LOGIN慕美は背筋を正したまま座っていた。けれど、意識の全部は澪安が握る自分の手のひらにあった。その温度、その強さ、その意味。ようやく呼吸を思い出したころ、小さく首を振る。「別に、何も考えてない」澪安は横目で彼女を見て、怠惰にも優しい声音で笑う。「俺のこと、考えてたんだろ」「考えてない」慕美は即座に否定した。それ以上、澪安は追及しない。女性の心に踏み込みすぎない――彼なりの礼儀だ。車は静かに夜道を走り、マンションへ向かう。しばらくして、澪安のスマホが震えた。画面に表示された名前――桂木恬奈。慕美も見えた。澪安はすぐには出ない。だが数秒後、再びコール音が鳴り響く。静かな空間ではひどく耳障りだ。今度は澪安が顎で合図した。「出てくれ」慕美は顔をそむける。「あなたの電話。私が取るのは違う」運転から目を離さず、澪安の声だけが低く落ちた。「お前は俺の未来の妻だ。俺宛ての電話なら、何だってお前が出ていい」そう言われても、慕美は頑なに拒む。だが澪安は強引に通話ボタンを押し、そのままスマホを慕美の耳元へ。「何その強引さ……」呆れた視線を向ける間に、電話越しの声が響く。「澪安?宴司が店押さえたって。飲みに行く?」聞こえるようなボリューム。澪安も当然聞いている。信号で車が止まり、澪安の声が落ち着いた調子で返る。「行くって伝えて」慕美は驚き、横を見る。電話の向こうで恬奈が息を呑んだのが分かった。「え、もしかして今の、九条さん?」凍りついた声。すぐに嫉妬と焦りが滲む。「なんで九条さんが澪安の電話に出てるの?復縁したの?なんで――」慕美が返す前に、スマホは澪安に奪われた。次の瞬間、氷のような声が落ちる。「俺が出ろと言った。文句あるか、恬奈」沈黙。それだけで充分だった。やがて無理に作った笑い声が返る。「そうなんだ。澪安さん、早いね。わたし、まだチャンスあると思ってた」言い終える前に、通話は切れた。慕美は息を吐き、静かに言う。「飲みに行くなら、途中で降ろしていいよ。タクシー呼ぶから」澪安は薄く笑った。「気が利くな」どこか刺すような声音だった。そのまま会話は途切れ、車はマンションへ着いた。シートベル
慕美は唇を噛んだ。「わたし、仕事があるから」拒絶ではない。ただ――行くとだけ。澪安はその微妙な温度をすぐに聞き分けた。彼は薄く笑った。それ以上、追及はしない。店内のテーブルには四人。語らいながら座っていると、外のガラス越しに雨音が降りてきた。雨粒がゆっくり窓を伝い落ち、まるで恋人の涙のようだった。願乃はまだ年相応の遊び心を残していて、慕美の手を引き、窓辺へ連れていく。外の小さな池では数匹の錦鯉が楽しげに泳いでいた。願乃が囁く。「ね、これすごく高い種類なんだって。一匹二百万円くらいらしいよ。ここのオーナー、思い切りいいよね」「二百万円……」慕美はガラスに頰を寄せ、小さくため息を落とす。その横顔は驚くほど愛らしかった。三十を越えた年齢とは思えない。願乃より六つも七つも年上のはずなのに――華奢な体、黒く大きな瞳、肩に触れる黒髪。どこか幼く見える儚さがあった。離れた席では、彰人が手つかずのデザートを前に座っていた。彼は澪安へ苦笑まじりに視線を向ける。「お兄さんが女の子のために仕事放り出して、こんなに付きっきりなの、初めて見たよ」澪安は隠すこともせず、淡々と言った。「喧嘩中だ。今、追ってる最中」彰人の目がわずかに丸くなる。そして数秒後、静かに笑った。「なら、頑張らないとな」彼は五年以上、ビジネスの世界で澪安を見てきた。遊び人だった時期も知っている。追うなんてことはなかった。むしろ、相手が列を成し、澪安の機嫌を伺うのが常だった。一度別れを告げられたら最後、戻ろうなんて考えるほうが愚か。芸能人ですらそのルールに飲まれた。二流女優が駆け引きしようとして、翌日には元カノの欄に移動した。そのあと誰も澪安に駆け引きを試さなくなった。なぜなら、彼は体だけ求めて、心は決して渡さない男だったから。だが今回だけは違う。あまりにも違う。それはただ遊ばれる女ではなく、大事に抱きしめ、手のひらに乗せ、機嫌を伺い、それでも――振り向いてもらえない相手。彰人はふと気づく。――あぁ。きっと昔の「手の届かなかった女」なんだろう。……慕美はまだ鯉を見つめていた。空気が静かに落ち着く。ふと振り向くと、澪安がすぐそばにしゃがんでいた。
慕美は店内をちらりと覗いた。席の奥には、願乃と彰人。その視線が自然と澪安へ向く。澪安は片手で彼女のうなじを支え、柔らかく言った。「別に……嫁入り前の挨拶ってわけでもないだろ。何をそんなに怯えてる?」慕美は瞬きを二度。返す言葉は喉で止まった。――本当は分かっていた。願乃と彰人の関係は、自分と澪安と「似ているようで、決定的に違う」願乃は若いが、慈善事業で知られており、人脈も評価もある。彼女には「立場」も「役割」もある。自分は――ただの平凡な女。彼と出会うまでは、そんなこと考えたこともなかったのに。澪安と一緒にいると、ふとした瞬間に胸が縮こまる。勉強して、努力して、追いつきたいと思った。けれど、「今さら追いかけても意味ない。育ちも環境も、もう埋まらない差だ」――そう言ったのは、他でもない、澪安だった。自分は、彼に美しさだけで選ばれた。それがどれほど不安定な基盤か、考えれば考えるほど足元が揺れる。美しさは、いつまで保てる?恋人は、体だけでは続かない。……そのとき、願乃が顔を上げ、ふわっと笑った。「お兄ちゃん、慕美さん」笑うと覗く小さな八重歯は、無邪気で眩しい。彼女は曇城市で暮らしているため、二人の事情を知らないらしく、自然な声音で手を振った。慕美の足は動かない。だが澪安は迷わず彼女の手を取り、テーブルへ向かった。視線は重なり、周囲の空気が少し波立つ。しかし手は――握られたまま、振りほどけなかった。席につくと、願乃は楽しげにメニューを広げ、彰人に相談していた。低く穏やかな声が返り、二人の距離感は静かで水のようだ。近すぎず、遠すぎず。けれど確実に幸福が滲む。それは、見ているだけで胸が温かくなる景色だった。思わず見入っていた慕美の耳元に、澪安の声が落ちる。「何にする?」「え?」「さっき、スイーツ食べたいって言ってただろ。いや、違ったか?あの眼鏡でも眺めに来たのか?あの小柄な女と似たタイプだったな」言葉に刺があった。慕美は眉をひそめ、口を結んだ。返事がないと、澪安の視線はさらに濃くなる。慕美は観念して、メニューを指差した。「これ」澪安はそれを受け取り、願乃に渡す。「これ、お義姉さんに」――お義姉さん?
それからというもの――澪安は時々、慕美のマンションへ姿を見せた。けれど、部屋に入れてもらえることはほとんどなく、彼ができるのは玄関前で煙草を一本吸い、中の気配を静かに聞くことだけだった。慕美は、頑なに許してくれなかった。……金曜日。午後六時。慕美はデスクを片付け、ゆっくりバッグを肩にかけた。隣の席で椅子を揺らしていた詩が、声を潜めて寄ってくる。「ねえ、今日あの新しくできたスイーツ店行かない?みんな美味しいって言ってる」慕美は少し考え――こくりと頷いた。退勤時間になると、社員たちはぞろぞろとエレベーター前へ向かう。複数の会社が入る複合ビルのため、乗り場は人で溢れ返っていた。そのとき、ソフトウェア会社のような雰囲気の若い二人組が慕美の前に割り込み、にこやかに言い出した。「ねえ、ライン交換しません?ほら、これ」スマホはすでに差し出されている。周囲の視線が集まり、断りにくい空気が漂う。しばらくの攻防。ついに慕美は折れ、しぶしぶ画面を差し出した。エレベーターに乗り込むと、幸い彼らは一番奥。慕美は壁に寄り、バッグを胸に抱えて前を見つめた。会社は二十八階にある。エレベーターは途中で止まり、揺れ、また動く。ふわりと身体が浮くような感覚に、気分が悪くなりそうだった。手を壁に添えた瞬間――大きな手が彼女の腰を掴み、そのまま引き寄せた。咄嗟に声を上げようとした。だが、すんでのところで息が止まる。知っている匂いだった。淡いシダーの香り。いつかの夜に、何度も肌で覚えた香り。慕美の身体が硬直する。その一瞬を逃さず、腰を抱く腕がさらに強くなる。耳元で、掠れた声。「人気だな、九条慕美」頬が一気に赤くなる。まさか会社まで来るなんて――この男、暇なのか。栄光グループ、倒産寸前なのか?そんな考えがよぎったのだろう。澪安は鼻で笑い、低い声で返す。「会社は順調だ。社長が少し時間を割いて恋人を迎えに来るくらい、問題ない」そして、わざとらしく間を置く。「ただ……恋人が新しい男を増やしてるのは問題だな。予備か?」「そ、そんなのいない!」「じゃあ――俺ひとりに忠実ってことでいい?」言葉と同時に、慕美のスマホが器用に奪われた。片腕で慕美を抱
澪安はすぐには立ち去らなかった。薬局の袋を指先で軽く揺らしながら見下ろし、次の瞬間、そのまま玄関前に腰を下ろした。長い脚を無造作に伸ばし、背中をドアにもたれかける。思えば、自分がこんな場所で座り込むなんて、今まで一度もなかった。だが今夜ばかりは――体裁も、余裕も、どうでもよかった。ポケットからタバコを取り出し、一本くわえる。火をつけると、紫煙がゆっくり宙へ溶けていく。煙の向こうで、彼の端正な横顔がかすみ、ぼやけた。静かなマンションの中から、微かに音がした。小さな足音のような、戸口の向こうで息を潜めている気配。――聞き耳を立てている。そう確信した瞬間、澪安は苦笑しながら指先で「コツ」と扉を軽く叩いた。中の気配がぴたりと止まる。まるで本当に、小動物が慌てて巣へ隠れたみたいで。その可愛さに、彼はさらに気だるそうに笑った。追いかけるつもりはなかった。無理強いも、格好悪い。彼女が望まないなら、それは本当に「望まない」ということだ。焦る必要はない。時間なら、いくらでもある。恋愛らしい恋愛をしてこなかった澪安にとって、女の部屋の前でこうして夜を過ごすのは不思議なほど、悪くなかった。むしろ、胸の奥がじんわり満ちていく。ここはかつて、父と母が暮らした場所。その記憶が混じるせいか、胸の内が妙に落ち着き――そして、温かい。――ビールでもあれば完璧だな。そう呟きながら、彼はスマホを取り出し、短いメッセージを送る。【ドアの前にいる】【煙草2本だけ吸ったら帰る。先に寝ろ】もちろん既読も返信もない。だが、それでいい。これは、返事を期待したものじゃない。ただ、「お前に会えたことが嬉しい」――それだけを伝えた、一方通行の報告だった。扉の向こうでまた、小さくスマホの通知音が鳴る。まるで、小動物が驚いて跳ねたような音。澪安の唇に柔らかい笑みが浮かぶ。その表情は優しくて、少し不器用で、どこか少年のようだ。もしもっと恋を知っていたなら、彼は気づいていた。これはもう、恋じゃなくて、惚れている。だが経験のない彼には、それが分からない。今までの恋愛は、身体が先で、飽きたら終わりだった。心が動く恋なんて、ほとんどなかった。だから比較も基準もなく、これが特
慕美は一度、必死に身を捩った。だが、男女の距離というものは――抗えば抗うほど、かえって余計な熱を生む。震える声で、彼女は押し出すように言った。「離して」もちろん、澪安が手放すはずもない。ようやく捕まえた相手だ。腕に抱き込んだ瞬間、彼は自覚した――自分は彼女が欲しくて、気が狂いそうなくらい恋しかった。触れたい、感じたい、聞きたい。そんな飢えた本能が、喉奥で低く唸る。彼はそっと耳元へ唇を寄せ、抑えきれない欲望を、我慢も理性も忘れた声音で囁いた。男という生き物は、こういうとき妙に雄弁になる。慕美は唇を噛み、聞くたび頬が熱く染まる。心臓は落ち着かず、指先まで震えてしまう。短い時間の身体の攻防だけで、澪安はすでに臨界点近く。欲望は理性を押し流しそうになっていた。だが、思い出してしまうのだ。二人は喧嘩したままだ。だから彼は、ぎりぎりのところで体裁を取り戻す。耳に触れる距離で、甘く低く求める。「いいだろ?なぁ、いいって言えよ」「だめ」声は震え、拒否の言葉なのに、どこか弱く揺れている。だが、この状況で「ダメ」が通じるほど、男は出来ていない。そのまま抱き上げると、彼女の身体を軽々と寝室へ運び込む。灯りの消えた室内。それでも澪安はスイッチを次々点け、部屋を白く照らした。まるで、彼女のすべてを目で抱きしめるために。深いグレイのシーツの上。慕美は薄いナイトドレス一枚。布の存在など意味を成さない距離。彼の呼吸は荒く、指先は衿元へ――ボタンを外そうとした瞬間。慕美が彼の首に腕を回し、小さく囁いた。「ちゃんと、持ってきてる?」澪安は手を止め――数秒、意味が落ちてこなかった。そして理解した。避妊具のことだ。次の瞬間、彼の喉から漏れた声は、理性と欲望の狭間で震えていた。「買ってくる」そこでだけは、彼は迷いなく彼女を尊重する。彼女が一度、流産を経験したことを知っているから――どれほど求めても、無理はさせたくなかった。未練がましく彼女にキスを落とし、やっとの思いでシャツのボタンを留め、部屋を出る。……一階。運転手は車にもたれ、煙草をふかしていた。澪安の姿を見るや、慌てて火を消す。「澪安様、もう戻られるんですか?」――何