わらないものだと。特に、自分に一途に見えた男ならなおさら――でも今思えば、それこそが一番の皮肉だった。離婚してからも、西洲は何度か家に現れた。でも私も娘も、見もしなかった。拒むほどに、彼は不思議と慣れていった。嘲笑にも、無視にも、冷たい言葉にも。なのに、笑っていた。――痛々しいくらいに。娘は遠い大学を選んだ。見送ったあと、私は航空券を買った。昔の仕事へ戻るために。昔の仕事仲間たちは、何度も連絡をくれていた。今回、私が向こうへ行くと知ったら――嬉しそうに大騒ぎしていた。渡航の準備をしていると、玄関のチャイムが鳴った。西洲だった。スーツケースを引く私を見て、彼は静かに言った。「空港まで送る」断る理由が思いつかず、私は頷いた。車内は終始静かだった。空港に着き、私はふいに口を開いた。「覚えてる?あのボロいアパートであなたが私に言った言葉」西洲は下を向いたまま、小さく答えた。「俺がここまで来られたのは、お前が支えてくれたからだ。だったら、ちゃんとその分返すの
西洲は離婚届にとうとうサインした。娘が受験を引き合いに出したからだ。けれど、署名された紙を見つめながら、私はなぜか胸がきゅっと痛んだ。悲しいのは離婚じゃない。私の自由の代償に、娘が自分の未来を賭けたこと。それが胸に刺さって仕方なかった。その夜、娘と同じ布団で眠った。小さかった頃と同じように私の胸に顔を埋め、「歌って」とせがむ。やさしく歌っていると、突然、娘が呟いた。「ママ。これからは私が、ママの唯一の味方だからね。だから何かあったらちゃんと言って。私のためなんて言い訳で、ごまかさないで」その言葉に、私は息をのんだ。そして涙のにじむ視界のまま、強く頷いた。「ごめんね。もう、隠さない」翌朝、西洲はスーツケースを持って家を出た。娘が「いると勉強の邪魔」と言ったからだ。去る前、彼は私がゴミ箱に捨てた婚約指輪を拾い、ひどく静かな声で言った。「受験が終わったら、戻る。彩葉……本当に、ごめん」私は返事をしなかった。ただ、十年以上指に馴染んだ跡が残る薬指を見つめた。あぁ――本当に終わったんだ。不思議と、空っぽにはならなかった。娘は受験前の追い込みに必死で、私は流産手術を終え体調を戻し――静かに、日常に向き合っていた。そしてついに、受験の日々が終わった。私は校門前で娘を待っていた。遠くから見つけ、思わず声を張り上げる。「こっちー!」娘は弾むように走り寄り、笑顔で私に飛びついた。「ママ、どうしよ。私、清城大学と東都大学どっち行こう?」私は彼女の鼻をつつき、笑った。「好きに選びなさいよ。天才様なんだから」そう言って振り返ったとき――目に入った。不自然なほど大きな花束を抱え、作り笑いを浮かべる西洲。周囲がざわつく。「えっ、桐島グループの社長じゃない!」「本物……写真よりかっこいい!家族想いとか羨ましすぎる!」「離婚なんてありえないよね、絶対愛妻家だもん!こんな旦那欲しい!」彼はその言葉を聞き、得意げに娘へと歩み寄った。「頑張ったな。これ、お前に」娘は花束をじっと見て、小さく笑った――冷たい笑いだった。「ふぅん。これ、パパが選んだの?それとも、あの人が?」西洲の笑顔が固まった。しばらく沈黙したあと、かすれた声で答える。「パパが
きっと、私がこんな顔を見せるのは、初めてだったのだろう。西洲の瞳が瞬く間に赤く染まった。そして次の瞬間、鈍い音とともに、彼は私の前に膝をついた。「一度だけ、俺に償わせてくれ。なぁ、彩葉……お願いだ」掠れた声。必死の懇願。「俺たち、こんなに長い年月一緒に生きてきたんだ。お前なら俺の人間性だって知ってるだろ?今回だけなんだ。すぐにあの女のことは片付ける」真剣な表情なのに、私はふと、遠い記憶に引き戻された。結婚式当日。彼はこうして片膝をつき、指輪を掲げ、情けないくらい泣きながら言った。「ずっと大切にする。ずっと愛する。彩葉――俺と結婚してくれ」あのときの私は?泣きながら、彼を信じた。何の疑いもなく、未来全部を差し出した。そして今、残ったのは瓦礫みたいな結婚生活。「遅いのよ、西洲」私はゆっくりと言った。「酔ってミスした?ならそのとき謝ればよかった。妊娠?じゃあ、その瞬間に終わらせればよかった。会社に入れた?嘘を続けた?検査に付き添った?どうしてそこまでしたの――」私は彼をまっすぐ見た。「選択肢は、いくらでもあったのよ。でもあなたは一度も選ばなかった。なぜだか分かる?」沈黙。「それはね――私が絶対に気づかないと思ってたから。だって私が、あなたを信じきってたから。そして、あなたはもう、私を愛してなかった」最後の言葉は震えていた。涙が滲むなんて、馬鹿みたいだと思っても止められなかった。いい歳をして――恋で傷ついて泣いている自分が、情けなくて笑えてくる。でも、痛かった。苦しかった。西洲の大粒の涙が床に落ちた。そして彼は、手にした離婚届をぐしゃりと握り、乱暴に引き裂いた。「離婚はしない。俺はお前を手放さない。未来全部使って償う。だから――側にいてくれ」……話し合いは決裂した。私は娘の受験が終わったら、裁判に持ち込むと決めた。あと一ヶ月。――それくらいなら耐えられると思った。けれど、夜、同じベッドで横になりながら普通の夫婦を演じる時間は、吐き気がするほど辛かった。受験まであと一週間になった頃――西洲は突然言った。「南柚が流産した。もう終わらせる。彼女にはこの街を出てもらう。情緒不安定で、先兆流産になったらしい」――神様は、案外見てい
まばたきをして、天井を見つめる。けれど眠気は一向に降りてこない。代わりに脳裏に浮かぶのは、恋人だった頃の甘い日々ばかり――西洲は、本当に私を大事にしてくれた。あの頃の彼は、両親よりも私を優先してくれる人だった。帰国してからは、私は西洲と一緒に起業した。ゼロから始め、資金もコネも何もない状態から――十年かけて、彼は上場企業の社長にまでなった。泣いた日も、笑った日も、苦しくて倒れそうな日も、甘くて胸がいっぱいになった日もあった。でも――たった一度も、愛がない日はなかった。今でも覚えている。いちばん貧しい頃、二人で一杯のうどんを分け合った晩ごはん。西洲は笑いながら言った。「俺、あんまり腹減ってない。さっき取引先と高級料理食べたから」――嘘だった。だって彼は、私が残したうどんごとスープまで綺麗に飲み干したのだから。食べ終わって、二人で顔を見合わせて笑った。何も言わないのに、全部分かっていた。少し生活が安定した頃、私はふざけ半分に聞いた。「ねえ。お金持ちになったら、家に本妻、外に愛人とかやるタイプ?」西洲は私の頬をむにっとつまみ、笑って言った。「そんなの、人として終わってるだろ。俺がここまで来られたのは、お前が支えてくれたからだ。だったら、ちゃんとその分返すのが男の筋ってもんだろ」真っ直ぐな視線、燃えるような誓い。私は彼を見上げ、静かに答えた。「返してもらわなくていいよ。最初みたいに、大事にしてくれるだけで十分」西洲は確かに約束を果たした。私は不自由なく暮らしてきた。でも、果たしていないものがひとつある。あの頃のままの想いだけは、もうどこにも残っていなかった。私は恋に盲目な女じゃない。昔、彼が仕事に没頭していた頃も、一人で海外出張し、自分の仕事を広げてきた。そして今、彼が浮気していると知っても、私は彼の謝罪なんて待たないし、戻ってくることを期待するつもりもない。――必要ない。翌朝すぐ弁護士を呼び、南柚から送られてきた証拠、そしてPCに残したすべての資料を提出した。もう若くはない。私には守るべき娘がいる。未来を選ばなきゃいけない。離婚届はすぐに整った。財産分与は、私が一割、彼が九割にした。家から追い出すつもりも、奪うつもりも
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