Masukこれは杉田琴子(すぎた ことこ)と新田知樹(にった ともき)の結婚式が三十三回目に延期された理由だ。式の前夜、彼女は車に撥ねられた。全身十九か所の骨折、三度もICUに運ばれ、ようやく命が安定した。 体調が少し落ち着いたある日、彼女は壁を支えにしながら廊下を歩こうとした。だが角を曲がった瞬間、婚約者である知樹と友人の会話が耳に飛び込んできた。 「前は溺れさせて、今回は車か。おかげで結婚式がまた二か月延びたな。次はどんな手を使うつもりだ?」 その言葉に、琴子の血の気が一気に引く。 白衣姿の知樹は、手にしたスマホを弄びながら淡々と答える。「もう延ばさない」
Lihat lebih banyak父親の腕を支えながら階段を降りていくと、みすぼらしい姿の知樹がちょうど玄関から入ってきた。彼は階下で立ち尽くし、呆然と琴子を見上げていた。この光景はとても懐かしかった。以前、琴子が父親の腕を取って階段を下りるのを見ていた。ぼんやりと、彼女が戻ってきたのか、あの出来事は全て夢だったのか、そして二人にはまだ未来があるのかと錯覚しそうになった。もし以前なら、彼女は間違いなく最初に彼に視線を落とし、笑顔で話しかけてきただろう。けれど現実は違った。どんなに熱い眼差しを注いでも、琴子は彼を空気のように扱った。過去は消えない。彼女は戻らない。二人に未来はない。その認識が、鋭い刃となって知樹の胸を抉り、呼吸するたびに裂けるような痛みをもたらした。夕食の席、知樹は琴子の向かいに座り、彼女の好物を取り分けようと目で追う。しかし琴子は一瞥すらくれず、父親との会話に没頭し、皿に置かれた料理も無造作に別の皿へ移した。食事が終わり、琴子は父親と少し言葉を交わしてから別れを告げた。その間、知樹は静かに片隅で佇むばかりだ。彼女がようやく立ち上がると、彼はすぐさま追いかけた。琴子は足音を聞きながらも歩みを止めず、別荘街の庭園に入ったところで立ち止まる。彼女が胸の前で腕を組み、迫ってくる彼を見据える。「ここで話しなさい。言うことを言ったら、もう二度と私に近づかないで」その言葉に、知樹の心臓がきしむ。二人は本当に終わってしまう。恐怖と絶望が一気に押し寄せた。彼は背を曲げ、慌てて彼女の両肩を掴んだ。「琴子、ごめん、本当にごめん。君を失えない。君なしでは生きられないんだ。どうか、どうかやり直すチャンスを……」しかし琴子は静かに、彼の赤く染まった瞳を見据えて言う。「知樹、もう終わったの。死んだ人は戻らない。どんなに取り繕っても、私は許さない」彼がわずかな希望を求めて彼女の瞳を覗き込むが、返ってくるのは虚無だけだ。ついに彼は崩れ落ち、涙があふれ、地に膝をついた。必死に彼女の身体を掴み、離すまいとする。「行かないで、お願いだ、琴子。もう一度だけ、俺を愛してくれ、頼む……」琴は冷めた目で、涙に濡れる男を見下ろした。かつて愛した。彼もまた愛してくれた。だが二人は決して愛し合ったことはなかった。この関係に勝者はいるのか。答えはない。かつての彼女は敗
季之は、これまでと同じように琴子を家まで送った。だが琴子の胸には、どこか違和感があった。車を降りるとき、彼はギフトボックスを差し出す。「誕生日プレゼントだ」琴子は団地の門から自宅の階下へ向かう道を、普段よりも少し早足で歩いた。早く帰って、ギフトボックスを開けてみたかった。ところが建物の前に立つ知樹の姿を目にした瞬間、足が止まった。彼女はその場に立ち尽くし、遠くから彼を見つめていた。知樹はケーキと贈り物を手に、こちらへ歩み寄ってくる。彼は緊張しながら贈り物を彼女の前に差し出し、嗄れた声で言った。「誕生日おめでとう、琴子。約束しただろ、毎年の誕生日は必ず一緒に過ごすって、間に合ってよかった」たしかに、過去どんなに忙しくても彼は誕生日に欠かさず現れた。手術で一日中予定が埋まっていても、徹夜になろうとも、必ず彼女に時間を作っていた。けれど、それはもう過去の話だ。琴子は目の前の贈り物を受け取り、彼が言葉を継ぐ前に、横のゴミ箱へ放り込んだ。その瞬間、知樹の顔色が真っ青になり、胸を締めつけられるように息が詰まった。琴子が冷ややかに告げる。「もう、そんな意味のない責任を負わなくていい。私から離れて」彼は苦しげな声を漏らす。「責任なんかじゃない。琴子、ごめん、本当に悪かった。心から後悔してる。もう一度だけ、チャンスをくれ。必ず前よりも大事にするから……」「何を根拠に?」琴子の冷たい一言に、言葉が途切れた。数秒の沈黙ののち、彼女は皮肉めいた笑みを浮かべ、胸に抱えたプレゼントを抱き直して彼の脇を通り過ぎていく。残された知樹は、その場で一晩中立ち尽くした。数日後、手続きのために琴子は一時帰国することになった。ところが、偶然を装うように知樹が同じ便に乗っていて、さらに隣の席に腰を下ろした。琴子は無駄なやり取りを避けるように、搭乗してすぐに目を閉じ、一言も発さなかった。知樹は疲れて眠っているのだと思い、じっと黙って見守る。だが、着陸と同時に彼女が正確に目を開けたことで、眠っていたのではなく、自分を拒絶していただけだと悟った。胸の奥に細かな痛みが広がる。空港を出たところで、タクシーを拾おうと路肩に立つ琴子に、彼は付き従うように声をかけた。「琴子、行き先は?送るよ。ここはなかなかタクシー捕まらないから……」琴子は無表情のま
緑を家まで送ったあと、琴子はようやく自宅に戻った。身支度をすべて終え、ベッドに横になると、知樹の口から出た「愛」という言葉を思い出し、どうしても笑いがこみ上げた。あの人が自分に「愛してる」と言うなんて、その言葉への侮辱にしか思えなかった。翌日、演奏はなく、予定していた練習もキャンセルになった。琴子はグループの告知を読み終えると、スマホを放り出し天井を見つめた。練習や舞台以外、自分には何もすることがないのだと気づいた。空虚感が胸に芽生えかけたそのとき、季之から電話がかかってきた。「今日は練習ないんだろ?迎えに行くよ、外に出よう」どうせ予定もない、そう思った琴子は同意し、ベッドから起きてのんびりと支度をした。階下に降りると、すでに季之が車で待っていた。思わず立ち止まったあと、彼女は足早に助手席へ駆け寄り、腰を下ろす。「待たせちゃった?もっと早く出ればよかったね」季之は気にする様子もなく車を走らせる。「君のことなら、いくらでも待てる。好きなときに出てくればいい」最近は、こういう含みのある言葉をよく口にする。琴子も少し慣れてしまっていて、笑みを浮かべた。「じゃあ今度は一眠りしてから降りるわ」そんな冗談にも、彼は怒ることなく微笑む。「構わないよ」その日は彼が案内役となり、街をあちこち歩き回った。ここに来て一年経つのに、琴子はろくに見て回ったことがなかった。夜になると、彼は海辺のレストランに連れて行った。個室に入ると、いくつもの席が並んだ大きなテーブルが目に入り、琴子は戸惑って振り返った。「二人きりなら、こんなに広い席は……」その瞬間、部屋の灯りが落ち、入り口に温かな光がともる。緑がバースデーケーキを手に、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。その隣には季之。続いてバンドのメンバーたちによる「Happy Birthday」の歌声が響き渡った。自分の誕生日だということを、すっかり忘れていた。琴子の瞳に驚きが走る。「誕生日おめでとう、琴子さん」「琴子さん、誕生日おめでとう」「誕生日おめでとう、琴子」灯りがつき、彼女はメンバーたちの顔を見た瞬間、目が潤んでしまう。「ありがとう」食事の途中、ふと今日季之に言われた言葉を思い出し、琴子は隣で楽しそうに食べている緑の手を軽く叩いた。「緑、季之さんって、誰にでもああやって
琴子は立ち止まり、振り返って冷ややかに口を開く。「おじさんに言われて、私を探しに来たの?」他に理由なんて思いつかなかった。知樹は一瞬動きを止め、慌てて首を振る。「違う。俺が、自分で来たんだ」「何のつもり?」琴子は一歩後ろへ下がり、冷たい声を投げる。彼女のよそよそしく警戒する様子に、胸が裂けるような痛みが走る。知樹の瞳は悲しみと願いで満ちている。「琴子、一緒に戻ろう。俺は……」「恩返しのつもり?」琴子は淡々と見据える。「もう必要ない。あの恩はとっくに返し終わった。もうお互い何もない。行って」そう言って彼をすり抜けようとしたが、大きな手が彼女の腕を掴む。「違う、恩返しじゃない」知樹は必死に彼女を引き止める。「ただ、もう一度君に戻ってきてほしいだけなんだ。俺が馬鹿だった。失ってから、ようやく自分の気持ちに気づいた」琴子は眉をひそめ、手に伝わる感触に嫌悪を覚えて力いっぱい振り払う。知樹の掌から温もりが消え、心臓が沈み込み、まるで針が胸を刺すようだ。彼はうなだれて空っぽの手を見つめ、苦渋に満ちた声を絞り出す。「琴子、俺は君を愛してる。恩なんかじゃない。子供のころからの習慣も全部、愛があったからなんだ。昔はその気持ちを認めたくなくて、縛られたくなくて、勝手に曲げてしまった。そのせいで君を傷つけた。ごめん。君が去ってから毎日後悔してる。どうか一度だけ、やり直すチャンスをくれ」言葉を重ねるほどに、琴子の表情は冷えていった。最後まで聞き終えると、彼女は鼻で笑った。愛してる?知樹の体が硬直し、心臓は真っ二つに裂かれたようで息ができない。琴子は目の前の、背は高いのに小さく見える男を冷笑した。「知樹、ただ恩と愛を取り違えただけ」今度こそ妨げられることなく控室へ戻った。緑は彼女を見つけるなり飛びついてきた。「琴子さん、あのイケメンと知り合いなの……」だが琴子の表情を見て、緑は顔色を変え、慌てて言葉を変えた。「琴子さん、どうしたの?あいつ何かした?私がぶっ飛ばしてくる!」琴子は手を伸ばし、飛び出そうとする彼女を引き戻す。「大丈夫。何もないから」緑は渋々落ち着いたが、それでも心配そうに彼女を伺っている。帰り際、一行が控室を出ると、知樹はまだドアの前に立っていた。顔色は先ほどよりも蒼白だ。車に乗り込むと、緑がつ