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第446話

Auteur: 風羽
「駄目よ」

瑠璃はきっぱりと答えた。

それは輝を憎んでいるからではない。

ただ、もう必要がなかったのだ。

岸本は病を抱え、家には子どもたちがいる。

自分が夜通し看病することもできるし、人を雇うこともできる。

それでも、周防家の施しは一切受けたくなかった。

輝が渡そうとした株も受け取らず、寛とその妻から差し出された金も返した。

もう一切関わり合いたくなかった。

瑠璃の口元に浮かんだのは、解放ではなく「諦観」の微笑みだった。

同伴していた使用人は気配を察し、彼が茉莉の父であることも知っていたので、気を利かせて会計に向かった。

空間には、かつて愛し合った二人だけが残された。

けれど瑠璃は何も言わず、先に立ち去った。

黒塗りのワゴンへ乗り込む。

輝は追いかけなかった。

車内、彼女は無表情のまま、強烈な夏の日差しを眺めていた。

やがて、使用人が店から出てきた。

両手には二つの袋を提げていたが、より多くの荷物は輝の手にあり、それらはすべてトランクに収められた。

車に乗り込んだ使用人は、ためらいがちに口を開いた。

「全部、周防さんがお支払いになりました。断ったのですが……どうしてもと」

瑠璃は咎めず、ただ前席の運転手に声をかけた。

「出して」

車がゆっくりと走り出す。

輝はしばらくその場に立ち、車尾を見送り続けた。

視界から消えるまで。

車内では沈黙が支配した。

彼女は窓の外に顔を向け、決して言葉を発さなかった。

過去を振り返るまいと思っても、記憶は洪水のように押し寄せる。

——瑠璃、俺は離婚した。

あの男の軽い一言が、胸を焼いた。

恨むまいとしても、どうしても憎しみが込み上げてくる。

……

三十分後、車は別邸に到着した。

玄関に入った瞬間、主治医が近寄り、小声で告げる。

「奥さま……ご主人が今日、吐血されました。黙っていろと仰せでしたが、隠すべきではないと思いまして」

手にした袋が床に落ち、玩具が散らばった。

小さな夕梨のために買ったばかりの品々。

階段の上から、足音が響いた。

見上げると、岸本がそこにいた。

薄い色のシャツに身を包み、やつれた体を無理に支えて立っている。

精悍な笑みを浮かべていたが、それが作り物であることを、彼女は知っていた。

それでも、彼は最後までいい印象を残そうとしている。

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