Masuk藤井先生は、ぽかんと口を開けたまま固まっていた。それでも心のどこかでは、まだ信じられない。黛衣が勤めている栄光グループは、時価総額が何兆円にもなる巨大企業だ。そのトップが――黛衣と結婚する?ということは、氷室校長の家は一気にとんでもないことになるということではないか。藤井先生は、思慕から渡された贈答品の箱に目を落とした。どう見ても高級品だ。1箱だけで十数万円はするだろう。普通の家庭なら、そう簡単に買えるものではない。受け取る手がわずかに震えた。その頃には、思慕はすでに黛衣の両親の前まで歩いていた。態度は驚くほど丁寧だった。「朝早くから待っていただいて、すみません。今日は大安だから、午前中のうちにご挨拶に伺ったほうがいい、と言われていたんです。二人とも黛衣のことをとても気に入っています」黛衣の父は、しばらくしてようやく声を取り戻した。「そうですか……それは、よかった」普段あれほど厳格な人なのに、完全に調子を崩している。娘に恋人ができたとは聞いていた。だから、親として少しくらい釘を刺しておこうとも思っていた。まさか連れて帰ってきた相手が、こんな大物だとは夢にも思わなかった。――困ったな。家があまりにも普通すぎる。思慕は一度振り返り、後ろからついてきたアシスタントに声をかけた。「車は先に38号棟の前へ回しておいて。俺は叔父さんたちと歩いて戻る」「承知しました」黛衣の父は、改めて4台の黒い高級車を見た。鏡のように磨き上げられた車体が、冬の日差しを受けて光っている。思わずごくりと唾を呑み込んだ。人生を通して冷静で厳格だった男が、本気で圧倒されていた。一方、藤井先生は高級な贈答品を抱えたまま、しばらく呆然としていた。そして我に返ると、すぐに学校関係者のグループチャットを開いた。【氷室校長の娘さん、恋人できたって】【誰だと思う?】【栄光グループの社長】【もう本当にびっくりした。あのお婿さん、ものすごく格好いいの。全身きらきらして見えるくらい。話し始めたら周りが全部霞んで、その人しか目に入らないのよ。黛衣ちゃん、あんな人と毎日一緒に暮らしてるなんて、毎日不老長寿の果実でも食べてるようなものじゃない?滋養たっぷりよ】グループチャットは、一瞬で大騒
黛衣の母は眉をひそめた。「いくら交通が便利になったって、こんなに早く着く?いったい何時に起きて新幹線に乗ったのよ。大変だったでしょうに。その周防さんって、黛衣の同僚なのかしら。なんとなくエンジニアっぽいのよね。時間に追われて、いつも仕事ばっかりしてそうな感じ。まあ、人柄さえよければいいわ。あなた、あとで絶対に細かいこと言わないでよ。相手を怖がらせたらだめだからね。黛衣ももう30よ。やっと家に連れてくる相手ができたんだから。あなた知らないでしょうけど、職場の人たちなんて最近、再婚の人まで紹介してくるのよ。私はその周防さんがどんな人でも、少なくともそういう相手よりはいいと思う」父は小さくため息をついた。「向こうも32だそうだ」どれほど条件がよくても、たかが知れているだろう。普通の家のまともな男なら、32まで独身でいるものだろうか。そう思うと、父としても高望みなどできなかった。そのときだった。数台の黒い高級車が、前後に連なってこちらへ近づいてきた。フロントに輝いているのは、ロールス・ロイスのエンブレム。J市ではほとんど見かけることがない車だ。黛衣の両親も、テレビでしか見たことがない。それが今、4台も続けてこちらへ向かってくるものだから、その異様な存在感に思わず目を奪われた。この住宅街は、学校関係者向けに整備された職員住宅だった。住んでいるのは、ほとんどが同じ教育関係者だ。ちょうど通りかかった顔見知りが、黛衣の両親を見つけて声をかけてきた。「黛衣ちゃん、三連休には帰ってくるの?この前紹介した人、どう?考えてくれた?再婚ではあるけど、資産は2億円近くあるのよ。J市じゃ、あんな条件の人そうそういないわよ。ちゃんと考えたほうがいいって。黛衣ちゃんも、あんないい子なのに30まで独身なんてもったいない。女の人は30を過ぎると、どうしても条件が厳しくなるでしょう?白井さんくらいが、もう十分いいところだと思うわ」黛衣の母は、腹が立ちすぎて頬が引きつりそうになった。それでもどうにか笑顔を保つ。「藤井先生、ご心配ありがとうございます。でも、うちの黛衣にはもう恋人がいるんです。同じ会社の人で、都会で働いていて。今日もこれから一緒に来るんですよ」すると藤井先生は笑った。「都会で働いてるって言っても
黛衣の前に影が落ちた。顔を上げると、そこに思慕が立っていた。黛衣はそのまま、じっと彼を見つめる。どこから聞かれていたのかは分からない。けれど思慕は何事もなかったように、雅乃に声をかけた。「黛衣に付き合ってくれてありがとう」雅乃は軽く鼻を鳴らす。「はいはい。今は二人きりでいたいんでしょ。帰ればいいんでしょ?」思慕はすっと身体を横にずらし、出口を空けた。「察しがよくて助かる」雅乃が帰ったあとも、黛衣の瞳はきらきらと輝いていた。彼女は相変わらずソファにもたれたまま、柔らかな声で思慕に尋ねる。「思慕、雅乃とは昔から知り合いで、今も一緒に住んでるんでしょ?今まで付き合ってみようと思ったこと、一度もなかったの?」本当に、ただの好奇心だった。思慕は彼女のそばまで歩いてくると、さっきまで雅乃が座っていた場所に腰を下ろした。長い脚を伸ばし、片腕もゆったりとソファに預けながら、呆れたような、おかしいような顔で黛衣を見る。「同じマンションに住んでるだけだろ。何だよ、『一緒に住んでる』って」そう言って、小さく笑った。「知り合いとしては古すぎるんだよ。子どもの頃から知ってる。あいつの親父が映画監督で、昔から俺の叔父の朝倉寒真と仕事で付き合いがあってさ。小さい頃から雅乃を連れて、しょっちゅううちに来てたんだ。あいつ、昔は男の子みたいだったぞ。スクリーンで見る姿とは全然違う。だから最初から、そういう対象として見たことがない」黛衣は素直に頷いた。なるほど。だから二人はあれほど親しいのに、どこか会えば憎まれ口ばかり叩いているような関係なのだ。思慕は今度、一日中ほとんど仕事らしい仕事をしていない元・氷室秘書を眺めた。付き合い始めてから、彼は黛衣の仕事をほぼすべて外していた。そもそも栄光グループでは社内恋愛を原則として認めていない。社長である思慕だけが例外というわけにもいかなかった。幸い、黛衣自身も仕事への執着はそれほど強くない。昔からどこかマイペースで、出世欲も薄かった。そうでなければ、あれだけの学歴と能力がありながら、ずっと機密業務を扱う秘書の立場に留まっているはずもない。そういえば、二人は同じ大学の出身だ。学生時代の黛衣も、それなりに有名だった。確か、かなり多くの男に言い寄られていた
思慕は、背後からふいに抱きつかれた。振り返ってみれば、そこにいるのは黛衣だった。その表情を見れば、彼女が何を望んでいるのか分からないはずもない。思慕は腕時計に目を落とし、感情を押し隠したまま低い声で尋ねた。「黛衣……本当にいいんだな?」黛衣は答える代わりに、彼の腰に回した腕に少しだけ力を込めた。朝の思慕からは、清潔で心地よい香りがする。身体も綺麗だった。しっかりした骨格を覆うのは、長年鍛えてきた薄い筋肉。そのどこに触れても温かい。そもそも二人は、ずっと互いを求めていたのだ。ただ、10年という時間を無駄にしてしまっただけ。いったん想いが通じてしまえば、長いあいだ押し込めていたものが一気に溢れ出す。欲しいと思うのは、男だけではない。黛衣だって、思慕が欲しかった。彼女は柔らかく彼に寄り添い、甘えるように離れようとしない。本当は先に朝食を作り終えるつもりだった。けれど、さすがの思慕にも無理だった。30年以上ほとんど女っ気のない生活を送ってきた男が、好きな女性からこんなふうに求められて、平然としていられるはずがない。思慕は火を止めると、黛衣を抱き上げ、そのまま寝室へ戻った。ベッドの端にそっと下ろし、深く唇を重ねる。経験と呼べるものは10年前の一度きりだったが、こういうことは相手を好きで、感覚の鋭い男なら自然と覚えていくものらしい。やがて黛衣は堪えきれず、涙声で彼の名を呼んだ。思慕はそのたびに宥めるように抱きしめながら、それでも彼女を離そうとはしなかった。――どうしようもないほど、夢中になった。気づけば、とっくに出勤時間を過ぎていた。すべてが落ち着いた頃には、もう午前10時近かった。3時間近く、二人きりで過ごしていたことになる。それでも思慕にはまだ名残惜しさがあったが、黛衣はもうすっかり疲れ果てていた。枕に伏せたまま片手で彼を押し返し、これ以上近づかないで、と無言で訴える。本当なら、思慕も一日中そばにいるつもりだった。けれど午後には、どうしても外せない重要な会議がある。それでもぎりぎりまで黛衣に付き添い、午後になってようやく家を出た。その頃、栄光グループ社内では――すでに大騒ぎになっていた。噂は朝から社内中を駆け巡っている。何しろ、その噂の当事者二
黛衣の予想に反して、思慕の料理はかなりの腕前だった。気取った料理ではなく、どれも家庭的で、食欲をそそる香りがする。まさか牛肉と野菜のピリ辛炒めまで作れるとは思わなかった。香ばしくて、辛さもしっかりあり、味付けも絶妙だ。それに川魚と筍の煮物も、素材の旨味がよく出ていて驚くほど美味しい。気づけば黛衣は、ご飯を2膳も平らげていた。――最悪。食べ終わってから猛烈に後悔した。ぽっこり膨らんだお腹を撫でながら、2膳も食べたら絶対太る、と本気で落ち込む。その代わり、せめてもの埋め合わせにと黛衣は進んで食器を洗った。思慕もそれを止めはしなかった。ただ、彼女が片づけを終えると、自分からゴミをまとめて捨てに行った。一緒に暮らし始めた初日だというのに、二人は意外なほど夫婦らしい生活をしていた。1階までゴミを捨てに下りた思慕は、戻る途中で同じマンションに住むトップ女優と鉢合わせた。彼女は思慕の手元を見て、まるで幽霊でも見たような顔をした。――見間違いじゃないよね?たった今、栄光グループの社長が自分でゴミを捨てていた。まさか栄光グループ、経営破綻でもした?家事代行を頼むお金までなくなったとか?女優は思慕とは以前から面識があった。かつてグループ傘下の商品で広告モデルを務めたことがあり、今では同じマンションの住人でもある。彼女は思慕のところまで歩み寄ると、腕を組んでからかった。「周防社長、私の見間違いじゃないですよね?栄光グループ、最近そんなに経営が厳しいんですか?社長自らゴミ出しなんて。何かお手伝いしましょうか?」思慕は彼女を一瞥し、わざとらしく軽く咳払いした。「まあ、これから大金がかかるのは確かだな」「え?」「最近、恋人ができたんだ。俺たちももう30過ぎだろ。この年になると、相手を見つけるだけでも大変なんだよ。せっかく捕まえたんだから、大事にしないとな。正式に挨拶にも行かなきゃならないし、結婚するなら家も用意する。ジュエリーだって買って妻の機嫌を取らなきゃいけない。何をするにも金がかかるんだから、節約できるところは節約しないと」そこで思慕は爽やかに笑った。「松宮雅乃(まつみや まさの)、お前も頑張れよ」言いたいことだけ言うと、思慕は悠然とその場を去っていった。残された雅乃は
さっきの会計金額が頭から離れず、黛衣はせめて夕食くらいは自分が作ろうと、妙に張り切っていた。このあとブランドのスタッフが服を届けに来るため、思慕は家で待つことになり、黛衣は財布を手にマンション近くのスーパーへ向かった。彼女が出ていくと、思慕はすぐに家事代行のスタッフへ連絡し、しばらく普段の訪問は必要ないと伝えた。週2回、決まった日に掃除に来てもらうだけでいい。せっかくなのだから、黛衣と二人きりで暮らしたかった。10分後。黛衣はショッピングカートを押しながら店内を歩き、しばらくしてようやく気づいた。――ここ、輸入食品専門の高級スーパーなんだ。値段も普通ではない。体感では一般的なスーパーの5倍くらいする。1パック6千円ほどもする牛肉を手に取り、黛衣は胸を痛めた。高い。あまりにも高い。けれど、自分の口座には今日だけで2億円近いお金が増えている。それから思慕が午後に使った40億円超の金額を思い出し、さらに彼の舌がかなり肥えていることまで考えると――黛衣は覚悟を決めた。買おう。どうせなら、一番いいものを食べさせてあげよう。――思慕は、実に妻選びの目がある。黛衣はさらに肉や野菜、果物、牛乳などをカートに入れていった。会計は全部で10万円を少し超えた。ただ、この店はサービスも行き届いている。スタッフが購入品を駐車場まで運び、そのまま車のトランクに積み込んでくれた。黒いベントレーのナンバーを見たスタッフが、ふと笑顔で尋ねる。「周防社長の恋人の方ですか?このナンバー、覚えているんです」「え?」そんなことまで覚えているの?黛衣は少し照れながら、小さな声で答えた。「……はい」若いスタッフはにこやかに会釈し、彼女を見送った。運転席に乗り込んだ黛衣は、ハンドルにそっと手を置いた。いつも思慕が握っている場所。そこにまだ彼の温もりが残っているような気がした。――思慕と一緒にいるのも、案外悪くないのかもしれない。ここは、今まで自分が触れたことのない世界だった。富や名声の世界には、冷酷さや残酷さしかないと思っていた。けれど、本当はそれだけではない。人から敬意をもって接してもらえることもあれば、心地よいサービスを受けることもある。そして自分もまた、相手に笑顔を返せばい
輝が英国へ発ってから、もう一ヶ月が経っていた。年の瀬が迫っても、帰国の知らせはない。瑠璃は迷いながらも、何度か電話をかけてみた。だが繋がらず、代わりに会合の席で秘書の白川と顔を合わせた。「帰ってくるのは……年明け半ば頃ですね」あと半月——細かく詮索するのも気が引けて、瑠璃は軽く世間話をしてその場を離れた。会所の廊下は明るく、煌びやかな光に包まれていた。背後で、白川がふっとため息を洩らしたのに、瑠璃は気づかなかった。……個室に戻ると、場の空気はちょうど良く温まっており、岸本が二人の投資家を上手くもてなしてくれていた。酒はすべて岸本が引き受けている。「いやぁ
結局のところ、翠乃は男に折れた。車は朝倉家の本邸へと入る。翠乃が身にまとっているのは、寒笙がいつも着ているアンゴラレッドのセーター。下のパンツも彼のものだった。毛皮を除けば、全身が寒笙の服である。父の晴臣が自ら魚を提げて出迎えた。翠乃の格好を見るなり、顔を真っ赤にして息子を叱る。「家がそんなに貧乏か?翠乃に服一着買う金も出せんのか」彼は懐から一枚のカードを取り出し、翠乃に差し出した。「イギリスでちゃんと揃えなさい。母さんと時間を作って様子を見に行く。こんな馬鹿の言うことは聞くな、絶対に甘やかすなよ」寒笙は上品に微笑んだ。「全部、僕が翠乃に譲ってるだけだ」
本当に、ほんのひとときだった。それで、終わった。終わったあと、寒笙は頭を翠乃の薄い肩に預け、すぐに離れようとはしなかった。彼女の腰を抱いたまま、ひと月ぶりの温もりを惜しむように味わっている。こうして抱き合いながら、他愛もない話をする。イギリスの天気のこと、久石先生の手強さのこと――話しているうちに、彼はふっと笑った。やがて、翠乃も少しずつ口を開く。愛樹と愛夕の成績の話、最近また寒真のところで食事をしたこと、寒真が新しい料理を覚えたこと。寒笙は彼女の頬を撫で、低い声で言った。「イギリスのアパートはキッチンが広い。よかったら、時々俺が行って料理する。最近は腕も悪
寒笙は今も大学で教鞭を執っている。准教授だ。外目には穏やかで知的だが、願乃に言わせれば、清貧ぶりが行き過ぎて、何ひとつ得にならない男だ。だが、朝倉家の御曹司であることに変わりはない。彼は一枚の小切手を願乃に渡し、洗練された仕草で言った。「翠乃と少し、プライベートな話をさせてもらえないか?」願乃はニコニコして答えた。「H市の男のこういうスマートなところ、好きよ」寒笙は夕梨にも視線を向け、合図を送った。「義姉さん」夕梨は義姉としての威厳を見せ、真剣な顔で言った。「翠乃さんを困らせないでね。公の場で恥をかくようなことは許さないわよ」「いつからうちの母親







