LOGINだが、安人は桜の奇妙な行動に少し興味をそそられても、彼は顔に出さず、この女が一体何を企んでいるのか、見届けてやろうと思った。……やがてエレベーターは28階に到着した。ドアがゆっくりと開くと、桜は目を閉じて息を深く吸い込んだ。覚悟を決めたように振り向くと、彼女は完璧だと思い込んでいる、ひきつった笑顔を安人に向けた。「もう家に着きました。今夜はわざわざ送ってくれてありがとうございます!本当に感謝しています!それじゃあ、気をつけて帰ってくださいね!」それを聞いて、安人は絶句した。彼は桜を見つめた。もし桜の酔いが覚めていたら、安人のなんとも言えない呆れたような眼差しに気づいただろう。だが残念なことに、今の彼女は完全に酔っ払っていた。アルコールと激しい妄想のせいで、エレベーターを降りる桜の足はおぼつかなかった。どうやら、恐怖で足がすくんでしまったようだ。後ろの男が何も言わないので、彼女は家の前まで来たからもう諦めたのだろうと思った。ここは高級マンションで、監視カメラもそこら中にある。まさか無茶はしないはず。そうよ、しないわ。そう思ったが、次の瞬間後ろから足音が聞こえてきた。ついてきた。これには桜も、すっかりパニックになった。なんでまだ諦めてくれないのよ。彼女は息を殺し、ゆっくりと歩いた。背中はすでに冷や汗でびっしょりだった。だが、安人は急ぐ様子もなく、ゆっくりと桜の後ろをついていった。ワンフロア一世帯の造りなので、嘘がバレるのを恐れた彼女は、意を決して玄関の前に立った。そうだ、鍵を忘れたふりしてインターホンを鳴らそう。いくらなんでも、若い女の子が夜中に知らない男に後をつけられてたら、ご近所の人が助けてくれるはず。そう決心すると、桜は安人の方を振り向いた。「あ、どうしましょうか。また暗証番号忘れて、彼氏が家にいるはずですから……」そう言われ、安人は彼女をじっと見つめた。「彼氏?」一方、そう聞かれた桜はうんうんと頷いて言った。「そう、彼氏がいます。ジムのトレーナーで、筋肉がムキムキで超強いんですよ。あ、そうそう、副業もしていて、プロボクサーなんです。しょっちゅう海外で試合に出ていて、優勝なんて朝飯前なんですから!」それを聞いて、さすがの安人もこれには笑ってしまい、片眉を上げた。「へえ?
すると、後ろでドアが閉まり、車が遠ざかっていく音がした。桜がぼうぜんとしていると、背後からゆっくりと足音が近づいてくるのを感じた。彼女はきょとんとした。振り返ると、そこに安人がいた。エレベーターホールは明るい。男はすらりとした長身だった。身長165センチの桜はフラットシューズを履いていたから、彼と目を合わせるには少し顔を上げる必要があった。その彫りの深い端正な顔立ちをはっきりと見て、桜は目をみはった。芸能界に10年もいれば、かっこいい男性なんて見慣れたものだった。でも、目の前の男性は、ルックスも雰囲気も、芸能界のトップスターに匹敵するほどだった。ゆっくりと近づいてくる男を見つめていると、桜の心臓がどきどきと高鳴り始めた。桜は思わず胸を押さえ、眉をひそめた。安人が隣に立つと、とうとう首をかしげて、自信なさそうに尋ねた。「あ、あの……あなたがさきほど親切にしてくださった方……ですか?」そう言われ安人はエレベーターの電光表示板からゆっくりと桜へ視線を移した。そして彼女の潤んではいるけれど、明らかにまだ焦点の合わない瞳と目が合った。彼は小さく喉を鳴らして、「ええ」と頷いた。「もう十分親切にしていただきましたので、ここで大丈夫ですよ。あなたみたいな大御所に、わざわざ家まで送ってもらうなんて、申し訳ありませんので!」すると、安人はもっと何も言えなくなった。どうやら相手は、かなり酔っているらしい。一方、桜は階数表示のパネルを見上げると、安人に向き直って言った。「エレベーター、来ましたよ。もう帰ってください!」安人は酔っぱらった桜を見て、唇をきゅっと結ぶと、ため息交じりに低い声で言った。「誤解してるみたいだけど、俺は……」「エレベーター来ました!」桜は嬉しそうに声を上げ、安人に手を振ると、くるりと向きを変えてエレベーターに乗り込んだ。だが、振り返ると、安人もエレベーターに乗り込んできた。すると、桜の動きが止まった。片や、安人は入ってくると、そのまま桜の後ろに立った。その瞬間、桜は混乱した。そしてエレベーターの階数ボタンを押そうと上げた手も、宙で止まった。なんで、ついてきたの?家まで送らなくていいって、言ったはずなのに。最近のセレブは、人助けもこんなに徹底してるの?違う。おかしい。まさ
本当は分かってる。病院に行って診てもらうのが一番だって。でも、病院には行きたくないし、なにより行けないのだ。こんな顔で病院なんかに行ったら、明日にはまたネットニュースで大騒ぎになっちゃうだろうから。それに引退して、地元で普通に暮らすって決めたんだから。もうこれ以上、注目されるのはごめんだ。そう考えると、桜は前に座る安人の方を見た。車内は薄暗く、通り過ぎる街灯の光が車窓に差し込み、彼の顔をチカチカと照らしていた。安人の顔ははっきり見えない。でも、彼も自分を見ているのが桜には分かった。「あの……すみません。家まで送っていただけませんか?」そう言われ安人は何も返さず、ただ、細く深い目でじっと桜を見つめて、まるで見定められているようだった。これまで、いろんな口実で近づいてくる女はたくさんいた。でも、どいつもこいつも魂胆がミエミエだった。しかし、目の前の女性は、今までの女たちとは何かが違うような気がして、そう思いながら見つめていた安人だったが、その深い瞳からは、何の感情も読み取ることができないでいた。静まり返った車内に、どことなく気まずい空気が流れ、桜の頭はクラクラしていた。車内が暗いせいもあって、安人の表情はよく見えない。でも、黙っていても伝わってくる、ただ者ではないオーラを感じ取れるほどだったから、桜のアルコールで鈍った頭も、ようやくこの人は、きっとすごい人なんだと理解したのだ。こういう人って、気難しいに決まってる。そう思って桜は唇を結び、ため息をついた。「じゃ、申し訳ないのですが、どこか適当な場所でおろしてもらえませんか?」その言葉に、安人の眉が微かに動いた。そして、彼は前を向いた。その後、静かな車内に、安人の低い声が響いた。「住所は」「え……」一瞬ためらったけど、桜はすぐに意味を察して慌てて答えた。「御島壱番館です!ありがとうございます!」それを聞いて、新太は思わず後部座席にいる安人をちらりと見た。だが、安人は前を向いたまま、表情を変えなかった。……10分ほどで、黒塗りの高級車は御島壱番館の地下駐車場に入っていった。桜は窓にもたれて、こっくりこっくりとうたた寝してしまいそうだった。高級車の最高の乗り心地は今の彼女にとっては、この上ない睡眠薬のようだった。何度目だろうか、
一方、安人は、ぐったりした女性を腕に横抱きにすると、個室の外に立っている金吾を冷たい目で見つめた。金吾の女遊びは有名な話で、ビジネス界では知らない者はいなかった。だが、さすがに家庭持ちだ。遊びは遊びでも、公の場では体裁を保つ必要があった。だから、桜が安人に抱きかかえられているのを見て、金吾の顔色は険しくなっていったが、それ以上は進んで行こうとしなかった。安人は、北城のビジネス界で異才と呼ばれる男。長年この世界に身を置きながら、これまで一切スキャンダルがなかった。そんな男が、余計な世話を焼くはずがない。彼が手を出したということは、桜と知り合いか、あるいは彼女に興味があるかのどちらかだ……たかが遊び相手の女のために、安人を敵に回すのは、金吾にとっても得策ではないのだ。そう思って、金吾はその場に立ち止まり、秘書を呼びつけると小声で命じた。「桜の最近の動向を調べろ」「かしこまりました」……一方、安人は腕の中で意識を失っている桜を見下ろしていた。確かに安人は世話焼きな性格ではない。でも、困っている人を見捨てるような人間でもなかった。出くわしたからには、その女性を危険な目にさらしたまま放って置くわけにはいかないと思ったのだ。すると、安人は桜を抱きかかえながら言った。「菊地社長に電話しろ。彼のパートナーから、預かった人がいると伝えろ」新太はそれを聞くと、すぐうなずいた。「はい」そして、安人は桜を抱いたまま、くるりと背を向けて外へ歩き出した。一方、新太も昴に電話をかけ終えると、小走りで安人を追いかけた。ホテルを出ると、新太が言った。「社長、車を回してきますので、少々お待ちください」安人は静かに応えた。まもなく、マイバッハがホテルの正面に停まった。そこで、新太は車から降りると後部座席に駆け寄り、ドアを開けた。安人は桜を後部座席に寝かせると、自分は助手席に乗り込んだ。そして新太もドアを閉め、運転席に回って車に乗り込んだ。シートベルトを締めると、新太は安人の方を向いた。「社長、病院へ向かいますか?」安人はこめかみを押さえ、ちらりと新太を見た。「病院に連れて行かず、俺の家にでも連れ込むべきだったか?」新太は黙り込んだ。「では、佐藤グループ病院へ行きますか?」新太は再び探るように尋ねた。
一方、桜は、きつく握りしめていた拳をゆっくりと開いた。彼女は冷たく鼻で笑うと、その瞳から光が少しずつ消えていき、そして、京子の口調を真似て言った。「いいや。あなたはきっとろくな死に方をしないでしょうね、それがあなたの報いよ」それを聞いて、京子は一瞬言葉を失ったが、すぐにさらに激しく罵り始めたのだっただが桜はもう彼女に構うことなく、くるりと背を向けると、「住所を送って」とだけ言い残してその場を去った。一方、望み通りの結果を得た京子は、ようやく悪態をつくのをやめた。しかし、それでも腹の虫がおさまらず、先月丹精込めて選んだ高級な茶器セットをテーブルからすべてなぎ払った。ガチャンと割れる音は、まるで桜のズタボロの人生を象徴しているかのようだった。……そして夜の帳が下りた頃、桜は適当な嘘をついて寧々を言いくるめると、一人で家を出た。彰人の専属の運転手は、すでに彼女のマンションの前に車を停めて待っていた。桜は車のそばまで歩いて行くと、自分でドアを開けて乗り込んだ。一方、運転手はバックミラー越しに、彼女の普段着とすっぴんの顔を見て、わずかに眉をひそめた。「桜様、会長からはきちんとおめかしするようにと、特に言いつかっておりましたが、そのお姿は……」だが、桜はただ呆れたかのように、淡々と言った。「2年もの間、飼い殺しにされて1円の稼ぎもなかったの。ドレスも化粧品も買えないわ。この服だって、他の人に借りたものなんだから!」そう言われ運転手は言葉に詰まった。桜は冷たく運転手を一瞥した。「行くの、行かないの?行かないなら私はもう家に帰るわよ」そう言われると、運転手も仕方なく口をつぐみ、運転に集中することにした。……10分後、5つ星ホテルに到着すると、運転手は車を停めて、桜を連れて地下駐車場からエレベーターに乗り、まっすぐ8階へと向かった。そして、8階の個室のドアが開くと、運転手は恭しく言った。「会長、桐島社長、桜様がお見えになりました」すると個室で談笑していた二人は、同時にドアの方を振り向いた。運転手は脇へよけると、桜に手で合図した。「桜様、お入りください」一方、桜は冷たい表情のままだったが、ポケットに隠されたきつく握りしめた両手はとっくに汗で湿っていた。彰人はそんな格好で来た桜を見ると、途端に顔色をこわばらせ
そんな言葉、桜はもう耳にタコができるほど聞かされていた。京子からの罵詈雑言を聞くたびに、「また同じこと言ってる。他にレパートリーはないのかしら?」と心の中でツッコむ余裕さえあった。その度に桜は思わず自分はやっぱり、京子と前田彰人(まえだ あきと)の後ろめたい関係から生まれた子なのだと、思ってしまうのだ。だって、京子が狂ったようにわめき散らす中で、別のことを考えられるのだから、自分もあの二人の身勝手で冷酷な血を引いているに違いないだろう。そして、今もそうだ。「桜、あなたは私に借りがある。一生かかっても返しきれないほどのね!」という決まり文句が出た時、桜は次に京子が何かを要求してくるのだと察した。案の定、次の瞬間、桜の耳に飛び込んできたのは、予想通りではあったものの、あまりにも馬鹿げた言葉だった。「お父さんが言ってたわ。あなたが今夜の接待に付き合って、この契約を成立させたら、私を前田家に戻すことも考えてくれるって。桜、これはあなたにとって私に借りを返すチャンスなのよ!」だが、桜はあまりに馬鹿馬鹿しくて、思わず笑い声を漏らしてしまった。そして、彼女はダルそうに顔を上げ、頬を押さえていた手をゆっくりと下ろした。色白の頬には、くっきりと手の跡が赤く残っていて、京子の手加減のなさを物語っているのだった。それに加えて、あまりにも当然といった顔でくだらない要求を言う京子を前に、桜の気持ちはすっかり冷え切ってしまったのだった。そう感じて、桜は冷たい表情で問い返した。「私みたいな干されて借金まみれの、落ち目のタレントに、前田会長の商談を手伝い力なんてあるわけないでしょ。お母さん、どうかしてるんじゃない?」「とぼけないで、桜!正直言わせてもらうわね。今回は桐島社長がお父さんに、あなたを連れてこいって指名したのよ!だから、あなたさえ言う通りにしてくれれば、桐島社長はお父さんとの契約を決めるだけじゃなく、あなたにもこれまでにないほどのいい仕事を回してくれるそうよ。あなた、演劇が好きなんでしょ?桐島社長の言うことをよく聞けば、どんな脚本でも手に入るのよ。それにあなたみたいなのが桐島社長に気に入られただけでも幸運なんだから。まだ若くて価値があるうちに、このチャンスをしっかり掴まないと!」そう言われ、桜の堪忍袋の緒が切れた。京子が何を言うか、
「分かりました」大介は少し間を置いてから、尋ねた。「奥様にはどのように伝えましょうか?」「もし彼女が尋ねられたら、小林さんは海外に移住し、今は連絡が取れないと伝えて」「承知しました」電話を切ると、大輝は眉間を揉んだ。杏が、もうこれ以上付きまとって来ないことを願った。......真奈美は一晩入院し、体調はかなり回復した。翌日、大輝は彼女を石川家へ連れて帰った。帰宅後、彼らはまず万葉館へ行き、親御さんに妊娠の報告をした。真司と楓は喜び、真奈美に沢山のお祝儀を用意してあげた。真奈美は受け取ろうとしなかったが、二人からこれはひ孫へのお祝いの気持ちだから、なにがな
思いがけない小さな命が、真奈美と大輝の危機に瀕していた結婚生活を救った。同時に、それは真奈美の乾ききった、希望を失っていた心にも潤いを与えた。今の真奈美の幸せそうな姿を見て、綾は心から安心した。......かつて恋敵同士だった誠也と大輝は、どちらも別れを経てそしてよりを戻すことを経験したことによって、今はこうして一緒に食事をしながら、穏やかに他愛のない話をする仲にもなれたのだ。話題は子供のことになった。誠也が言った。「娘を育てるのは大変ですが、息子よりずっと可愛いんですよ。優希と光希ちゃんは今、私にとても懐いています。毎日仕事から帰ると、すぐに駆け寄ってきてくれます。安
真奈美は思わず息を呑んだ。電話の向こうで大輝がそれを聞きつけ、心配そうに尋ねた。「どうしたんだ?」「大丈夫よ。赤ちゃんが蹴っただけ」真奈美は片手を腹部に当て、お腹の赤ちゃんを優しく撫でた。すると、赤ちゃんは次第に落ち着きを取り戻した。大輝は少し心配そうに言った。「最近、赤ちゃんが大きくなってきて、蹴る力も強くなってきたんじゃないか?」「大輝、まだ私の質問に答えていないでしょ」真奈美は心の中で、これが大輝に与える最後のチャンスだと自分に言い聞かせた。もし大輝が今、正直に話してくれたなら、落ち着いて話し合い、彼の説明を聞こうと思った。「もう連絡を取っていないんだ」大輝は
「分かりました!」電話を切ると、大輝はすぐに車の鍵を持って家を出た。次第に、空が白み始めた。雪が空から舞い降りてきた。ロールスロイスは雪の中を疾走した。彼は療養所に電話をかけ、真奈美が聡を見舞いに来たらすぐに知らせるように伝えた。その間、霞からすぐに住所が送られてきた。大輝はアクセルを踏み込み、拓海の住まいへと車を走らせた。北城にある古くて狭いアパート。拓海はここに住んでいた。大輝は車を路肩に停め、アパートの中へと入っていった。5分後、彼は落胆した様子でアパートから出てきた。拓海はここにいなかった。雪はますます激しくなり、空はどんよりと曇っていた