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第9話

Author: 雲間探
和真は冷たい表情を浮かべ、玲奈が立場を利用していると感じた。「青木秘書、仕事への態度を改めてください。ここはあなたの家ではありませんよ」

玲奈はバッグを手に取り、態度を変えなかった。「不満があるなら、今すぐ解雇すればいいでしょう」

「おまえ……」

以前、智昭とA国へ行っていた時、玲奈が既に辞表を提出していたことは知っていた。

智昭からの信頼は厚かったが、会社は彼の一存で決められるものではなく、玲奈を追い出すほどの権限はなかった。

それに、玲奈は藤田おばあさんに可愛がられている。もし玲奈が訴えでもしたら、智昭が彼を庇うとわかっていても、ただでは済まないおだろう。

玲奈は彼を無視して、その場を立ち去った。

和真は顔を青くして、秘書課を後にした。

慎也は彼の様子がおかしいのを見て尋ねた。「何かあったの?」

和真は一部始終を話した。

慎也は非常に意外そうだった。

普段から玲奈と接する機会が多いのは彼の方だった。

玲奈の性格もある程度理解していた。

思わず口を開いた。「玲奈らしくない行動だね。何か誤解があるんじゃない?」

「誤解なんてない。事実はこの通りだ。玲奈は自分の立場を利用しているんだよ。お前が普段言うほど良い人じゃないってことさ」

慎也は一瞬考え込んだ。「辞めることになったから、投げやりになってるのかな」

でも最近の玲奈の仕事ぶりは相変わらず積極的で、以前と変わらないはずなのに……

その時、智昭が近づいてきた。「何があった?」

「青木秘書のことです。仕事も終わってないのに帰ってしまって……」

「不満があるなら、手続きを踏んで解雇すればいい」

智昭がこの件に全く関心を示さないのは明らかだった。

慎也と和真は言葉を失った。

智昭の玲奈に対する冷たい態度に驚いたわけではない。

むしろ、智昭の言葉から察するに、玲奈が辞表を出したことを知らないようだった。

玲奈の退職は智昭の意向ではなかったのか?

もしかして、彼らの認識が間違っていたのか?

二人が話そうとした時、智昭の携帯が鳴った。

優里からの着信だった。

智昭は二人を無視して、エレベーターに向かいながら電話に出た。「今、帰る途中。すぐ着くから……」

慎也と和真は顔を見合わせた。

慎也が言った。「藤田社長が忘れてるのかな」

「そうかもしれないな」

確かに、智昭は玲奈に関することにはいつも無関心だった。

……

一方その頃。

茜は青木おばあさんとはとても親しい関係だった。

以前は茜が家にいる時、玲奈が青木家に戻る際は、基本的に娘も一緒に連れて行っていた。

しかし今は、茜が帰国しているにも関わらず、これだけ日が経っているのに一度も電話をかけてこない。その代わり、毎日優里に電話をかけ、数日会えないだけで優里に会いたがっている。

そうであるなら、無理に誘う必要もないだろう。

それに今、茜と優里の仲が親密なことを老夫人が知ったら、どれほど怒るかわからない。

だから今回青木家に戻る時も、茜が帰国しているにも関わらず、智昭の家に茜を迎えに行くことはせず、一人で青木家に向かった。

道が少し混んでいて、玲奈が青木家に着いた時には、既に午後6時を回っていた。

青木おばあさんは玲奈を見るなり、笑顔が一瞬止まり、心配そうに彼女の頰に触れた。「痩せたわね」

玲奈のまつげが僅かに揺れ、答えた。「最近、仕事が忙しくて」

老夫人はため息をついた。「忙しくても、ちゃんと食事を取らないと」

「はい、おばさん。気をつけます」

玲奈は老夫人の隣に座り、彼女の肩に顔を寄せ、その温もりに少しの慰めを求めた。

老夫人は羊肉の煮込みが丁度良い具合になったのを見て、使用人に玲奈の分をお椀によそわせ、まずは体を温めさせようとした。

玲奈は老夫人の優しい言葉を聞きながら、この間に起きた出来事を思い出し、目に涙が浮かんだ。

しかし、老夫人が心配するのを恐れ、すぐに感情を抑え込んで尋ねた。「おばさんたち、旅行からまだ戻られていないんですか?」

「ええ、すっかり楽しんでしまって、一週間延長すると言ってるわ」

「おじさんは?今夜も接待があるんですか?」

「あなたが来ると聞いて、接待を断ったの。私たちと一緒に夕食を食べると言ってたわ。もうすぐ戻るはずよ」

「そうですか」

二人の会話が終わるか終わらないかのうちに、青木裕司(あおき ゆうじ)が帰ってきた。

玲奈を見て、笑顔で「玲奈、帰ってきたのか」と言った。

そう言いながら、すぐに眉をしかめた。「どうして痩せたんだ?ちゃんと食事してないのか?」

玲奈は笑顔で答えた。「前は忙しくて……今夜はたくさん食べます」

裕司は「はぁ」とため息をつき、使用人が夕食を運んでくると、次々と玲奈の皿に肉を取り分けた。

裕司は玲奈が痩せたと言ったが、実は玲奈も彼が憔悴しているのに気付いていた。

彼女は青木グループで働いてはいないものの、青木グループが今苦境に立たされていることを知っていた。裕司は毎日会社の問題で頭を悩ませているが、今のところ会社を立て直すことができないでいた。

ここ数年、いくつかのプロジェクトで、もし智昭が援助の手を差し伸べていれば、青木グループはこんな状況には陥っていなかっただろう。

しかし藤田おばあさんが厳命を下した二度を除いて、智昭は一度も彼女を助けたことはなかった。

彼女は思った。もし藤田おばあさんがいなければ、智昭の彼女に対する誤解から、智昭は彼女を助けるどころか、逆に青木グループを潰しにかかっていたかもしれない。

そう考えると、玲奈は苦笑し、口の中の美味しいはずの羊肉が途端に味気なくなった。

彼女の立場を理解している裕司は、必要があっても、一度も智昭に助けを求めるよう頼んだことはなかった。

食事の後、老夫人が居眠りをしている間に、玲奈は裕司に一枚のカードを渡した。中には14億が入っていた。

「玲奈、叔父さんは……」

「私が持っていても使い道がないんです」玲奈はカードを押し返した。「他には何もお手伝いできません。これくらいしかできないんです」

確かに彼女は幼い頃から勉強はできた。研究開発なら任せられるが、ビジネスには向いていないようだった。

幸い、数年前に人工知能の特許をいくつか取得し、当時、礼二たちと一緒に立ち上げた技術会社からも毎年配当金が入ってくる。一年を通して合計すると、何もしなくても数億円の収入があった。

裕司は恥ずかしそうに言った。「お前には何度もお金をもらっているのに、会社は……」

相変わらず半死半生の状態だった。

「叔父さんの力不足だ」

「事業の転換期は投資が多くなるのは当然です。おじさん、あまり気負わないでください」

そう言いながら、先日礼二と会った時、別れ際に彼が言った言葉を思い出した。「今はAI分野の発展が非常に速い。当時のお前の開発能力と俺の運営能力があれば、もしお前が結婚しに行かなければ、今頃うちの会社は時価総額数兆円になっていただろうし、この分野の国内トップ企業になることも夢じゃなかった。幸いAIにはまだまだ発展の余地がある。まだチャンスはある。早く戻ってきてほしい」

もし彼女に当時の能力がまだあるなら、会社に戻って、会社をもっと発展させれば、その時はおじさんにもっと多くの資金援助ができるはずだ。

……

智昭が家に着いた時には、既に夜の10時を回っていた。

茜は目をこすりながら「お父さん、おかえり」と言った。

「ああ」彼は素っ気なく答えた。「眠いなら寝なさい」

「はーい、お父さんおやすみ」

「ああ」

茜が二階に上がって寝に行くと、智昭は管理人が注いでくれた水を受け取り、飲み干してから、自分も階段を上がった。

寝室は相変わらず真っ暗だった。

誰もいないようだった。

智昭は一瞬立ち止まり、明かりをつけた。

やはり誰もいなかった。

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Comments (1)
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お神楽
くそ和真!定時後に仕事を押し付けようとしたくせに、玲奈のせいにしやがって、私だったら引き継ぎなんかせずに出ていくよ。玲奈は優しすぎるよ
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