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第592話
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碓氷先生、奥様はもう戻らないと 第597話
綾は、要の名前を聞くと、このプロジェクトが難航するのは間違いないと思った。そんな偶然があるわけないからだ。そう考えるを、綾はもう無理強いするのはやめた。しかし、宏大は綾が諦めようとしているのを聞いて、こう言った。「北条さんは、二宮社長が共同出資を望むなら、検討してもいいと言っていましたよ」「申し訳ありませんが、私はそのつもりはありません」綾はそう言うと、電話を切った。結局、今回のN市への出張は、無駄足になってしまった。三日後、綾は桃子たちを連れて北城に戻った。空港を出た途端、輝から電話がかかってきた。優希が発熱したらしい。綾は子供が病気だと聞くと、すぐに健太に雲水舎へ戻るよう指示した。健太は普段、安全運転を心がけているが、今日は特に急いでいた。綾は後部座席に座り、野球帽をかぶった健太の後頭部を見ながら言った。「もっとゆっくり運転して。安全が一番よ」健太はハンドルを握る手を強くし、「はい」と答えた。その後は、健太の運転はずっと安定していた。雲水舎に到着すると、綾は車のドアを開けて降り、家の中へ走っていった。健太も車のドアを開けて降り、綾の後を追った。家に入ると、輝が優希を抱っこしていた。優希は額に冷却シートを貼っており、小さな顔が真っ赤に火照って、元気がない様子だった。綾は胸が締め付けられた。「優希、お母さんが帰ってきたよ」綾は輝から娘を受け取った。「母さん」優希は弱々しく、かすれた声で言った。「母さん、のどが痛い」優希は自分の口を指さした。綾は娘の言いたいことがわかった。喉が痛いと言っているのだ。「昨日、彼女がこっそりお菓子を食べてるのを、縁ちゃんに見つけられて、叱られたんだ。それでまだ不機嫌みたい」輝は困りながら、心配そうに言った。「きっと、お菓子を食べ過ぎたせいで喉を痛めたんだ」綾は優希の頬を触ると、確かに熱が高かった。優希は、要に診てもらってからは、めったに病気にならなかった。しかし、今はもう要に頼ることはできない。「とにかく病院に行こう」綾は言った。「ああ、車を出してくる」「私が病院までお送りしましょうか」ずっと玄関に立っていた健太が、口を開いた。綾は、健太が家の中まで入ってきたことに気づいた。綾は健太を見て少し黙り込んだ後、輝に言った
碓氷先生、奥様はもう戻らないと 第596話
綾は頷いた。「正直に話してくれたということは、ここの子供たちが良い教育と世話を受けられるように、心から願っているということですね」「私は孤児なんです」麻衣は微笑んだ。「ここにいる子供たちの多くは親に捨てられた子です。でも、井上さんや奥山さんのように、子供のために自分の仕事や家庭を諦めて、自分の子供をも連れて、子育てをしながら、他の捨てられた子供たちにも愛情を注いでくれる人もいます」綾は何も言わなかった。そして、桃子を見た。桃子はキーボードを打つ手を止め、ノートパソコンを閉じた。「はい、全て記録しました」それを聞いて、綾は立ち上がり、宏大の方を向いた。「詳しい状況は理解しました。今晩、帰ってから検討させてもらいますので、その後、また連絡します」宏大は頷いた。「分かりました。二宮社長、お気をつけてお帰りください」別れを告げると、山下部長は綾たちをホテルまで送ってくれた。黒い車が、曲がりくねった山道を辿って走り去っていた。施設の入口では、宏大が玄関口に立ち、車を見送っていた。彼はこのプロジェクトを非常に重要視していた。なぜなら、施設の子供たちが適切なケアと教育を受けられるかどうかがかかっていたからだ。麻衣は宏大のそばに来て、お茶を渡した。「大丈夫です。きっとうまくいきます」宏大はお茶を受け取り、麻衣を見た。「そんなに自信がありますか？」麻衣は笑った。「私が自信があるんじゃなくて、二宮社長が本当に親切な人だってことです。それに、私は彼女の経歴を調べました。彼女は母親だし、さっき私に質問してきた内容からも、このプロジェクトは金儲けのためじゃなくて、本当に子供たちを助けたいんだって確信しました」宏大は少し驚いた。「さすが心理学専攻ですね」麻衣は微笑んで、何も言わなかった。そして、部屋に戻ると、誰かに電話をかけた。「二宮さんが来た。提示してきた条件は......」......街に戻ると、山下部長は綾に食事をしようと誘ってきた。綾は、山下部長がこのプロジェクトを成功させ、そこから利益を得たいと考えていることを知っていた。しかし、綾がこのプロジェクトを進めているのは利益のためではなく、特別な支援を必要とする子供たちを助けたいという純粋な思いからだった。明らかに、山下部長とは考え方が違った。だから、
碓氷先生、奥様はもう戻らないと 第595話
N市に到着したのは昼だった。一行はホテルへ向かい、チェックインした。便利さと安全のために、全員同じ階に宿泊し、健太の部屋は綾の隣の部屋だった。昼食はホテルのレストランで済ませた。食事の時、健太は姿を見せなかった。「桜井さんはどこですか？」葛城弁護士が尋ねた。「部屋で食べるそうよ」綾が答えた。それを聞いて、葛城弁護士は少し驚いた後、すぐに理解した。「ああ、そうですか。顔に怪我をしていると、確かに人前では不便でしょう」彼らが食事を終える前に、健太がやってきた。午前中に綾に叱られたのか、健太はもう遅れることはなかった。食事が終わった頃、N市は雨が降り始めた。このプロジェクトの担当者である山下部長が、送迎用の車で迎えに来ていた。彼らの目的地は、N市にある孤児院で、そこには多くの障害を持った子供たちが暮らしており、「虹の子どもたち」と呼ばれていた。これらの子供たちは特別な存在であるため、孤児院は「虹の家」と名付けられた。孤児院は山の中腹にあり、ホテルから車で1時間ほどかかる。後半は山道で、さらに雨も降っていたので、車はなかなかスピードが出せなかった。虹の家に到着したのは午後4時だった。山には霧が立ち込めて視界が悪く、雨天で空もどんよりと曇っていた。孤児院だけが明りによって照らされていた。子供たちの楽しそうな声が、建物のあちこちの部屋から聞こえてきた。院長は28歳の白石宏大（しらいし こうだい）という、優しそうな顔立ちの若い男性だった。来る途中、山下部長は綾に宏大の経歴を話していた。彼は母親の後を継いだのだった。宏大の母親がこの孤児院の創設者で、母親が亡くなった後、宏大が引き継いだ。宏大には35歳になる白石雄大（しらいし ゆうだい）という兄がいたが、自閉症だった。虹の家は、もともと母親が雄大のために設立したものだったのだ。宏大は、綾一行を温かく迎え、孤児院の子供たち全員を紹介した。「ここの職員は皆、『虹の子どもたち』の母親で、無償で子供たちの世話をしてくれています」宏大は説明した。会議室では、一同が会議用テーブルを囲んで座っていた。桃子はキーボードを打つ手を止め、宏大を見て尋ねた。「ということは、専門の先生はいないのですか？」宏大は「一人います」と答えた。綾は言っ
碓氷先生、奥様はもう戻らないと 第594話
午前10時、桃子は社長室のドアをノックし、ボディーガードの面接に来た男を連れてオフィスに入った。「二宮社長、こちらがボディーガードの面接に来た桜井さんです」綾は山積みの書類の中から顔を上げた。男は背が高く、170センチの桃子が小さく見えるくらいだった。黒いトレーニングウェアを着て、マスクと帽子を深く被っていた。目以外は、すっかり覆い隠されていた。桃子は面接資料を綾に手渡した。綾は手渡された資料に目を落とした。桜井健太（さくらい けんた）、38歳。国際的な警備会社に10年間勤務し、その後、事故による怪我で退職。腕前は確かで、独身。24時間待機可能。しかし、この資料に貼ってある写真は10年前のものだった。綾は顔を上げ、男の顔に視線を向けると「マスクを外してくれない？」と言った。男は彼女を見つめ、低く落ち着いた声で言った。「顔に火傷の痕がありまして、お見苦しいと思います」火傷？綾は眉をひそめた。「資料での事故による怪我とは、火傷で顔に傷を負ったということ？」健太は「はい」と答えた。綾は彼を見つめた。なぜか、心に拭いきれない疑念があった。そんな考えは馬鹿げていると分かっている。それでも、疑念が湧き上がってくるのを抑えきれなかった。「あなたは私のボディーガードになるのだから、あなたの情報はすべて把握しておく必要がある。火傷が事故によるものだということは理解しているし、差別するつもりもない。ただ、お顔の様子は把握しておきたいの」健太は彼女を見つめた。そして、ゆっくりとマスクを外した。マスクの下には、顔の3分の2を覆う、痛々しい火傷の痕があった。確かに、顔に傷を負っている。顔の3分の2が火傷で覆われているとはいえ、鼻と目から、おおよその顔立ちは判断できた。やはり記憶の中のあの顔じゃなかった。「はい。もうマスクを着用して大丈夫だから」男は静かに頭を下げ、再びマスクをつけた。彼は綾を見て尋ねた。「二宮社長、他に何かお聞きになりたいことはありますか？」綾は尋ねた。「こちらの条件は全て受け入れられる？」健太は「はい」と答えた。「24時間待機で、年間を通して休みがない可能性もある。もちろん有給休暇はあるが、私が家にいて出かけない日は、好きに時間使っていい。それでも大丈
碓氷先生、奥様はもう戻らないと 第593話
それを聞いて、綾は静かに頷いた。要は彼女を見つめ、少し黙った後、言った。「俺は用事があるから、もう行かないと、一人で大丈夫か？」「ええ、大丈夫」綾は彼がそれ以上何も言わなかったので、少しだけ態度を和らげ、「助けてくれてありがとう」と言った。とりあえず、今は表向きだけでもうまくやっていかないと。そうでなければ、要はまた子供たちに何かするかもしれない。「礼には及ばない」要は仕方なさげに笑い、「他に何もなければ、俺はもう行くから」と付け加えた。そして、要が去って間もなく、星羅が到着した。星羅によると、要から彼女が気を失って病院で点滴を受けているとの連絡があったから、駆けつけてきたそうだ。綾は少し困ったように言った。「蒼空くんの世話もあるのに、わざわざ来なくてもよかったのに」「何言ってるのよ！あなた一人でK市で倒れて、誰一人付き添いがいないのに、私が心配しないわけないじゃない？」それを聞いて、綾は胸がいっぱいになり、星羅の手を握りしめ「ありがとう。心配しないで、私は大丈夫」と言った。「大丈夫なわけないでしょ！顔色が真っ青よ！」星羅は綾を叱りつけた。「綾、そんなに生活に困ってるの？子供たちは父親を失ったとはいえ、碓氷さんの遺産で一生遊んで暮らせるくらいのお金はあるはずでしょ。どうしてそんなに無理してるのよ！」「無理をしているわけじゃないの。たまたま仕事が重なっただけよ」「言い訳はいいから！まったく、ちゃんと言うことを聞かないんだから！」綾は言い負かされ、「わかったよ。家に帰ったら雲さんにちゃんと栄養をつけてもらうから。それでいい？」と言った。「ふん！」星羅は綾を睨みつけ、「ほどほどにしないと、体調崩したら、お金がいくらあってもダメなんだからね！」と言った。「はいはい、あなたのおっしゃる通りだね」星羅は綾が適当にあしらっているのを見て、それ以上何も言わなかった。こういうことは友達として心配でいくつか忠告するしかないのだ。彼女が聞き入れてくれるならそれに越したことはないが、結局、彼女も大人なのだから、四六時中監視したり干渉したりすることはできないし、聞き入れないのなら仕方がないわけだ。結局は、皆それぞれの人生と選ぶ道があるのだ。いくら仲良くても干渉しきれないのだ。「来月、またN市に出張に行くんでしょ？
碓氷先生、奥様はもう戻らないと 第592話
綾はそう言うと立ち上がった、「もう時間も遅いから、別の部屋を取ってくるね」と言った。そして、彼女はそのまま玄関へ向かって歩き出した。背後の男の表情が変わったことには、全く気づいていなかった。次の瞬間、綾は首の後ろに痛みを感じ、意識を失った。要は崩れ落ちる綾を受け止め、抑え込んでいた狂気が、ついに露わになった。「綾、あなたが言うことを聞かないから、こうするしかないんだ」......意識が朦朧とする中、綾は体が揺れているのを感じた。まだ体の感覚は完全には戻っていなかったが、意識は戻り始めていた。少しもがいた後、彼女は眉をひそめながら目を開けた。薄暗い車内。外の街灯の光が窓から差し込んでいた。自分は誰かの車の中にいるのかな？そう思いながら、綾は起き上がろうとしたが、再び眠りに落ちてしまった。......深夜の街路は、交通量が少なかった。その時、一台の黒い車が、要の車の後を、一定の距離を保ちながら尾行していた。20分後、要の車は私立病院へと入った。病院の地下駐車場で、要は意識を失った綾を抱きかかえ、エレベーターに乗り込んだ。その少し離れた場所に黒い車は停車していた。そして、中から黒ずくめの男が出てきた。男はキャップとマスクで顔を隠し、全身を覆っていた。彼は身をひそめながら非常口へと入って行った。病院の手術室で、要は綾を手術台に寝かせた。そばにいた若い医師は彼を見て、「北条さん、本当に採卵を行うのですか？」と尋ねた。「ああ」要はベッドの上で眠る綾を見ながら、歪んだ愛情を露わにした。「彼女は今ちょうど排卵期です。慎重かつ迅速にお願いします」綾は以前、彼のところで体調を整えてもらっていたため、要は彼女の体の状態を熟知していたのだ。手術室のドアが開き、看護師が綾を乗せたストレッチャーを押して入ってきた。少し離れた廊下の角で、黒ずくめの男が物陰に隠れ、様子を伺っていた。しばらくして、彼は非常口から出て、誰かに電話をかけた。「綾が手術室へ入っていた。すぐに手配しろ」......30分後、綾は手術室から出てきた。要は「手術はどうでしたか？」と尋ねた。医師から「問題ありません。成功です」と聞くと要の顔に喜びの色が浮かんだ。彼は綾の顔にそっと触れ、「綾、お疲れ。安心しろ
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