Share

第248話

Author: 風羽
舞は茫然としたまま、窓の外に目を向けた。

しばらくして、ふと、彼女の心にある思いがよぎった。

——音瀬に、会いたい。

……

夕暮れ時、空は紫がかった鉛色の雲に覆われ、重たく沈んでいた。

ピカピカに磨かれた黒塗りの車が、ゆっくりと私立病院の門をくぐる。

事前に連絡してあったため、病院側の責任者がすでに門前で待っていた。

車が止まり、担当者が丁寧にドアを開けた。

「葉山様、どうぞ」

舞は黒い薄手のトレンチコートを羽織り、髪はきっちりとまとめられていた。

まるで葬儀に参列するかのような装いだった。

小さく頷くと、そのまま担当者に従い、薄暗い通路へと進む。

その通路は湿気を帯び、陰気な風が吹き抜ける。

どこかから、ネズミの鳴き声のようなチューチューという音も聞こえてきた。

やがて、担当者が一枚の古びた木の扉を押し開けた。

ガタンッと音を立て、緑のペンキが剥がれ落ちる。

年季の入ったドアだった。

その担当者が気軽に笑って言った。

「うちは予算が少なくてね、部屋の改修も手が回らないんですよ。でも、いずれはもっと頑丈な鍵に変えるつもりです。特に、あの女にはね」

舞は淡く微笑んだ。

扉の奥には、かつての因縁の相手がいた。

音瀬は薄いシャツ一枚で、鉄製のベッドの上に座っていた。

手足すべてに鎖がつけられ、動ける範囲は極めて狭い。

室内の空気はどこか生臭く、強烈な不快臭が漂っていた。

担当者が気遣うように言った。

「こんな所じゃ、葉山様には不快でしょうし……すぐ出られた方がよいかと」

舞は無言でバッグから一枚の小切手を取り出した。

額面は—一億円だった。

彼女は冷えきった声で言った。

「病院の改装費が必要なんですよね?この金で、白石さんを丁寧に世話してあげてください」

担当者は即座に空気を察し、満面の笑みで小切手を受け取った。

「かしこまりました。もしあの女がまた暴れたら、古い雑巾でも詰めて黙らせますんで、ご安心ください」

そして、静かに扉は閉ざされた——

冷たい鉄のベッドの上。

音瀬の目は、氷のように冷たく、邪悪な光をたたえていた。

髪は乱れ、顔は汚れていても、その目だけは叶わぬ妬みで燃えていた。

——なぜあんたなのよ。

——なぜ、あんたがすべてを手に入れるの?

音瀬は皮肉な笑みを浮かべ、低く言った。

「葉
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 私が去った後のクズ男の末路   第254話

    輝はその名を聞いた瞬間、表情を凍らせた。——赤坂瑠璃?遠い記憶の底から、名前だけが浮かび上がった。彼女とは、出所してから一度も会っていない。その後、どこで何をしていたのかも知らない。いや——そもそも、自分は本当に彼女を愛していたのだろうか。京介は静かに表情を引き締め、輝をじっと見つめながら言った。「雲城市の副社長職は、俺が彼女に約束したポジションだ。お前が雲城市にいたくないなら、他の人を送る。立都市に戻って、昔みたいに遊び回る生活に戻ってもいい。ただし——言っておく。赤坂は、お前の娘を産んでいる。情と道理を考えれば、あの子を連れてお爺さんの墓前に行き、頭を下げるのが筋ってもんだろう」……その言葉に、輝は目を見開き、唇を噛みしめた。京介のことは、誰よりも輝がよくわかっている。彼は出所してからというもの、これまで一言も余計なことを言わなかった。だが今、急に動き出したということは——必ず何かを察したということだ。必ず、何かを潰そうとしている。——邪魔者を排除しようとしているのだ。輝は、白い歯を剥き出しにしながら、怒りを込めて言った。「……周防京介、お前は相変わらず最低だな!」京介は微笑みを浮かべた。その笑みは、まるで春の風のように柔らかく、そして冷ややかだった。「お兄さんがもう少しマシだったら、俺だってこんなに苦労しなくて済んだんだがな」輝は舌打ちし、すぐにその場を去った。最短の便を予約し、雲城市へ飛ぶことを決めた。一方の京介は、革張りの椅子に体を沈め、眉間を指で揉みながら、小さくため息を漏らした。「……周防の名を背負うのは、簡単じゃない」京耀は——やはり、荷が重すぎた。……昼食の時間になると、京介は再び休憩室へと足を運んだ。舞はすでにスーツに着替え、窓際に立っていた。背筋を伸ばし、凛とした立ち姿は、かつて栄光グループの副社長として活躍していた頃の彼女そのものだった。京介は、しばし時が止まったような錯覚を覚えた。まるで、何もかもが元に戻ったかのような気さえした。そのまま、舞の背後にそっと近づき、彼女の腰に両腕を回して囁いた。「さっき輝に言われたよ。『昼間っから女とヤってる』ってな。でもさ、舞。俺たち、結婚してた頃だって、昼に

  • 私が去った後のクズ男の末路   第253話

    舞が目を覚ましたとき、そこはもう白金御邸ではなかった。栄光グループの本社ビル、その最上階にある社長室の休憩スペースだった。彼女がここに来たのは、これが初めてだった。かつて夫婦だった頃ですら、この場所で共に過ごしたことはなかった。約60平方メートルの空間は、黒とグレーを基調にした無駄のない洗練された設計。まさに、京介の美意識そのものだった。舞が身を起こすと、いつものスーツは脱がされ、代わりに黒のシャツとメンズのスポーツショートパンツが身につけられていた。数年前に京介がここに置いていたものだろう。ウエストが少しゆるく、紐で締めてようやく形になったが、着心地は悪くない。誰が着替えさせたかなど、今さら詮索する気にもなれなかった。ベッドを降り、窓際に歩み寄ると、一つの本棚からフォトフレームを取り出した。舞と京介のツーショットだった。もう、あれから四年が経つ。澪安と澄佳を身ごもっていた頃、遊園地の観覧車前のベンチに座っている彼女を、宴の帰りに立ち寄った京介が見つけ、膝をついて彼女の腹にそっと手を添えた。遠くから撮られた一枚だったが、その時の二人の表情は——間違いなく穏やかだった。お腹にいる小さな命を、二人で大切に見つめていた。……だが、その夜、彼女はお婆さんを失った。背後で、扉が静かに開く音がした。京介が近づいてくる。「中川が車の中から撮ってくれてたんだ。いい写真だろ?」舞は指先でそっとフレームをなぞる。表情はやわらかく声も穏やかだった。「あなたがどれだけ償ってくれても、努力してくれても……お婆さんは、もう帰ってこないの」京介の瞳は、深く沈んだ。そのとき——休憩室の扉が勢いよく開かれ、男の声が響いた。「周防京介!副社長を勝手に外すなんて、どういうつもりだ!あいつは俺が使うって言ってただろ?雲城市に俺一人残して、何させたいんだ!」声の主は——輝だった。彼は室内の舞に目を向け、京介のシャツと短パン姿の彼女を見て、ふっと薄く笑った。——なるほど、子づくりの真っ最中ってわけか。輝はふと目に含みを宿し、舞を見つめて静かに微笑んだ。「舞もいたのか」舞は何も言わなかった。彼女はもう、言い訳をする年齢でも立場でもなかった。京介も同様だった。軽く眉をひそめ、短く

  • 私が去った後のクズ男の末路   第252話

    九条は眉をひそめた。「縁だのなんだの、そんなもん、俺は信じねえ」彼は本当は、舞に聞きたかった。——お前、俺のこと好きかと。でも、彼女の目に浮かぶ涙を見て、その言葉は喉元で止まった。……彼は、この女性をこんなに追い詰めてしまったのだ。そんな状態で、何を「好き」などと言えるというのか。九条は無言でテーブルのコーヒーを手に取り、一気に飲み干した。そして、強く彼女を見つめながら言った。「もし、あいつがまたお前を裏切ったら——その時は、俺のところに来い」舞は微笑んでそっと頷いた。——でも、本当はもう、行くことはない。彼女と九条の間に「縁」はなかった。……舞が車に戻ると、すでに車は走り出していた。京介は後部座席にもたれかかりながら、片手でスマホを操作していた。何気ない風を装いながら、ふと尋ねた。「……あいつのこと、そんなに好きなのか?」その声には、かすかな緊張が混じっていた。舞は窓の外に視線を移したまま、淡々と答えた。「あなたには、関係ないわ」京介はそれ以上何も言わず、再びスマホに視線を落とした。だが、五分も経たないうちに、突如、彼は舞の手を強く握った。その力強さに、舞は思わず声を上げた。「ちょ、京介!」車内は薄暗く、京介の目は深く、何かを抑え込むように光っていた。その声は、掠れたように低く、そして震えていた。「……他の男を、好きになるな」言ってはいけないとわかっていた。でも、それでも、彼は言ってしまった。「舞、お前は——俺の女だ」舞は勢いよく手を振りほどいた。言葉は容赦なかった。「は?昼間っから何、盛ってんの?……もう満足?」京介の目に一瞬赤い色が宿った。——満足なんか、するわけがない。彼は、彼女を想うあまり、胸が張り裂けそうだった。……三十分後、車は立都市医療センターの外来棟に到着した。舞のアシスタントが、事前に予約を入れていた。診察室では、婦人科の名医・西原先生が病歴ファイルを確認しながら、二人を見比べて言った。「パートナーがいないのであれば、できれば自然妊娠をおすすめしますよ。体外受精にはいろいろとリスクがありますから……もう一度、よく考えてみてはいかがですか?」舞は首を振った。「私たちは、すでに離婚して

  • 私が去った後のクズ男の末路   第251話

    舞がふと俯くと、京介の視線が目に入った。優しくてどこか切ない。けれど、彼女の心はもう動かなかった。ただ、深い哀しみだけが胸に広がった。少しだけ顎を上げ、涙を堪えながら、かすかに掠れた声で言った。「京介……どうすれば、許せるの?もう、私たち夫婦には戻れないと思うの。毎晩毎晩、泣いて、心がバラバラになって……自分でもどう繋ぎ止めたらいいのか、わからない。あの時、あなたに夢中にならなければ、お婆さんは——お婆さんは、まだ元気だったかもしれないのに……」舞の視線が落ちた。瞳には、光る涙が浮かんでいた。その姿に、京介の心がふっと緩んだ。——彼女の想いが、ようやくわかった気がした。舞は自分を責めていた。すべての過ちを、自分のせいだと思っていた。だからこそ、彼女は許すことができなかった。京介は少し荒れた指先で、そっと舞の涙を拭った。だが、彼女の肌はあまりにも柔らかく、たちまち目尻が赤く染まり、見る者の胸を締めつけた。京介は堪えきれず、そっとその赤くなった肌に唇を寄せた。そのせいで、目元はさらに痛ましいほどに紅く染まる。二人の距離はもうほとんどなかった。どちらの肩も震えていて、過去に縛られ、もはや抜け出せない。最初は——京介の一方的な未練だったはずなのに。「もう泣くなよ……子どもたちに見られたら、俺がいじめてると思われるじゃないか」京介は低く優しい声で囁いた。舞は怒ろうとしたが、もう泣きすぎてしまって顔を作る余裕もなかった。その姿が、京介には愛しく思えて仕方がなかった。「昔のお前は、こんなんじゃなかったのにな……今じゃ、涙がぽろぽろ、お水の人形みたい」舞は何も言わず、そっと背を向けた——ちょうどその時、扉をトントンと叩く音。次の瞬間、澪安が勢いよく入ってきた。部屋に入るなり、真っ赤な目をした母の顔に気づいた澪安は、手を精一杯伸ばして言った。「澪安が、ママの涙ふいてあげる!」舞はその小さな体をぎゅっと抱きしめ、澪安の首元に顔をうずめるようにして、嗄れた声で言った。「ママ、泣いてないよ。泣いてなんか、いないよ……」澪安も、細い腕で一生懸命ママを抱きしめ、「ママとぴったんこ」と、頬を寄せた。その光景に、京介の胸がじんわりと熱くなった。シャツに腕を通し

  • 私が去った後のクズ男の末路   第250話

    舞は、ほんの少し眉をひそめた。身体が、熱を帯びた男の身体に押しつけられていた。その手は、彼女の手をがっしりと包み込んでいた。そして次の瞬間、状況は一気に混沌と化す。熱を帯びた男の顔が、彼女の首筋に寄り添い、低くかすれた声で囁いた。「朝っぱらから男の寝室に来て、何する気だったんだ?」舞は身動きが取れなかった。彼女はすぐに気づいた。京介が、どうやら火照っているようだと。舞の柔らかな体は、熱を帯びた男の体に押さえ込まれたまま。何も無理強いされてはいないが、それでも京介の体温と接触は、十分に足を震わせるには充分だった。かつて、何度も身体を重ねた記憶があるからこそ、尚更——舞がやっとのことで声を絞り出した。その声はかすれて震えていた。「……澪安の服を取りに来ただけ」彼の唇が、彼女の首筋をかすめた。そして、ゆっくりと顔を上げ、彼女の唇を探し、そっと重ねた。その唇から漏れる声は、熱にうなされたようにかすれている。「……タイミングがいいな。動くなよ、キスだけだから」舞は顔を左右に振った。でも、逃げられなかった。男は身体を折り曲げ、まるで飢えたように熱く彼女にキスを落とした。まるで、生まれて初めて女に触れたような狂おしさで。彼の指が彼女の手をしっかりと絡め取り、十指を交えたまま、唇も理性もすべてが崩れていく——男という生き物は、本当に単純だ。理性を失った瞬間に、どんな言葉も約束も意味をなくす。京介も、例外ではなかった。彼は舞を抱き寄せ、黒い瞳に艶やかな光を宿しながら、耳元で囁いた。「今このまま妊娠すれば、体外授精なんて要らないだろ?」——パチン、と。部屋に明かりが灯る音と同時に、舞は彼を強く突き飛ばした。すぐにドアノブに手をかけ、部屋を出ようとする——だがその細い身体は、すぐに男の腕に抱き止められた。京介はようやく冷静さを取り戻し、舞の肩に顔を預けると、荒れた呼吸をゆっくりと落ち着かせた。かすれた声で、彼は言った。「お前が帰ってくるって言った時——お前が、子どもを産むって決めてくれた時から——俺は勇気を持てるようになった。頭の中は、お前とのことでいっぱいになった。俺は聖人君子なんかじゃない。好きな女と、そういうことをしたいって、当然思うさ。

  • 私が去った後のクズ男の末路   第249話

    音瀬は発狂したように汚い罵声を上げ、叫び続けた。何度も唾を吐こうとするが——すぐさま外から数人のスタッフが駆け込んできた。そのうちの一人が、汚れた雑巾を掴むと、音瀬の口にねじ込んだ。音瀬は目を見開いたまま、怨みのこもった視線で舞を睨みつけ、くぐもった嗚咽だけが聞こえていた。舞は首元のコートの襟を軽く払うと、やわらかい声で言った。「彼女の血を採って、AIDSの検査をして。確認しておいて」スタッフはすぐに頷いた。「そうですね。あの私生活じゃ……ない方が不自然です」舞は音瀬を最後に一瞥し、静かに言い残した。「安心して。私はあなたの命を守るから。ここで、老いて、死ぬまで——ずっと、生き続けてもらうわ」そして、振り返ることなく、部屋を後にした。閉ざされた扉の向こうからは、泣き声と罵声、そして唾を吐くような音が交錯していた。だが、舞はもう何も聞いていなかった。外へ出ると、夕陽がまるで炎のように大地を染めていた。その赤々とした光のなかに、舞は懐かしい面影を見た気がした。——優しかったお婆さんの顔。灯りの下で饅頭を作っていた手。子守唄を口ずさむ、あのぬくもり。でも、すべてはもう戻らない。すべては、音瀬が奪った。……用事を終えた舞は、伊野宅へ戻り、澄佳を連れて引っ越しの準備を始めた。子どもたちは、大喜びだった。舞は澪安の看病を優先するため、子ども部屋のレイアウトを変更。約80平米の部屋にはベッドを2つ置いても十分な広さがあり、簡易な書斎スペースも確保できた。絵本を読んだり、絵を描いたりするのにぴったりだ。そして、体外受精の計画も、本格的に動き出した。夜、子どもたちが寝静まった後、舞はそっと書斎のドアを開けた。部屋は静まり返っていた。京介はデスクに座り、書類に目を通していた。この数年、澪安の世話に時間を割くため、仕事は深夜に回すことが多かった。そのため少し痩せてしまったが、どこか品のある佇まいは健在だった。ドアの音に気づき、彼は顔を上げた。「澪安と澄佳、もう寝た?」「ええ」京介は、彼女に何か話があることを察した。金の万年筆のキャップを静かに閉じると、スーツの上着の裾を軽く引き、ソファへと歩いて腰を下ろした。そして舞にも座るよう手で促しながら

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status