Masuk「わあ、すごく綺麗なお花!」
綾乃は、私の腕の中に抱えられた花束を、目を輝かせて見つめた。 私は反射的に花束を抱き寄せる。 「この花は……」 言い終える前に、すらりとした長い手が、私の腕の中から花束を奪い取った。 呆然と顔を上げると、そこには桐生一弥の、感情の揺らぎひとつない瞳があった。 彼は、私が心を込めて選んだ――純潔な愛を象徴する白いバラの花束を手にすると、そのまま自然な動作で振り返り、綾乃の前に差し出した。 「誕生日おめでとう、綾乃」 低い声だったが、突然静まり返った個室の中には、はっきりと響き渡った。 綾乃は驚きと喜びの入り混じった表情で花束を受け取り、顔を花びらに埋める。 そして顔を上げたとき、その瞳は感動で赤く潤んでいた。 「一弥お兄ちゃんが、わざわざ私のために用意してくれたのね! こんなに豪華で素敵な誕生日の会場まで準備してくれて……本当にありがとう! 私、すごく幸せ……!」 周囲からは、羨望混じりの歓声が上がった。 ――あの花束は、本来、私たちの結婚記念日のために用意したものだった。 それが今、夫の手によって、妹への誕生日プレゼントへと変わってしまった。 彼は私には一度も“記念日”を大切にしたことがない。 それなのに、妹のためには、ここまで完璧な特別を用意するのだ。 一弥は、なぜこんなに遅くなったのかと私に尋ねた。 「綾乃が、今夜は誕生日パーティーがあるって連絡してたはずだろ?」 ――その瞬間、胸がひやりとした。 私は、何の連絡も受け取っていない。 周囲の視線が一斉に私へと向けられる。 「妹さんへのプレゼントは用意してるの?」 そんな声が飛んできた。 私は小さく首を振った。 「……何も、準備していません」 「はあ……まさか、そこまで冷たい女だとは思わなかった」 その一言は、積み重なっていた我慢を押し潰す、最後の一押しだった。 「だって……今日は……」 声が、震える。 「今日は、どうした?」 彼は眉をひそめる。 「今日は、私たちの……」 ――結婚記念日。 その言葉が、喉元までせり上がった、そのとき。 「一弥お兄ちゃん——! 早く、ろうそくに火をつけて!」 綾乃の甘えた声が、絶妙なタイミングで響いた。 彼は即座に応え、迷うことなく踵を返す。 私に残されたのは、冷たい背中だけだった。 ……ああ、やっぱり。 彼は、今日が私たちの結婚記念日だということすら、覚えていない。 一弥が離れると同時に、綾乃の友人たちの声が、次々と耳に突き刺さってきた。 「え? 実の妹の誕生日なのに、何も用意してないの? それって、さすがに酷くない?」 「だよね。せっかく綾乃ちゃんが戻ってきたのに、このお姉さん、冷たすぎない?」 「それにさ、綾乃ちゃんと比べると……お姉さん、地味すぎない? その格好、なに? メイド?」 「え、あれが一弥の奥さん? 信じられない……どう見ても、綾乃のほうが彼とお似合いじゃない?」 そのときになって、私はようやく気づいた。 身なりを整える余裕もなく、エプロン姿のまま、慌てて家を飛び出してきてしまったことに。 あまりにも惨めで、みっともない――。 屈辱に耐えきれず、この場を立ち去ろうとした、その瞬間。 ぎゅっと、腕を強く掴まれ、身体が無理やり引き止められた。 「話がある」 彼は私の腕を掴んだまま、鋭く冷たい視線を向けてくる。 そのまま隣の個室へと引きずり込まれ、勢いよく手を振り払われた。 そして、彼が私の前に突き出したのは―― 一枚の、離婚届だった。 「まさか、お前がここまで計算高い女だとは思わなかった」【一弥side】「お前は──?」「え?」「お前はどうなんだ。俺は、お前に一番に喜んでもらいたくて、食べてほしくて、これを用意したんだ」杏華の目をまっすぐ見つめながら伝える。本当はこんな気持ち、伝える気はなかった。自分自身、ただ無意識で、気付けばとっさに電話をして、これを用意していただけだったから。だけど、杏華と接していくことで、俺の自分で気付けなかった気持ちが、どんどん明らかになっていく。その言葉も、ただ無意識に出た言葉。だけど、その言葉を口にすることで、俺は一番はそういう気持ちだったのかと、改めてその感情に気付く。だけど、それに気付いたことで戸惑いはなかった。戸惑いよりも、納得に近い感情だったからだ。だから、俺は素直なその言葉を隠すことなく、杏華に気付けば告げていた──。だが、杏華はそんな俺に戸惑った様子を見せる。だけど、その戸惑いは、決して困った表情ではなく、少し顔を赤らめ照れたような表情だった。俺はそんな杏華の反応に、嬉しく感じた。「あの……、あなたが戻ってくるまでは、なんだか気が引けて、もったいなく感じちゃって……」モジモジと言葉にする杏華を、素直に可愛いと思ってしまう。「フッ。なんだそれは。お前のために用意したんだ。何も気兼ねなど感じることはない」俺はそう言って優しく微笑む。「一弥さん……」そんな俺を見て、連られてはにかむ杏華。「ほら。お前もここに座れ」俺は、杏華を席に座らせる。「ちょっと待ってろ」俺はそう言ってその場を離れた。そして、しばらくして杏華の元へと戻った俺を、驚いた表情で見つめている杏華に気付く。「一弥さん。どうして……」「今度はお前がこの時間を楽しむ番だ」俺は、杏華の前に料理を差し出した。「これ……」俺が杏華の前に差し出したある物を見て、杏華が呟く。「これは、お前のために特別に用意させた、お前の身体にも優しい料理だ」「一弥さんがこんなこと……」杏華のために、俺が料理を運んできたことに驚く杏華。最初は、杏華が来たら運ぶようにと伝えてあった。だが、さっきの杏華を見ると、なぜだか無意識に体が動いていた。運ぼうとする料理を手にし、そして俺はそのまま杏華の元へと向かっていた。「お前のために、これは全部用意したものだと言っただろ。お前に食べてもらわないと意味がない」俺は、お前
【一弥side】ビュッフェ会場に戻ると、いるはずの杏華の姿が見当たらなかった。俺は一瞬不安になり辺りを見渡す。自分の目に届かない場所にいると、最近は落ち着かなくなっている自分がいる。また何かに巻き込まれているのか、悲しんでいるのか。自分でもこんな何でもないことで、こんな気が気じゃなくなるなんて、自分でも信じられないほどに──。すると、ようやく見つけたその姿。俺は予想もしないその光景に目が離せなかった。杏華は、何をしてるのかと思えば、ビュッフェ会場の料理を、遠くの現場にいるスタッフたちに、何度も往復して運んでいるようだった。あいつは何をしてるんだ……。だけど、料理を運ぶ杏華の姿も、料理を運んでもらったスタッフたちも、とてもいい顔をしていた──。そこに自然と存在している笑顔や、優しい温かい雰囲気。そのスタッフの驚いた顔や笑顔で、その杏華の優しさがしっかり伝わり喜んでくれているのだと、それを見ているだけでわかる。俺はそんな姿に釘付けになった。甲斐甲斐しく尽くすその姿。少し前まで、その姿は俺に向けられていた行動だった。あの頃、俺はそんな杏華に見向きもしなかった。それどころか、その姿が重荷に感じるほどだった──。だけど……、今この状況を見ればハッキリとわかる。杏華は、そばにいる誰かのために、見返りもなしに動ける人間なのだと。目の前のその相手が困っていたら自然と手を差し伸ばせるその優しさ。ただ、杏華はちゃんと目の前の人間と……、俺に、向き合っていたのだと、今更ながらこんな状況を目にして、初めて気づく。そんな姿が眩しくて綺麗で……。胸がときめくのと同時に、俺はそんな杏華をあんな蔑ろにした自らの愚かさに、胸が痛む。そんな杏華に声をかけられないままの俺に気付き、俺を見つけた途端ぱぁっと明るい笑顔になる杏華。俺はそんな杏華と視線が合い、自然にそんな杏華に小さく微笑み返していた。だが、俺に近づくと同時に、なぜか不安そうな表情に変わっていく。「どうした」「……大丈夫?」「え? あぁ……うん」その表情は、俺を心配していたのだとわかり、思わず俺は戸惑う。「大丈夫だ。お前が心配することは何もない」「そう……」そう答えた俺に、少し複雑そうな表情をしながら笑う杏華。そんなふうに俺を心配してくれているのを嬉しく思うと同時に、そんな
【一弥side】「でもさすが綾乃だな」「え?」さっきまでの表情から打って変わり、俺はいつもの雰囲気に戻る。「逆に助かったよ。杏華の分だけ、あえて用意しなかったんだろ?」「え……?」当然綾乃は俺の言葉の意味がわからなかった。「杏華が別のスタッフが持っていたサンドイッチの箱を見て気付いたらしいんだが、あのサンドイッチは、杏華が何らかの理由で苦手だった物が入ってたらしいな。皆の前で口にせずにいられたって、逆に杏華が感謝してたよ」俺は少し微笑みながら、綾乃に真実ではない事実を伝える──。その俺の言葉を聞いた瞬間、綾乃の表情が一瞬歪む。そりゃそうだよな。杏華にした嫌がらせが、杏華をこらしめるどころか感謝されるだなんて。綾乃にとったら、ある意味屈辱だろう。「あ、あぁ~そうなの! お姉ちゃん、苦手な物入ってたから、あえて用意しなかったの! それサンドイッチ届いてから思い出したから、ホントお姉ちゃんには悪いことしちゃった」だがその屈辱を悟られないように、綾乃は、俺の嘘の話に、さぞかしそうであったかのように平気で答える。それも今までのように、わざとらしい表情まで見せて──。やはりな……。思った通りだ……。それならもっと煽ってみるかな。「あぁ。杏華は大丈夫だ。適当に、おにぎりを食べさせておいた。それであいつ喜んでいたよ」「やだ、私のせいで……。でも、お姉ちゃんそんなもので満足しちゃうなんて。ウフフッ」どうして俺はこんなことに気付いていなかったのか……。杏華の純粋な想いは、こんな風に捻じ曲げられていくのか……。杏華のそんな話を聞けば、綾乃はそんな反応になると思っていた。それなら、もっとそのお前の気分を
【一弥side】「ちょっと一弥お兄ちゃん! 何なのこれ! 酷いよ! せっかく私がサンドイッチ差し入れしたのに!」綾乃があまりの怒りで自分の立場を忘れ、今にも爆発しそうな顔で俺に突っかかってくる。あぁ、こういうことか……。しっかり綾乃を見ていたら、すぐにこんな風にボロが出ていたんだと、今更ながら納得する。今までの現場では綾乃が中心で常にチヤホヤされ、それが普通なんだと気付いていなかった。実際は、そんな素の姿なんて見せずに、俺の前では化けの皮を被っていたということか──。「あぁ~出た出た。RURIの本性(笑)」「自分の都合が悪くなると、あの我儘言い放題怒りまくりのあの豹変。マジ無理」「あの人、気遣うの正直疲れんだよね~」俺の後ろの方で小さくヒソヒソと囁かれてる声がリアルに聞こえてくる。目の前の綾乃は、怒り心頭でそんな声は聞こえていないようだ。それはここにいる関係者が、当たり前のように呟いていた。前に俺が一緒にいるときは、まったく聞こえてこなかった話。それどころか評判がいいと周りからも聞いていた。だが、きっとこれが本当の姿──。あの時は、周りにそう言わせる圧をかけていた、というところだろうか。そのことに俺は心底呆れる。あぁ、本当に情けない:──。俺はこんな性悪女の姿を今まで見抜けなかったってことか……。これから会社を背負う人間として、こんなのあってはならないことだ。<偽物と本物>きちんと見分けられる確かな目を養わないと、俺はこの先この世界を動かしてはいけない。自らが、そんなギラギラと野望に燃える目に、心に、熱くなっていってるのがすぐにわかった。だが、自分の感情だけで口にしたら、目の前のこいつと何も変わらない。今刺激を与えると、綾乃がまた杏華に何をしでかすかわからなかった俺は、あえてその気持ちを抑え込み、冷静な表情や心へと自ら促す。「綾乃。ちょっとこっちへ来い」杏華に俺の本心を聞かれないように、綾乃に冷静に告げ、杏華から離れさせる。「お前が言ってるのは、あの見た目だけのサンドイッチを用意したことか」俺は必死に食ってかかってくる綾乃を見下ろし、思っている感情のまま冷静に告げてしまう。「酷い! 見た目だけだなんて!」さっきスタッフが持っていたサンドイッチの箱を見て、あることに気付いた俺は、更にその現実を、このあと
現場に戻ると、ざわざわ騒がしかった。さっき以上に現場が賑わい、歓声が上がっている。「何なの……?」私は不思議に思いながら、その場所へと近づいていく。「え? もう撮影が始まってるの?」そんな風に思うほど、さっきまでいた場所が、明らかにそこは違う場所になっている。そこは、ただのロケの場所からホテルの会場の豪華なブッフェ会場に早変わりしていた。数々の豪勢で高級な料理が、テーブルいっぱいにズラッと並んでいる。その料理をシェフたちが更に盛り付け、サーブスタッフが丁寧に料理や飲み物を運び提供している。「うわぁ~こんな豪華な料理見たことない!」「あのロゴ。有名な高級ホテルでしょ? 予約がないと食べられないって聞いたことあるよ!」その料理を前にし、スタッフやモデルたちが、興奮し騒いでいる。「何これ……」私はそれを見て唖然としていると、現場スタッフが声をかけてきた。「桐生社長。こんなにすごい豪華なケータリングありがとうございます!」そう、私ではなく、隣の彼に──。私は驚いて、隣の彼を勢いよく見る。「いつも杏華がお世話になっております。今日はこんな場所でロケだと聞いたので、差し出がましいですが、皆様にほんのささやかな普段のお礼として、うちのグループのホテルから急遽ケータリングをご用意させてもらいました」私は思ってもみない言葉と、この現状にただただ唖然として、あっけに取られる。「驚いたか──?」そんな私を見て、一弥さんが少し嬉しそうに声をかけてくる。「驚いたなんてレベルじゃ……。まさかあなたが、こんなすごいことをするなんて……」「あの時、杏華から話を聞いて、すぐに手配したんだ。無事間に合ってよかったよ」あの時にそんな手配したってこと……?あんな短時間で、こんな高級ホテルの人や料理を用意出来るなんて……。それなりにお金持ちの人だとは思っていた。だけど、あの父は詳しくは話そうともしないし、当然一弥さんからもそんなこと聞けるタイミングもなかった。私は想像出来ない彼のすごさを、ここにいる人たちと同じようにこの瞬間知る。「お前が困ってると思って。おにぎりでは、味気なかっただろ。お前も良かったら食え」「私のために……? どうして、ここまで……」私は目の前の彼のこの行動が信じられなくて、つい彼に尋ねる。すると、彼がふわっと微笑む。「さっ
【一弥side】そうだ……。その言葉だ。確かに『Be hapy』という言葉が、あのハンカチには記されていたはずだ……。「幸せになって」……。あぁ、母親からそんな大切に育てられた杏華を、幸せにするどころか、愛すこともなく、疑い、傷つけ、離婚した……。杏華は、母親のそんな大切な形見で、俺の命を救ってくれたのに……。心臓が今までにないほど、ドクドクと強い衝撃で打ち付け、自分でした大きな罪に、グサグサに刃物で傷つけられたような感覚になる。頭が割れそうなくらいズキズキと痛みを訴え、割れそうなほどの苦しみを感じた。その真実を知り、俺は今まで杏華にしてきたすべての恐ろしくて卑劣な情けない言動を思い出し血の気が引く。俺は杏華に何をした……?どんな酷い言葉を投げつけた……?どこからそれは始まっていた……?俺を助けてくれたのは杏華で、だとすれば綾乃は俺を助けたと嘘をついていた──。それだけじゃない。離婚に追いやったすべての綾乃の言葉も、全部綾乃の嘘……?男癖が悪いということも、綾乃を騙して海外に行かせたということも、綾乃の全部……。確かにそう思えば、すべて辻褄が合ってくる。最初から事実じゃないと杏華は否定していたのに、俺は恩人である綾乃を信じ、まったく聞く耳も持たなかった。だけど、綾乃が言っていた杏華のすべては、今俺がこの目で見て、接している限り、明らかに正反対で、どれも信じがたいことばかりだった。どれ一つ一致するどころか、普通の人間以上に、真面目で純粋で誠実で……。品のあるその優しさは、そんな言葉が似合いもしない、杏華そのものから醸し出すものだった。本当は今すぐ確かめたかった。あの時助けてくれたのは、お前だったのかと。俺はとんでもない間違いをしてしまっていたのだと、ちゃんとその真実を確かめたかった。だけど、今微笑んでいる杏華のこの笑顔を、俺の勝手な気持ちで、傷つけて壊したくなかった。今は大事な撮影中だ。杏華の感情をこれ以上乱したくはない。だけど、そう思ってはいても、その事実は俺の中で確かめる必要がある。あの保管庫に仕舞い込んでいる、あのハンカチさえ見れば──!だけど、このあと俺はやらなきゃいけないことがある──。「おいしかった。ご馳走様。これで午後の撮影も頑張れそう」ご馳走様と言いながら、手を合わせ、俺に微笑みながら礼を
「お姉ちゃん、どうしてあんなことしてバレないと思ってるんだろ」 え……、あんなこと……? バレる……? なんの話……? 「まさか、あいつが俺の知らないところで、男漁りしてるなんて心底見損なったよ」 男漁り……? さっきも、それ言ってたけど……どういうこと……? 「お姉ちゃん、もうそれ病気なの……。一人の男性では満足出来なくて、常に自分の欲望を満たしてくれる男性を探し求めてるの」 ちょっと待って……! あまりにも身に覚えのない酷い綾乃の嘘に私は驚いて言葉を失くす。 「俺もまんまと騙されたよ。まさかずっと清純なフリをしてたなんてな」 酷い……! 一弥さんもどうしてその言葉を信じるの…
「……?」 目の前に差し出された離婚届を見つめ、喉が張り付いたような声で問い返した。 「あなた……どういう意味なの?」 「綾乃から、全部聞いた」 彼の顔には、余計な表情は一切なかった。 あるのは、骨の髄まで染み込んだ冷酷さだけ。 「三年前、うちとお前の家に政略結婚の話があると知っていただろ。 お前は俺と結婚したかったから、彼女を追い出した。別れを強要し、海外へ行かせたんだ」 ――ドン、と。 頭の中が、真っ白になった。 「違う……」 声が震えながらも、私は必死に最後の光にすがる。 「一弥さん、信じて……! あの時は、彼女が自分で行きたいと言って……私は……」 「もういい
【プロローグ】 初恋は実らないものだ、と人はよく口にする。 私はそれを信じず、初恋の人と結婚した。 結婚三周年記念日。 私は妊娠をした身で、ミシュランに引けを取らないほどのご馳走を並べ、彼の帰りを待っていた。 すると彼から一本のメッセージが届き、ある高級レストランの住所だけが記されていた。貸し切りだと。 ついに彼も気が回るようになったか、サプライズを用意してくれたのかと思った。 ドアを開けた先にあったのは、私の妹・綾乃の誕生日会だった。 その瞬間、私はすべてを悟った。 自分だけが幸せだと思い込んでいたこの結婚は、最初から最後まで私ひとりだけの独り舞台だった。 私はあの子の影
目を覚ました瞬間、強い戸惑いに包まれ、次いで記憶が断片的に一気に押し寄せてくる。 気付けば無意識のうちに私は下腹部をかばっており、鈍い痛みが走った。 そのとき、そばにいた一弥さんの姉の真琴さんが私が目を覚ましたことに気付き、慌てて駆け寄る。 真琴さんは私の手をぎゅっと握り締め、声を震わせながら言った。 「よかった……やっと目を覚ましたのね。お医者さんが言ってたの。急激な精神的ショックと、長期間の心身の抑圧が原因で、切迫流産の状態だって。今は安静が必要よ。……ねぇ、どうして妊娠していること私に言ってくれなかったの?」 「どうして、私は病院にいるの? どうして真琴さんがここにいるの?」







