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第425話

Author: 風羽
瑠璃は一瞬、言葉を失った。

——輝はもう知ってしまった。

「どうして黙っていた?どうして……妊娠を教えてくれなかった?もし言ってくれたら……」

掠れた声で問う輝に、瑠璃は笑った。泣くよりも痛ましい笑みで。

「私に……あなたに縋って結婚を迫れっていうの?でも、あなたは英国で別の女に婚約を約束した。

一本の電話すらなく、あっさり他人を妻に選んだ。私に選択肢なんてあった?——あの日、新しい女を控室に住まわせて、大々的に婚約を発表したのは誰?もし本気なら、どうして一言の知らせもくれなかったの?

子どもは産むわ。でも姓は岸本。

出生証明書には、父母の欄に——岸本雅彦、赤坂瑠璃と書かれる。周防輝ではなく」

そう言って彼女は静かに目を閉じ、涙を零した。

もう恨む力すら尽き果て、ただ彼の存在を拒絶したかった。

窓の外は雷鳴と嵐。

長い沈黙の後、輝の声が低く漏れた。

「お前と彼は、寝たのか」

自分でもなぜ口にしたのか分からなかった。

実際には、瑠璃と岸本の関係は深い口づけと触れ合いに留まっていた。

けれど彼女はきっぱりと言い切った。

「当たり前でしょ。私たちは夫婦。夫婦には夫婦の営みがある」

一瞬で、輝の顔から血の気が引いた。

ゆっくりと窓辺に歩み寄り、雨夜を見つめる。

なぜあんな問いを口にしたのか、自分でもわからない。

もし形だけの結婚なら、まだやり直せるのではないか——そんな淡い幻想に縋ったのかもしれない。

問いかけた自分を責めながら、彼女の言葉が胸を切り裂く。

——瑠璃は岸本と寝た。

輝は乾いた笑いを漏らした。

それは、まるで行き場を失った負け犬の遠吠えのような、苦々しい笑いだった。

この夜、彼はすべてを失った。最も大切なものを。

……

夜更け、瑠璃は小さな茉莉の顔にそっと頬を寄せた。

八歳のわが子は、すでに脾臓を失った。

胸が張り裂けるほどの痛みだった。

やがてVIP病室の扉が静かに開き、岸本が入ってきた。

涙を流す瑠璃を見つけ、彼は何も言わず肩を抱き寄せる。

「できることなら、この身を差し出してでも、あの子の痛みを引き受けたい」嗄れた声で洩らす妻に、彼はただ優しく言った。

「分かってる。だけど今は強くあらねば。子どもを支えてやらなきゃ」

二人は寄り添い、かつての恋人と完全に別れを告げた。

……

一夜が明
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