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第426話

Author: 風羽
車が動き出そうとしたその時、輝はふいにブレーキを踏み、動きを止めた。

両手をハンドルに置いたまま、ぼんやりと窓の外を見つめる。

そこには大きなお腹を抱えた妊婦と、その傍らで笑顔を向ける夫の姿があった。

女の顔は幸福に満ち溢れ、その光景は輝の胸を深く抉った。

——瑠璃のことを思い出した。

二度の妊娠。

一度は自分が不在で気づきもしなかった。

もう一度は、さらに惨たらしい形で。

彼女に与えたものは、幸福ではなく嵐ばかり。

輝の目が赤く滲み、やがてハンドルに額を伏せた。

長い間、動けなかった。

やっと車を動かし、半時間後に別荘へ戻る。

玄関先に出迎えた使用人が、声を潜めて告げる。

「奥さま、昨夜はひどくお怒りでした。物をいくつも壊されて、夜半まで泣き通しで……旦那さま、慰めて差し上げませんか」

輝は上着のボタンを外し、険しい顔を見せた。

それ以上、使用人は何も言えなかった。

昼下がり、邸内は静まり返る。

男は胸の内のざわめきを抑えながら階段を上がった。二階へ辿り着くと、主寝室の前でひと呼吸置き、ゆっくりと扉を押し開けた。

リビングでは、絵里香がバスローブ姿でスマホをいじっていた。

扉の音に顔を上げ、当然のように言う。

「帰ってきたのね。さっき兄から電話があったわ。双方の両親で会食の日取りを決めて、結婚式の相談をしたいって」

何気ない一言に、血の通わぬ冷たさが滲んでいた。

輝は上着をソファに投げ、対面に腰を下ろす。

「茉莉があんなことになった今、結婚式を挙げるわけにはいかない」

絵里香は顔を曇らせた。

「でも茉莉には瑠璃がついてるじゃない。こっちには関係ないわ。それに、あの子は瑠璃が勝手に産んだのよ。今のお腹の子だって彼女が勝手に残した。輝、どうか情に流されないで」

輝の顔には感情の色が一切なかった。

「茉莉は脾臓を失った」

絵里香は気休めのように彼の腕を叩き、平然と口にする。

「生きているなら、それで十分でしょ」

輝は深い眼差しでじっと絵里香を見据える。

——初めて、この女を「他人」として見るような感覚。

彼女はなおスマホをいじり、兄の高宮真人(たかみやまさと)と連絡を取り続けていた。

やがて輝が口を開く。

「一つ聞く。昨日の事故……どうして茉莉だけが倒れ、お前は無傷でいられた?」

その瞬間、絵里香の指
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