彼女には彼氏がいない

彼女には彼氏がいない

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過職場の中心にいつもいる彼女は、男性社員とも分け隔てなく会話をしている。 そんな彼女の事は、誰もが好意を抱いており、私もまた、好意を抱いてる1人だった。 仕事もプライベートも充実してそうな彼女だったが、偶然、話を聞いてしまう。 彼氏いない、いたことない。と その一言から、彼女を見る目が変わってしまった。 見る目が変わった私と、何も変わってない彼女の話

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1화

第1話

篠原澪は、キーボードを打つ手を止めた。

画面には、さっきから同じ行が表示されたまま動いていない。カーソルが規則正しく点滅しているのに、頭の中は別のところにあった。

少し離れた場所で、笑い声がする。

「それでさ、先方が急に仕様変えたいって言ってきて」

聞き慣れた声だった。白石由奈。

柔らかくて、よく通る声。職場の誰とでも自然に話せる人。

「えー、それは大変ですね」

男性社員の声が続く。由奈は書類を胸に抱えながら、少し身を乗り出して話していた。距離が近い。特別な意味はないと分かっているのに、私は視線を逸らせずにいた。

「でも、まあ何とかなるかなって。こういうの、嫌いじゃないし」

由奈はそう言って笑う。困ったようで、どこか楽しそうな表情。

自分が座っている椅子の背もたれに、わずかに体重を預けた。

ここから見えるのは、横顔と、少しだけ見える横目。

——まただ。

由奈の視線が、一瞬こちらに流れる。

目が合った。

ほんの一秒にも満たない。

けれど確かに、視線は私を捉えていた。

「……」

慌てて画面に視線を戻す。

何もしていないのに、見られた気がして、胸がきゅっと縮んだ。

「篠原さん」

名前を呼ばれて、肩が跳ねる。

「は、はい」

振り向くと、同じチームの先輩が立っていた。

「この資料、午後の会議で使うから、確認お願いできる?」

「分かりました。すぐやります」

返事をして資料を受け取る。

その間も、意識は完全には戻ってこなかった。

——白石さん。

呼び捨てにするほど親しくはない。

けれど、苗字に「さん」をつけるだけで、少し距離を感じる名前。

私は、由奈とまともに話したことがほとんどなかった。

挨拶と、業務上の最低限の会話。それだけ。

それでも、なぜか気になる。

由奈は、よく男性社員と話している。

明るくて、愛想がよくて、距離の詰め方が自然だ。

——きっと、彼氏がいる。

そう思うのが、普通だった。

だから私は、踏み込まなかった。

視線を向けるだけで、それ以上は望まない。

「篠原さん、集中してます?」

再び声がして、我に返った。

「す、すみません。今、確認します」

資料に目を落とす。

文字は読めるのに、頭に入ってこない。

そのとき、由奈たちの会話が途切れた。

「じゃあ、後でまたお願いします」

男性社員が去っていく。

残された由奈は、軽く息をついてから、くるりとこちらを向いた。

そしてまた、視線が重なる。

今度は、逸らされなかった。

由奈は、こちらを見たまま、ほんの少しだけ口角を上げた。

誰かに向ける社交的な笑顔とは違う、柔らかい表情。

どう反応していいか分からず、視線を彷徨わせる。

「……」

結局、会釈のようなものをして、再び画面を見るふりをした。

心臓の音が、やけに大きい。

——今の、何?

気のせい。

そう言い聞かせるには、妙に引っかかる。

午後になり、給湯室でコーヒーを淹れていると、聞き覚えのある声がした。

「白石さんって、彼氏いるんですか?」

背中が、ぴくりと反応する。

「え?いないですよ」

由奈の声だ。

即答だった。

「そうなんですか?てっきり、いるものだと」

「よく言われます。でも、いないです」

笑いながら答える声。

その会話は、それだけで終わった。

カップを持つ手を強く握りしめた。

——いない。

頭の中で、その言葉が何度も反響する。

職場に戻ると、由奈は自分の席に座っていた。

自然を装って席につく。

しばらくして、視線を感じて顔を上げると、由奈がこちらを見ていた。

今度は、はっきりと。

そして、由奈は小さく口を動かす。

「……お疲れさまです」

声は届かない距離。

けれど、確かに澪に向けられた言葉だった。

一瞬迷ってから、唇を動かす。

「……お疲れさまです」

声にはならなかったが、由奈はそれを見て、満足そうに微笑んだ。

彼女には、彼氏がいない。

それを知っただけで、

今まで見ていた景色が、少しだけ違って見え始めていた。

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第1話
篠原澪は、キーボードを打つ手を止めた。画面には、さっきから同じ行が表示されたまま動いていない。カーソルが規則正しく点滅しているのに、頭の中は別のところにあった。少し離れた場所で、笑い声がする。「それでさ、先方が急に仕様変えたいって言ってきて」聞き慣れた声だった。白石由奈。柔らかくて、よく通る声。職場の誰とでも自然に話せる人。「えー、それは大変ですね」男性社員の声が続く。由奈は書類を胸に抱えながら、少し身を乗り出して話していた。距離が近い。特別な意味はないと分かっているのに、私は視線を逸らせずにいた。「でも、まあ何とかなるかなって。こういうの、嫌いじゃないし」由奈はそう言って笑う。困ったようで、どこか楽しそうな表情。自分が座っている椅子の背もたれに、わずかに体重を預けた。ここから見えるのは、横顔と、少しだけ見える横目。——まただ。由奈の視線が、一瞬こちらに流れる。目が合った。ほんの一秒にも満たない。けれど確かに、視線は私を捉えていた。「……」慌てて画面に視線を戻す。何もしていないのに、見られた気がして、胸がきゅっと縮んだ。「篠原さん」名前を呼ばれて、肩が跳ねる。「は、はい」振り向くと、同じチームの先輩が立っていた。「この資料、午後の会議で使うから、確認お願いできる?」「分かりました。すぐやります」返事をして資料を受け取る。その間も、意識は完全には戻ってこなかった。——白石さん。呼び捨てにするほど親しくはない。けれど、苗字に「さん」をつけるだけで、少し距離を感じる名前。私は、由奈とまともに話したことがほとんどなかった。挨拶と、業務上の最低限の会話。それだけ。それでも、なぜか気になる。由奈は、よく男性社員と話している。明るくて、愛想がよくて、距離の詰め方が自然だ。——きっと、彼氏がいる。そう思うのが、普通だった。だから私は、踏み込まなかった。視線を向けるだけで、それ以上は望まない。「篠原さん、集中してます?」再び声がして、我に返った。「す、すみません。今、確認します」資料に目を落とす。文字は読めるのに、頭に入ってこない。そのとき、由奈たちの会話が途切れた。「じゃあ、後でまたお願いします」男性社員が去っていく。残された由奈は、軽く息をついてから、くるりとこちらを向いた。そして
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第2話
朝、目が覚めても、昨日のことが頭から離れなかった。白石由奈には、彼氏がいない。たったそれだけの事実なのに、どうしてこんなにも胸に残るのか、自分でも分からない。出社の準備をしながら、何度も昨日の光景を思い返してしまう。男性社員と話しながら、ふとこちらを見る横顔。一瞬だけ合った視線。そして、口の動きだけで伝えられた「お疲れさまです」。——気にしすぎだ。そう思おうとしても、心は簡単には言うことを聞いてくれない。通勤電車の窓に映る自分は、いつもと変わらない顔をしていた。眠そうで、少しだけ無表情で、感情を隠すのが上手な顔。会社に着くと、すでに何人かは出社していて、オフィスにはいつもの空気が流れていた。その中に、白石さんの姿もある。わたしは、自分の席に向かいながら、無意識に彼女の方を見ていた。今日も、周りに人がいる。男性社員と、何かを確認している様子だった。——普通の光景。それなのに、昨日とは違って見えるのは、わたしの気持ちが変わったからだろうか。席に座り、パソコンを立ち上げる。指を動かしながら、ちらりと視線を送る。白石さんは、男性社員の話を聞きながら、何度か頷いていた。そして、ふと、こちらを見る。また、目が合う。今度は逸らされなかった。むしろ、わずかに視線が柔らぐのが分かった。胸が、きゅっと締めつけられる。——なんで、見るの。心の中でそう呟きながら、わたしは慌てて画面に視線を落とした。気づかれたらおかしい。意識しているなんて、知られたくない。でも、白石さんは、何もなかったかのように会話を続けていた。午前中は、仕事に集中しようと必死だった。数字を追い、資料をまとめ、メールを返す。それでも、ふとした瞬間に、視線が向いてしまう。——彼女には、彼氏がいない。その事実が、何度も頭をよぎる。昼休み、席を立つと、白石さんがちょうど給湯室の方へ向かっていた。同じ方向。少し距離を保ちながら、後ろを歩く。話しかける理由はない。話しかけられる勇気もない。給湯室に入ると、白石さんはすでにコーヒーを淹れていた。「あ……」気づかれてしまった。「篠原さんも、コーヒーですか?」名前を呼ばれて、心臓が跳ねる。「は、はい」それだけで、精一杯だった。「この前の資料、助かりました。ありがとうございます」白石さんは、こ
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第3話
定時を過ぎても、わたしはすぐに席を立てなかった。パソコンの画面はもう閉じている。やるべき仕事も終わっている。それでも、椅子に座ったまま、何となく時間をやり過ごしていた。理由は分かっている。白石さんが、まだ席にいるからだ。オフィスの人数は少しずつ減っていく。帰り支度をする音、エレベーターに向かう足音。それらが遠ざかるたび、空間が静かになっていく。ふと、視線を上げると、白石さんは資料を片付けているところだった。真剣な横顔。仕事の顔だ。——やっぱり、綺麗だな。そんなことを考えてしまった自分に、少し驚く。今まで、こんなふうに誰かを意識したことはなかった。わたしは、彼女のことをほとんど知らない。それなのに、目で追ってしまう。白石さんが、バッグを手に取る。そろそろ帰るのだろうか。その瞬間、心臓が少しだけ早くなった。——別に、何かあるわけじゃない。そう自分に言い聞かせる。立ち上がると、椅子の音がやけに大きく聞こえた。白石さんが、こちらを見る。「篠原さんも、もう帰りですか?」声をかけられて、足が止まる。「……はい」それだけで、胸がざわつく。「よかった。偶然ですね」白石さんは、そう言って少し笑った。偶然。その言葉に、わたしは小さく頷く。エレベーターへ向かう廊下を、二人で並んで歩く。これまで何度もすれ違ってきたはずなのに、こんなふうに並ぶのは初めてだった。沈黙が続く。気まずい、はずなのに。不思議と、落ち着かないだけで、嫌ではなかった。「……篠原さんって」白石さんが口を開く。「仕事終わるの、いつも早いですよね」「え……そう、ですか?」「はい。無理しないタイプなのかなって」無理しない。そう見えていたのか。「……得意じゃないだけです。残るの」正直に答える。「分かります」白石さんは、少しだけ声を落として言った。「わたしも、実はあんまり得意じゃないです」意外だった。白石さんは、仕事が好きそうで、何でも楽しそうにこなす人だと思っていたから。「でも、周りが残ってると帰りづらくて」そう言って、困ったように笑う。「……そう、ですね」わたしも同じだった。エレベーターが来る。中には、誰もいない。二人で乗り込むと、扉が静かに閉まった。密閉された空間。白石さんの距離が、急に近く感じる。「篠原
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第4話
カフェを出ると、夜風が思ったよりも冷たかった。「寒くないですか?」白石さんが、こちらを見て言う。「……大丈夫です」そう答えたけれど、少しだけ嘘だった。そのことに気づいたのか、白石さんは自分のコートの前を軽く押さえながら、歩く速度をわたしに合わせてくる。並んで歩く道。会社から駅までの、いつも通っているはずの道なのに、景色が違って見えた。沈黙はあった。でも、それは居心地の悪いものじゃない。「さっきの話なんですけど」白石さんが、前を見たまま口を開く。「視線、感じるって言ったじゃないですか」「……はい」心臓が、また少しだけ速くなる。「最初は、たまたまかなって思ってたんです。でも」白石さんは、ちらりとこちらを見る。「だんだん、分かるようになってきて」「……」「篠原さんが、どんなときにこっちを見るのか」そんなところまで、見られていた。「仕事してるときとか、集中してるときは、全然見ないんですよね」「……」「でも、誰かと話してるとき」言葉が、止まる。わたしは、思わず足を止めていた。白石さんも、それに気づいて立ち止まる。「……嫌でしたか?」少しだけ、不安そうな声。「……違います」慌てて首を振る。「ただ……そんなふうに、見られてるとは思ってなくて」正直な気持ちだった。白石さんは、ほっとしたように息を吐く。「よかった」その表情を見て、胸がきゅっとなる。「篠原さんって、分かりやすいです」「え……?」「目が」白石さんは、自分の目元を指で示す。「すごく正直」そんなふうに言われたことはなかった。「……褒めてます?」「はい」即答だった。「ちゃんと、気持ちがある人の目をしてるなって」それ以上、何も言えなかった。駅が見えてくる。改札の明かりが、少し眩しい。「……ここで」白石さんが言う。「別れですね」「……はい」そう答えながら、内心では、もう少し一緒にいたいと思っていた。「今日は、ありがとうございました」白石さんは、少しだけ頭を下げる。「こちらこそ」言葉が、形式的になってしまう。一歩、踏み出そうとして、白石さんが足を止めた。「……あの」「はい」「また、こうやって話してもいいですか?」問いかける声は、控えめで、でも真剣だった。「……もちろんです」そう答えた瞬間、白石さんの表情が
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第5話
翌日から、白石さんとの距離は、目に見えて変わったわけじゃなかった。挨拶は、相変わらず「おはようございます」で始まる。業務の話も、必要最低限。周りから見れば、昨日までと何も変わらない。それでも、わたしには分かってしまう。視線の向き。タイミング。ほんのわずかな間の取り方。朝、席に着くと、白石さんは一度だけこちらを見る。声はかけない。けれど、その一瞬で、ちゃんと「気づいている」と伝わる。わたしも、同じように視線を返す。それだけで、胸の奥が落ち着く。——これでいい。今は、まだ。午前中の会議は、少し長引いた。資料を見ながら説明を聞き、メモを取る。集中しているはずなのに、ふとした瞬間に、意識が別のところへ行く。白石さんの声。発言するときの、落ち着いた口調。仕事の場では、やっぱり頼りになる人だと思う。会議が終わり、席に戻る途中、白石さんとすれ違った。「お疲れさまです」声をかけられて、足が一瞬止まる。「……お疲れさまです」目を合わせて、そう返す。それだけ。なのに、心臓が少しだけ跳ねる。昼休み、いつもは一人で過ごすことが多い。外に出るか、デスクで軽く済ませるか。今日は、なんとなく席を立たずにいた。すると、白石さんがこちらに近づいてくる。「篠原さん」名前を呼ばれるのに、もう驚かなくなってきた自分がいる。「はい」「今日、お昼どうしてます?」一瞬、考える。「……特に、決めてません」白石さんは、少しだけ迷ったような表情を見せてから、口を開く。「よかったら、一緒にどうですか?」胸の奥が、きゅっと鳴る。周りの視線が、気にならないわけじゃない。でも、断る理由も、なかった。「……はい」そう答えると、白石さんは安心したように微笑んだ。会社の近くの小さな定食屋。昼時を少し外れていたからか、店内は比較的静かだった。向かい合って座る。昨日のカフェよりも、ずっと日常的な場所。「こうやって二人でご飯、初めてですね」白石さんが言う。「……そうですね」「なんだか、ちょっと不思議」「……分かります」自然と、会話が続く。仕事の話。忙しさのこと。最近、眠りが浅いこと。どれも、特別じゃない内容。それでも、白石さんの声を聞きながら、時間がゆっくり流れていくのを感じた。「篠原さんって」箸を置いて、白石さん
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第6話
その日は、いつもより仕事が静かに進んでいた。電話も少なく、急ぎの案件もない。オフィス全体が、少しだけ気の抜けた空気に包まれている。わたしは画面を見つめながら、キーボードを叩いていた。集中しているつもりだったのに、視線の端に白石さんの姿が入るたび、意識が引き戻される。白石さんは、資料をまとめながら、同僚と小さな声で話していた。相変わらず、自然な距離感。誰といても、浮かない。——彼氏がいないなんて、やっぱり信じられない。そんなことを考えていると、白石さんがこちらを見た。一瞬。でも、はっきりと。わたしは、逃げなかった。白石さんは、少しだけ目を細めてから、同僚との会話を終えた。しばらくして、席を立つ音がする。足音が、こちらに近づいてくる。「篠原さん」名前を呼ばれて、顔を上げる。「はい」「今、少し時間あります?」「……あります」そう答えると、白石さんはほっとしたように頷いた。「給湯室、行きませんか」断る理由はなかった。並んで歩く短い距離。沈黙は、もう重くない。給湯室に入ると、他には誰もいなかった。白石さんはマグカップを手に取り、コーヒーを淹れる。「篠原さんは、何にします?」「……同じので」白石さんは笑って、もう一つカップを用意した。「最近、よく一緒にいますよね」不意に、そんなことを言われる。「……そう、ですね」「周りから、どう見えてるんだろ」冗談めいた口調。でも、どこか探るような視線。「……気になります?」そう聞くと、白石さんは一瞬だけ言葉に詰まった。「少し」カップを持つ指に、力が入る。「誤解されること、多いので」「……彼氏のこと、ですか?」言ってから、少し後悔した。踏み込みすぎたかもしれない。でも、白石さんは否定しなかった。「はい」そして、少し間を置いてから、こちらを見る。「彼氏はいないですし……いたことも、ないです」その言葉に、胸が小さく跳ねた。——いないし、いたこともない。頭の中で、反芻する。「でも」白石さんは、視線を外さずに、続けた。「彼女は、いたことがあります」その瞬間、心臓が、はっきりと音を立てた。——彼女。一気に、空気が変わった気がした。「……」何も言えずにいるわたしを、白石さんはじっと見ている。なぜ、そんなことを言うのか。どうして、今、こ
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第7話
その日の午後は、ずっと落ち着かなかった。白石さんの言葉が、頭の中で何度も繰り返される。彼女はいたことがある。そして、それをわたしにだけ伝えた。理由は分からない。けれど、意味がないとは思えなかった。仕事が終わる頃、白石さんが席を立った。こちらを見る。目が合う。「……篠原さん」小さく手招きされる。「少し、いいですか」断る理由は、もうなかった。人の少なくなったフロアの端。コピー機の音だけが、遠くで聞こえる。白石さんは、少しだけ距離を取って立っていた。でも、昨日までより近い。「さっきの話の続きなんですけど」前置きのような言葉。それだけで、胸がざわつく。「はい……」白石さんは、一度息を吸ってから、こちらを見る。「正直に聞いても、いいですか?」その声は、冗談めいていなかった。「……何を、ですか」「わたしのこと、どう思ってますか?」心臓が、強く鳴った。あまりにも、真っ直ぐな質問。逃げ場がない。「……」言葉が出てこない。嫌いじゃない。むしろ、気になっている。でも、それをどう言葉にすればいいのか分からない。沈黙が、長く感じた。白石さんは、急かさなかった。ただ、じっと待っている。「……困らせてますよね」白石さんが、少しだけ苦笑する。「すみません。でも」視線が、わたしから逸れない。「わたしは、正直に言いますね」一歩、近づかれる。距離が、ぐっと縮まる。「篠原さんのこと、気になってます」胸が、ぎゅっと締めつけられる。「……というより」白石さんは、少しだけ声を落とした。「惹かれてます」頭が、真っ白になる。「……そんなこと、言われても」思わず、口からこぼれた。「どう答えたらいいか、分からないです」それは、拒否じゃなかった。ただの、正直な混乱。白石さんは、驚いたように目を瞬かせてから、ふっと笑った。「ですよね」責めるような響きは、なかった。「だから」白石さんは、さらに一歩近づく。「ゆっくりでいいです」距離が、近い。「わたしの気持ち、ちゃんと伝えますね」そう言って、白石さんは、そっと手を伸ばした。一瞬、何をされるのか分からなかった。でも、触れたのは、髪だった。指先が、耳の横の髪に触れる。軽く、すくうように。「……っ」息が、詰まる。今まで、触れられたことはなかっ
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第8話
それから数日、白石さんとの距離は、目に見えて変わった。変わった、というより——戻らなかった。席の横を通るとき、肩に軽く触れる。資料を渡すとき、指先が重なる。話しかけられると、いつもより近い距離で立たれる。どれも、ほんの些細なこと。でも、確実に増えていた。わたしは、そのたびに体を強張らせながら、逃げなかった。逃げられなかった、の方が正しいかもしれない。「最近、仲良いよね」昼休み前、同じチームの人が、何気なくそう言った。「前から、あんな感じだったっけ?」言われて初めて、周りからも見えているのだと気づく。そのとき、白石さんはわたしのすぐ横にいた。肩が、軽く触れている。「え?」白石さんは、少し驚いたような顔をしてから、すぐに笑った。「違いますよ」あっさりとした声。「わたしが絡んでるだけです」「え、そうなの?」「はい。篠原さんが、一方的に」そう言いながら、白石さんは、自然な動作でわたしの肩に手を置いた。冗談みたいな口調。でも、触れ方は、冗談じゃなかった。わたしは、言葉を失った。「篠原さん、最近甘えん坊なんですよ」さらに追い打ちをかける。「ちょっと近づいても、逃げないから」「えー、意外」周りは、面白がるように笑っている。「篠原さん、そういうタイプに見えないのに」「ですよね」白石さんは、そう言ってから、ちらりとこちらを見る。目が合う。その視線には、はっきりとした意図があった。——分かってるでしょう?何を言われているのか。どう見られているのか。わたしは、否定も肯定もできず、曖昧に笑うしかなかった。その場は、それで終わった。周りは、すぐに別の話題に移っていく。でも、白石さんの手は、すぐには離れなかった。誰にも見えない角度で、指先が、わたしの腕に触れている。「……」声を出そうとして、やめた。ここで何か言えば、余計に目立つ。白石さんは、何事もなかったかのように仕事に戻る。でも、距離は近いまま。しばらくして、白石さんが、わたしの耳元に顔を寄せてきた。周りには、聞こえない距離。「……少しは」低くて、柔らかい声。「意識、してくれましたか?」息が、耳にかかる。「……っ」思わず、肩が跳ねた。心臓が、はっきりと速くなる。「白石、さん……」名前を呼ぶ声が、小さくなる。白石さんは、口
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第9話
それは、ある意味で、境界線を越えていた。仕事中。平日の、いつもと変わらない時間。キーボードの音と、電話の着信音が混ざるオフィスで。白石さんは、何事もなかったような顔で、わたしの隣に立った。「この資料、確認お願いできます?」そう言いながら、書類を差し出す。「……はい」受け取ろうとした、その瞬間。指が、絡んだ。偶然を装うには、あまりにも自然で、あまりにも確信的な動き。指先が、わたしの指の間に入り込む。「……っ」声を出すわけにはいかない。周りには、人がいる。白石さんは、顔色一つ変えない。「ありがとうございます」そう言って、ゆっくりと指を離す。——仕事中。頭では分かっているのに、心臓が言うことを聞かない。画面に視線を戻しても、指先の感覚が消えなかった。しばらくして、今度は後ろから声がかかる。「篠原さん」振り向く前に、距離が近いと分かる。「この数字なんですけど」肩越しに、画面を覗き込まれる。そのとき。首元に、何かが触れた。一瞬、何か分からなかった。でも、すぐに理解する。白石さんの指。服の上から、ほんの軽く。首筋に、そっと触れている。「……っ」喉が、鳴る。見えない。この角度では、周りからは見えない。白石さんは、わたしの反応を待つように、指を離さない。「ここ、合ってますよね?」仕事の声。でも、触れている場所は、仕事じゃない。「……あ、はい……」声が、少しだけ震えた。白石さんは、それに気づいたはずなのに、何も言わない。ただ、指を、ゆっくりと離す。「ありがとうございます」そう言って、何事もなかったように離れていく。——何、今の。深く息を吸って、吐く。落ち着け。仕事中だ。そう思っているのに。数分後。また、触れられる。今度は、通路ですれ違う瞬間。人と人の影になる場所で、白石さんの手が、わたしの手を探す。指が、絡む。一瞬。でも、確かに。そのまま、軽く引かれる。「……」顔を上げると、白石さんは前を向いたまま。視線すら、寄越さない。まるで、わたしの反応だけを、楽しんでいるみたいに。胸が、どくどくと音を立てる。——やめて。そう言いたいのに、声が出ない。出たとしても、届かない場所で、触れられている。昼過ぎ。コピー機の前。白石さんが、わたしの横に立つ。「混ん
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第10話
その日の終わりが近づくにつれて、わたしの神経は、ずっと張り詰めたままだった。触れられるたびに、体が反応してしまう。それを、自覚してしまっているからこそ、余計に苦しい。夕方、白石さんがまた、いつものように近づいてきた。何も言わずに、自然な動きで、手が伸びる。指が、わたしの手に触れようとする。その瞬間。「……やめて、ください」初めて、はっきりと声に出していた。白石さんの手が、止まる。周りには、人がいる。誰もこちらを見ていないけれど、心臓がうるさく鳴っている。白石さんは、少しだけ驚いたように目を瞬かせた。「……あ」それから、すぐに、口元が緩む。「やめて、ですか」声を落として、わたしの方へ顔を寄せる。「でも」わたしの耳元、ぎりぎり。「やめてほしい割には、いい反応してますけどね」からかうような声。胸が、ぎゅっと縮む。「……そういう意味じゃ」「分かってます」白石さんは、あっさり言った。「嫌なら、ちゃんと嫌って言えるのは、いいことです」そう言いながら、距離は保ったまま。でも、視線は外さない。「ただ」一瞬、間を置いて。「反応が、正直すぎるだけで」何も言い返せなかった。白石さんは、それ以上触れてこなかった。でも、それで終わりじゃなかった。「今日」少しだけ、声の調子が変わる。「夜、空いてます?」突然の話題に、言葉が詰まる。「……え」「ご飯、行きませんか」軽い口調。でも、視線は真剣だった。断った方がいい。頭では、そう思う。このまま一緒にいたら、どうなるか分からない。流されてしまう気がする。「……今日は」一度、言葉を切る。「……」白石さんは、待っていた。急かさない。でも、逃がさない。——気になってる。それは、否定できない。触れられて、揺れて、困って。それでも、離れたくないと思ってしまう。「……少しだけなら」気づいたときには、そう言っていた。白石さんの目が、ほんの少しだけ柔らぐ。「じゃあ、軽くで」仕事を終え、二人で会社を出る。夜の空気は、昼よりも落ち着いていた。歩く距離が、自然と近い。入ったのは、静かな居酒屋だった。照明は控えめで、周りの声も遠い。「お酒、飲めます?」「……強くは、ないです」「じゃあ、無理しないで」そう言いながら、白石さんは自分の分と一緒に
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