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第392話

Auteur: 風羽
二人の視線がぶつかる。ひとりは部屋の中、もうひとりは外に立っていた。

空気はどこか張り詰め、微妙な緊張を帯びている。

白川が場を和ませようと口を開いた。

「赤坂社長、どうぞお掛けになってお話しください」

瑠璃は小さく礼を述べ、部屋に入りソファに腰を下ろした。輝もようやく我に返り、彼女の正面に座る。その視線の先で、白川がコーヒーを二つ用意している。

「コーヒーは結構です。ぬるめの水をお願いします」

瑠璃がそう告げると、白川は頷き、新しいカップを取りに行った。

広いオフィスに、残されたのは二人だけ。

瑠璃は長い指先でカップの取っ手を弄びながら、穏やかな声で切り出す。

「前にホテルのスイートで……『よく考えてくれ。これからの俺たちのこと、そして……未来のことを』って言われたよね。このひと月あまり、ずっと考えてきた。そろそろ答えを伝えようと思う。輝、私たちは……」

言葉を終える前に、休憩室の扉が開いた。

そこに立っていたのは絵里香だった。

柔らかな羊毛のワンピースに、膝丈から覗く薄いストッキング。足元は女性用の室内スリッパ。まるでこの部屋の女主人のような佇まいだった。

鈍くても、瑠璃には十分すぎるほど理解できた。

胸の奥にあった「輝、私と一緒にいてください」の言葉は、ついに口にする機会を失われた。

そのとき、オフィスの入口から白川の声が響く。

「社長、スタイリストの方がいらっしゃいました。高宮さんの晩餐会用のヘアメイクだそうです。お通ししてよろしいですか?」

部屋は静まり返り、針が落ちても聞こえそうだった。

瑠璃の顔から、すっと血の気が引いていく。

輝はしばし彼女を見つめ、やがて白川に向かって言った。

「外で五分ほど待ってもらって。赤坂社長と少し話す」

そして絵里香に向き直り、柔らかく微笑む。

「先に中で待っていて」

絵里香は頷き、瑠璃に向かって小さく笑みを返した。

その瞬間、瑠璃はもう全てを悟った。輝が結婚するのは事実。しかし花嫁は自分ではなく、高宮絵里香だ。

理由を問うことも、詰め寄ることもなかった。祝福の言葉すら口にしない。

彼女は立ち上がり、一言の説明も求めず、まっすぐに部屋を後にした。

来たときと同じように、静かに。まるで一度も心を動かされたことがないかのように。まるで輝という人間を知らなかったかのように。

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