Masuk結安が病室へ戻ると、チョコのそばには若い看護師が付き添っていた。その看護師は目ざとかった。結安が、最近話題になっている女優・シェリーだとすぐに気づく。新進気鋭の林安監督作品『蒼穹の花』で主演に抜擢され、一気に注目を集めている女優。さらに耀石グループ社長・章真との熱愛報道も、たびたび週刊誌を賑わせていた。本人は否定している。けれど芸能界では、否定されるほど本当なのでは、と噂されることも少なくない。そして目の前で点滴を受けている少女は――どことなく章真に似ている気がした。もちろん、看護師には守秘義務がある。胸の内へそっとしまい込むだけだ。もっとも、彼女がここまで甲斐甲斐しく世話を焼く理由は、何か見返りを期待しているからではない。ただ純粋に――いつかこの秘密が世間へ出たとき、『章真社長のお嬢さんに三日間付き添ったんだよ。点滴も私が入れたの』そんな自慢話ができたら面白いな、と少しだけ思っただけだった。結安が病室へ入る。看護師は改めて彼女を見つめる。――やっぱり綺麗。さすがは章真が選んだ女性だ。チョコは先ほどより少し元気を取り戻していた。ベッドにもたれ、小さな白い手を忙しなく動かしながら積み木で遊んでいる。結安が戻ってきたのを見ると、甘い声で言った。「ママ」「駿おじさん、好き」結安は微笑みながら近づき、小さな頭を優しく撫でる。それから看護師へ頭を下げた。「ありがとうございました」看護師は胸がどきどきしながらも、平静を装って笑顔を作る。「何かありましたら、ナースステーションまで呼んでください」「今日は夜勤なので」「ありがとうございます」結安が頷く。看護師が退室したあと、結安はチョコを抱き寄せ、一緒にしばらく積み木で遊んだ。やがて遊び疲れたチョコは母親の肩へ寄りかかり、眠たそうに呟く。「ママ……」「駿おじさん、チョコのパパになってくれないの?」結安は少し考えてから、小さな嘘をついた。「駿おじさんにはね、好きな人がいるの」「……そっか」チョコは寂しそうに呟く。幼稚園へ通い始めた彼女は、周りの子どもたちにはみんなお父さんがいることを知っていた。自分だけは違う。ママは、お父さんは病気で亡くなったと言っていた。でも
夜も更けた頃。車は郊外に建つ一軒の小さな戸建ての前で静かに止まった。車を降りようとした結安は、ドアノブを握る手に力を込めたまま、穏やかな声で駿に告げる。「この家は……あの時計を売って手に入れたお金で買ったの。約一億円で。チョコの父親は葉山章真よ。駿……今夜が終わったら、もう私の前には現れないで。あなたを巻き込みたくないの。あなたは章真の恐ろしさを知らない。あの人は目的のためなら手段を選ばない。芽衣さんだって、私を守りきれなかった。私は……自分勝手な人間だから。ただ静かに暮らしたい。もう、大切な人を弱みにはしたくないの。あなたは私にとって救いでも支えでもない。弱みになってしまう。駿……私の弱みにならないで。一度だけで、もう十分だから」駿はハンドルを握り締めた。指先が白くなるほど力が入る。しばらく沈黙したあと、ようやく静かに頷いた。「……分かった」彼女の意思を尊重するしかなかった。二人は車を降り、並んで二階の子ども部屋へ向かう。世話役の女性が、チョコへ薬を飲ませているところだった。チョコは女性の腕の中で小さく身体を丸めている。肩まで伸びた艶のある黒髪。雪のように白く柔らかな頬。熱で眉を寄せたその表情さえ愛らしく、小さな身体は思わず抱きしめたくなるほど儚い。駿は初めて思った。――四、五歳の子どもって、こんなにも可愛いものなんだ。その瞬間、胸に浮かんだのは。――こんな子の父親になれたら。そんな自分に苦笑する。足音に気づいたチョコがゆっくり目を開けた。弱った子猫のような声で呼ぶ。「ママ。チョコ……つらいよ……」……世話役の女性も心配そうに口を開く。「一度薬を飲ませたんですが、熱が全然下がらなくて……今流行っているウイルスは症状が重いみたいですし、この子はもともと身体が弱いから、お薬だけで様子を見るより点滴を受けたほうが安心だと思います」結安は頷いた。身をかがめ、チョコをそっと抱き上げる。片腕で娘を抱き、もう片方の手で額へ触れる。――熱い。かなり熱がある。その様子を見た駿が静かに言った。「病院まで送るよ」チョコは母親の首へ小さな腕を回したまま、じっと駿を見つめる。「ママ……あのおじさん、だあれ?チ
駿が問いかけていたのは――十八歳だった頃の結安のことだった。抗う術すら持たなかった、あの頃の結安。結安の唇が小さく震える。「……違う」「嘘だ。結安、お前は嘘をついてる。違うはずがない」その言葉に、彼女の唇はさらに強く震えた。結安は足早に歩き出す。十八歳だった自分が、どれほど愚かだったのか。自分を追い詰めた相手を好きになってしまったことなど、認めたくなかった。歩幅はどんどん速くなる。その後ろを駿もついてくる。けれど追いつこうとはしない。近すぎず、遠すぎず。ただ静かに、彼女を見守るようについて歩いていた。……マンションへ戻ると、結安は避妊薬を飲んだ。軟膏を塗る間もなく、郊外でチョコの世話をしてくれている女性から電話が入る。「チョコちゃんが熱を出しています。かなり高熱です」結安は顔色を変え、慌てて服を着替えて外へ飛び出した。車はまだショッピングモールの駐車場に置いたまま。タクシーで向かうしかない。だが、深夜二時。そんな時間に、車はなかなかつかまらない。途方に暮れていた、そのときだった。白いカイエンが静かに目の前で止まる。窓がゆっくり下がる。運転席には、無表情の駿がいた。顎で助手席を示しながら言う。「乗れ」結安は少しだけためらった。それでも黙って助手席へ乗り込む。何も話さないまま、車は郊外へ向かって走り出した。胸の鼓動が速くなる。嫌な予感が胸をかすめる。そして案の定、駿はごく自然な口調で尋ねた。「子ども、熱があるんだな?」結安は息を呑んだ。――駿は知っていたの?駿はハンドルを握る手に力を込める。白く浮き出た指の関節。口元には、自嘲めいた薄い笑みが浮かんでいた。「ずっと、お前を見てた。二年くらい前だったかな。偶然、お前に子どもがいることを知った。結安、お前は大したもんだよ。たった一人で子どもを産んで育てながら、その父親とは、まるでドラマみたいな恋愛ごっこを続けてたんだから。でも、その物語のヒロインは、お前一人じゃなかった。あの人には、もう別の相手がいる。だから、あんなに泣いてたんだろ?どうして言わない?二人には子どもがいるって」結安は静かに窓の外へ視線を向けた。以前は、言えなかった。
通話を切った途端、章真はもう何一つ遠慮しなかった。容赦なく、何度も彼女を求める。結安は抗う術もなく、ただ翻弄されていく。どれほど時間が経ったのか分からない。ようやくすべてが終わる頃には、彼女はベッドへうつ伏せになったまま、指一本動かすことさえ難しかった。全身が重く、ひどく疲れ切っている。それでも薬だけは飲まなければならない。かつて抱いた淡い恋心を悼む余裕など、もうどこにもなかった。そんな感情は許されるものではない。まして彼には、もう新しい「立花結安」がいる。相手が誰なのか尋ねようとも思わない。そんな資格は、自分にはないのだから。今の自分は章真が金で買った女。ただ、それだけだった。俗っぽくて、あまりにも分かりやすい関係。章真はまだベッドの上にいた。ヘッドボードにもたれ、煙草をくゆらせながら、満ち足りたように紫煙を吐く。彼女の身体も気持ちも、気遣う様子は一切ない。煙にむせて結安が小さく咳き込むと、耳元で皮肉げな声が落ちてきた。「気分でも悪いか?」「……いいえ」「そうか?」「私は……自分の立場くらい、分かっていますから」結安は静かに答えると、ゆっくり身を起こした。少し湿った黒髪を指で整え、小さく尋ねる。「もう帰ってもいいですか?薬を買いに行きたいんです。あなたも……産まれるのは望んでいないでしょう?」章真はすぐには答えなかった。ただ、彼女の黒髪をひと房すくい上げる。――本当に、美しい。二十歳の美月でさえ、彼女には敵わない。それでも。憎い。すべてを壊したのは、この女だ。彼女さえいなければ、自分たちは今も何も変わらず一緒にいられた。章真は煙草を揉み消し、口元に薄い笑みを浮かべた。「できたなら、産めばいい」本気で言ったわけではない。ただ夜の戯れに口にした、軽い冗談。それでも、その一言は結安の胸を深く刺した。彼女もまた、小さく笑う。――昔の私は、本当に幼かった。心が弱かった。あんな状況で、この人を好きになってしまうなんて。彼が自分を恨んでいることくらい分かっている。何も告げずに姿を消したのだから。でも、あのまま彼と一緒にいることなどできるはずがなかった。彼の愛も、憎しみも。どちらも、自分には
章真はダークカラーのソファにもたれ、指先には一本の煙草を挟んでいた。だが、火はつけていない。クリスタルシャンデリアの眩い光の下、彼は結安をじっと見据えていた。バスローブに包まれたその身体は今なお華奢でしなやかだった。しかし四年前とは、どこか違う。――何人もの男を知ったからなのか。そんな考えが胸を蝕む。自堕落な生き方を嫌悪しながらも、彼女を求める欲望だけはどうしても抑えきれない。章真は隣の席を軽く叩いた。それは、あまりにも侮蔑的な仕草だった。結安は逆らわなかった。静かにソファの前まで歩み寄ると、その場に膝をつき、少しだけ身を乗り出して彼の口元へ唇を寄せる。――昔、彼は女から甘えてこられるのが好きだった。少しでも機嫌が良くなれば、自分も少しは楽になれる。そう思っただけだった。だが、章真は微動だにしない。冷え切った眼差しで彼女を見下ろし、片手で顎を掴んでそれ以上近づけさせなかった。その口から零れた声もまた、氷のように冷たい。「そういう手練手管は、どこで覚えた?他の男にも、猫みたいに甘えて誘っていたのか?」結安は唇を噛んだ。バスローブの前をぎゅっと握りしめ、小さな声で呟く。「機嫌、悪いんでしょう?今日は……やめて、また今度にしよう?」……だが、彼女に拒む資格など最初からなかった。章真の苛立ちは収まるどころか、さらに募っていく。思いやりの欠片もない、荒々しい振る舞い。その最中、結安は震える手で彼の腕を強く掴み、薄く涙の滲む瞳で訴えた。「それを使って。私……妊娠しちゃダメなの」ここまで来てなお躊躇う彼女に、章真の怒りは頂点に達する。結安は必死に耐えながらも、とうとう堪えきれず涙を零した。彼女は彼の首へ腕を回し、その首筋へ頬を押し当てる。涙が静かに彼の肌を濡らしていく。決して心地よいものではない。それでも彼女は泣くことしかできず、最後まで素直には従えなかった。章真は不機嫌そうに顔を逸らし、低く問いかける。「四十億円払った相手に、まだ『嫌だ』なんて言えると思ってるのか?他の男にも、そんな条件をつけていたのか?結安――俺がまだ、お前を甘やかしてくれると思っていたのか?」その言葉は、あまりにも残酷だった。結安の細い腕から、少しずつ力
「章真……」結安の顔から、さっと血の気が引いた。もし今の着信がチョコだったら――娘の存在を隠していたことが、すべて章真に知られてしまう。そうなれば、もう二度と逃げることなどできない。……着信音は鳴り続けている。章真はスマートフォンを握ったまま結安を見つめ、ゆっくりと画面へ視線を落とした。表示されていた名前は――【林監督】章真は無言で通話を切ると、そのまま電源まで落とした。そして結安を見据える。「林からの電話で、そこまで慌てるのか。俺と一緒にいることを知られたくないのか?それとも、このあと俺と一夜を過ごすことを知られたくないのか?林の前では、いつまでも清純な女でいたいってわけだ」結安の鼓動が激しく跳ねる。――助かった。全身から力が抜けそうになる。その瞬間、張り詰めていた糸が切れたように、涙がこぼれた。あまりにも人生が苦しかった。苦しい時期は、もう終わったと思っていた。無名の芸能事務所に入り、三流タレントとして必死に働き、少しずつ生活を立て直してきた。本当は医師になりたかった。けれど学歴も資格もない。自分には何もない。残されたのは、この容姿だけだった。それを武器に稼ぐしかない。守らなければならない娘がいるから。すべて計画どおりに進んでいたはずだった。それなのに――また章真と再会してしまった。今はまだ逃げられない。お金のためではない。ただ、章真がまだ自分を手放そうとしないから。涙を浮かべたまま、結安は静かに問いかけた。「……私がどうして芸能界に入ったか、知ってる?お金になるから。高校しか出ていない女でも、生きていける世界だったから。高校卒業の女に何ができる?食器でも洗って暮らせっていうの?監督に取り入って、有力者に気に入られて……そうやって生きるしかなかった。章真だって、その一人じゃない。何を偉そうにしてるの?結局、身体を求めているだけでしょう。私の身体は私のもの。誰の所有物でもない。もし独り占めしたいなら――いいわ。その代わり、お金を払って。十分なお金をくれるなら、あなただけを相手にする。大人の世界なんて、そういうものでしょう。そういう生き方を教えたのは……章真、あなたよ」……章真
夕梨が目を覚ましたのは、翌日の早朝だった。右手の小指に、鈍い痛みが走っている。そして下腹部には、それ以上に重く、無視することのできない密やかな痛みが居座っていた。天井を仰ぎ見たまま、夕梨は悟った。あの子はいなくなってしまったのだと。熱い涙が次々と溢れ出したが、拭おうともしなかった。子どもを失ったのだ、声を上げて泣くことくらい許されるはずだ。最初は静かな、嗚咽のような泣き声だった。それが次第に声を放つようになり、最後には胸を掻きむしるような慟哭へと変わった。彼女が失ったのは、単なる一つの命ではない。一つの愛、そのすべてだった。終わったのだ。寒真との関係は、これ以上ない
夕梨は思わず固まった。――ご両親が見ているのに。こんなふうに、堂々とキスをするなんて……少し露骨すぎないだろうか。そんな彼女の戸惑いを察したのか、寒真は低く笑った。「今朝、一緒に寝てたのはもう両親も知ってる。キス一つくらい、何だっていうんだ?」夕梨は両手で頬を押さえ、小さな声で言う。「私はあなたほど厚かましくないの」寒真は彼女の肩を軽く引き寄せる。華奢な身体は腕の中にすっぽり収まり、いっそう小さく見えた。彼は見下ろすように彼女を眺め、もう一度尋ねる。「で、昼は何を食べる?」夕梨が居心地悪そうにしていると、向こうから声が飛んできた。「こら、あんまり夕梨
央筑ホテルに特大の案件が舞い込んだ。バレンタインデーの前後三日間、周防家がホテルを丸ごと貸し切り、澪安と慕美の結婚式を執り行うという。当日は、二百六十室すべての客室と全宴会場――そのすべてを周防家が使用する。総額およそ五千万円。だが価値は金額のそれにとどまらない。栄光グループは国内最大の財閥であり、その社長がここで結婚式を挙げるとなれば、とてつもない話題性が生まれる。この一件が、央筑ホテルの名を全国へ押し出すのは目に見えていた。まさにホテル側にとっての分岐点――そんな重大イベントだった。ホテル責任者の蒼川青河(あおかわ せいが)は、夕梨を執務室へ呼び出した。夕梨
一同席に着いた。発言の口火を切ったのは学生会長だった恒一だ。グラスを手に場慣れした様子で言葉を操る。どうやら好きな人の前で格好をつけたいらしく、話ぶりも堂々としている。それは朱里の顔をこれ以上ないほど立てるものだった。朱里は誇らしげに恋人を見つめ、顔には自信が溢れている。――見て。恒一は私が選んだ男。これが私の最低ライン。自分の未来は順風満帆だ。それに比べて、岸本夕梨。男に寄りかかって生きている女。まともな男がそんな女を妻に迎えたいと思うだろうか?朱里はその場の視線を一身に集め、得意げだった。恒一がスピーチを終えると、グラスの酒を一気に飲み干す。