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眠らぬ海に沈む夢

眠らぬ海に沈む夢

By:  絵空事Completed
Language: Japanese
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これは杉田琴子(すぎた ことこ)と新田知樹(にった ともき)の結婚式が三十三回目に延期された理由だ。式の前夜、彼女は車に撥ねられた。全身十九か所の骨折、三度もICUに運ばれ、ようやく命が安定した。 体調が少し落ち着いたある日、彼女は壁を支えにしながら廊下を歩こうとした。だが角を曲がった瞬間、婚約者である知樹と友人の会話が耳に飛び込んできた。 「前は溺れさせて、今回は車か。おかげで結婚式がまた二か月延びたな。次はどんな手を使うつもりだ?」 その言葉に、琴子の血の気が一気に引く。 白衣姿の知樹は、手にしたスマホを弄びながら淡々と答える。「もう延ばさない」

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Chapter 1

第1話

これは杉田琴子(すぎた ことこ)と新田知樹(にった ともき)の結婚式が三十三回目に延期された理由だ。式の前夜、彼女は車に撥ねられた。全身十九か所の骨折、三度もICUに運ばれ、ようやく命が安定した。

体調が少し落ち着いたある日、彼女は壁を支えにしながら廊下を歩こうとした。だが角を曲がった瞬間、婚約者である知樹と友人の会話が耳に飛び込んできた。

「前は溺れさせて、今回は車か。おかげで結婚式がまた二か月延びたな。次はどんな手を使うつもりだ?」

その言葉に、琴子の血の気が一気に引く。

白衣姿の知樹は、手にしたスマホを弄びながら淡々と答える。「もう延ばさない」

友人が驚いたように言う。「じゃあ観念して杉田琴子を娶るのか?お前が目をかけてる研修医の大木夕菜はどうする?」

「琴子が子どもの頃、うちに引き取られた時、父から彼女を大事にするように言われた。将来結婚する相手だからとな。それで俺はずっと妻のように世話をしてきた。世話をするのが習慣になっていたんだ。夕菜に出会うまでは」そこで彼の目がふっと緩み、微かな笑みが滲む。「夕菜は境遇は恵まれなかったけど、自分の運命に決して屈しない。ずっと強く生きてきた。初めて会った瞬間、俺は彼女に気づいたんだ」

「そこまで好きなら追えばいいだろう」友人は首を傾げる。

数秒の沈黙の後、知樹は目を伏せて言った。「琴子の母親は新田家に恩がある。彼女は俺の責任だ。三十三回の延期は俺の葛藤だった。もう責任を果たす時だ。夕菜のことは、遠くから見守るだけでいい。それ以上は望まない」

その一言一句が鋭い刃のように琴子の心を貫いた。彼女が壁にすがって、やっとの思いで立っていられる。頬に痒みを感じて手を伸ばすと、それが涙だと気づいた。

彼女はそれ以上聞くことができず、よろめきながら病室へと戻り、声にならない涙が顔を覆った。

思いもよらなかった。三十三回の事故はすべて知樹の仕業だった。

最初は乱闘に巻き込まれて刺され、次は庭で蛇に咬まれて中毒死しかけ、三度目は山登りで転落し、ICUで半月も寝たきりになった。

すべては、彼が結婚したくなかったから。

琴子と知樹の婚約は、彼女が十歳の時に決まった。当時、新田家は摘発され、牢に繋がれる寸前だった。会計士だった琴子の母がすべての罪を被り、新田家を救った。

その恩義から、新田家の当主は琴子を引き取り、知樹との婚約を結んで彼女の将来を保障した。

幼い頃から新田家の人々は優しく、知樹も同じだった。彼女のやりたいことをすべて支え、上流社会に軽んじられたバンド活動さえ応援してくれた。

だから琴子は、互いに愛し合っていると信じて疑わなかった。だが、すべては責任で、彼の心には別の人がいたとは思わなかった。

鈍い痛みが鋭利な刃に変わり、胸の奥を抉りながら全身の傷を刺激する。

十分後、知樹が処置のために病室に入ってきた。琴子の赤く腫れた目を見て一瞬止まり、問いかける。「どうした?傷がまた痛むのか?」

その気遣わしげな姿に、彼女の頭には「責任」という言葉だけが突き刺さる。心臓が締め付けられるように痛んだ。

琴子は人より痛覚が敏感で、処置には必ず麻酔が必要だ。

知樹が麻酔を手にしたその時、スマホが鳴る。彼は麻酔を置いて電話を取った。

ぶら下がっているアニメのマスコットが揺れて琴子の目に入る。思い出したのは昔のこと。

それは彼女のバンドが初めて優勝した時のことだった。賞品のペンダントを、彼女は嬉しそうに彼に贈ったが、彼はさして気にも留めず、引き出しの奥に放り込んだ。

「子供っぽい」彼はそう言って、眉をひそめた。

だが今、同じマスコットを大木夕菜(おおき ゆうな)とお揃いで付けている。揺れる度に胸が締め付けられた。

静かな病室に、電話の声が響く。夕菜の声が聞こえてきた。「先生、ちょっと判断に迷う患者さんがいて……来ていただけませんか?」

その言葉を聞いた瞬間、琴子は知樹の周りの空気が一気に楽しげになったのを感じ取った。

「わかった、すぐ行く」彼の声は軽やかだ。

かつては研修医への気配りだと思っていたが、今なら分かる。そこには感情があった。

電話を切った彼は麻酔を無視し、直接処置を始めた。

鋭い痛みが全身を駆け巡り、琴子はうめき声を漏らす。意識が朦朧とし、冷や汗が滝のように流れる。

彼女は震える声で訴える。「知樹、まだ麻酔してない……」

彼は手を止めず、気のない調子で言った。「この方が効果が出やすい。麻酔は薬を邪魔するんだ。少し我慢して」

痛みに身体が痙攣し、シーツを握り締める手が破れんばかりに震える。彼女は懇願した。「お願い、麻酔して本当に痛いの」

「いい子だ、もう少しだ」彼は手早く作業を進めた。

数分後、処置が終わり、彼は道具をトレーに放り込む。

琴子は痛みに耐え切れず、ベッドに崩れ落ち、傾いた視界の中で彼の急ぎ足を見送った。

麻酔が効き目を妨げることなどない。彼が使わなかったのは、早く夕菜のもとへ行きたかったからだ。わずか五分さえ待てなかった。

胸が裂かれるような思いに、涙が頬を伝い、白いシーツを濡らした。

痛みはなお全身を苛み続け、やがて視界が真っ暗に閉ざされ、彼女は意識を失った。
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第1話
これは杉田琴子(すぎた ことこ)と新田知樹(にった ともき)の結婚式が三十三回目に延期された理由だ。式の前夜、彼女は車に撥ねられた。全身十九か所の骨折、三度もICUに運ばれ、ようやく命が安定した。体調が少し落ち着いたある日、彼女は壁を支えにしながら廊下を歩こうとした。だが角を曲がった瞬間、婚約者である知樹と友人の会話が耳に飛び込んできた。「前は溺れさせて、今回は車か。おかげで結婚式がまた二か月延びたな。次はどんな手を使うつもりだ?」その言葉に、琴子の血の気が一気に引く。白衣姿の知樹は、手にしたスマホを弄びながら淡々と答える。「もう延ばさない」友人が驚いたように言う。「じゃあ観念して杉田琴子を娶るのか?お前が目をかけてる研修医の大木夕菜はどうする?」「琴子が子どもの頃、うちに引き取られた時、父から彼女を大事にするように言われた。将来結婚する相手だからとな。それで俺はずっと妻のように世話をしてきた。世話をするのが習慣になっていたんだ。夕菜に出会うまでは」そこで彼の目がふっと緩み、微かな笑みが滲む。「夕菜は境遇は恵まれなかったけど、自分の運命に決して屈しない。ずっと強く生きてきた。初めて会った瞬間、俺は彼女に気づいたんだ」「そこまで好きなら追えばいいだろう」友人は首を傾げる。数秒の沈黙の後、知樹は目を伏せて言った。「琴子の母親は新田家に恩がある。彼女は俺の責任だ。三十三回の延期は俺の葛藤だった。もう責任を果たす時だ。夕菜のことは、遠くから見守るだけでいい。それ以上は望まない」その一言一句が鋭い刃のように琴子の心を貫いた。彼女が壁にすがって、やっとの思いで立っていられる。頬に痒みを感じて手を伸ばすと、それが涙だと気づいた。彼女はそれ以上聞くことができず、よろめきながら病室へと戻り、声にならない涙が顔を覆った。思いもよらなかった。三十三回の事故はすべて知樹の仕業だった。最初は乱闘に巻き込まれて刺され、次は庭で蛇に咬まれて中毒死しかけ、三度目は山登りで転落し、ICUで半月も寝たきりになった。すべては、彼が結婚したくなかったから。琴子と知樹の婚約は、彼女が十歳の時に決まった。当時、新田家は摘発され、牢に繋がれる寸前だった。会計士だった琴子の母がすべての罪を被り、新田家を救った。その恩義から、新田家の当主は琴子を引き取り、
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第2話
再び目を覚ました時、琴子の周りには数人の研修医が立っていた。その中には夕菜の姿もある。琴子は身を起こし、震える声で問う。「ここで何をしているの?」一人、真面目そうな青年が口を開いた。「先生が、あなたを教材にして説明するから先に来いって……」隣の学生が肘で突き、冷笑を浮かべた。「余計な説明なんかいらないだろ。恩を盾に居座ってる女に、そんな親切する必要ないんだよ」琴子の顔色が青ざめる。以前なら気にも留めなかっただろうが、今は違う。確かに彼らの言葉は間違っていない。自分が恩を盾に知樹の側に縛りつけられているからだ。「そうだよ。もし彼女がいなければ、先生は自分の本当の愛を追えるのに」そう言いながら、視線は中央に立つ夕菜へ向かう。言葉の意図は明らかだ。夕菜が困ったように俯くのを見て、琴子の胸が鋭く刺された。すると一人が軽く手を打ち、嘲るように言った。「もしかして彼女の母親も、娘を先生に嫁がせるために、自ら身を捧げたんじゃない?だって先生みたいな家柄、努力したって一生届かないだろ」他の人々も口々に嘲笑が重なる。「なるほどな。やっぱり母娘そろってろくでもない。母親なんて腹黒すぎる」琴子の手が強く握りしめられる。自分が何を言われても構わない。非があるのは自分だと自覚し、それを受け入れる覚悟はできていた。しかしあの時、母を汚す言葉は絶対に許せなかった。母が罪を被ったのは恩義のためであり、ほんの少しも見返りを求めてのことではなかった。周囲の非難はますますエスカレートしていった。琴子は母がそんな風に誹謗中傷されるのを許せず、勢いよく立ち上がると、最も酷く言った者を平手で打とうとする。その瞬間、傍らにいた夕菜は、知樹がまさに入って来ようとしているのを視界の隅で捉えると、素早く一歩前に出てその人の前に立ちはだかった。パシン。頬に赤い跡が浮かんだのは、夕菜の方だ。琴子は動きを止め、愕然とする。知樹がドアに入った瞬間、目に飛び込んできたのはこの光景だ。彼は二歩大きく前に踏み出し、夕菜を抱き寄せると、琴子を強く押しのけた。怒声が病室に響く。「琴子、何をしているんだ」琴子は呆然と彼を見上げる。これまで一度も、彼がこんな声をぶつけてきたことはなかった。しかし知樹は彼女を見ようともせず、夕菜を気遣いながら部屋を出て行った。十分後、彼
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第3話
「おじさん、私は婚約を解消したいです」琴子はリビングに立ち、はっきりと言い切る。知樹の父は一瞬驚き、声を詰まらせる。「どうして急に……結婚式はもうすぐじゃないか」彼女は視線を落とし、瞳の苦さを隠すように言う。「私と知樹はお互いに気持ちが通じていません。これ以上無理に縛るのはやめたいんです。それに母ももうすぐ出てきます。母を連れてここを離れて、ゆっくり一緒に過ごしたい」彼女の決意が固いのを見て、知樹の父はため息をつき、うなずく。「わかった。飛行機の手配は俺がする。半月後、お母さんが出てきたらすぐに行けるようにしておこう」そのとき、背後から突然知樹の声が響く。「誰が離れるって?」琴子の体は一瞬で強張った。父が口を開く前に、彼女は先に答える。「誰も……どうして帰ってきたの?」知樹はそれ以上追及せずに言う。「君が帰ってきたと聞いて、迎えに来たんだ」その後、知樹の父が「食事でもしていけ」と二人を引き留めた。食卓では、知樹がいつものように彼女の皿に料理を取り分けた。迎えに来ることも、こうしてさりげなく世話をすることも、彼は決して誤ることがない。だからこそ、琴子は何度も勘違いしてしまった。彼が本当に自分を想っているのだと。食事の途中、知樹が口を開いた。「父さん、結婚式は半月後、予定通り行う。招待客に伝えておいて」父は驚き、二人を見比べた。「琴子から聞いてないのか?婚約を解消するって」その声は、突然鳴り響いた携帯の着信音にかき消された。知樹が電話を取り、琴子はすぐ隣にいたので内容はすべて耳に入った。「先生、夕菜が熱を出してるのに、仕事をやめなくて早く来て説得して」彼はスマホを握りしめ、声を急がせた。「彼女を見ててくれ。すぐに行く」電話を切ると、知樹が父に向き直った。「父さん、さっき何を言った?」だが、父が答える前に、彼はもう立ち上がっていた。「後で聞く。今は急ぎの用がある」言葉とは裏腹に、その動作には荒さが混じっていた。礼儀正しい彼が珍しく椅子を乱暴に引き、耳障りな音を立て、大股で玄関へ向かっていった。その背中を見送る琴子の胸は、大きな手に鷲掴みにされたように締めつけられ、鈍い痛みが広がった。新田家を出たあと、彼女は刑務所へ向かった。受話器を握りしめ、ガラス越しにやつれた母の顔を見た瞬間、鼻の奥がつんと熱く
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第4話
琴子の頭の中でブンと音が鳴ったように、思考が完全に止まった。ホテルの部屋に入るということが意味するものを考えたくもなかった。それでも、心のどこかにわずかな期待は残っていた。もしかしたら夕菜を部屋まで送るだけかもしれない、と。だが、ドアの外に立ち、玄関越しに漏れ聞こえてきた二人の堪えきれない声と、水音を含む生々しい気配が、その期待を一瞬で打ち砕いた。琴子はドアを蹴破らなかった。もう十分惨めだ。これ以上、自分をもっと惨めにする必要はない。琴子は口を押さえて嗚咽を必死に飲み込み、よろめきながらホテルを飛び出した。その夜、琴子はソファに座り、窓の外を見つめたまま一晩中動かなかった。頭の中ではあの部屋の中で起きたであろうことが延々と再生され、胸が張り裂けそうな痛みに変わっていた。翌日になってやっと、知樹が帰宅した。シャツは皺だらけで、見覚えのない液体が付着している。全身に夕菜の香水の匂いをまとったまま。目の周りを赤く腫らした琴子が、まっすぐ彼を見据えた。「昨日、あなたは夕菜と寝たわね」知樹の手が一瞬止まり、緩めていたネクタイが中途で止まった。しばらく黙ったのち、口を開いた。「悪かった。俺が間違った。でも昨日、彼女は変なものを飲まされて、薬の効き目が強すぎた。助けられるのは俺しかいなかった……」「でも結局、関係を持ったのよね。あなたには婚約者がいることを、覚えてないの?」琴子は震える声で叫ぶように問い詰めた。一睡もしていない知樹の目は充血し、こめかみを押さえる仕草に苛立ちが滲む。「言っただろう、助けただけだ。一度きりだ。余計なことは考えるな。俺は必ず君と結婚する。式ももうすぐだ。くだらないこと言うな」吐き捨てるようにそう言うと、彼は踵を返して家を出ていった。琴子を「理不尽に騒ぐ女」と決めつけるように。バタン、と玄関の扉が乱暴に閉まった音が響く。琴子は力が抜け、床に崩れ落ちた。涙がとめどなく頬を伝い落ち、それでも笑った。自分はなんて愚かなんだろう。責任でしかないことをわかっていながら、いったい何を期待していたのか。どれほど時間が経ったかもわからない。琴子は死人のようにベッドへ向かい、深い眠りに落ちた。そして知樹に乱暴に揺すり起こされ、彼女はそのまま車まで引きずり込まれた。どんなに抵抗しても、その手は微動だにしない。
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第5話
目を開けると、琴子は病院のベッドに横たわっていた。全身がバラバラになりそうなほど痛み、もう何度目の入院かも数えられない。そのとき電話が鳴り、刑務所で面倒を見てもらっている看守の声が響いた。「杉田さん、お母さんが刑務所で特別に扱われています。あなた、誰かを怒らせたんじゃないですか?」琴子の呼吸が止まり、呆然とつぶやいた。「何て言ったの?」「上の連中に指示が入ったんです。お母さんは今、食事も与えられず、同房の人たちにいじめられ、毎日炎天下で十時間も立たされてる!」この言葉に、目眩がして、スマホの音声が遠ざかっていく。病室の扉が突然開き、知樹が入ってきた。琴子はゆっくり顔を上げ、すべてを理解したように呟いた。「あなたがやったのね」こんなことができるのは彼しかいない。しかも彼は、自分が夕菜を脅したと思い込んでいる。知樹の顔には、驚きも戸惑いもなかった。琴子はまるで初めて彼を見るように震える声で訴える。「母は新田家に恩があるのよ。あんな仕打ち、耐えられる体じゃないのに」知樹は彼女に近づき、頬を強く掴んだ。氷のような瞳で。「確かに恩はある。でも夕菜には何の関係もない。文句があるなら俺に言え。全部俺が受ければいい。でもどうして関係のない人を傷つけるんだ?」言葉の最後には、琴子の顔が潰れそうなほど力が込められていた。彼女は涙をこらえ、必死に睨み返す。「写真なんか撮ってないし、夕菜を脅したこともない。信じられないならホテルの入口の監視カメラを調べてみなさい」「じゃあ他に誰がいる?夕菜は気が弱くて、誰とも争ったことなんかない。君だけだ」冷たい眼差しが突き刺さる。どんなに弁解しても、彼は信じない。琴子は苦笑し、頬を伝った涙が知樹の手の甲を濡らした。その熱さに、彼の心の奥で何かが一瞬だけざわめいた。「わかった。私が悪かった。だから母を解放して。もう夕菜には近づかない」彼女はうつむいて妥協した。無駄な抵抗に意味はない。母のために、それしか道は残されていなかった。彼女の態度が変わると、知樹の手から力が抜け、代わりに頬を撫でる。声も柔らかくなる。「俺だって杉田さんを傷つけたくはない。ただ、夕菜は何の罪もない。これから俺たちの生活に関わることもない。関わりたくないなら関わらなければいい。ただ、彼女を傷つけるな」そして琴
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第6話
琴子が家に帰り着いたのは、かなり遅い時間だ。道中は激しい雨に見舞われ、玄関を開ける頃には全身びしょ濡れだ。扉を開けると、知樹はすでに戻っていた。琴子は一瞥もくれず、そのまま真っ直ぐ階段を上ろうとする。ちょうど階段に差しかかったところで、後ろからバスタオルに包まれた。知樹の心配そうな声が背後から響く。「どうして迎えに来てくれって言わなかった?こんなに濡れて」呼んだって来るはずないでしょ。琴子の目に嘲りがよぎり、その手を振り払って階段を上った。シャワーを浴びて出てくると、知樹がスープを手にして、それを冷ましているのが目に入った。知樹は本来、とても責任感の強い人間だ。だからこそ十年以上も彼女を支えてきた。琴子がその「責任」と「愛情」とを混同してしまったのは、決して不思議ではない。彼女の姿に気づくと、知樹は手を取り、ベッドに座らせ、一口ずつスプーンを琴子の口元へ運ぶ。「熱くないか?早く飲んで。もうすぐ結婚式だ、今風邪なんかひいたら大変だぞ」琴子はうつむいて黙って飲み干した。背を向けて部屋を出て行く彼を見送りながら、心の奥はすでに死んだように冷えきっている。知樹、あなたの望む結婚式なんて、もう存在しない。翌日、琴子は出入国管理局でビザの手続きを済ませた。庁舎を出ると、偶然、知樹と研修医の一団に鉢合わせた。知樹は彼女が出てきた場所を見て、眉をわずかに寄せる。「ここで何をしてた?」彼女は平然と答える。「バンド仲間が海外に行くから、その手続きを手伝ってあげただけ」知樹はそれ以上追及しなかった。まさか海外に行こうとしているのが彼女自身だとは、夢にも思わなかった。後ろの研修医が口を開く。「今日はみんなで食事会なんです。先生の奥さんもご一緒にどうですか」「行こう。一緒に帰ればいい」知樹も言葉を添えた。結局、彼らはしゃぶしゃぶの店に入った。琴子は知樹を一瞥する。彼女が誘ったとき、いつも「匂いがきつい」と拒んでいた。「先生がこんな場所に来るなんて、変ですよね?」研修医の一人が腕を組んで言った。「夕菜さんが好きだからですよ。しゃぶしゃぶも、夕菜さんが食べたいなら先生は必ず付き合ってくれるんです」琴子はうつむき、口元に自嘲の笑みを浮かべ、何も言わない。店に入ると、彼らは当然のように知樹と夕菜を並んで座らせ、それから思い出
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第7話
その夜、琴子は高熱を出し、二日間うわごとのように眠り続け、ようやく意識がはっきりしてきた。ベッドの傍らには知樹が座っていて、彼女が目を開けるのを見ると額に手を当てた。「やっと少し熱が下がったな」彼が何を言おうと、一切口を開こうとしない。ついに彼が「琴子、心配するな。喉の方は必ず治してやるからな」と言った時、初めて反応を示した。琴子はゆっくりと瞳を動かし、彼を見た。口を開こうとしたが、声が出せないことに気づく。喉には焼けつくような痛みが走っていた。慌てる彼女の顔を見て、知樹は軽く叩くように宥める。「熱が高すぎて炎症を起こしたんだ。声帯が傷んでいるけど、ちょっとした手術ですぐ治る」その確信に満ちた声に、琴子も次第に安心していく。三日後、彼女にはステージがある。注射で無理やり喉の痛みを抑えて、どうにか最後まで歌い切った。久々に会うバンドメンバーは「飲みに行こう」と騒いだが、彼女は断った。翌日に手術が控えていたからだ。残念がりながらも、メンバーたちはそれ以上迫らない。「じゃあ、また今度集まればいいさ。機会はいくらでもある」「私、行くね」琴子は彼らを見渡して言った。「五日後の便で」その一言に、場の空気が固まった。しばらくして、ようやく誰かが口を開く。「でも琴子さん、結婚式は六日後でしょ?招待状、もうもらったけど……」琴子はうつむいたまま言う。「もうやめたの。招待状はなかったことにして」皆が黙り込んだ。彼女がどれほど知樹を好きか、全員知っていたからだ。琴子はふっと笑い、近くのメンバーを軽く拳で突いた。「何よその顔。結婚なんて墓場って言うじゃない。私は墓場に入らないってだけ。心配しないで、歌は絶対やめないから。今の私にはそれしかないんだから……」最後の言葉は小さく掠れていた。メンバーたちはその表情が本気だとわかり、ようやく肩の力を抜いた。「じゃあ、必ず帰ってきてよ。行ったきり姿を消すなんてなしだからな」その時、琴子の手を掴む者がいた。耳元に知樹の低い声が落ちる。「どこへ行くんだ?」知樹が迎えに来ていた。彼女は答えず、メンバーに別れを告げ車に乗った。知樹が再び問いただしてようやく口を開いた。「バンドをやめようと思うの」彼は片手でハンドルを握り、目を見開いた。「なぜ?好きだったはずだろう」「もう好きじゃな
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第8話
結婚式の前日。知樹は夕菜と山の上で花火を見たあと、そのまま泊まってしまった。翌朝早く、彼は夕菜を家まで送ってから病院へ戻るつもりだった。だが街に入った途端、助手席の夕菜が口を開いた。「先生、今日は休みなんです。水族館に行きませんか」ふと、病院に残してきた琴子の顔が脳裏に浮かぶ。断ろうとしたその瞬間、夕菜が小さく腕を叩いた。「先生、水族館すぐそこですよ。ちょっとだけ行きましょう、ね?」こんな風に甘える声を出されると、どうしても拒めなかった。遊び終える頃にはもう夕方になっていた。知樹は夕菜を家に送り届け、病院へ戻ろうとしたが、やわらかい手が彼の腕を掴んだ。「先生、もう遅いです。今夜は泊まっていってください」熱を帯びた感触に一瞬迷う。明日は結婚式だ、ただの一晩だけだ。そう自分に言い聞かせて、ついに彼は頷いた。了承を得た夕菜の胸は高鳴った。彼女は棚からワインを取り出す。「先生、少しだけ飲みましょう?」明日が知樹と琴子の結婚式であることを、夕菜は知っていた。この数日、どれだけ遠回しに示しても、彼は結婚を取りやめる気配を一切見せなかった。あの日体を重ねても、責任を口にすることはなかった。だから彼女は、酔わせて式に出られなくするしかないと考えていた。だが知樹は心を決めていた。結婚式には必ず出る、と。あらゆる不安要素は遮断する。「やめておこう。明日は大事な日だ。今日は早めに休もう」そう言って、彼はスマホを取り出し、ゲストルームへ向かった。残された夕菜は、彼の背中を睨みながら歯を噛みしめる。知樹は琴子へメッセージを送ったが、眠りにつくまで返信はなかった。翌朝、彼は早々に病院へ行き、スマホを確認しても、まだ何も返っていない。以前から返事を忘れることはよくあったので、深く気にせず電源を落とした。知樹は病室へ直行して扉を開けるが、中は空っぽだった。慌てて電話をかけるも、電源が入っていないという案内音。胸の奥に不安が膨らみはじめる。看護師に確認すると、琴子は前日にすでに退院していたと告げられた。不安は一層強くなる。それでもきっと式場に先に行ったのだと、自分を宥める。車に乗り込み、彼は腕時計を繰り返し見た。もう時間が押している。「大山さん、少し急いでくれ。遅れると琴子に怒られる」彼女はそういう人間だ。子どもの頃から新田
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第9話
その一言はまるで雷のように、知樹の脳裏を真っ白にする。「離れた?今日は結婚式じゃなかったのか……」「半月前に、もう式はやめるって二人で話していたじゃない」知樹は、まるで言葉が理解できないような感覚に陥った。どうしてそれが、琴子が結婚式を取りやめたと解釈されるのか。慌てて実家に戻ると、父はソファに腰掛け、新聞を読んでいた。玄関の扉が勢いよく開かれる音に顔を上げ、息子の姿を見て一瞬動きを止めた。居間の中央で、知樹は顔色をわずかに失い、全身が極度の緊張に張りつめていた。彼は父親をまっすぐに見据え、掠れた声で言う。「父さん、これは一体どういうことだ。琴子はどこへ行ったんだ」我に返った父は答えた。「琴子から聞いてないのか?あの子は……」「父さん」知樹が促す。「半月前、琴子が退院してここに来たときに言ったんだ。お前たちは互いに想い合っているわけじゃないから、これ以上足を引っ張り合うのはやめようと。結婚式を取り消して、お母さんを連れて出て行くって。親世代の事情でお前たちを縛るべきじゃないと思って、同意したんだが、まさかあの子が、お前に相談もしないとは……」その先の言葉は、知樹の耳を突然襲った耳鳴りにかき消された。彼はソファに崩れ落ち、両手で頭を抱え込み、何も考えられなくなっていた。夕菜との行為は、琴子が結婚式を取り消すと言った後に起きたことだ。だから知樹には、彼女がなぜ式を取りやめたのか思い当たる理由がなかった。本当に「互いの足かせになる」と思ったからなのか。だが事実だとわかっていても、どうして心臓はこんなにも痛むのか。まるで無理やり抉り取られたように。ソファに座る父は、ふと何かを思い出したように使用人を呼んだ。「書斎に行って、棚にある箱を持ってきてくれ」それは木製の箱だ。父は箱を知樹に差し出す。「これは琴子が残していったものだ。お前に渡せと言われている」それは、琴子が母親の葬儀を終えたあと、知樹の父に託したものだ。知樹は呆然と受け取り、震える手で蓋を開けた。中には一通の手紙と、木の枝で拵えた幼い指輪が収められていた。彼はその稚拙で幼い指輪をしばらく見つめ、やっと思い出した。十二歳のとき、琴子が学校でいじめられ、山の麓に投げ捨てられたことがあった。彼は一日中探し回り、声が枯れるほど叫んで、ようやく山の麓で
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第10話
知樹は手にした手紙を見つめながら、頭の中が真っ白になっている。琴子は気を利かせて身を引いた。これで自分は自由になり、夕菜を追いかけられる。すべてが理想通りに進んでいるはずなのに、どうして少しも嬉しくないのだろう。胸の奥が引き裂かれるように痛んで仕方がない。手紙が床に落ちる。父は、息子の顔が大きな衝撃を受けたように見え、訝しげに手紙を拾い上げた。中身を目にした瞬間、父の目が大きく見開かれ、怒りがこみ上げてくる。振り上げた手で呆然としている知樹の頬を勢いよく打ち据えた。「お前はなんて馬鹿なことをしでかした」結婚式が三十三回も延期されたことを、父は鮮明に覚えている。そのたびに傷つく琴子の姿を見るのがつらくて、実の娘同然に思ってきた分、胸が張り裂けそうだった。まさか全部、知樹の仕業だったとは。知樹は頬をはじかれ、頭が横に流れる。耳鳴りが続く中、父の怒声が霞の向こうから響いてくる。「どうして琴子が突然去るなんて言い出したのか不思議だったが、全部お前のせいか。人の心があるのか!琴子のお母さんは本気で俺たちを助けたいと思ってくれていたんだ。二人を結婚させるのも俺の願いだった。俺はお前をどう育ててきたんだ、どうしてそんな卑しい真似をする」知樹は何も言わず、ただうつむいて父の言葉を認めるしかなかった。自分は本当に人間失格だ。「位牌堂へ行って跪け。俺が許すまで出てくるな」父が大きく手を振る。知樹は反論もせず、茫然と立ち上がって位牌堂へと歩いていった。位牌堂は静かで薄暗い。彼は正座するように跪き、祖先の位牌に向かっていた。頭の中は混乱でいっぱいだ。自分がやってきたことを思い返せば、嫌悪感しかない。だがあの時はまるで取り憑かれたように、何度も琴子を傷つけてしまった。彼女は絶対に気づかないと思い込み、そのたび「これが最後」と自分に言い訳した。だが彼女はすべてを知り、何の迷いもなく去っていった。ようやく彼は途方に暮れ、どうしていいか分からなくなった。この感情は彼にとって未知のものだった。琴子に対して抱いていたのは「責任」だと信じていたからだ。その責任が消えたなら、彼女への思いも消えるはずだった。だが責任を失った今、逆に感情は膨れ上がり、津波のように心を呑み込もうとしていた。時が過ぎ、脳裏に浮かんでくるのはすべて琴子の姿だ。幼い頃に「お
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