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第253話

Auteur: 風羽
舞が目を覚ましたとき、そこはもう白金御邸ではなかった。

栄光グループの本社ビル、その最上階にある社長室の休憩スペースだった。

彼女がここに来たのは、これが初めてだった。

かつて夫婦だった頃ですら、この場所で共に過ごしたことはなかった。

約60平方メートルの空間は、黒とグレーを基調にした無駄のない洗練された設計。

まさに、京介の美意識そのものだった。

舞が身を起こすと、いつものスーツは脱がされ、代わりに黒のシャツとメンズのスポーツショートパンツが身につけられていた。

数年前に京介がここに置いていたものだろう。

ウエストが少しゆるく、紐で締めてようやく形になったが、着心地は悪くない。

誰が着替えさせたかなど、今さら詮索する気にもなれなかった。

ベッドを降り、窓際に歩み寄ると、一つの本棚からフォトフレームを取り出した。

舞と京介のツーショットだった。

もう、あれから四年が経つ。

澪安と澄佳を身ごもっていた頃、遊園地の観覧車前のベンチに座っている彼女を、宴の帰りに立ち寄った京介が見つけ、膝をついて彼女の腹にそっと手を添えた。

遠くから撮られた一枚だったが、その時の二人の表情は——間違いなく穏やかだった。

お腹にいる小さな命を、二人で大切に見つめていた。

……だが、その夜、彼女はお婆さんを失った。

背後で、扉が静かに開く音がした。

京介が近づいてくる。

「中川が車の中から撮ってくれてたんだ。いい写真だろ?」

舞は指先でそっとフレームをなぞる。

表情はやわらかく声も穏やかだった。

「あなたがどれだけ償ってくれても、努力してくれても……お婆さんは、もう帰ってこないの」

京介の瞳は、深く沈んだ。

そのとき——休憩室の扉が勢いよく開かれ、男の声が響いた。

「周防京介!副社長を勝手に外すなんて、どういうつもりだ!あいつは俺が使うって言ってただろ?雲城市に俺一人残して、何させたいんだ!」

声の主は——輝だった。

彼は室内の舞に目を向け、京介のシャツと短パン姿の彼女を見て、ふっと薄く笑った。

——なるほど、子づくりの真っ最中ってわけか。

輝はふと目に含みを宿し、舞を見つめて静かに微笑んだ。

「舞もいたのか」

舞は何も言わなかった。

彼女はもう、言い訳をする年齢でも立場でもなかった。

京介も同様だった。

軽く眉をひそめ、短く
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