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第247話

Author: 風羽
静かな夜、遠い過去の人々。

心の奥底では、いまだに割り切れない思いが渦巻いている。

舞の胸中は穏やかではなかったが、それでも席に着き、喉を通らぬ食事を一口一口飲み込んだ。

——彼女は、もう昔の葉山舞ではない。

今は澪安の母親なのだ。

だが、それでもあまりに辛くて、涙がぽろぽろとご飯の上に落ちる。

周防夫人も胸が締め付けられ、そっと声をかけて慰める。

彼女はちらりと息子を見やり、あの無惨な腕が、自分の愚かさを突きつけてくるのを痛感した。

そして、頬に残る平手打ちの跡が、さらに胸をえぐる。

周防夫人は、ついに堪えきれなくなった。

嗚咽まじりに、低く語り始めた。

「……あの日、本当はあなたたちを送るはずだったのに、私……魔が差したのよ。

電話がかかってきてね、それが音瀬のことで……彼女のこと、小さい頃から知っているから、どうしても不憫に思い、あの子が哀れで仕方なくて……少しでも生活の足しになればと、金品を渡しに行こうとして。

でも、まさか……音瀬に殴られて意識を失うなんて。目を覚ました時には、もう何時間も経っていた。

病院に駆けつけた時、京介は手術中だった。

彼は私に、決して誰にも言うなと……

この数年、京介は本当に苦しんできたの。

舞、怒りがあるなら全部私にぶつけていい。

京介はずっと償おうとしてるの。

どうか……どうか、彼を許して、もう一度チャンスを与えてくれない?

厚かましいお願いだってわかってるけど……この数年の京介を見ていると、母親として、見ていられないのよ」

……

周防夫人の泣き声は、雨の音のように絶え間なく続いた。

雨の帳が垂れ込め、大地すら押し潰さんばかりだった。

深夜。

最後の雨粒が、木の葉から滑り落ちてポタリと音を立てた。

その時——澪安が目を覚ました。

半分夢の中で「ママ……」と呟いた。

舞はすぐに駆け寄り、ぎゅっと抱きしめた。

優しく背中を撫でて、夢から覚ますように。

澪安は、黒い瞳を半分だけ開き、か細い声で言った。

「ママ……ぼく、死んじゃうの?」

舞は喉が詰まりそうになったが、微笑みを作った。

「死なないよ。澪安は元気になる。ママと妹と一緒に、大きくなるんだよ」

夢と現実の狭間で、小さな本音が零れる。

「パパとママ、ずっと一緒にいてくれる?あんな知らないおばさんはいらない……
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