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第5話

Auteur: 連衣の水調
静華は、手の火傷の痛みよりも、心の痛みの方がはるかに大きいことに気づいた。

りんが涙を流せば、彼はすぐに心を痛める。

そうか。

彼は「泣く女」が嫌いなのではなく、りん以外の女が泣くのが嫌いなのだ。

「……そんな、私は……」

静華は、床から這い上がるのがやっとだった。

腫れ上がった手を胤道に向けて見せる。

「見て、熱湯は私の手にかかったのよ……!」

しかし――

「どけ!」

胤道は冷たく手を振り払い、彼女の火傷した手を容赦なく打ち据えた。

「ッ――!」

静華は、息を飲み込み、目の前が真っ白になるほどの激痛に襲われた。

しかし、彼は彼女の痛みなど一切気にしなかった。

「まだ言い訳するつもりか?お前はむしろ運が良かったな。これがりんにかかっていたら、たとえお前が何度死のうが足りない!さっさと消えろ!」

静華が扉の外に追い出される直前、りんの瞳に、ほんの一瞬だけ勝ち誇った光がよぎった。

「もういいわ、胤道」

彼女はわざとらしく小さく笑い、優しく彼の腕を掴んだ。

「森さんは、きっとあなたを愛しているからこそ、こうなってしまったのよ。二年間、あなたのそばにいたんだもの。どうか、怒らないであげて」

「……愛?」

胤道は鼻で笑った。

「俺とあいつの間に『愛』なんてものは、最初から一度もなかった」

彼の声は冷酷だった。

「お前が目を覚ました今、あいつの存在価値なんてない。もし本家の家族が俺たちの結婚を許していれば、あんな女と結婚することすらなかったんだ」

その後の言葉は、扉が閉まったため聞こえなかった。

しかし、胸の中の鈍い痛みだけは、ずっと続いていた。

静華は、ふらつく足を引きずりながら歩いた。

献血によるめまいと吐き気が襲い、涙が止まらなかった。

……

どれくらいの時間が経ったのだろうか。

一階のソファに身を預けていると、胤道が三階から降りてきた。

そして、無造作に一枚の書類を彼女の前に投げた。

「サインしろ」

静華は、それを手に取る。

『離婚協議書』

大きく書かれた文字に、彼女の動きが止まった。

顔を上げると、彼を見つめた。

「でも……あなた、今日離婚はしないって……」

「今すぐしないと、お前はまたりんに危害を加えるだろう?」

彼は苛立たしげに言い放った。

「お前がさっさと消えれば、俺と望月は元の生活に戻れる」

誰が、誰に危害を加えているのか――。

静華は、苦笑しそうになった。

だが、もうどうでもいい。

書類をしっかりと読み込む。

胤道は、決して悪条件を押し付けようとしているわけではなかった。

慰謝料として2億円、さらに一軒の豪邸。

ただし、「離婚後、涼城市に二度と戻らないこと」が条件だった。

静華は書類から視線を上げ、真っ直ぐ彼を見つめた。

「……いいわ。サインする」

彼女は小さく息をつく。

「ただし、一つだけ条件がある」

彼女は手を腹に当て、強い意志を込めて言った。

「お金も家も、全部いらない。だけど、この子だけは守らせて。

胤道、この子が無事に生まれるなら、私はすぐにサインして出て行く。二度とあなたの前には現れない」

「森、お前……まだそんな妄想を抱いているのか?」

胤道の顔に、深い嫌悪が浮かんだ。

静華は苦笑した。

妄想?

違う。

彼女は、すでに夢を見ることすらできないのだ。

ここから離れると、本当に何も残らない。だからこそ――

「どう思われてもいい」

彼女は深く息を吸い込んだ。

「契約書に追加条項を入れて。それなら、すぐにサインして、20年間、涼城市には一歩も踏み入れない。もし、この子を殺そうとするなら――

私は絶対にサインしない。それだけじゃない」

彼女はゆっくりと言葉を続けた。

「本家に行って、すべてを話す。私は、望月ではないと」

その瞬間――

「森!!」

彼の怒声が響き渡り、彼女の首が強く掴まれた。

「貴様……俺を脅してるのか?」

静華は、目を閉じたまま答えた。

「違う。これは、私の覚悟よ」

「……いいだろう」

胤道は、忌々しげに彼女の手を振り払った。

「お前の子供には手を出さない。だが、俺の決めた条件を破ったら、お前も、お前の母親も生き地獄を味わうことになるぞ」

彼は協議書に乱暴に署名し、それを静華の顔に投げつけた。

「さっさと消えろ」

静華は、痛む手を震わせながら、ゆっくりとそれを拾い上げた。

「何だ?」

胤道は彼女を冷笑した。

「まだ言い訳してサインしないつもりか?」

「……違う」

静華は唇を噛みしめ、手の痛みを堪えながら、ゆっくりと名前を書いた。

その時、彼は初めて気づいた。

彼女の手は、腫れ上がり、水ぶくれで覆われていた。

最初から、彼女は痛みを演技していたわけではなかったのだ。

だが、その一瞬の異様な感情は、すぐに消え去った。

彼女の傷など、どうでもいい。

「今日中に荷物をまとめて出て行け!」

「お前が飛行機に乗るまで、佐藤に見張らせる。変な真似をするなよ!」

静華は小さく頷いた。

胤道はそれ以上何も言わず、離婚協議書を手にして部屋を出た。

彼の足取りは迷いがなく、まるで一刻も早く縁を切りたくてたまらないかのようだった。

彼が部屋を出て行った後――

静華は、思わず自嘲気味に笑った。

ふらつく足取りで部屋に戻り、荷物をまとめ始めた。

しかし、実際に持ち出せるものなど、ほとんどなかった。

彼女はここに来た時、愛しか持たずにやってきた。

持って帰れるものがほとんどないのも、当然だった。

スーツケースの中には、わずかな着替えしか入っていない。

彼女は小さく苦笑しながら、部屋の扉を開いた。

しかし、その瞬間――あることに気づいた。

スマホがない。

おそらく、輸血の時にベッドに置き忘れたのだろう。

彼女はスーツケースをその場に置き、三階へと向かった。

そして、その途中で――思わぬものを耳にすることになった。

「私も驚いたわ、まさか野崎が彼女を見つけるなんて……!」

静華は足を止めた。

りんの声?

彼女の手が、扉をノックしようとする直前で固まった。

「でも、幸いなことに、あの男はこの二年間、何も疑っていなかった。

そうでなければ――私が六年前に整形したこと、バレていたかもしれないわ」

……整形?

静華の目が見開かれる。

しかし、それはまだ序章に過ぎなかった。

「そうよ。私は彼女を早く追い出さないといけないの」

「もし胤道が知ったら、六年前、火の中から彼を救ったのが私じゃなく、森だったってことを……」

静華の思考が、一瞬で止まった。

頭が真っ白になる。

「私はもう、十分に苦しんだのよ。

だからこそ、胤道が炎の中から助け出された時、『君を迎えに行く』って言ったあの言葉を聞いた時――

私は、迷わず整形を決意した。

彼を救ったのは私だと思わせるために。

私は自分の顔すら犠牲にしたの。だから、絶対にあの女にこれ以上何も奪わせるわけにはいかない!

もうすぐすべてが手に入るのよ、あと一歩。絶対あの女に邪魔はさせない!

いい?お金が欲しいなら、あの女を始末しなさい。胤道の子供を宿したまま、涼城市から出すわけにはいかないの」

静華の世界が崩れ去った。

六年前の約束、彼は忘れていたわけではなかった。

最初から、彼は約束を覚えていたのだ。

ただ、彼が思い続けていた「その人」は、別人にすり替えられていた。

りんが、彼女からすべてを奪ったのだ。

静華の手が震えた。

視界がぼやけ、体がふらつく、うっかり手すりにぶつかった。

「誰!」

扉が勢いよく開かれた。

りんが、警戒した目で飛び出してきた。

しかし、彼女は静華を見つけると、一瞬だけ固まった。

「森さん、今の話……聞いてなかったわよね?さっきは友達と冗談を言っていただけよ」

静華の目には、怒りと絶望が入り混じっていた。

「あなたたちは……愛し合ってなんかいないのね」

彼女の声は震えていた。

「あなたは、私の顔に整形して、彼のそばにいた……!彼に誤解させて……!」

この二年間、ずっと彼女の『代用品』だと思っていた……!

りんの表情が、一瞬だけ歪んだ。

だが、すぐに平静を装い、「違うわ」と否定した。

「森さん、誤解よ。私は本当に胤道を愛しているの」

「なら、それを胤道に言えばいい」

静華は冷たく言い放った。

「私がすべてを話す」

彼女は迷いなく、踵を返した。

りんは焦った。

静華が階段を降りようとするのを見て、目に冷たい光がよぎった。

そして、彼女は思い切り手を伸ばし、静華の背中を突き飛ばした。

「きゃっ――!」

静華は必死にお腹を守ろうとした。

しかし、次の瞬間――

ゴンッ!!!

頭が床に叩きつけられ、視界が真っ暗になる。

……ぼんやりとした意識の中、彼女は足音を聞いた。

りんが、ゆっくりと階段を降りてきた。

そして、冷たい瞳で見下ろしながら、囁いた。

「田舎者め、大人しく消えればばよかったのに。あなたが胤道の愛を奪えると思ったの?」

彼女は薄く笑った。

「それに、あなたが真実を話したところで、彼が信じると思う?彼にとって、あなたはただの、哀れな妄想女よ」

意識が、完全に途切れた。

静華が目を覚ました時、頭には鋭い痛みが走った。

床の血はすでに乾ききっていた。

どれくらい経ったのか分からない。

広いホールには誰もいなかった。

吐き気を堪えながら、彼女はゆっくりと立ち上がる。

「野崎は、私を愛していた。

ただ、騙されていただけ」

次の瞬間、彼女の瞳に力が宿った。

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