LOGINマンションに戻ってから――芽衣はようやく、どこかおかしいと気づいた。……どうして、また陽白を部屋に入れてしまったのか。けれど当の本人はまったく気にした様子もなく、室内に入るなりジャケットを脱いでソファへ無造作に放り、当然のようにキッチンへ向かった。冷蔵庫を開け、中を確認する。芽衣はほとんど自炊をしない。普段は菊地が手配しているため、食材は最低限しか入っていなかった。それでも陽白は迷いなく細麺を二人分作ることに決める。うずらの卵を茹でて取り分け、もやしを洗い、きくらげを細く刻む。湯を沸かし、さっと野菜を湯通ししてから麺を茹でる。透き通るように整えられた麺に、調味を施し、もやしときくらげ、うずらの卵を添える。見た目も香りも、完璧だった。二つの器を木のトレイに乗せ、ダイニングへ運ぶ。さらに、フレッシュジュースまで用意する。その香りを嗅いだ瞬間、芽衣は抗えなかった。椅子に座り、小さく一口。――美味しい。食べながら、芽衣はふと、昔のことを思い出し、胸の奥で陽白を恨む。あのとき捨てられなければ、自分の一生の食事はずっとこの味だったかもしれないのに。まるで心の中を読んだかのように、陽白が顔を上げた。「芽衣。俺の身体より、この麺のほうが魅力的か?」答えられない。過去のことをすべて脇に置けば、彼と身体を重ねるのは悪くない。彼に恋人さえいなければ、互いに満たし合う関係でもいいのかもしれない。芽衣の中で、葛藤が揺れる。――このまま、彼を泊めてもいいのか。考え込んだそのとき、鼻先をつままれた。痛みで思わず涙が滲む。「……陽白、最低」彼の手を叩き落とす。彼は軽く笑い、食事を終えた彼女を見て、迷いなくその身体を抱き上げた。そのまま真っ直ぐ寝室へ向かう。唇を重ねながら、低く囁く。「考えるな。迷うってことは望んでるってことだ」二人の身体が柔らかなベッドに沈む。陽白はそっと芽衣の頬に触れる。芽衣は小さく震えた。戸惑いが残る。少女ではない。前にも一度、関係はあった。けれど――あのときは酔っていた。今は違う。はっきりと意識がある状態で、彼と向き合っている。それでも――陽白は微かに笑い、彼女の鼻先に口づけた。低く掠れた声。「芽衣、顔が真
陽白は芽衣にきっぱりと追い出された。ドアが閉まったあと、芽衣はそのまま扉に背を預けた。頬はまだ熱いままだ。昨夜のことは――彼女にとって、あまりにも強烈すぎた。今になっても、身体の奥にあの感触が残っている。途中の記憶は途切れているはずなのに、それでも断片的に思い出せてしまう。湿った空気。何度も名前を呼ばれた声。絡めた指先。そして、目の前で揺れていた、男の引き締まった身体。芽衣は乱暴に髪をかき上げた。落ち着かない。そのとき、スマートフォンが鳴る。画面を見ると、陽白からのメッセージだった。【芽衣、言い忘れてた。昼にお前のお母さんが来て、俺たちが一緒に寝てるのを見られた。だから、帰ったらどう説明するか考えておいたほうがいい。俺は責任を取るつもりだ。受けるかどうかは……芽衣の気持ち次第だけど】その一通を芽衣は何度も読み返した。そして最後には、ダイニングテーブルに突っ伏し、深く息をつく。マンションの外。スマホを握ったまま、ひとりの男が口元に笑みを浮かべていた。明らかに、機嫌がいい。実際、彼は上機嫌だった。――もう一度、芽衣を手に入れたのだから。今はまだ、この関係に戸惑いもあるだろう。だが問題ない。彼女の身体は自分を拒んでいない。昔と同じように、ぴたりと合う。いや――あの頃以上に。陽白は現実的な男だ。もし昨夜が噛み合わなかったら、どうしていたかは分からない。だが、結果は違った。あの夜を経て、芽衣と最後まで行けると確信した。……こういうことはやはり大事なのだ。しばらくして、彼はふと思い立ち、卓史に電話をかけた。グループに入れてくれ、と。卓史は思わず耳を疑った。十年も顔を出さなかった男が、今さら?卓史は苦笑しながら、すぐに彼をLINEグループに追加した。二百人近い、大きな同窓グループだ。陽白が入った瞬間、女性陣から一斉に反応が来る。元・校内の人気者だ。当然といえば当然だった。陽白はそのまま、淡々と書き込む。【芽衣は今、皿洗い中】【あとでグループに入れるよ】【さっき飯を食って、今は外で一服しながらみんなと話してる】……続けて、一枚の写真。高級感あふれるリビングダイニング。センスのいいインテリア。テーブルに
夕暮れが近づいた頃、芽衣はようやく目を覚ました。目を開けた瞬間、枕元に残る静かな男の気配が鼻をかすめる。懐かしい――そう感じた次の瞬間、理性が少しずつ戻ってきた。昨夜のこと。蓮司が去っていったこと。そして――自分が取り乱し、泣き崩れ、そのままリビングで陽白と唇を重ねたこと。激しく揺れ動いた記憶が一枚一枚、巻き戻されるように蘇る。思わず掛け布団を引き上げて中を覗くと――ほとんど何も身につけていない。……してしまった。しかも、一度ではない。芽衣はゆっくりと枕に身を沈め、天井を見つめたまま、どうすればいいのか分からなくなる。もし相手の部屋だったなら、さっさとヒールを掴んで、ドレスを抱えて出ていくところだろう。けれどここは自分の部屋だ。それに――キッチンのほうから、料理の香りが漂ってくる。陽白はまだここにいる。――料理の腕も、昔と変わらない。動揺しながらも、芽衣は思わず唾を飲み込んだ。一日、何も食べていない。お腹が小さく鳴る。そのとき、寝室のドアが大きく開いた。ドアのところに立っていたのは陽白だった。すっきりとした装い。どうやら一度自分の部屋に戻って着替えてきたらしい。黒のタートルネックに同系色のパンツ。白い肌に、長身で整った顔立ち。二人はしばらく無言で見つめ合う。やがて陽白が歩み寄り、ベッドの脇に腰を下ろした。手を伸ばし、芽衣に触れようとする。芽衣はさっと身を引いた。「……まだ帰らないの?」唇を噛みながら言う。それでも彼の手は、そっと芽衣の肩に触れたままだった。軽く笑う。「相変わらずだな」芽衣は睨みつける。彼はそのまま、気だるげに肩を軽く叩いた。「起きて顔を洗え。飯を食いながら話そう」芽衣はのろのろとベッドから下りる。隠す気にもならなかった。どうせ、もう全部見られている。……何を話すつもりなのか。そう思いながらも、彼女は着替えを済ませ、顔を洗い、長い髪を適当にひとつにまとめてリビングへ出た。心はぐちゃぐちゃで、とてもおしゃれする気分ではない。けれどテーブルに並んだ料理を見た瞬間、そんなことはどうでもよくなった。プライドも何もかも後回しにして、まずは箸を伸ばす。燻製の魚を一口。外はさくりと香ばしく、中はふっくらと柔ら
微妙な空気が流れていた。ひとりは芽衣の母。もうひとりは芽衣の元カレ。しかも、別れて何年も経つ相手だ。そんな二人が、よりにもよってこの状況で鉢合わせしてしまったのだから、気まずくならないはずがない。先に動いたのは陽白だった。布団をめくり、そのままベッドから下りる。幸い、下だけは身につけていたため、どうにか最悪の事態だけは免れていた。澄佳は言った。「外で待っているわ」そう言うと、すぐに踵を返して部屋を出ていった。陽白は手早く服を身につけ、リビングへ出ると、背後のドアをきちんと閉めた。使用人の女性は帰ってもらっていた。さすがに、この場に居合わせるにはあまりにも気まずすぎたからだ。広いリビングには、澄佳と若い男だけが残された。陽白はこういう場面での立ち回りを心得ている男だった。まず芽衣の母に茶を淹れて差し出し、それから音を立てないように散らかった服や、食べ残しの鍋料理を片づけ始めた。すべてを片づけ終える頃には、部屋はすっかり元の清潔な空間に戻っていた。陽白は澄佳の向かいに腰を下ろす。端正な顔立ちに、曇りのない表情。澄佳は茶を口に運びながら、この婿候補をゆっくりと眺め、静かな口調で切り出した。「もし今夜のことがただの成り行きだったのなら、私はこれ以上何も聞かないわ。何も知らなかったことにする」陽白は迷わず答えた。「伯母さん、本来なら、もっと早くご挨拶に伺うべきでした。芽衣に対しては本気です。もちろん、昔の私には至らないところがありました。間違った選択をして、芽衣との八年を無駄にしてしまいました。でも、もう同じことは繰り返さないです。これまでの分まで大切にします。芽衣に、安心できる関係と、落ち着いた暮らしを渡したいと思っています」……澄佳は微笑んだ。「それで、芽衣は承知しているの?あなたのその気持ちをあの子は知っているのかしら。昨夜のことを、あの子は復縁だと思っているのか、それとも一夜限りの関係だと思っているのか。ちゃんと聞いたの?」陽白はまっすぐに言った。「芽衣には、きちんと気持ちを伝えます。ただ、伯父さんと伯母さんには、少しだけ時間をいただきたいんです。芽衣は、すぐには私を受け入れられないかもしれません。だから、もう一度、最初からやり直すつもりです。やり方は少
一睡もしていなかった。陽白はほとんど一晩中休むことなく彼女を離さなかった。すべてが終わったのは夜明け前――五時近くだった。芽衣はすっかり酔いも醒め、ベッドにうつ伏せのまま、指一本動かしたくないほど疲れ切っている。だが、あれだけ身体を使ったはずの男はまるで何事もなかったかのようにシャワーを浴びて戻ってくる。彼は彼女の耳元に身を寄せ、低く囁いた。「芽衣……抱いて、風呂に連れていこうか?」芽衣はかすかに首を振る。――本当に、人じゃない。三十を過ぎているのに、まるで若い頃のまま。昨夜が何度目だったのか、もう数えることすらできない。一度も休まなかった気がする。全身が重く、鈍く軋む。長い髪は汗でしっとりと背に張りつき、シーツを引き寄せる気力すらなかった。今はただ――眠りたい。陽白との関係について考える余裕もない。目が覚めたら、そのときに考えればいい。――きっと、ただの事故として片づけることになるだろう。彼の性格を思えば、深く気にすることもないはずだ。……そう思いながら、芽衣はすぐに眠りに落ちた。白いシーツの上に、汗に濡れた黒髪が散らばる。清らかさと、どこか艶めいた気配が同時に漂っていた。陽白はその姿を見つめる。――もし体力が許すなら、まだ続けられた。それほどまでに、彼女は変わらず――いや、以前よりも魅力的だった。長い年月を経ても、求めていたものは変わらない。結局、探し続けていたのは芽衣だった。そして今、ようやく彼女は再び自分の腕の中にいる。陽白はベッドに横たわり、彼女を抱き寄せる。背を軽く叩きながら、静かに眠りへと誘う。額を彼女の髪に寄せたまま、彼もまた、穏やかな眠りに落ちていった。――予想外の出来事はいつも唐突に訪れる。……昼近くになった頃。澄佳は家の手伝いの女性を連れて、芽衣の部屋へやって来た。掃除をするためだった。この時間なら、芽衣は外に出ているだろう――そう思っていた。ドアを開けた瞬間、目に入ったのはテーブルに残された鍋のスープ。空になったワインボトルがいくつも転がっている。ソファには、娘のワンピース。その横に、男物のシャツと黒いショートパンツ。ベルトは床に投げ出されたまま。――慌ただしい夜だったことは一
蓮司が去ったあと、芽衣は何が起きたのか理解できなかった。まただ。彼はまた、自分を選ばなかった。仕事と自分――いつだって彼は迷うことなく仕事を取る。責めることはできない。そもそも、正式に付き合っていたわけでもない。――もし今夜、陽白がいなければ、きっと二人はそのまま流れに身を任せていた。身体を重ねるだけでもよかった。あんなふうに途中で離れていくより、ずっとましだった。……まだ、何も起きていない。芽衣はそう思った。けれど――胸の奥はやはり痛んだ。期待していなかったわけじゃない。蓮司と同じように、この関係に少しは未来を見ていた。それがあっさり終わった。――きっと、これが最後。もう二度と、やり直すことはない。大人はそんなふうに、行ったり来たりしない。煌びやかな照明の下で、ふと芽衣は思う。――少し、飲みたい。ワインセラーには、彼女が集めてきたボトルが並んでいる。上質な赤ワインやシャンパンばかりだ。芽衣は数本取り出し、グラスを二つ用意して、静かにワインを注ぐ。「……少し付き合って」そう言って、陽白の前に差し出した。陽白は黙って彼女を見つめる。「失恋したからか?」芽衣は椅子の上で膝を抱え、まるで二十代の頃のように小さくなりながら、グラスを揺らす。しばらくして、ぽつりと答えた。「失恋ってほどじゃない……少なくとも、八年前に比べたら。ただ、お互い選ぶ人生が違っただけ」一拍置いて、彼女は続ける。「陽白……あのときね、私、全部考えてたの。あなたの未来のことも、自分がどう支えるかも……ほんと、バカみたい。あなたが誰かに道を用意してもらうような人じゃないのに。仕事も、夢も、全部自分で掴む人だって、分かってたはずなのに。私は、あなたを繋ぎ止めることなんてできなかった。故郷だって、あなたを引き止められなかった。あなたは前に進く人だから」――あれから、いくつかの恋をした。けれど、本気で誰かを愛することはもうできなかった。もし本気で続けようと思えば、方法はあったはずだ。蓮司だって、他の誰だって。それでも、芽衣は踏み込まなかった。初恋のときのように、何もかもを差し出すことができない。誰が来ても、誰が去っても――ただ、それだけのこと。少し
寒真が昂ぶった様子を見せれば、それは必然的に、己の身を捧げるような激しい情愛へと繋がっていく。だが、夕梨はそれを拒んだ。彼の胸元に手を添え、小さな声で諭す。「あと三十分で空港へ向かわなきゃいけないのよ。少しゆっくりお話ししましょう。それに、あんまりしすぎると体に障るわ」しかし、男はすっかりのぼせ上がっており、なりふり構わず彼女に口づけを落とした。「体に障るなんてことないさ。俺の体力を見くびるなよ」確かに彼は、牛のように逞しく、溢れんばかりの生命力に満ちていた。対する夕梨は、二月の風に揺れる柳のようにしなやかで儚げだった。結局、どうにかそのひとときは終わりを迎えた
月が中天に掛かり、その淡い光を浴びた人影は、淡い琉璃色を纏ったかのようだった。輪郭はぼやけ、どこかおぼろげで定かではない。夕梨は、思わず足を止めた。寒笙とは、わずか二歩分の距離しかない。だが実際には、二人の間には六年の歳月と、生と死の境界というあまりに深い溝が横たわっていた。あの日以来、彼の死を信じるほかなかった彼女には、さよならを告げる会さえ与えられなかった。遺体はおろか、遺品の一つすら見つからなかったからだ。そして今、彼は戻ってきた。それでも、やはりさよならは言えない。あの頃、二人の関係は、始まる前で止まっていた。そして今、彼には妻がいて、彼女は彼の兄の恋人だっ
夕梨は可憐で素直な性格で、紀代の心の中では自然と大切にしたくなる可愛い娘だった。しかも彼女たちは、寒真の紹介よりも前から顔見知りだった。その縁がなおさら微妙で、そして真摯に感じられた。紀代はベッドの縁に腰を下ろし、夕梨の肩をそっと叩きながら、声を極限まで落とす。「夕梨……」だが、返ってきたのは小さく喉を鳴らすような声だけだった。紀代は手の甲で額に触れ、思わず眉を寄せる。――熱い。発熱している。彼女は顔を上げ、使用人に尋ねた。「解熱剤や風邪薬はある?夕梨のかかりつけ医の連絡先は?薬のアレルギーは?」使用人は首を振るばかりで、何ひとつ答えられない。勤め始めて
寒真ははっきりと息を呑んだ。次の瞬間、腕の中の女をきつく抱き寄せ、顔を伏せて熱い口付けを落とした。絡みあうようなその最中、喉を震わせた掠れた声で言った――「寒笙が生きていた。戻ってきたんだ!一緒に立都市へ帰ろう!今すぐだ。一刻も早く、チャーター機で帰るぞ」……男はあまりにも昂ぶっていた。そのため、腕の中の人の異変に気づかなかった。抑えきれない歓喜。熱を帯びすぎた感情を、どこかで発散させなければならなかった。光と影が幾重にも重なり、理性は乱れていく。……二時間後、彼らは立都市行きの専用機の中にいた。四月を目前にした陽気だというのに、夕梨の手足は氷のよう







