Masuk「ありがとう。久しぶりの個展だから疲れてしまったよ、それとも年かな」
年だという割に石川先生の笑い声は軽やかで明るい。今日は石川先生のご招待で、先生の個展を見に行った。一般公開が始まったら人が多くて心配だと蓮司さんが言ったため、美術関係者のみのプレオープンの招待状を石川先生ご本人からいただいた。
石川明梗先生の代表作、四連花。
撫子、彼岸花、沈丁花、杜若をそれぞれ背景にして美しい女性が描かれた連作。
前評判通りとても美しかった。
でも――。
「桔梗さんはお気に召さなかったのかな?」
「あ……も、申しわけあ……」
石川先生に指摘されて私は謝罪しようとしたが、それを石川先生は留めた。
「どうしてかな?」
石川先生の問いかける声は静かだけど、答えなければいけないという威圧感があった。
それを察したのか、朋美さんはショーケースのケーキを見てくると席を立った。
「桔梗さん?」
「……あの四連花は美し過ぎてしまって、私にはあの美しさが遠く感じてしまいました……あの、本当に申しわけありません」
美術について大して詳しくもないのに生意気なことを言ってしまった。
でも、そう感じたのは本当。
四連花は女性の内面を表している、それはつまり石川先生にとって理想の女性像と言えるのではないか。あの絵に描かれたのは清らかで、静かで、女性という感じがしない美しい容姿の人。
あの人からは「性」を感じない。
性の中にある欲がない。
性があるから欲があり、欲があるから肌を重ねて互いの一部になりたがるのだと、蓮司さんと過ごす夜が私に教えてくれた。
欲のない人。
あの人を昔の画家が描いたなら分かる。
でも石川先生が描いたのには違和感がある。
美術展で見たあの絵、誘う視
「ありがとう。久しぶりの個展だから疲れてしまったよ、それとも年かな」年だという割に石川先生の笑い声は軽やかで明るい。今日は石川先生のご招待で、先生の個展を見に行った。一般公開が始まったら人が多くて心配だと蓮司さんが言ったため、美術関係者のみのプレオープンの招待状を石川先生ご本人からいただいた。 石川明梗先生の代表作、四連花。撫子、彼岸花、沈丁花、杜若をそれぞれ背景にして美しい女性が描かれた連作。前評判通りとても美しかった。でも――。「桔梗さんはお気に召さなかったのかな?」「あ……も、申しわけあ……」石川先生に指摘されて私は謝罪しようとしたが、それを石川先生は留めた。「どうしてかな?」石川先生の問いかける声は静かだけど、答えなければいけないという威圧感があった。それを察したのか、朋美さんはショーケースのケーキを見てくると席を立った。 「桔梗さん?」「……あの四連花は美し過ぎてしまって、私にはあの美しさが遠く感じてしまいました……あの、本当に申しわけありません」美術について大して詳しくもないのに生意気なことを言ってしまった。 でも、そう感じたのは本当。四連花は女性の内面を表している、それはつまり石川先生にとって理想の女性像と言えるのではないか。あの絵に描かれたのは清らかで、静かで、女性という感じがしない美しい容姿の人。あの人からは「性」を感じない。性の中にある欲がない。性があるから欲があり、欲があるから肌を重ねて互いの一部になりたがるのだと、蓮司さんと過ごす夜が私に教えてくれた。欲のない人。あの人を昔の画家が描いたなら分かる。でも石川先生が描いたのには違和感がある。美術展で見たあの絵、誘う視
蓮司さんに抱かれたあの日から、私の生活は変わった。朝、目が覚めると隣に蓮司さんがいる。眠っているその横顔に触れることが許される距離に蓮司さんがいて、カーテンの隙間から入る日の光から起床時間だと思ったところで、蓮司さんは目を閉じたまま私の肩を抱き寄せてくれる。その腕の中でもう一度まどろむ時間、それが私の一日の始まりになった。 素肌を寄せ合って越える夜もある。結婚してもずっとそんなこと、雰囲気すらなかったから蓮司さんは性行為にさほど……意欲、みたいなものがないと思っていたけれど、思ったよりも頻繁で。求められることは嬉しいけれど、こんなにするものなのかと戸惑っていたりもする。 蓮司さんは、少し意地悪になった。夜の営みの始まりは言葉がなくても求められていることを気配で感じるのだけれど、蓮司さんはいつも言葉にする。私が、それを恥ずかしがるから。恥ずかしがる姿を見たがるなんて意地が悪いと思うけれど、私ももう分かっている。私も応えたいと、恥ずかしいのはポーズじゃないけれど、応えたいって気持ちが湧いた瞬間から私の体は蓮司さんを受け入れる準備を始めている。それに、最初は戸惑いもあった。はしたないと恥ずかしさが先に立って、蓮司さんと目を合わせることすらできなかった。女が性欲を持ち、性行為を望むことははしたないこと、それが私の認識。けれど――蓮司さんは、はしたない私を受け入れてくれる。嬉しい、と。恥ずかしいと思っていた感情も、戸惑いも、私の全てを優しく包んでくれた。今では夜の営みを、私も求めている。そういう雰囲気になると嬉しくなるほど、恥ずかしいと思いつつも濡れるほど。私の中にあった女の性。それを蓮司さんに見せる
―― いやあああああああっ!!あの日の恐怖に染まった桔梗の悲鳴が蘇る。「桔梗っ!」夢が壊れる。幸せな夢。――蓮司さん。記憶を失っていても変わらない俺の好きな声。女性にしては少し低めの、落ち着いた響き。――好きです。俺の腕の中で恥ずかしそうに、まるで内緒ばなしのように小さく紡いでくれるその言葉が嬉しかった。それが――。―― いやあああああああっ!! 「桔梗っ! 待って……」「え?」桔梗の両肩を掴んでこの場に押し留めようとしたが、桔梗の戸惑った声に思わず力が抜ける。 「蓮司さん?」……いつも通りの桔梗だ。落ち着い響きで俺の名を呼んでいる。肩に触れているた俺の手を特に気にもせず、ただ不思議そうにしている。これは……。「こいつのこと……」「え? 英武司さんですよね?」「ああ」……どうして?「ご親族の皆様の話によく出ていらっしゃいますし、何より英家のご当主に御声がよく似ていらっしゃるので」英家のご当主、春樹小父さんと武司は顔は全く似ていないが声はよく似ている。「大丈夫か?」「あの、大丈夫とは、何がです?」心の底から不思議がるそんな桔梗に……体から力が抜けた。可能ならこの場にへたり込んでしまいたい。振り返ると武司も、ガキの頃に見た泣くのを堪えるような顔をしている。もしかして、俺もか?それは……格好悪い。 「桔梗、改めて紹介するよ。英武司だ。武美の弟で、俺の補佐をしてくれている」武司が俺の隣に立つ。「英武司です。奥様の賛美は親戚から、惚気は蓮司から聞いています。ご挨拶が遅くなってすみません」「桔梗です。お会いできて嬉しいです。武美さんから、武司さんはカツオのように日本中をグルグル回って、東京に戻っても蓮司さんの顔を見たら満足してまた馬車馬の如く駆けていくと聞いています」……なんだ、それは。「武美……いえ、姉がそんなことを?」「はい。蓮司さんに顎で使われることに喜びを見いだす変た……蓮司さんがとても大好きな方だと教えていただきました」「いや、そこまでは……いや、そうなのか?」……そうだな。俺が言うのもなんだが、武司って俺のこと好きだなと思う。ん? 「桔梗? どうした?」武司をじっと見ていた桔梗がハッとする。……もしかして、見惚れてた?いや、可能性は考えていた。改めて武司の顔を見て
桔梗を抱いたあの日から、俺の生活は静かに変わった。最も変化したのは朝の時間だろう。目覚めたときに隣にいる桔梗の温もりを感じ、幸せな気分でその体を腕に抱き込んで二度寝を始めるのが、いつの間にか日課になっていた。桔梗がいて、誠司がいて、日々が豊かだと感じている。 夜になれば、互いの体温を分け合う時間がある。それは決して“夫婦だから”という義務ではなく、むしろ自然とそうしたくなるような、ほとんど無意識の気分で始まる。言葉で誘うこともあれば、仕草で誘うこともある。目的は欲望の発露だけではなく、言葉にならない感情を肌を通して伝え合うような、静かで、深く、あたたかな営みになっている。互いに求め、応え合い、時にすれ違い、また寄り添う。そんな日々の繰り返しが、俺たちを“夫婦”にしていくのだと思う。 桔梗が俺に見せる顔は様々だが、どれも愛らしい。昼間の凛とした表情からは想像もできない、蕩けた涙、甘やかな声、熱い吐息―― 夜の褥で見られる、俺だけにしか見せない、俺だけの桔梗だ。 ……ああ、そうか。四連花が“女の内面”を描いたという評価に、どこか違和感があったのは、きっとそのせいだ。確かに、あの絵は美しい。だが、女も、当然ながら男も、そんなに綺麗なものじゃない。美し過ぎて、物足りない。美しさだけが称えられる「女」という像に、俺はずっと引っかかっていた。明治時代の画家とかなら理解できたが、この時代に「女」に対する認識が古い。 思えば、美人画の最盛期は江戸時代。儒教的な家父長制が社会の根幹を成していた時代だ。女性は「貞淑」「従順」「内助の功」が美徳とされ、性は夫婦間の義務。女性が性欲や快楽について語るなどご法度だったが、その一方で遊女、町娘、芸者といった“性を見るための女”が存在し、
倫理や道徳的なことに目をつぶれば、白州典正のやっていることは合法ではある。 表向きは成功した古美術商で、日本にも白州典正の顧客はいるのか周りは知っていても知らない振りをしていたようだ。 だからこそ大手を振って美術展の主催者などやっているのだろう。 しかし、今回の白州典正が桔梗にしたことは明らかに犯罪。 桔梗は桐谷家の嫁で、桐谷家とその一族が大歓迎している嫁だ。 しかも白洲家が属する文化界の重鎮たちに桔梗は娘や孫のように可愛がられている。 性的暴行は被害者が訴え出なければ成立しないが、社会的に抹殺するなど桐谷家にはできるし、桔梗のためと奮起する大量のジジババが頭に浮かぶ。 それが分からない男ではないだろう。 そうなると、一時の欲望のために白洲典正は全てを掛けたことになる。 なぜ? 孫とは言わないが、桔梗は白洲典正の子どもより10歳以上若い。 そんな桔梗人生の全てを賭けるか? * 「なんだ、この絵……お前が描いたのか?」 俺の言葉に、画集を俺に突きつけていた朋美が呆れた顔を向ける。 「そんなわけないでしょ。石川明梗の作品。彼の作品の中で最も有名で、彼を人間国宝にとまで言わしめた最高傑作『四連花』よ」 美大生の朋美と違って俺は絵が得意ではない。 良し悪しが最終的には時代の風潮とか個人の好みというところが納得できない。 古いものなら一般教養の範囲で覚えているが、現代、特に最近はからっきしだ。 ただ……。 「きれいな絵だな」 「お兄ならそう言うと思った。それでね、この石川明梗先生に会ってみたいんだ」 「なぜそれを俺に言う?」 「桔梗さん、石川先生のお知り合いでしょ?」 ……ん? 桔梗とセットで「石川」と言われて浮かんだのは、あの日、白洲典正から桔梗を助けてくれたあの石川先生だが……。 「分かっているよ。それなら桔梗さんに頼めばいいだろって言いたいんでしょ? でも、頼んで桔梗さんにミーハーな子だって軽蔑されたくないの」 「いや、ちょっと待て……」 聞きたいのは、それではない。 「お兄が桔梗さんに軽蔑されるってこと? それ、私に何か関係ある?」 ……これは、ひどい。 画家で石川明梗を調べると、確かにあの石川先生だった。 祖母さんの知人だったため警戒しておらず、素性を洗わなかったから知らなかった。 彼は都内を中心に
「……気を失ったか」首をかくんともたげで気を失った桔梗。呼吸は安定している。とりあえずは安心、といったところだろう。それにしても……。「たちの悪い薬だ」惨状といえる寝室の状態に苦笑が漏れる。俺のほうは薬など飲んでいないが、煽られたのは薬のせいもあるから文句は言えるだろう。掛け布団と枕は床に落ち、シーツは行為の激しさを見せつけるようにぐちゃぐちゃ。そんな何もなくなったベッドの上で、桔梗はその体を隠すことなく寝ている。くったりとしたその姿は疲労困憊とも言えるし、満足気にも見える。白い肢体は行為の熱で桜色に染まり、気をつけていたつもりだが無意識につけてしまった赤い痕は散った花びらのよう。「ん……」桔梗が身動ぎし、脚が動いて、女の部分が俺の目に入る。穢れを知らない仙女のようなきれいな桔梗だから、赤く腫れたそこが艷やかな様子は生々しく、淫靡さが際立つ。……これは危ない。俺は、自分でも自制が効くタイプだと思っていた。でも俺はいま、至極満足している。性を吐き尽くして欲が満たされたからもあるが、美しい桔梗に己の跡をつけたことに満足している。完璧な女を壊せた。そんな、暴力的な満足感。……気づいてしまった自分が嫌になる。 それにしても、これが桔梗か。こんな女、外に出して大丈夫か?いや、大丈夫ではないな。如何わしい場所に行ったわけでなく、祖母さんと美術展に行っただけでこんなことが起きたのだから。桔梗自身に非はない。完璧と思わせるほど、美し過ぎるだけだ。桔梗の完璧な美しさは見る俺たちが抱いている、俺たちが気づきたくない汚い欲を煽り、表に引きずり出す。 *シャ







