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第4話

Author: 絵空事
琴子の頭の中でブンと音が鳴ったように、思考が完全に止まった。ホテルの部屋に入るということが意味するものを考えたくもなかった。

それでも、心のどこかにわずかな期待は残っていた。もしかしたら夕菜を部屋まで送るだけかもしれない、と。

だが、ドアの外に立ち、玄関越しに漏れ聞こえてきた二人の堪えきれない声と、水音を含む生々しい気配が、その期待を一瞬で打ち砕いた。

琴子はドアを蹴破らなかった。もう十分惨めだ。これ以上、自分をもっと惨めにする必要はない。

琴子は口を押さえて嗚咽を必死に飲み込み、よろめきながらホテルを飛び出した。

その夜、琴子はソファに座り、窓の外を見つめたまま一晩中動かなかった。

頭の中ではあの部屋の中で起きたであろうことが延々と再生され、胸が張り裂けそうな痛みに変わっていた。

翌日になってやっと、知樹が帰宅した。シャツは皺だらけで、見覚えのない液体が付着している。全身に夕菜の香水の匂いをまとったまま。

目の周りを赤く腫らした琴子が、まっすぐ彼を見据えた。「昨日、あなたは夕菜と寝たわね」

知樹の手が一瞬止まり、緩めていたネクタイが中途で止まった。しばらく黙ったのち、口を開いた。「悪かった。俺が間違った。でも昨日、彼女は変なものを飲まされて、薬の効き目が強すぎた。助けられるのは俺しかいなかった……」

「でも結局、関係を持ったのよね。あなたには婚約者がいることを、覚えてないの?」琴子は震える声で叫ぶように問い詰めた。

一睡もしていない知樹の目は充血し、こめかみを押さえる仕草に苛立ちが滲む。「言っただろう、助けただけだ。一度きりだ。余計なことは考えるな。俺は必ず君と結婚する。式ももうすぐだ。くだらないこと言うな」

吐き捨てるようにそう言うと、彼は踵を返して家を出ていった。琴子を「理不尽に騒ぐ女」と決めつけるように。

バタン、と玄関の扉が乱暴に閉まった音が響く。琴子は力が抜け、床に崩れ落ちた。涙がとめどなく頬を伝い落ち、それでも笑った。

自分はなんて愚かなんだろう。責任でしかないことをわかっていながら、いったい何を期待していたのか。

どれほど時間が経ったかもわからない。琴子は死人のようにベッドへ向かい、深い眠りに落ちた。

そして知樹に乱暴に揺すり起こされ、彼女はそのまま車まで引きずり込まれた。どんなに抵抗しても、その手は微動だにしない。

「知樹、何をするのよ!」

車は猛スピードで走り、知樹の声は底冷えするほど低かった。「俺に何をさせたいんだ?言ったはずだ、ふざけるなと。どうしてベッド写真を撮って夕菜を脅した」

琴子は完全に困惑している。「何のこと?そんなことしてない」

「君以外に誰がいる!今日の午後、夕菜は退職届を置いて屋上に上ったんだ。もし彼女が何かあれば、絶対に許さない」彼の声は歯を食いしばるような響きで、まるで本当に彼女を心底憎んでいるかのようだ。

やがて病院に着くと、琴子は無理やり屋上へ引きずられた。そこには夕菜が座り込み、今にも落ちそうな姿でいた。

見物人は皆、下で止められており、屋上にいるのは三人だけだ。

知樹は必死の形相で夕菜を見つめ、声を震わせて言う。「夕菜、彼女を連れてきた。写真は流さないって約束する。だから降りてこい。ここは危険だ」

琴子に反論する余地はなく、完全に悪者扱いのまま。胸に針を刺されたような痛みに耐えながら、彼女は冷ややかに言い返す。「違うって言ってるのに」

夕菜は立ち上がり、目に涙を浮かべた。「先生、あの写真が広まったら、私は終わりです。そんなの、生きてる意味なんてありません」

知樹は慌てふためき、琴子の腕を引きずりながら、少しずつ近づく。「夕菜、落ち着け。絶対に流させない。だから……」

彼は夕菜を落ち着かせようとしながら、さらに近づいていった。そして、わずか二歩という距離まで縮まった。

夕菜の注意が逸れた隙に、彼は琴子の手を放すと、さっと夕菜を掴んで屋上の内側に倒れ込ませた。その弾みで琴子は強く体を押され、バランスを崩し、そのまま4階から転落していった。

すべてがスローモーションのように感じられた。知樹が夕菜を抱きしめ、守ろうとする姿が最後に焼きつく。

強烈な落下感に包まれながら、琴子は青空を見上げ、絶望の中で目を閉じた。

想像以上の痛みが全身を突き抜け、涙を流す暇もなく、意識は闇に飲み込まれた。
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