Share

第2話

Author: 風羽
舞はシーツをきつく握りしめ、指先にくっきりと皺が刻まれていく。

こんなときでも、彼女の思考はどこか冷めていた。外の女たちは、京介を満足させてやれなかったのだろうか。今日の彼は、いつものようにすぐ目的へと向かわず、珍しく時間をかけて彼女にキスをした。

けれど、舞の心は少しも動かなかった。

嫌悪感以外、彼女には何も感じなかった。

彼女は、まるで死んだ魚のようにベッドに横たわったまま、京介にされるがままにしていた。どうせ何をしたって、彼には子どもを作ることなんてできないのだから。

最初、京介は舞の露わになりそうでならない様子に興奮していたが、今や舞は木のようにシーツの上に横たわっている……

これでは、どんな男でも興が削がれるだろう。

とてもがっかりだ。

京介の黒髪にはうっすらと汗が滲み、額も頬も紅潮している。掠れた声で問いかけてきた。「どうして嫌がるんだ?」

二人の間にそういった関係があることは少ない。だが月に数度は、彼が彼女の腹に種を残そうと試みる。

舞は真っ白な枕に頭を預けたまま、京介を見上げた。自分が四年も追い続けてきた男を。

もう、疲れた。すべてに疲れ切った。今度こそ、自分のために生きたい。

しかし京介はそれを知らず、なぜ彼と夫婦生活を送らないのか、なぜ彼と協力して合法的な後継者を産み、彼の権力争いを続けないのかと問い詰めていた。

舞は手を伸ばし、夫の頬をそっと撫でた。そして静かに口を開いた。「京介、私たち、離婚しよう」

京介の顔に不快の色が浮かんだが、それでも怒りを抑えながら口を開いた。「愛果のことか?ただの親戚の娘だと言っただろう。彼女がそこに住むのが嫌なら、もう別の場所に移した」

……

舞は冷たく笑った。親戚の娘をわざわざ別荘に一人で住まわせて?歩く時は親密に抱き合うのか?

それらの言葉は彼女は言わなかった。言うと品位を落とすからだ。

彼女はベッドサイドの小さな引き出しを開け、中から離婚協議書を取り出すと、京介の手に押しつけた。「預金と不動産、それから……栄光グループの株も半分いただくわ」声の調子はあくまで淡々としていた。

京介は眉をひそめた。「栄光グループの半分の株だと?欲張りすぎじゃないか、周防夫人」

その口ぶりには皮肉が滲んでいた。まるでビジネスの交渉でもしているようだった。

舞の心は凍りつくような思いで満たされていた。

京介は、永遠に知ることはないのだ。あの日、彼をかばって受けた一蹴りで、舞はほとんど母親になる機会を失ったことを。でも、彼女はそんな泣き言は一切口にしなかった。

愛したことも、憎んだことも、舞は決して後悔していない。与えることも、手放すことも、自分で選んできた。

舞はベッドのヘッドボードに背を預け、その白く穏やかな顔にかすかな微笑を浮かべながら、京介の立場さえも気遣うように言った。「離婚すれば、あなたも心の相手に、堂々とした立場を与えられる。私は株を手にして去るだけ。これでお互い、何もかも丸く収まるわ」

彼女は本気だった。

京介はようやく悟った。これはただの感情的な騒ぎではない。彼女は、ずっと前からこの時を計画していたのだ。

彼は舞をじっと見つめた。その黒く深い瞳は、まるで彼女の心も体も丸ごと飲み込んでしまいそうなほどに、底知れない光を宿していた。

しばらく沈黙が流れたのち、京介は冷ややかな声で告げた。「その考え、早めに捨てるんだな。舞、俺たちは離婚なんてできない。俺たちは利益を共有するパートナーなんだ。このことは、お前だってよくわかってるはずだろう」

そう、彼女はよくわかっていた。

しかし今、彼女はそれに従いたくない。

舞が何も答えないことに、京介は苛立ちを覚えた。彼は立ち上がり、バスローブを手に取って客室に向かおうとする。今夜は少し頭を冷やせばいい。明日の朝になれば、また「周防夫人」でいることの心地よさを思い出すはずだ。栄光グループで二番目の権力者である、その感覚を。

京介は冷たく笑った。舞はいつだってこうだ。

だがその背後から、ふと微かな声が聞こえた。まるで四年前の、あの青く、儚かった舞のような声だった。「京介……きれいに別れましょう。私は本当にあなたと一緒にいたくない」

京介の体がぴたりと止まり、わずかに強張った。

長い沈黙のあと、彼はゆっくりとベッドの傍に戻ってきた。その声は、これまでになく静かだった。「舞……俺と結婚したときには、周防家に愛なんてないって、わかってたはずだ。俺にはないし、お前もそれを望むべきじゃない……そんなものを望んだら、苦しくなるだけだ」

彼は手を振った。

舞が手渡した離婚協議書の束が、まるで雪のように宙を舞い、床いっぱいに散らばった。

……

朝の八時。

京介はクラシックな白黒のスーツを纏い、ゆったりと階段を降りてきた。仕立ての良いスーツは彼の長身によく映え、その姿はまさに洗練された美しさを纏っていた。

気分は悪くなかった。だが、ダイニングのテーブルが空っぽなのを目にした瞬間、胸の中に冷たい風が吹いたように、気分がしぼんでいく。

彼はコーヒーカップを取り上げ、一口すすると、さりげない調子で近くにいた使用人に声をかけた。「……奥様は?」

昨夜の激しい口論は、屋敷中の者たちに知れ渡っていた。使用人は気まずそうに、慎重な声で答える。「奥様は今朝早く、おひとりで会社へ向かわれました」

その答えを聞いた瞬間、京介は手にしていたカップをテーブルの上に音を立てて置いた。

彼は朝食を食べる気を失った。

30分後、彼は車で栄光グループに到着し、秘書の中川(なかがわ)はすでに駐車場で待っていた。

黒いベントレーが止まり、中川はドアを開け、京介に今日の会議の内容を報告した。京介は歩きながらスーツのボタンを留めていく。何気ないその仕草ひとつひとつが堂に入っており、通り過ぎる女性社員たちが思わず目で追うほどだった。

二人は専用エレベーターに乗り込む。

中川は話を切り上げるように声を潜めて言った。「メディアプロジェクトに、副社長が突然ご自身の部下を割り込ませました」

京介は黙って、上昇していくエレベーターの赤い数字を見上げる。

しばらくして、彼は嗤笑いを漏らした。「彼女も腕を上げたな」

……

会議中、京介と舞は衝突した。

彼らは夫婦であり、舞がビジネスの場で見せる手腕も、元をたどれば京介が手取り足取り教え込んだものだった。そんな二人が今や激しく対立している様子は、まさに見ものだった。栄光グループの中堅から上層にいたる社員たちは、思わず息を呑んでその光景を見つめていた。

会議が終わった時、すでに夕暮れ近くだった。

舞はオフィスに戻り、体を本革のソファに投げ出し、眉間を軽く揉んだ。

頭が鈍く痛み、不快感がじわじわと広がっていく。彼女は髪をほどき、そのまま無造作に垂らした。

そのとき、彩香が一杯の白湯を持ってきて、コーヒーテーブルの上にそっと置いた。「京介様の私人弁護士からお電話がありました。一階のカフェでお会いしたいとのことですが……いかがなさいますか?」

舞は軽く眉を上げた。「……上原九郎(うえはら くろう)?」

上原九郎、国内で屈指の大弁護士。

彼が率いる「上原法律事務所」は、業界のトップに君臨している。だが彼のもう一つの顔は、京介の「影の手」。京介が表に出るには都合の悪いことを、彼が代わって処理するのだ。

彼らの友情は深く、利益は根深い。

誇張抜きに言えば、京介は舞と離婚することはあっても、九郎と絶縁することだけは絶対にない。

今回、京介が彼を動かしたということは――おそらく、離婚の話が外に漏れるのを避けたいのだろう。

舞は少し考えたのち、やはり会うことに同意した。

10分後、彼女は専用エレベーターで1階のカフェにやってきた。

九郎は窓際の席に座っていた。

英国風の三つ揃いのスーツが、堂々とした体躯を包み込み、彼の立体的で整った顔立ちには、習慣的に厳しさが漂っていた。

舞の足音に気づき、九郎はふと視線を向けた。

普段は感情を表に出さない彼の黒い瞳に、一抹の驚きが浮かんだ。

彼は、舞のこんな姿を見るのは初めてだった。

記憶の中の舞は、常に高級なスーツを身にまとい、隙のない立ち振る舞いで京介の隣に立ち、彼と共にビジネスの修羅場を切り抜けてきた。だがその世界の内情を知る者なら皆が知っていた。京介は舞を愛していない。彼の心は、別の誰かに向いているということを。

今日の舞はとても違っていた。

彼女は快適な薄手のニットに着替え、少しだけ体にフィットし、黒くて艶やかなストレートヘアは少しカールして肩に散らばり、髪の毛はとても柔らかそうに見えた……

九郎がふと見惚れている間に、舞は彼の正面に腰を下ろし、感情を抑えた静かな声で言った。「京介が、あなたに話をさせに来たの?」

九郎はわずかに瞬きをしてから、すぐにいつもの冷静な面持ちに戻った。

そして、公事用のブリーフケースから一枚の書類を取り出し、そっと舞の前へ滑らせる。「この婚前契約書によれば……もし奥様が本気で離婚を望まれるのであれば、得られるものはほとんどないかと」

舞は書類を受け取り、丁寧にページをめくっていった。

書類の最後のページをめくると、彼女は少し驚いた——

4年前、京介は一手を打っていた。

しばらく黙ったまま書類を見つめていた彼女は、やがて静かに口を開いた。「たとえ何も得られなくても、私は離婚する。九郎、もう私のこと、奥様なんて呼ばないで。舞って呼んで」

数々の著名人の離婚案件を手がけてきた九郎の心は、もはや鉄のように冷たく、動じることはなかった。

彼はコーヒーカップを手に取り、一口啜ると、感情のこもらぬ口調で言った。「なぜ今になって急に離婚したいと思った?あれだけ京介を愛していたじゃないか。浮気くらい、この世界じゃ珍しくもない」

舞は顔をそらし、苦笑を浮かべた。

世界中の誰もが、舞が京介を愛していることを知っていた。京介本人だけを除いて。いや――もしかすると彼も気づいていたのかもしれない。ただ、気にしていなかっただけだ。

そのときの舞は、どこか儚げで脆く、美しかった。九郎の目には、それが愛果よりもはるかに男の所有欲をかき立てる魅力に映っていた。

彼がそんな思いを胸の奥で巡らせていたとき、カフェの扉が開いた。スーツ姿の長身の男が、まっすぐこちらへ歩いてくる。

他の誰でもない、京介だった。

店に入ってきた京介の視線は、すぐに九郎に向けられた。九郎は今まさに、舞を見つめ、何かを思い巡らせている。

突然、京介の心に何か不快な感情が湧き上がった……

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 私が去った後のクズ男の末路   第1510話

    藤井先生は、ぽかんと口を開けたまま固まっていた。それでも心のどこかでは、まだ信じられない。黛衣が勤めている栄光グループは、時価総額が何兆円にもなる巨大企業だ。そのトップが――黛衣と結婚する?ということは、氷室校長の家は一気にとんでもないことになるということではないか。藤井先生は、思慕から渡された贈答品の箱に目を落とした。どう見ても高級品だ。1箱だけで十数万円はするだろう。普通の家庭なら、そう簡単に買えるものではない。受け取る手がわずかに震えた。その頃には、思慕はすでに黛衣の両親の前まで歩いていた。態度は驚くほど丁寧だった。「朝早くから待っていただいて、すみません。今日は大安だから、午前中のうちにご挨拶に伺ったほうがいい、と言われていたんです。二人とも黛衣のことをとても気に入っています」黛衣の父は、しばらくしてようやく声を取り戻した。「そうですか……それは、よかった」普段あれほど厳格な人なのに、完全に調子を崩している。娘に恋人ができたとは聞いていた。だから、親として少しくらい釘を刺しておこうとも思っていた。まさか連れて帰ってきた相手が、こんな大物だとは夢にも思わなかった。――困ったな。家があまりにも普通すぎる。思慕は一度振り返り、後ろからついてきたアシスタントに声をかけた。「車は先に38号棟の前へ回しておいて。俺は叔父さんたちと歩いて戻る」「承知しました」黛衣の父は、改めて4台の黒い高級車を見た。鏡のように磨き上げられた車体が、冬の日差しを受けて光っている。思わずごくりと唾を呑み込んだ。人生を通して冷静で厳格だった男が、本気で圧倒されていた。一方、藤井先生は高級な贈答品を抱えたまま、しばらく呆然としていた。そして我に返ると、すぐに学校関係者のグループチャットを開いた。【氷室校長の娘さん、恋人できたって】【誰だと思う?】【栄光グループの社長】【もう本当にびっくりした。あのお婿さん、ものすごく格好いいの。全身きらきらして見えるくらい。話し始めたら周りが全部霞んで、その人しか目に入らないのよ。黛衣ちゃん、あんな人と毎日一緒に暮らしてるなんて、毎日不老長寿の果実でも食べてるようなものじゃない?滋養たっぷりよ】グループチャットは、一瞬で大騒

  • 私が去った後のクズ男の末路   第1509話

    黛衣の母は眉をひそめた。「いくら交通が便利になったって、こんなに早く着く?いったい何時に起きて新幹線に乗ったのよ。大変だったでしょうに。その周防さんって、黛衣の同僚なのかしら。なんとなくエンジニアっぽいのよね。時間に追われて、いつも仕事ばっかりしてそうな感じ。まあ、人柄さえよければいいわ。あなた、あとで絶対に細かいこと言わないでよ。相手を怖がらせたらだめだからね。黛衣ももう30よ。やっと家に連れてくる相手ができたんだから。あなた知らないでしょうけど、職場の人たちなんて最近、再婚の人まで紹介してくるのよ。私はその周防さんがどんな人でも、少なくともそういう相手よりはいいと思う」父は小さくため息をついた。「向こうも32だそうだ」どれほど条件がよくても、たかが知れているだろう。普通の家のまともな男なら、32まで独身でいるものだろうか。そう思うと、父としても高望みなどできなかった。そのときだった。数台の黒い高級車が、前後に連なってこちらへ近づいてきた。フロントに輝いているのは、ロールス・ロイスのエンブレム。J市ではほとんど見かけることがない車だ。黛衣の両親も、テレビでしか見たことがない。それが今、4台も続けてこちらへ向かってくるものだから、その異様な存在感に思わず目を奪われた。この住宅街は、学校関係者向けに整備された職員住宅だった。住んでいるのは、ほとんどが同じ教育関係者だ。ちょうど通りかかった顔見知りが、黛衣の両親を見つけて声をかけてきた。「黛衣ちゃん、三連休には帰ってくるの?この前紹介した人、どう?考えてくれた?再婚ではあるけど、資産は2億円近くあるのよ。J市じゃ、あんな条件の人そうそういないわよ。ちゃんと考えたほうがいいって。黛衣ちゃんも、あんないい子なのに30まで独身なんてもったいない。女の人は30を過ぎると、どうしても条件が厳しくなるでしょう?白井さんくらいが、もう十分いいところだと思うわ」黛衣の母は、腹が立ちすぎて頬が引きつりそうになった。それでもどうにか笑顔を保つ。「藤井先生、ご心配ありがとうございます。でも、うちの黛衣にはもう恋人がいるんです。同じ会社の人で、都会で働いていて。今日もこれから一緒に来るんですよ」すると藤井先生は笑った。「都会で働いてるって言っても

  • 私が去った後のクズ男の末路   第1508話

    黛衣の前に影が落ちた。顔を上げると、そこに思慕が立っていた。黛衣はそのまま、じっと彼を見つめる。どこから聞かれていたのかは分からない。けれど思慕は何事もなかったように、雅乃に声をかけた。「黛衣に付き合ってくれてありがとう」雅乃は軽く鼻を鳴らす。「はいはい。今は二人きりでいたいんでしょ。帰ればいいんでしょ?」思慕はすっと身体を横にずらし、出口を空けた。「察しがよくて助かる」雅乃が帰ったあとも、黛衣の瞳はきらきらと輝いていた。彼女は相変わらずソファにもたれたまま、柔らかな声で思慕に尋ねる。「思慕、雅乃とは昔から知り合いで、今も一緒に住んでるんでしょ?今まで付き合ってみようと思ったこと、一度もなかったの?」本当に、ただの好奇心だった。思慕は彼女のそばまで歩いてくると、さっきまで雅乃が座っていた場所に腰を下ろした。長い脚を伸ばし、片腕もゆったりとソファに預けながら、呆れたような、おかしいような顔で黛衣を見る。「同じマンションに住んでるだけだろ。何だよ、『一緒に住んでる』って」そう言って、小さく笑った。「知り合いとしては古すぎるんだよ。子どもの頃から知ってる。あいつの親父が映画監督で、昔から俺の叔父の朝倉寒真と仕事で付き合いがあってさ。小さい頃から雅乃を連れて、しょっちゅううちに来てたんだ。あいつ、昔は男の子みたいだったぞ。スクリーンで見る姿とは全然違う。だから最初から、そういう対象として見たことがない」黛衣は素直に頷いた。なるほど。だから二人はあれほど親しいのに、どこか会えば憎まれ口ばかり叩いているような関係なのだ。思慕は今度、一日中ほとんど仕事らしい仕事をしていない元・氷室秘書を眺めた。付き合い始めてから、彼は黛衣の仕事をほぼすべて外していた。そもそも栄光グループでは社内恋愛を原則として認めていない。社長である思慕だけが例外というわけにもいかなかった。幸い、黛衣自身も仕事への執着はそれほど強くない。昔からどこかマイペースで、出世欲も薄かった。そうでなければ、あれだけの学歴と能力がありながら、ずっと機密業務を扱う秘書の立場に留まっているはずもない。そういえば、二人は同じ大学の出身だ。学生時代の黛衣も、それなりに有名だった。確か、かなり多くの男に言い寄られていた

  • 私が去った後のクズ男の末路   第1507話

    思慕は、背後からふいに抱きつかれた。振り返ってみれば、そこにいるのは黛衣だった。その表情を見れば、彼女が何を望んでいるのか分からないはずもない。思慕は腕時計に目を落とし、感情を押し隠したまま低い声で尋ねた。「黛衣……本当にいいんだな?」黛衣は答える代わりに、彼の腰に回した腕に少しだけ力を込めた。朝の思慕からは、清潔で心地よい香りがする。身体も綺麗だった。しっかりした骨格を覆うのは、長年鍛えてきた薄い筋肉。そのどこに触れても温かい。そもそも二人は、ずっと互いを求めていたのだ。ただ、10年という時間を無駄にしてしまっただけ。いったん想いが通じてしまえば、長いあいだ押し込めていたものが一気に溢れ出す。欲しいと思うのは、男だけではない。黛衣だって、思慕が欲しかった。彼女は柔らかく彼に寄り添い、甘えるように離れようとしない。本当は先に朝食を作り終えるつもりだった。けれど、さすがの思慕にも無理だった。30年以上ほとんど女っ気のない生活を送ってきた男が、好きな女性からこんなふうに求められて、平然としていられるはずがない。思慕は火を止めると、黛衣を抱き上げ、そのまま寝室へ戻った。ベッドの端にそっと下ろし、深く唇を重ねる。経験と呼べるものは10年前の一度きりだったが、こういうことは相手を好きで、感覚の鋭い男なら自然と覚えていくものらしい。やがて黛衣は堪えきれず、涙声で彼の名を呼んだ。思慕はそのたびに宥めるように抱きしめながら、それでも彼女を離そうとはしなかった。――どうしようもないほど、夢中になった。気づけば、とっくに出勤時間を過ぎていた。すべてが落ち着いた頃には、もう午前10時近かった。3時間近く、二人きりで過ごしていたことになる。それでも思慕にはまだ名残惜しさがあったが、黛衣はもうすっかり疲れ果てていた。枕に伏せたまま片手で彼を押し返し、これ以上近づかないで、と無言で訴える。本当なら、思慕も一日中そばにいるつもりだった。けれど午後には、どうしても外せない重要な会議がある。それでもぎりぎりまで黛衣に付き添い、午後になってようやく家を出た。その頃、栄光グループ社内では――すでに大騒ぎになっていた。噂は朝から社内中を駆け巡っている。何しろ、その噂の当事者二

  • 私が去った後のクズ男の末路   第1506話

    黛衣の予想に反して、思慕の料理はかなりの腕前だった。気取った料理ではなく、どれも家庭的で、食欲をそそる香りがする。まさか牛肉と野菜のピリ辛炒めまで作れるとは思わなかった。香ばしくて、辛さもしっかりあり、味付けも絶妙だ。それに川魚と筍の煮物も、素材の旨味がよく出ていて驚くほど美味しい。気づけば黛衣は、ご飯を2膳も平らげていた。――最悪。食べ終わってから猛烈に後悔した。ぽっこり膨らんだお腹を撫でながら、2膳も食べたら絶対太る、と本気で落ち込む。その代わり、せめてもの埋め合わせにと黛衣は進んで食器を洗った。思慕もそれを止めはしなかった。ただ、彼女が片づけを終えると、自分からゴミをまとめて捨てに行った。一緒に暮らし始めた初日だというのに、二人は意外なほど夫婦らしい生活をしていた。1階までゴミを捨てに下りた思慕は、戻る途中で同じマンションに住むトップ女優と鉢合わせた。彼女は思慕の手元を見て、まるで幽霊でも見たような顔をした。――見間違いじゃないよね?たった今、栄光グループの社長が自分でゴミを捨てていた。まさか栄光グループ、経営破綻でもした?家事代行を頼むお金までなくなったとか?女優は思慕とは以前から面識があった。かつてグループ傘下の商品で広告モデルを務めたことがあり、今では同じマンションの住人でもある。彼女は思慕のところまで歩み寄ると、腕を組んでからかった。「周防社長、私の見間違いじゃないですよね?栄光グループ、最近そんなに経営が厳しいんですか?社長自らゴミ出しなんて。何かお手伝いしましょうか?」思慕は彼女を一瞥し、わざとらしく軽く咳払いした。「まあ、これから大金がかかるのは確かだな」「え?」「最近、恋人ができたんだ。俺たちももう30過ぎだろ。この年になると、相手を見つけるだけでも大変なんだよ。せっかく捕まえたんだから、大事にしないとな。正式に挨拶にも行かなきゃならないし、結婚するなら家も用意する。ジュエリーだって買って妻の機嫌を取らなきゃいけない。何をするにも金がかかるんだから、節約できるところは節約しないと」そこで思慕は爽やかに笑った。「松宮雅乃(まつみや まさの)、お前も頑張れよ」言いたいことだけ言うと、思慕は悠然とその場を去っていった。残された雅乃は

  • 私が去った後のクズ男の末路   第1505話

    さっきの会計金額が頭から離れず、黛衣はせめて夕食くらいは自分が作ろうと、妙に張り切っていた。このあとブランドのスタッフが服を届けに来るため、思慕は家で待つことになり、黛衣は財布を手にマンション近くのスーパーへ向かった。彼女が出ていくと、思慕はすぐに家事代行のスタッフへ連絡し、しばらく普段の訪問は必要ないと伝えた。週2回、決まった日に掃除に来てもらうだけでいい。せっかくなのだから、黛衣と二人きりで暮らしたかった。10分後。黛衣はショッピングカートを押しながら店内を歩き、しばらくしてようやく気づいた。――ここ、輸入食品専門の高級スーパーなんだ。値段も普通ではない。体感では一般的なスーパーの5倍くらいする。1パック6千円ほどもする牛肉を手に取り、黛衣は胸を痛めた。高い。あまりにも高い。けれど、自分の口座には今日だけで2億円近いお金が増えている。それから思慕が午後に使った40億円超の金額を思い出し、さらに彼の舌がかなり肥えていることまで考えると――黛衣は覚悟を決めた。買おう。どうせなら、一番いいものを食べさせてあげよう。――思慕は、実に妻選びの目がある。黛衣はさらに肉や野菜、果物、牛乳などをカートに入れていった。会計は全部で10万円を少し超えた。ただ、この店はサービスも行き届いている。スタッフが購入品を駐車場まで運び、そのまま車のトランクに積み込んでくれた。黒いベントレーのナンバーを見たスタッフが、ふと笑顔で尋ねる。「周防社長の恋人の方ですか?このナンバー、覚えているんです」「え?」そんなことまで覚えているの?黛衣は少し照れながら、小さな声で答えた。「……はい」若いスタッフはにこやかに会釈し、彼女を見送った。運転席に乗り込んだ黛衣は、ハンドルにそっと手を置いた。いつも思慕が握っている場所。そこにまだ彼の温もりが残っているような気がした。――思慕と一緒にいるのも、案外悪くないのかもしれない。ここは、今まで自分が触れたことのない世界だった。富や名声の世界には、冷酷さや残酷さしかないと思っていた。けれど、本当はそれだけではない。人から敬意をもって接してもらえることもあれば、心地よいサービスを受けることもある。そして自分もまた、相手に笑顔を返せばい

  • 私が去った後のクズ男の末路   第391話

    輝が英国へ発ってから、もう一ヶ月が経っていた。年の瀬が迫っても、帰国の知らせはない。瑠璃は迷いながらも、何度か電話をかけてみた。だが繋がらず、代わりに会合の席で秘書の白川と顔を合わせた。「帰ってくるのは……年明け半ば頃ですね」あと半月——細かく詮索するのも気が引けて、瑠璃は軽く世間話をしてその場を離れた。会所の廊下は明るく、煌びやかな光に包まれていた。背後で、白川がふっとため息を洩らしたのに、瑠璃は気づかなかった。……個室に戻ると、場の空気はちょうど良く温まっており、岸本が二人の投資家を上手くもてなしてくれていた。酒はすべて岸本が引き受けている。「いやぁ

  • 私が去った後のクズ男の末路   第1097話

    結局のところ、翠乃は男に折れた。車は朝倉家の本邸へと入る。翠乃が身にまとっているのは、寒笙がいつも着ているアンゴラレッドのセーター。下のパンツも彼のものだった。毛皮を除けば、全身が寒笙の服である。父の晴臣が自ら魚を提げて出迎えた。翠乃の格好を見るなり、顔を真っ赤にして息子を叱る。「家がそんなに貧乏か?翠乃に服一着買う金も出せんのか」彼は懐から一枚のカードを取り出し、翠乃に差し出した。「イギリスでちゃんと揃えなさい。母さんと時間を作って様子を見に行く。こんな馬鹿の言うことは聞くな、絶対に甘やかすなよ」寒笙は上品に微笑んだ。「全部、僕が翠乃に譲ってるだけだ」

  • 私が去った後のクズ男の末路   第1090話

    本当に、ほんのひとときだった。それで、終わった。終わったあと、寒笙は頭を翠乃の薄い肩に預け、すぐに離れようとはしなかった。彼女の腰を抱いたまま、ひと月ぶりの温もりを惜しむように味わっている。こうして抱き合いながら、他愛もない話をする。イギリスの天気のこと、久石先生の手強さのこと――話しているうちに、彼はふっと笑った。やがて、翠乃も少しずつ口を開く。愛樹と愛夕の成績の話、最近また寒真のところで食事をしたこと、寒真が新しい料理を覚えたこと。寒笙は彼女の頬を撫で、低い声で言った。「イギリスのアパートはキッチンが広い。よかったら、時々俺が行って料理する。最近は腕も悪

  • 私が去った後のクズ男の末路   第1055話

    寒笙は今も大学で教鞭を執っている。准教授だ。外目には穏やかで知的だが、願乃に言わせれば、清貧ぶりが行き過ぎて、何ひとつ得にならない男だ。だが、朝倉家の御曹司であることに変わりはない。彼は一枚の小切手を願乃に渡し、洗練された仕草で言った。「翠乃と少し、プライベートな話をさせてもらえないか?」願乃はニコニコして答えた。「H市の男のこういうスマートなところ、好きよ」寒笙は夕梨にも視線を向け、合図を送った。「義姉さん」夕梨は義姉としての威厳を見せ、真剣な顔で言った。「翠乃さんを困らせないでね。公の場で恥をかくようなことは許さないわよ」「いつからうちの母親

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status