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第186話

Author: 風羽
妊娠しても、舞の身体は少しもふくよかにならなかった。

背中は相変わらず白くて薄く、黒髪が肩にかかり、熱いシャワーの水が肩甲骨を伝って流れ落ち、腰のくぼみにたまる。そこにある小さな朱いほくろが、やけに目を引いた。

「洗ってあげる」

京介は舞の身体をそっと支え、洗ってやろうとした。

けれど、舞は驚いて、思わず彼の頬を平手打ちした。

叩いたあと、彼女は温かいタイルの壁に身体を押しつけながら唇を震わせ、じっと京介を見つめた。彼女には彼の言葉が届かない。何をしようとしているのかも分からない。

ただ、彼が長く肉体関係を我慢していたことは知っている。だから、怖かった。

京介の整った横顔が横に振られた。屈辱に満ちた一瞬だった。

しかし次の瞬間、彼は自嘲するように優しく微笑み、舞の手のひらにそっと文字を書いた。

——「洗ってあげるだけだよ」

ようやく彼の意図を理解した舞は、首を横に振って拒んだ。だが、妊娠中の彼女に、男の力に抗う術はなかった。

浴室には蒸気が立ち込め、京介の整った顔立ちがその中にぼんやりと浮かぶ。

彼は優しく、丁寧に彼女の身体を洗いながら、手を彼女の下腹部に当てた。そこに宿るのは、彼と舞の子ども。もう三ヶ月を過ぎたというのに、彼女の腹はまだ平らなままだった。

京介はゆっくりと顔を近づけ、彼女の腹にそっと唇を落とした。

喉がひくりと動いた。

——今、彼女が自分を抱きしめてくれたら、どんなに救われるだろう。

……

夜。

舞は白いバスローブを羽織り、静かにベッドのヘッドボードにもたれていた。

ドアが開き、京介が入ってきた。黒いシルクのパジャマが、その整った顔立ちをより一層引き立てていた。どこか禁欲的な色気すら感じさせる姿だった。

舞はてっきり、彼がいつものようにソファで寝ると思っていた。

しかし京介はためらうことなく布団をめくり、彼女の隣に横たわった。彼女が抵抗しようとしたそのとき、彼は力強く抱きしめ、無言で自分の胸元に引き寄せた。

部屋は静まり返っていた。

舞の世界は、もっと静かだった。

立都市の夜に、小さな雪が舞い始めたことも、舞には届かない。

彼女は、温室の中に閉じ込められていた。京介という、彼だけの世界の中に。

彼女には何も聞こえず、彼には彼女の心が見えない。こんなにも身体を重ねているのに、二人の距離は、果てしなく
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