Masukでもその夜、優希は結局、よく眠れなかった。そして夢うつつのなか、彼女は哲也のため息を聞いたような気がしたのだ。......次の日、哲也と優希は、ふたりで子供たちを幼稚園に送っていった。昨日と比べて、今日は日向もずいぶん落ち着いていた。でも、先生に抱っこされて連れていかれるとき、やっぱり目を赤くしていた。そして、唇を尖らせながら優希に言った。「ママ、お迎えのときは絶対パパと一緒にきてね!」「うん、ママとパパはちゃんと早く来るからね」それを聞いて、日向はやっと安心したように頷いた。ふたりは昨日と同じように、お迎えの時間にまた一緒にくる約束をした。しかし午後になって、優希は哲也から電話を受けた。哲也が、急に海外出張に行くことになったのだ。優希は、彼が昨夜、「海外のプロジェクトで少し問題が出た」と言っていたのを思い出した。だから特に深くは考えなかった。ただ、海外で仕事が忙しくても休むようにと伝え、子供のことは心配しないで、とだけ言った。こうして哲也は出張に行ってしまい、優希はひとりで子供たちを迎えに行った。帰り道、兄弟ふたりは優希に、「パパはどこ?」と尋ねてきた。優希は、海外に出張に行ったと答えた。以前も哲也はたまに海外出張に行くことがあった。だから兄弟も慣れたものだ。パパがお仕事でママを養うお金を稼ぎに行くと分かっていたから、物わかりよくぐずることもなかった。そして今回の出張で、哲也はとても忙しいようだった。優希が哲也からメッセージを受け取ったのは、夜の11時を過ぎてからだった。彼は子供たちがぐずっていないか尋ねてきた。優希は、子供たちは大丈夫だから、安心して仕事に集中してと返した。すると、哲也はこう返信してきた。【ごめん、こっちで急用ができた。1週間くらいこっちにいることになるかも。もし一人で大変だったら、両親に来てもらって、数日間手伝ってもらって】確かに優希は忙しかった。でも家にはベビーシッターも使用人もいるから、手が回らないというほどではなかった。ただ、結婚して何年も経つが、哲也がここまで忙しいことは珍しかった。優希はなぜか、胸騒ぎがして落ち着かない気持ちだった。今回の彼の出張は、何か悪いことの前触れのような気がしてならなかったのだ。でも、自分が神経質になって考えすぎてい
その深い瞳の奥には、暗い影が落ちていた。その時、書斎のドアがノックされた。ドアの外から優希の声がした。「哲也、中にいる?」哲也は我に返ると、パソコンの電源を落として立ち上がった。するとカチャリ、と音がして、書斎のドアが開いた。ドアの外に立っていた優希が、哲也を少し見上げて尋ねた。「忙しかった?」ドアの内側に立った哲也は、いつもと変わらない様子で答えた。「急に海外との会議が入ってね。今終わったところだ。どうした?」「子供たちが、寝る前の読み聞かせを待ってるわ」そう言われ哲也は動きを止め、眉間を押さえた。「すまない、忙しくて忘れていた。すぐ行くよ」「ええ」優希は何も聞かず、静かに返事をした。そして、哲也は書斎のドアを閉めると、足早に子供部屋へと向かった。一方、優希は、その場に立ったまま、彼の背中を見つめていた。廊下の明かりが、哲也の後ろ姿を照らしているのを見つめ、優希の表情は穏やかだった。でも、心の奥では哲也の様子がいつもと違うことを、うすうす感じていた。子供たちが1歳になってから、哲也は毎日寝る前に絵本を読んであげていた。出張で家にいない時をのぞいて、一日だって忘れたことはない。でも、今夜は忘れてしまった。優希は閉ざされた書斎のドアを振り返り、唇を引き結んで、静かにため息をついた。......そして、子供たちを寝かしつけた後、哲也は寝室に戻ってきた。その時、優希はすでにお風呂を済ませていた。パジャマ姿でリビングのソファに座り、雑誌をめくっていた。彼が入ってくると、優希は雑誌を置いて顔を上げた。そして、優しい声で尋ねた。「二人とも、寝た?」「ああ」哲也は素っ気なく答えると、シャツのボタンを外しながら言った。「先にシャワーを浴びてくる」「ええ」優希は静かに頷いた。「お風呂、もう沸かしてあるわ。アロマオイルも入れたから、ゆっくり浸かってリラックスしてね」その言葉に、哲也の動きが止まった。彼は優希に近づくと、さっと彼女を横に抱き上げた。すると優希もまた素直に哲也の首に腕を回し、その美しい瞳でじっと彼を見つめた。夫婦になって3年。言葉を交わさずとも、視線だけでお互いの気持ちは伝わる。でも、こういうことに関して優希から積極的になることは珍しかった。だから、今夜は特別だった。
夕食の後、両家族の親たちは裏庭に作られた子供用のプレイルームで、二人の子供と遊んでいた。一方、優希は、兄のお見合いがどうなったか気になっていたから、彼女は裏庭の錦鯉の池のそばに佇む、安人を見つけた。安人は魚の餌の入った缶を手に持って、何気なく池に餌を撒いていた。優希がそばまで歩み寄ると、安人は後ろから近づいてくる足音に気づき、振り向いて彼女を見た。すると、彼は軽く眉を上げて、「俺を探しに来たのか、それとも哲也を?」と言った。「あなたを探しに来たの」優希は腕を組み、29歳になっても相変わらず容姿端麗な兄を見て、ため息をついた。「珍しく残業もせずに、こんなところで魚を眺めてるなんて。ねぇ、なんだかオヤジくさいって言われたことない?」それを聞いて安人はかすかに口の端を上げた。「なんだか結婚の催促に来たみたいだな」優希は彼の隣に腰を下ろした。「私が催促したところで、あなたには響かないでしょ。でも、先週お見合いに行ったって聞いたから。妹として、やっぱり気になっちゃうじゃない!」安人はまた薄く笑った。「一度会っただけだ。どうもこうもないだろう?」「相手のことが、気に入らなかったの?」「もともと、ただ顔を合わせただけだから」安人は言った。「母さんが泣き出しちゃってさ。行かないわけにはいかなかったんだ」「北城の紫藤家の大事なお嬢様で、医学部の博士課程の学生なんでしょ?母さんから聞いたけど、容姿も学歴もピカイチだって。それでも興味が湧かなかったの?」「そうとも言えない」安人は少し間を置いて言った。「コーヒーを一杯飲む時間、一緒にいたけど、会話は全然弾まなかったな」優希は黙り込んだ。それって、よっぽど話が合わなかったってことね。そう思うと、彼女は本当に分からなくなった、兄は一体どんな女性が好みなのだろう。「お兄ちゃん、もしかして......」優希は兄の凛々しい顔を見つめ、一番聞きたくない質問を口にした。「もしかして、男の人が好きなの?」安人は絶句した。「本当のことを教えてくれても大丈夫だよ。誰にも言わないって約束する。両親に問い詰められても、絶対に口を割らないから!」優希がそう言った途端、安人は笑い出した。「なんだ子供を産んだからって、バカになってしまったのか?」安人は妹を見て言った。「彼女がいないからって、す
......午後3時半、哲也が時間通りにビルの下に到着した。優希は身支度を整え、カバンを持ってオフィスを出た。受付の前を通りかかったとき、優希は光葉に、「これから2週間は新しい依頼は受けないわ」と伝えた。「はい、かしこまりました」光葉はうなずいた。「じゃあ、お先に」「はい、また明日、お疲れ様です」優希は彼女に手を振り、「また明日ね」と返した。......そして優希がビルから出てくると、哲也は運転席で電話をしていた。優希は車のそばまで歩いていき、窓をコンコンとノックした。哲也は振り返って優希と目が合うと、「一旦これで。またかけ直す」と慌ただしく言って電話を切った。それから車のロックが解除された。優希はドアを開け、身をかがめて車に乗り込むと、ドアが閉まり、彼女はシートベルトを締めながら、「行こう」と言った。哲也はそれにうなずくと、車を発進させて幼稚園へと向かった。......そして幼稚園の前に着いたが、お迎えの時間までまだ10分あった。優希は電話に出ると、ファイルを取り出しながら話した。「被告側が提出した証明書類には、おっしゃっていたような内容は......ええ、控訴審で被告が提出した証拠は不十分です......」こうして優希が10分ほどで電話を終えると、すでに哲也が子供たちを車に乗せていた。優希はスマホをカバンに戻すと、哲也がチャイルドシートに乗せた双子のほうを振り向いた。「ごめんね。ママはさっきお仕事の電話があって、お迎えに行けなかったの」「ママはお仕事大変だもん。結翔はママのこと、わかっているから大丈夫よ」「お兄ちゃんの言う通りだよ。ママがこんなに大変なんだから、わがままを言ったりしないもん!」優希は二人の息子を見て、心から安心した。一方、哲也は子供たちのシートベルトを締めると、後部座席のドアを閉めた。それから車に戻った哲也はシートベルトを締めながら、優希に言った。「さっき、あなたのお父さんから電話があったんだ。子供たちが初めて幼稚園に行ったから、両家の人たちがすごく気にかけてるみたいでね。今夜、梨野川の邸宅で食事会をするから、子供たちを連れてそのまま来てほしいって」優希はうなずいた。「いいわね。ちょうど私も、お兄ちゃんにこの前のお見合いがどうだったか聞きたかっ
「先輩、あなたたち本気で付き合っているのですか?」「なにを言ってるの。まさか遊びなわけないでしょ?」志音はあっけらかんとしていた。「昴は佑弦くんの事を気にしない妻が必要だし、私も子供を産むつもりはないから、私たち、お互いの利害が一致しているだけあって、結婚相手としては最高じゃない」「じゃあ、彼のことを愛しているんですか?」「愛?」志音は眉を上げると、両手で頬杖をつき、優希を見つめた。「優希ちゃん、誰もがあなたみたいに恋愛に一途になれるわけじゃないの。あなたみたいに幸運に恵まれるわけでもないし。あなたと哲也さんが色々あった末に今があるのは、あなたが頑張ったからよ。私には無理だわ。あんな風に誰かを必死に愛するなんて。それに、私の周りには、そこまでして愛したいって思える男性もいないんだから」「夏暉さんじゃダメなんですか?」優希は志音をじっと見つめて言った。「一昨日、彼がひどく酔っ払って、哲也が迎えに行ったんです。その時、ずっとあなたの名前を叫んでいたそうですよ」志音は目を伏せた。「私と彼は、とっくに終わったのよ」優希は彼女を見つめた。「2年以上も付き合って、別れてまだ3ヶ月も経ってないじゃないですか。本当に吹っ切れたなんて信じられません」「吹っ切れたわけじゃないの。ただ、がっかりすることが重なって、気持ちが冷めてしまったの。もう人を愛する気力がないのよ」優希には分かっていた。志音はもともと、心を開くのに時間がかかるけど、一度好きになったらとても一途な人だ。簡単には人を好きにならないし、一度好きになったら、そう簡単には忘れられない。湊のことで数年も片思いをして、今度は夏暉に2年以上の時間を費やした。31歳。仕事では成功しているが恋に傷ついた女は、将来を理性的に考えるようになるのも仕方がないことだ。ただ、その分、もう簡単には誰かを愛せなくなるのも事実なのである。優希は、愛していないのなら、愛のない相手と安易に一緒になるべきではないと思っていた。愛情のない結婚でも、お互いに敬意があれば、なんとかやっていけるかもしれない。でも、利害が絡んで関係がこじれてしまえば、とても面倒なことになるに違いない。昴はこの数年、女性スキャンダルが絶えないこともあって、優希には、彼がいい夫になるとは到底思えなかった。そこまで考えて、優希は口
それからレストランの2階、個室にて。優希は、ステーキを口に運び、ゆっくりと味わっていた。そして優希の向かいに座る志音は、桜のすっぴんの美しさについて、まだ夢中で話しているのだった。「あんなに綺麗だと、芸能界っていろいろ危なくないかな?っていうかどんな両親から生まれたら、あんな美人になるんだろうね......いや、それより兄弟はいるのかな?よし、調べてみようっと......」そう言うと、志音はスマホを取り出し、桜のプロフィールを検索し始めた。優希は呆れながら笑った。「それで、もし兄か弟がいたらアタックするつもりですか?」「もちろん!彼女が美人だから、兄弟も絶対イケメンでしょ?」志音は顔を上げて言った。「あなただってそうでしょ。あなたも、兄も妹も、みんな美形じゃない。まあ、これはご両親の遺伝子がいいからだけど。やっぱり、美形の遺伝子は安定して受け継がれるのよ!」そう言われ、優希は返す言葉もなかった。「あっ!本当に弟がいる......えっ?彼女、M市出身なんだ。しかも実家は恵美町って書いてある。あそこって海沿いの街よね?不思議ね、日に焼けやすい場所だから、あっちのほうの子は地黒な子が多いって聞くのに、あんなに色白なんて。もしかして美容注射でもしてるのかな?」優希はため息をついた。「先輩、それってすごい偏見じゃないですか?海沿いだって色白の子はたくさんいるし、もともと焼けにくい体質の子だっているでしょう。そういう子は、ちょっと焼けてもすぐ元に戻るんですから」「ちょっと言ってみただけよ。だってネットのインタビューを見ても、M市出身なんて全然見えなかったから意外だったんだもん。それにしても、声は本当に可愛らしいのに、言うことはきつくて、容赦がないわよね!」「おしゃべりはそれくらいにして、早く食べてください。せっかくの料理が冷めてしまいますよ」優希はそう言って、自分の食事を続けた。「食べてるってば!」志音は食事を続けながら、ふと思い出したように言った。「でもさ、彼女があんなリスクを冒してまで会いに来たってことは、あなたのことをすごく信頼してるってことじゃない。本当に、引き受ける気はないの?」「芸能人の案件がどれだけ面倒か、あなたも分かってるでしょう」優希はそう言ってスープを一口飲んだ。そしてクリーミーなスープをスプー
今夜の万葉館は、みんなの楽しそうな笑い声が響いていて、とても賑やかだった。そして、大晦日のごちそうを食べ終わると、子どもたちが一番楽しみにしていたお正月恒例のカウントダウンライトアップを見に行く時間になった。そこで、家族はみんなで、予め予約していた観覧スポットへと向かったのだった。きれいなライトアップが夜空を照らすとき、大輝は心優を抱きながら、隣にいる女性を見つめていた。真奈美も哲也の隣に立ち、彼の肩に両手をかけながら顔を上げて、空に輝くライトアップを見つめているのだった。すると、その輝く瞳には、色とりどりのライトアップがキラキラと映り込んでいるように見えた。大輝は、そ
そして、いよいよ優希が東都大学へ向かう日。哲也は、彼女の両親である誠也と綾を説得した。そして、優希を大学まで送るという光栄な役目を、見事勝ち取ったんだ。それに安人も一緒に付いて行きたがったけど、綾に止められてしまった。綾が、これは彼氏である哲也の大事な役目なんだから、兄の安人は邪魔しちゃだめよ、と言ったからだ。それで安人は怒って、3日間も家に帰ってこなかった。でも優希が大学へ出発する前日、心配でたまらなくなった安人は、やっぱり家に戻ってきた。その夜、彼は優希にキャッシュカードを渡した。「これは俺が自分で稼いだ金だ。大した額じゃないけど、2000万円近く入ってる」安人はぶ
「大輝、あなたをもう一度受け入れてみるよ。でも、最終的にどうなるかは、約束できない」真奈美は真剣な眼差しで大輝を見つめた。「私たち、もう若くないでしょ。私の体は昔みたいに健康じゃないし、私と一緒に暮らすのは大変よ。心の病気は、医学的には完治しないって言われてる。ここ二年くらいは落ち着いてるけど、この先、再発しないとは言い切れない」大輝は彼女の言葉を聞きながら、胸が締め付けられるような痛みを感じていた。真奈美がここまで平然と自分の病気について話せるようになるまで、どれほど辛い日々を乗り越えてきたのだろう。大輝は、彼女がたくさんためらっていることがあるのを分かっていた。この二年
それには勳も笑って応えた。「二宮さんの言う通りですね。じゃあ、撮ってみますか?」「じゃあ、河内さん、お願いします!」優希は勳にスマホを渡した。勳はスマホを受け取ると、優希が哲也を連れて、近くの虹色に輝く岩場まで走っていくのを見守った。そして、優希は哲也の腕を組んだ。身長170センチの優希は、188センチの哲也の肩に頭を預け、眩い笑顔を浮かべた。その母親譲りの美しい瞳がキラキラと輝いているのだった。哲也も肩にもたれかかる彼女を見下ろし、その整った横顔にかすかな笑みを浮かべたのだった。それを見据えて、勳はシャッターを押し、カシャカシャと素早く何枚も写真を撮った。優希の言







