第321話

「母が呼んでる！」

綾は駆け寄ろうとしたが、要が手を伸ばして引き止めた。

この時期の古雲町は気候が穏やかで、綾は半袖を着ていた。

男の手のひらは温かくて、乾いていた。

綾は動きを止め、自分の手首を掴んでいるその手に視線を落とした。

指はすらりと長く、関節がはっきりとしていた。

要は彼女の視線に気づき、手を離した。「ごめん。少し待ってほしい、と言いたかっただけだ」

綾は気にせず、ただ母親のことが心配だった。「母が私を見つけられなくて、不安になっていないか心配なの」

「少し様子を見てみよう」と要は言った。「彼女に落ち着く時間を与えないと」

綾はすぐに要の意図を理解し、唇を噛み締めて頷いた。

ドアが開き、澄子が部屋から出てきた。

綾は彼女を見つめた。

「綾......」

澄子はリビングに飾られたお正月の飾り物に最初に気づいた。

彼女は辺りを見回し、すぐに窓ガラスに貼られた切り絵を見つけた。

「綾、綾......」

澄子は窓辺まで歩いて行き、切り絵に触れながら、不安そうに辺りを見回した。

綾と要の姿を見つけると、彼女の目に一瞬の動揺が走った。

明らかに、彼女は綾のことを認識していなかった。

綾の胸に湧き上がった喜びはすぐに消えてしまった。

要は綾の表情の変化に気づき、優しく言った。「良い方法だと思う。家を以前の家の雰囲気に似せることで、入江さんは目覚めた時に慣れ親しんだ環境を見て、たとえ思い出せなくても、潜在意識の中で安心感を得られるはずだ。だから、ほら、パニック症状もかなり軽減されているのが分かるだろう」

綾は母親の様子を見て、要の言葉に深く納得した。

以前と比べれば、これは大きな進歩だった。

「綾......」

澄子は窓に顔を押し当て、ずっと綾の名前を呟いていた。

綾はゆっくりと彼女に近づいて行った。

要は彼女に注意を促した。「あなたも気を付けるんだ。もし彼女が再びパニックを起こしたら、すぐに離れなければいけない。そうしないと、またあなたを傷つけられてしまうかもしれない」

綾は頷き、澄子にゆっくりと近づきながら、優しく呼びかけた。「母さん、私を見て。綾はここにいるよ！」

澄子は瞬きをし、綾の方を向いた。

「綾......」彼女は眉をひそめ、その目にはまだ迷いと不安の色が見えた。

「母さん、私だよ」

澄子は数歩