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第642話

Author: 栄子
「もう行かなくちゃ」綾は一歩後ろに下がり、顎を少し上げて誠也を見上げた。「優希の音楽の才能は素晴らしいわよ。もし将来音楽に興味を持つなら、文子さんに先生を探してもらえるように頼んでおいてね。安人は積み木とルービックキューブが好きで、頭の回転が速く、集中力もある。もし本人が望むなら、その才能を伸ばしてあげて......」

「綾」誠也は綾の言葉を遮り、涙で潤んだ目で彼女を見つめた。「そんなこと言うな。まるで遺言みたいだ」

綾は仕方なさそうに微笑んだ。「万が一のためよ」

「万が一なんてことはない」誠也は両手で綾の顔を包み込み、額にキスをした。「お前の選択を尊重する。そして、俺と組織を信じてくれ。何があっても、自分の身を守り、俺たちが迎えに行くのを待っていてくれ」

綾が一瞬呆気に取られていると、背後のドアを若美が叩いた。

「綾さん、大丈夫ですか? 気を失ったりしましたか?」

若美の声には焦りが感じられた。きっと拓馬が怪しんでいるのだろう。

誠也はマスクを着用し、綾を最後に見詰めると、振り返って大股で屋根裏部屋に上がった。

足音は「ドンドン」と速かった。

綾は少し待ってから、ドアを開けた。

ドアの外には、若美と二人の店員、そして拓馬がいた。

綾は体がふらついた。

「綾さん!」若美はすぐに駆け寄り、彼女を支えた。「顔色が悪いですね。また気分が悪くなったんですか?」

綾は拓馬を騙すために演技をしていただけだったが、偶然にも、下を向いた途端、一滴の血が滴り落ちた――

一滴、また一滴と......

血が鼻から溢れ出してきたのだ。

「綾さん!」若美は顔面蒼白になった。「どうしましたか?」

店員は急いでティッシュを数枚取り出し、綾の鼻を塞いだ。

しかし、血はあっという間にティッシュを濡らした。

拓馬の表情が一変した。「大変です!二宮さんの病気が再発しました。早く北条さんのもとへ連れて帰りましょう!」

綾は目の前が真っ暗になり、気を失った。

拓馬は気を失った綾を抱き上げ、外へ出た。

若美は店員から渡されたティッシュで、綾の鼻を塞いだ......

......

綾が倒れたことで、要は丸一週間、再び忙しくなった。

白血病の急性出血には、漢方薬だけでは抑えられない。仕方なく、要は綾に結合療法を施した。

綾は一週間意識を失い、見るからに痩せてしま
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