Share

私が去った後のクズ男の末路
私が去った後のクズ男の末路
Author: 風羽

第1話

Author: 風羽
結婚して四年、まだ「七年目の浮気」なんて言葉さえ縁のない頃、周防京介(すおう きょうすけ)はすでに外に愛人を囲っていた。

立都郊外の高級別荘の門前。

周防 舞(すおう まい)(旧姓:葉山)は高級車の後部座席に座り、静かに夫が女性と密会するのを見つめていた。

あの女性はまだ若く、白いワンピースに身を包み、清らかで人目を引くような美しさがあった。

二人は手を繋ぎ、まるで深く愛し合っている恋人のようだった。京介の顔には、舞が一度も見たことのない優しさが浮かんでいた。

少女は小さな顔を上げ、甘えるように声を上げた。「足、痛い……京介、抱っこして?」

舞は思った。京介が応じるはずがないと。彼は感情を表に出さないことで有名な男で、気難しく、どれだけ新しい相手を可愛がっていたとしても、そんな甘ったるい要求に応えるような人ではない、と。

だが次の瞬間、舞の予想は無惨に打ち砕かれた。

夫は女の子の小さな鼻先をそっとつつき、その仕草には抑えたような優しさがあった。そして腰に手を回し、彼女を軽々と抱き上げる。まるで壊れ物を扱うかのように丁寧に、大切そうに。

女の子の白く細い手は自然と男のたくましい首筋へと伸び、黒く艶やかな髪を撫でていた。

京介のその首筋には赤い痣がある。見た目はどこか艶っぽく、触れると敏感な場所だった。かつて、舞がベッドの中でうっかりそこに触れたとき。京介は彼女の細い腕を押さえつけ、恐ろしいほど激しくなった……

そして今、京介はもはや抑えきれず、女の子の身体をあずまやの太い柱に押しつけた。その目は輝いていた。

舞はそっと目を閉じた。もう、これ以上見ていたくなかった……

舞は、京介がこんなふうに誰かを想い、狂おしくなる姿を今まで一度も見たことがなかった。

なら、自分は何だったのだろう?

結婚前、自ら追いかけてきたのは他でもない、京介の方だった。「舞、お前は俺の権力の場で最も適したパートナーだ」

そのたったひと言に、舞は愛してやまなかった芸術の道を捨て、何のためらいもなく周防家に嫁ぎ、名声と利益の渦巻く世界へ飛び込んだ。まるで炎に惹かれて飛び込む蛾のように、恋に焼かれるように。

そして四年の歳月が過ぎ、京介は一族の実権を手にした。

舞は、あってもなくてもいい存在、切り捨てられる駒に成り下がった。彼は舞が堅すぎる、女らしさに欠けると嫌がり、外で女を囲い、愛人遊びにふけるようになった。

舞、あなたは本当に甘かった。滑稽なほどに。

……

目を再び開いたとき、舞の瞳には、もはや愛も、憎しみも残っていなかった。

感情が消えた今、残るのは金の話だけだ。

京介が愛人と密会しているこの別荘、実は、夫婦の共有財産だった。

舞はこの不倫カップルに得をさせる気にはなれなかった。前の席に座る秘書・安田彩香(やすだ あやか)に、小さな声で尋ねた。「この三ヶ月、京介はずっと彼女と一緒だったの?」

彩香は素早く答えた。「その女の名前は白石愛果(しらいし まなか)です。京介様の幼馴染みですが、あまり賢い子ではありません。三ヶ月前、京介様が周囲の反対を押し切って彼女を会社に入れてから、ずっと大事に守ってきました」

一束の資料が舞の前に届けられた。

舞は資料をぱらぱらとめくりながら、ふと思った。自分は、彼らを許すことができるかもしれない。

もちろん条件付きだ。京介がきちんと夫婦共有財産を分けてくれるなら、舞はその金と株を受け取って、きっぱりとこの関係に幕を下ろすつもりだった。

車の外では、秋の葉が黄金色に輝いていた。

夕日が少しの金色を添え、まばゆく輝いていた。

舞は気持ちを整え、京介に電話をかけた。数回の呼び出し音のあと、ようやく彼が出た。おそらく、愛人との甘い時間を過ごしていたのだろう。その声は相変わらず、上から目線で冷ややかだった。「何か用か?」

舞はまつげを伏せ、静かに問いかけた。「今日、私の誕生日なの。家で一緒に夕食、どう?」

電話の向こうで、京介はしばらく黙っていた。

男というものは、帰りたくない時にはいくらでも理由を見つけるものだ。たとえば「外せない接待がある」だの、そんなありふれた言い訳を。

けれどその時、舞の耳に、あの女の甘えた声がはっきりと届いた。「京介、まだ終わらないの?彼女と話すなんて許さない……」

京介は一瞬言葉に詰まった。少しの間を置いて、彼は気まずそうに淡々と口を開いた。「他に用がないなら、切るぞ」

ツーツ……通話終了の音が舞の耳に響いた。

それが京介のやり方だった。いつだって迷いはない。情を引きずることもない。

彩香が怒りをあらわにした。「京介様、あんまりです!忘れてしまったのですか……」

しかし、舞は気にしなかった。

むしろ内心では、こう思っていた。ごめんなさいね、京介様。甘い恋愛と可愛い女の子に夢中なところ、お邪魔しちゃって。しかしどうしよう、彼女は法律上の周防夫人として、機嫌を損ねた。

舞はふっと微笑んだ。「忘れたんじゃない。気にも留めてないだけよ。彩香、この別荘の水道と電気、それからガスも全部止めてちょうだい。そうすれば、あの男も帰る場所を思い出すでしょう」

彩香は思わず感嘆の声を漏らした。「本当に見事なやり方ですわ」

けれど舞は何も答えなかった。顔を横に向け、静かに車窓の外へと視線を向ける。

落日が金色に輝き、夕雲が壁のように重なる。

あの年の、あの夕暮れも、こんなふうに空が赤く染まっていた。そのとき舞は京介に訊いたのだ。二人の夫婦の契約って、一生のものなの?京介と舞は、絶対に裏切り合わないの?

京介は頷き、はっきりと言った。「舞は俺にとって、何よりも大切な存在だ」

けれど、今の彼は違った。彼の言動が、舞にこう思わせた。もう、金さえあればいいのだと。

一滴の涙が、舞の目尻を伝って落ちた……

……

舞はロイヤルガーデンの別荘へ戻った。

半時間後、秘書が離婚協議書を持ってきた。

舞が求めるのは、財産の半分。

彼女はシャワーを浴びたあと、すでに服は身に着けていたはずだった。けれど、なぜか吸い寄せられるようにドレッサーの前に立ち、真っ白なバスローブを脱ぎ捨てた。水晶のシャンデリアの明かりの下、鏡に映る自分の体を静かに見つめる。

長年、働き詰めの身体はふくよかさに欠けていたが、それでも白く透き通るような肌が、どこか冷ややかな気品を保っていた。

だが、明らかだった。舞の身体は、男を惹きつけるには足りなかった。そうでなければ、京介がわざわざほかの人へ愛を求めるはずがない。

舞はあの若い女の子を思い浮かべた。脳裏には、京介があの若々しい身体と絡み合い、汗だくになりながら激しく愛し合う姿がよぎる。きっと、自分と交わるときよりも、ずっと熱く燃え上がっているのだろう。

舞はふと眉を寄せ、自分の中でそんな比較をしてしまったことに恥じた。

そのとき。クローゼットの扉が、静かに押し開けられた。

京介が帰ってきたのだった。

彼はクローゼットの入口に立っていた。

高級ブランドの黒いシャツにスラックス、その洗練された装いが、すらりとした体を際立たせている。明るい照明の下、上品で立体的な顔立ちは、大人の男だけが持つ魅力に満ちていた。

舞は思わず考えてしまう。この男、たとえ兆を超える資産がなかったとしても、この外見ひとつで、いくらでも女は寄ってくる。

四年も彼と共に眠った自分は、ある意味、損はしていないのかもしれない。

二人の視線がふと交わった。何も言わずとも、互いに心の奥を読み取っていた。

京介はゆっくりと歩を進め、舞の背後に立つ。そして、ふたりは並んで鏡の中の姿を見つめた。舞はすでに衣服を整えていた。滝のような黒髪はきちんとまとめられ、湯上がりとは思えぬほど、隙のないキャリアウーマンの風情を保っていた。

京介は、よく覚えている。あの新婚の夜。彼女はまだどこかか弱く、

男の体を前にして、身を小さく震わせていた。

新婚の夜、彼らは何も起こらなかった。そして半月後、仕事上のトラブルが起きたあの夜。舞は京介の胸に身を縮め、震える声で彼の名を呼んだ。京介は彼女をしっかりと抱きしめ、その晩、ふたりはようやく「本当の夫婦」になった。

彼らの夫婦の営みは、本当に数えるほどしかなかった。

家では舞は尊い奥様。栄光グループでは権力を握る社長。どこにいても彼女は完璧で、冷たく、隙を見せない女だった。

ベッドの上ですら、京介ははっきりと言い切れる。舞は一度たりとも心を開き、本当の意味で快楽を受け入れたことがなかった。

時が経つにつれ、京介の心には、次第に虚しさが広がっていった。

そんな彼が、からかうように舞へと歩み寄り、言葉を投げた。「別荘の水道と電気、止めたのはお前だろう?ただの親戚の娘にちょっと世話を焼いただけで、不機嫌になるなんてな」

舞は鏡の中で彼と目を合わせた——

京介は計算した。この数日、舞は排卵期のはずだった。

彼はそっと手を伸ばし、舞の耳たぶを撫でながら、顔を近づけて低く囁いた。「誕生日だから?それとも、生理的な欲求のせいか?奥様、まだ二十六だってのに、随分と強いじゃないか」

口にする言葉は下品だったが、舞にはわかっていた。京介が何を望んでいるのかを。

彼は子供を欲しがっている。

周防家のオヤジは今も栄光グループの株を10%握っている。京介は子供を手に入れ、その存在を交渉の切り札にしたかったのだ。

しかし、京介は知らなかった。彼らには子供ができる可能性は低いのだ。あの事件の時、舞が彼を突き飛ばして外へ出たその直後、何者かに腹を強く蹴られた。それ以来、彼女の妊娠の可能性は限りなく低くなっていた。

舞はそっと目を閉じ、胸の奥に広がる悲しみを押し隠した。

だが、京介は珍しくその気になっていた。

彼は舞の身体をあっさりと抱き上げ、主寝室の柔らかな大きなベッドへと横たえた。そのまま、彼の身体が覆いかぶさってくる。

舞はどうして承諾するだろうか?

舞は京介の胸を押さえ、黒い髪が白い枕の横に半分広がり、浴衣が少し緩んでいた。「京介!」

けれど京介は舞の顔をじっと見つめたまま、まるで魔法にかけられたように顔を寄せてきた。唇が重なり、その体は今にも抑えきれぬ衝動の矢を放たんとしていた……

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 私が去った後のクズ男の末路   第100話

    彼は薄暗い拘置所を出た。胸がチクチクと痛み、一角には深紅の影が立っていた。——瑠璃だった。祖父はすでに手を回していた。彼は彼女の前に歩み寄り、低くしゃがれた声で言った。「お前のおかげで周防家は救われた。あの電話がなかったら、舞は命を落としていたし、周防家の名誉も地に堕ちていただろう」傍らで、礼が不動産登記証を差し出す。祖父はそれを手に取り、言葉を選びながら口を開いた。「輝が牢に入るのはもう避けられん。お前が今後どうするかは自分で決めるといい。ただ、輝の親族として、これが俺の気持ちだ」祖父は立都市の高級マンションを丸ごと一戸、資産価値は数十億円相当の部屋を贈った。瑠璃は首を横に振り、涙を滲ませながら言った。「私は心から輝のことが好きなんです。彼が出てくるまで待つつもりです」祖父はしばらく沈黙し、やがてかすれ声で言った。「あのバカ野郎は、お前がそこまで尽くすほどの男じゃない」けれど、感情というものは理屈ではどうにもならない。祖父はせめてもの償いとして、無理にでもそのマンションを瑠璃名義にした。それがせめての保証だった。……静まり返った病室。京介はベッド脇の一人掛けソファに座っていた。前かがみに膝に肘を乗せ、指を組んで顎に当てる。シャワーを浴び、清潔なシャツに着替えていた。体にぴったりと合う仕立ての良いシャツは、彼の体型の良さを引き立てていた。彼は舞の顔を見つめていた。目を覚ますその瞬間を見逃すまいと、息を詰めて。誰もが、彼に「舞を放してやれ」と言っていた。だが、京介は諦めきれなかった。あのとき、輝が本気でやるとは思っていなかった。舞の命を軽く見ていたわけではない。ただ、こんな結果になるとは、誰よりも彼自身が受け止めきれなかった。ふと、舞がうわごとのように声を漏らした。京介はすぐさま身を乗り出し、彼女の腕を取った。舞は彼の腕をぎゅっと握りしめたまま、何度も夢の中で言い続けた。「京介、朝になったら助けに来てくれる?」「京介、朝になったら……」……その言葉を何度も繰り返しながら、悪夢の中にいた。京介の胸は張り裂けそうだった。彼はそっと妻の白い頬を撫でて抱き寄せ、低く、優しい声で囁いた。「舞、俺は戻ってきたよ。京介が戻ってきた」舞はゆっくりと目を開けた。まだ涙がその瞳に残っていた。彼

  • 私が去った後のクズ男の末路   第99話

    立都市第一病院。夜が明ける前、舞は清潔な病室のベッドに静かに横たわっていた。意識はまだ戻らず、顔や身体には無数の擦り傷があり、腰のあたりには大きな青あざが広がっていた。幸い、内臓に深刻な損傷はなかった。医師はそれを「奇跡」だと口にした。京介は必要なことをすべて手配し終えると、ベッドのそばで舞の目覚めをじっと待ち続けた。周防祖父が杖をついて病室に入ってきた。京介の姿を見て冷笑しながら言った。「そんな感傷に浸った顔をしても、誰も見ていないぞ!外へ出ろ」京介は舞の顔を見つめ、静かに表情を整えると、彼らのあとに続いた。外へ出ると、祖父は期待をかけていた孫を厳しい目で見つめて言った。「京介、栄光グループの社長として契約を放棄すれば、何千人も失業する。お前の判断は間違ってはいない。だが京介、お前は栄光グループの社長である前に、舞の夫なのだ。輝がそんな愚行に出るとは思わなかったのも理解できる。しかし、想定外の事故は常に起きるものだ。本当に彼女を愛しているのなら、一瞬もためらわず、少しのリスクさえ冒すべきではなかったはずだ」「逆の立場だったら、舞は迷わずお前を選んでいたはずだ」「よく考えろ。本当に愛していないのなら、彼女を引き留めるな」……祖父はこれまで二人の縁を結ぼうとしていた。それでも今、こんな言葉を投げかけるのは、心底失望しているからだった。京介は何も言わず、黙ったままだった。礼は息子の胸中を察して肩に手を置き、「ちゃんと面倒を見ろ。目が覚めたら、ちゃんと説明するんだ」と言った。京介は丁寧に頷いた。礼は祖父に付き添って階下へと向かった。その頃、東の空には魚の腹のように白く霞んだ光が差し込み、美しい雲が空を取り囲んでいた。周防祖父は黒いリムジンの前でぼんやりと空を仰ぎ、低く呟いた。「輝はもう終わりだ。あとは何年の刑になるかだけだ。あの子の両親はとても耐えられまい」礼も胸を痛め、しばらく無言でいた。祖父はため息をつき、「寛は表立って動けない。お前が同行して、拘置所へ行ってくれ」と頼んだ。礼は腰をかがめてドアを開けた。「お父さん、どうぞ」拘置所に到着すると、まだ面会時間前だったが、一生気丈だった祖父は強い足取りで入口に立ち、午前八時半、礼の取り計らいによってようやく輝との単独面会が叶った。夜が明

  • 私が去った後のクズ男の末路   第98話

    2時間後、京介は立都市へ駆け戻った。昼過ぎには雨が降り出し、爆発現場は見る影もないほど荒れ果てていた。100名を超える救助隊が動き回り、10頭の救助犬も出動していたが、現場の異臭があまりに強く、犬たちの嗅覚がまともに働かなかった。車から降りた京介の目に入ったのは、銀の手錠をかけられ、呆然と立ち尽くす輝の姿だった。「周防輝、このクソ野郎!」京介は迷わず拳を振り下ろした。全力で殴ったその一撃に、輝の口と鼻から鮮血が噴き出した。それでも彼は何も言わず、一歩退き、ただ廃墟と化した倉庫を茫然と見つめていた。時間は一刻を争う。京介に、怒りをぶつけている暇はなかった。彼は泥に足を踏み入れ、救助隊長と話をつけて自ら指揮を取り始めた。すぐさま80名の隊員を追加投入し、最新の生命探知機も投入された。雨脚はどんどん強まり、京介はレインコートすら着ず、全身泥まみれのまま作業を続けていた。素手で崩れた瓦礫を掘り起こし、隊員たちと共に重いコンクリートの梁を持ち上げた。手のひらは血に染まり、皮膚が裂けていたが、京介は痛みすら感じていなかった。——舞がこの下にいるんだ。彼の舞が、瓦礫のその下にいる。一枚でも多く瓦を運べば、その分だけ生存の可能性が上がる。そう信じていた。遠く離れた場所で、周防夫人が黒い傘を差し、痛ましい思いで叫んだ。「京介、雨が強いわ!少しでいいから休んで!」だが京介はその声を一切耳に入れなかった。止めに行こうとした夫人を、礼が制した。「舞は彼の妻だ。どんな行動を取っても、それは彼にとって当然のことだ」そう言うと、礼は手にしていた黒い傘を放り出し、雨の中へと身を投じた。周防夫人は、命も顧みず必死に働く夫の姿を見て、胸を強く揺さぶられた——礼がこれほどまでに舞を大切に思っていたなんて、彼女は今の今まで知らなかった。舞には子どもがいないのに、なぜここまで?雨の中、かすかに響いた鋭い叫び声。やって来たのは、なんと舞の祖母だった。身体の弱い葉山祖母は、それでも気力を振り絞って立ち続けていた。雨の中で孫娘の名を何度も呼び続け、その声は胸を引き裂くように痛ましかった——『舞、舞、私の舞』『おばあちゃんが来たよ。舞、一緒に帰ろう……』『舞、ここにいるよ。おばあちゃんはここにいるよ』……伊野夫人も雲

  • 私が去った後のクズ男の末路   第97話

    京介は賭けに出た。輝が常軌を逸した行動には出られないと、そう踏んでいた。兄弟同士でこれまで幾度となく駆け引きを繰り返してきたが、京介は一度たりとも負けたことがなかった。だが今回は、思いもよらぬ事態に出し抜かれた。京介は中川に目配せを送った。中川は一瞬戸惑ったが、すぐに意図を察し、ただちに舞の救出に向けて動き出した。京介は声の調子を落ち着かせ、静かに輝に告げた。「契約を放棄する気はない。輝、今すぐ舞を解放すれば、この件は追及しない。だが、まだ迷い続けるというなら言っておく。舞は俺にとって権力争いのための道具にすぎない。輝、お前も知ってるだろ。周防家に愛など存在しない。俺は彼女を愛してなんかいない。彼女を使って俺を脅すなんて、無駄なことだ」電話の向こうで、輝が嘲笑交じりに言った。「さすがは周防京介!冷酷さは見事なもんだな」京介は一瞬、言葉に詰まった。輝が態度を軟化させたのを察すると、京介はすぐに通話を切り、契約に署名したあと立都市に戻って対処するつもりだった。……廃墟となった倉庫の中で。輝はうつむいて携帯を見た後、舞に視線を移した。「あいつの言葉、聞こえてたよな?わざわざ繰り返さなくてもいいよな」舞にとって、繰り返されるまでもなかった。京介の言葉は、脳裏で何度も何度もこだまし続けていたから。『彼女はただの権力争いの道具だ』『周防家には最初から愛情なんてない』『彼女を愛していない。脅しに使うなんて無駄だ』……舞はかすかに笑った。自分の愚かさ、滑稽さを笑っていた。まさか自分が、京介が契約を捨てて立都市に戻り、自分を救いに来ることを期待していたなんて——なんて滑稽で、なんて幼すぎたんだろう!最近京介がどれだけ甘い言葉を囁いたか、忘れたの?あの人の好意なんて全部、損得勘定の上で成り立っていたものだったのに!周防家に愛情なんてあるわけがないじゃない。どうして、京介が普通の人間みたいな感情を持ってるなんて思えたんだろう?あの人はいつだって、権力が一番なんだから!舞の目尻は静かに濡れていた。輝の表情はさらに複雑になった。彼は、京介の非情さに完敗したのだ。あれほど徹底的な冷酷さを前にして、輝は完全に白旗を上げた。朽ちた倉庫の入口から、一人の女性がよろめきながら駆け込んできた。「輝、もうやめて

  • 私が去った後のクズ男の末路   第96話

    月末。雲城市、クラウドピークホテル。栄光グループとメディアの契約前夜、盛大な宴が催され、両グループの中堅と上層部が参加していた。京介は白黒のクラシックなスーツに身を包み、聡明で端正な佇まいは、多くの女性の注目を集めていた。だが京介は結婚指輪をはめ、どこか冷たく距離を取る態度を見せていたため、誰一人として部屋のカードキーを差し出す者はいなかった。伊野が伊野夫人を伴って話しかけてきた。女性たちの憧れの視線を見て、彼は冗談めかして言った。「次回は奥さんも一緒に来た方がいい。あの貪欲な視線に、あなたが食われかねないよ」京介は柔らかく微笑んだ。「伊野さん、それは言い過ぎですよ」伊野は夫人の手の甲を軽く叩いて、少し席を外してほしいと合図した。伊野夫人はにこやかに微笑みながら会釈し、そのまま別の来賓のもとへと向かっていった。夫人が席を外すと、伊野は改まった口調で京介に言った。「九郎のことは気にしないでやってくれ。若いから感情を抑えきれなかっただけだ。時間が経てば冷静になる。それに、昔からあなたたちは信頼し合っていた。外部の者に任せるより、安心して頼れるのは君だけだ」京介は多少顔を立てるように言った。「九郎の意向次第ね。俺の方は問題ない」伊野は感嘆した。「懐が深いな!京介、もっと早くあなたと出会っていればよかった。今夜はぜひ一緒に飲もう」京介はグラスを掲げて、穏やかに笑った。「ぜひ」もともと端正な顔立ちをした彼は、笑みを浮かべると成熟した男ならではの色気がにじみ出て、女性たちは目を離せなくなった。だが京介の心は、立都市にいる妻のことでいっぱいだった。酒宴が最高潮に達した頃、彼はひと気のないバルコニーへと出て、舞に電話をかけた。数回の呼び出し音の後、舞は電話に出た。雲城市の夜風は穏やかで、京介の胸中にも柔らかな想いが滲んでいた。電話越しに、彼は低く静かに語った。「考えはまとまったか?雲城市ではすべて整えてある。最高の医療環境もあるし、おばあさんには万全のケアが受けられる。仕事がしたいなら雲城市で続けてもいい。毎週、一緒に立都市に帰ることもできる」「半年でいい、たったそれだけだ」「舞、一度だけ、俺たちにチャンスをくれないか?」……舞は何も返事をしなかった。京介は底知れぬ忍耐力を備えているかのように、優し

  • 私が去った後のクズ男の末路   第95話

    舞は彼の完成品20点を購入し、600万円の小切手にサインした。男はとても満足そうだった。舞は淡く微笑んだ。男が去ったあと、舞は不思議そうな彩香に言った。「なぜ私があんなに安い値段をつけたのか、気になってるんでしょ?私はお金で彼の才能を早く潰したくないの。彼の絵はこの世代の若手アーティストの中で一番期待してる。若い頃の白石正明をも超えてるわ。時が来たら彼を世に出すつもり。その時には彼の作品は金でも買えない価値になる。小さいサイズでも少なくとも2000万円は超える」彩香はいつも舞の目を信じていた。用事が終わると二人は会場を後にし、駐車場で別れた。舞が車のドアを開けようとした瞬間、背後から聞き覚えのある皮肉めいた声がした。「京介と元通りになったのか?」舞は振り返り、輝を冷たい目で見て言った。「あなたに関係あること?」輝は笑った。「いや、ないさ。でも忠告したよな。あいつは狼みたいなやつだ。骨までしゃぶり尽くす。今月末にはメディアと契約するらしいな。あなたの利用価値がなくなったら、まだ甘やかしてくれると思うか?」輝の表情が鋭くなった。「その時には、あなたは邪魔な踏み台だ」舞は微動だにせず、「たとえそうだとしても、あなたには関係ないこと」ネオンの光が舞の頬に模様を落とし、冷たい表情にわずかな命を与えた。輝は舞の顔を見つめながら、ふと考えてしまった。彼女が京介の下でどんな表情を浮かべるのか。情に乱れる姿を見せるのか。その妄想に気づいた瞬間、彼は自分に苛立った——彼は舞のことが嫌いだったはず。けれど、いまは京介に嫉妬していた。……舞はすぐに車を発進させた。アパートに戻ると、ドアを閉めたまましばらくぼんやりと立ち尽くした。その夜、彼女はビールの缶を二本手に、屋上へと向かった。春の夜風には、アカシアの花の香りが混じっていた。舞は星空を見上げながら、少しずつ心を落ち着けた。過去と未来を思いながら、ふっと笑った――時間は、きっとすべてを癒してくれる。京介のことは、若かった頃の夢だったと思うことにしよう。その瞬間、京介のことを思い出したと同時に、彼は姿を現した。手には舞と同じ銘柄のビールの缶が二本。舞は横を向いて彼を見た。風に髪を乱されたその姿には、どこか少女のような幼さが残っていた。京介は高

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status