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眠らぬ海に沈む夢

眠らぬ海に沈む夢

Par:  絵空事Complété
Langue: Japanese
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これは杉田琴子(すぎた ことこ)と新田知樹(にった ともき)の結婚式が三十三回目に延期された理由だ。式の前夜、彼女は車に撥ねられた。全身十九か所の骨折、三度もICUに運ばれ、ようやく命が安定した。 体調が少し落ち着いたある日、彼女は壁を支えにしながら廊下を歩こうとした。だが角を曲がった瞬間、婚約者である知樹と友人の会話が耳に飛び込んできた。 「前は溺れさせて、今回は車か。おかげで結婚式がまた二か月延びたな。次はどんな手を使うつもりだ?」 その言葉に、琴子の血の気が一気に引く。 白衣姿の知樹は、手にしたスマホを弄びながら淡々と答える。「もう延ばさない」

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Chapitre 1

第1話

これは杉田琴子(すぎた ことこ)と新田知樹(にった ともき)の結婚式が三十三回目に延期された理由だ。式の前夜、彼女は車に撥ねられた。全身十九か所の骨折、三度もICUに運ばれ、ようやく命が安定した。

体調が少し落ち着いたある日、彼女は壁を支えにしながら廊下を歩こうとした。だが角を曲がった瞬間、婚約者である知樹と友人の会話が耳に飛び込んできた。

「前は溺れさせて、今回は車か。おかげで結婚式がまた二か月延びたな。次はどんな手を使うつもりだ?」

その言葉に、琴子の血の気が一気に引く。

白衣姿の知樹は、手にしたスマホを弄びながら淡々と答える。「もう延ばさない」

友人が驚いたように言う。「じゃあ観念して杉田琴子を娶るのか?お前が目をかけてる研修医の大木夕菜はどうする?」

「琴子が子どもの頃、うちに引き取られた時、父から彼女を大事にするように言われた。将来結婚する相手だからとな。それで俺はずっと妻のように世話をしてきた。世話をするのが習慣になっていたんだ。夕菜に出会うまでは」そこで彼の目がふっと緩み、微かな笑みが滲む。「夕菜は境遇は恵まれなかったけど、自分の運命に決して屈しない。ずっと強く生きてきた。初めて会った瞬間、俺は彼女に気づいたんだ」

「そこまで好きなら追えばいいだろう」友人は首を傾げる。

数秒の沈黙の後、知樹は目を伏せて言った。「琴子の母親は新田家に恩がある。彼女は俺の責任だ。三十三回の延期は俺の葛藤だった。もう責任を果たす時だ。夕菜のことは、遠くから見守るだけでいい。それ以上は望まない」

その一言一句が鋭い刃のように琴子の心を貫いた。彼女が壁にすがって、やっとの思いで立っていられる。頬に痒みを感じて手を伸ばすと、それが涙だと気づいた。

彼女はそれ以上聞くことができず、よろめきながら病室へと戻り、声にならない涙が顔を覆った。

思いもよらなかった。三十三回の事故はすべて知樹の仕業だった。

最初は乱闘に巻き込まれて刺され、次は庭で蛇に咬まれて中毒死しかけ、三度目は山登りで転落し、ICUで半月も寝たきりになった。

すべては、彼が結婚したくなかったから。

琴子と知樹の婚約は、彼女が十歳の時に決まった。当時、新田家は摘発され、牢に繋がれる寸前だった。会計士だった琴子の母がすべての罪を被り、新田家を救った。

その恩義から、新田家の当主は琴子を引き取り、知樹との婚約を結んで彼女の将来を保障した。

幼い頃から新田家の人々は優しく、知樹も同じだった。彼女のやりたいことをすべて支え、上流社会に軽んじられたバンド活動さえ応援してくれた。

だから琴子は、互いに愛し合っていると信じて疑わなかった。だが、すべては責任で、彼の心には別の人がいたとは思わなかった。

鈍い痛みが鋭利な刃に変わり、胸の奥を抉りながら全身の傷を刺激する。

十分後、知樹が処置のために病室に入ってきた。琴子の赤く腫れた目を見て一瞬止まり、問いかける。「どうした?傷がまた痛むのか?」

その気遣わしげな姿に、彼女の頭には「責任」という言葉だけが突き刺さる。心臓が締め付けられるように痛んだ。

琴子は人より痛覚が敏感で、処置には必ず麻酔が必要だ。

知樹が麻酔を手にしたその時、スマホが鳴る。彼は麻酔を置いて電話を取った。

ぶら下がっているアニメのマスコットが揺れて琴子の目に入る。思い出したのは昔のこと。

それは彼女のバンドが初めて優勝した時のことだった。賞品のペンダントを、彼女は嬉しそうに彼に贈ったが、彼はさして気にも留めず、引き出しの奥に放り込んだ。

「子供っぽい」彼はそう言って、眉をひそめた。

だが今、同じマスコットを大木夕菜(おおき ゆうな)とお揃いで付けている。揺れる度に胸が締め付けられた。

静かな病室に、電話の声が響く。夕菜の声が聞こえてきた。「先生、ちょっと判断に迷う患者さんがいて……来ていただけませんか?」

その言葉を聞いた瞬間、琴子は知樹の周りの空気が一気に楽しげになったのを感じ取った。

「わかった、すぐ行く」彼の声は軽やかだ。

かつては研修医への気配りだと思っていたが、今なら分かる。そこには感情があった。

電話を切った彼は麻酔を無視し、直接処置を始めた。

鋭い痛みが全身を駆け巡り、琴子はうめき声を漏らす。意識が朦朧とし、冷や汗が滝のように流れる。

彼女は震える声で訴える。「知樹、まだ麻酔してない……」

彼は手を止めず、気のない調子で言った。「この方が効果が出やすい。麻酔は薬を邪魔するんだ。少し我慢して」

痛みに身体が痙攣し、シーツを握り締める手が破れんばかりに震える。彼女は懇願した。「お願い、麻酔して本当に痛いの」

「いい子だ、もう少しだ」彼は手早く作業を進めた。

数分後、処置が終わり、彼は道具をトレーに放り込む。

琴子は痛みに耐え切れず、ベッドに崩れ落ち、傾いた視界の中で彼の急ぎ足を見送った。

麻酔が効き目を妨げることなどない。彼が使わなかったのは、早く夕菜のもとへ行きたかったからだ。わずか五分さえ待てなかった。

胸が裂かれるような思いに、涙が頬を伝い、白いシーツを濡らした。

痛みはなお全身を苛み続け、やがて視界が真っ暗に閉ざされ、彼女は意識を失った。
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第4話
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第6話
琴子が家に帰り着いたのは、かなり遅い時間だ。道中は激しい雨に見舞われ、玄関を開ける頃には全身びしょ濡れだ。扉を開けると、知樹はすでに戻っていた。琴子は一瞥もくれず、そのまま真っ直ぐ階段を上ろうとする。ちょうど階段に差しかかったところで、後ろからバスタオルに包まれた。知樹の心配そうな声が背後から響く。「どうして迎えに来てくれって言わなかった?こんなに濡れて」呼んだって来るはずないでしょ。琴子の目に嘲りがよぎり、その手を振り払って階段を上った。シャワーを浴びて出てくると、知樹がスープを手にして、それを冷ましているのが目に入った。知樹は本来、とても責任感の強い人間だ。だからこそ十年以上も彼女を支えてきた。琴子がその「責任」と「愛情」とを混同してしまったのは、決して不思議ではない。彼女の姿に気づくと、知樹は手を取り、ベッドに座らせ、一口ずつスプーンを琴子の口元へ運ぶ。「熱くないか?早く飲んで。もうすぐ結婚式だ、今風邪なんかひいたら大変だぞ」琴子はうつむいて黙って飲み干した。背を向けて部屋を出て行く彼を見送りながら、心の奥はすでに死んだように冷えきっている。知樹、あなたの望む結婚式なんて、もう存在しない。翌日、琴子は出入国管理局でビザの手続きを済ませた。庁舎を出ると、偶然、知樹と研修医の一団に鉢合わせた。知樹は彼女が出てきた場所を見て、眉をわずかに寄せる。「ここで何をしてた?」彼女は平然と答える。「バンド仲間が海外に行くから、その手続きを手伝ってあげただけ」知樹はそれ以上追及しなかった。まさか海外に行こうとしているのが彼女自身だとは、夢にも思わなかった。後ろの研修医が口を開く。「今日はみんなで食事会なんです。先生の奥さんもご一緒にどうですか」「行こう。一緒に帰ればいい」知樹も言葉を添えた。結局、彼らはしゃぶしゃぶの店に入った。琴子は知樹を一瞥する。彼女が誘ったとき、いつも「匂いがきつい」と拒んでいた。「先生がこんな場所に来るなんて、変ですよね?」研修医の一人が腕を組んで言った。「夕菜さんが好きだからですよ。しゃぶしゃぶも、夕菜さんが食べたいなら先生は必ず付き合ってくれるんです」琴子はうつむき、口元に自嘲の笑みを浮かべ、何も言わない。店に入ると、彼らは当然のように知樹と夕菜を並んで座らせ、それから思い出
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第7話
その夜、琴子は高熱を出し、二日間うわごとのように眠り続け、ようやく意識がはっきりしてきた。ベッドの傍らには知樹が座っていて、彼女が目を開けるのを見ると額に手を当てた。「やっと少し熱が下がったな」彼が何を言おうと、一切口を開こうとしない。ついに彼が「琴子、心配するな。喉の方は必ず治してやるからな」と言った時、初めて反応を示した。琴子はゆっくりと瞳を動かし、彼を見た。口を開こうとしたが、声が出せないことに気づく。喉には焼けつくような痛みが走っていた。慌てる彼女の顔を見て、知樹は軽く叩くように宥める。「熱が高すぎて炎症を起こしたんだ。声帯が傷んでいるけど、ちょっとした手術ですぐ治る」その確信に満ちた声に、琴子も次第に安心していく。三日後、彼女にはステージがある。注射で無理やり喉の痛みを抑えて、どうにか最後まで歌い切った。久々に会うバンドメンバーは「飲みに行こう」と騒いだが、彼女は断った。翌日に手術が控えていたからだ。残念がりながらも、メンバーたちはそれ以上迫らない。「じゃあ、また今度集まればいいさ。機会はいくらでもある」「私、行くね」琴子は彼らを見渡して言った。「五日後の便で」その一言に、場の空気が固まった。しばらくして、ようやく誰かが口を開く。「でも琴子さん、結婚式は六日後でしょ?招待状、もうもらったけど……」琴子はうつむいたまま言う。「もうやめたの。招待状はなかったことにして」皆が黙り込んだ。彼女がどれほど知樹を好きか、全員知っていたからだ。琴子はふっと笑い、近くのメンバーを軽く拳で突いた。「何よその顔。結婚なんて墓場って言うじゃない。私は墓場に入らないってだけ。心配しないで、歌は絶対やめないから。今の私にはそれしかないんだから……」最後の言葉は小さく掠れていた。メンバーたちはその表情が本気だとわかり、ようやく肩の力を抜いた。「じゃあ、必ず帰ってきてよ。行ったきり姿を消すなんてなしだからな」その時、琴子の手を掴む者がいた。耳元に知樹の低い声が落ちる。「どこへ行くんだ?」知樹が迎えに来ていた。彼女は答えず、メンバーに別れを告げ車に乗った。知樹が再び問いただしてようやく口を開いた。「バンドをやめようと思うの」彼は片手でハンドルを握り、目を見開いた。「なぜ?好きだったはずだろう」「もう好きじゃな
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第8話
結婚式の前日。知樹は夕菜と山の上で花火を見たあと、そのまま泊まってしまった。翌朝早く、彼は夕菜を家まで送ってから病院へ戻るつもりだった。だが街に入った途端、助手席の夕菜が口を開いた。「先生、今日は休みなんです。水族館に行きませんか」ふと、病院に残してきた琴子の顔が脳裏に浮かぶ。断ろうとしたその瞬間、夕菜が小さく腕を叩いた。「先生、水族館すぐそこですよ。ちょっとだけ行きましょう、ね?」こんな風に甘える声を出されると、どうしても拒めなかった。遊び終える頃にはもう夕方になっていた。知樹は夕菜を家に送り届け、病院へ戻ろうとしたが、やわらかい手が彼の腕を掴んだ。「先生、もう遅いです。今夜は泊まっていってください」熱を帯びた感触に一瞬迷う。明日は結婚式だ、ただの一晩だけだ。そう自分に言い聞かせて、ついに彼は頷いた。了承を得た夕菜の胸は高鳴った。彼女は棚からワインを取り出す。「先生、少しだけ飲みましょう?」明日が知樹と琴子の結婚式であることを、夕菜は知っていた。この数日、どれだけ遠回しに示しても、彼は結婚を取りやめる気配を一切見せなかった。あの日体を重ねても、責任を口にすることはなかった。だから彼女は、酔わせて式に出られなくするしかないと考えていた。だが知樹は心を決めていた。結婚式には必ず出る、と。あらゆる不安要素は遮断する。「やめておこう。明日は大事な日だ。今日は早めに休もう」そう言って、彼はスマホを取り出し、ゲストルームへ向かった。残された夕菜は、彼の背中を睨みながら歯を噛みしめる。知樹は琴子へメッセージを送ったが、眠りにつくまで返信はなかった。翌朝、彼は早々に病院へ行き、スマホを確認しても、まだ何も返っていない。以前から返事を忘れることはよくあったので、深く気にせず電源を落とした。知樹は病室へ直行して扉を開けるが、中は空っぽだった。慌てて電話をかけるも、電源が入っていないという案内音。胸の奥に不安が膨らみはじめる。看護師に確認すると、琴子は前日にすでに退院していたと告げられた。不安は一層強くなる。それでもきっと式場に先に行ったのだと、自分を宥める。車に乗り込み、彼は腕時計を繰り返し見た。もう時間が押している。「大山さん、少し急いでくれ。遅れると琴子に怒られる」彼女はそういう人間だ。子どもの頃から新田
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第9話
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第10話
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